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1巻
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しおりを挟む「ナルキ! オレの後ろにいロ!」
氷鬼がサッと俺の前に立った。そして怨霊にツメを立てようとする。
だが、その瞬間――怨霊はその場で金縛りになったように固まった。
「臨、兵、闘、者……」
それは密教の九字。陰陽師ならば誰でも知っているであろう言葉に、俺は目を丸くする。
慌てて振り返ると、刑事の男が黒い手袋を脱いだ右手を振りかぶり、人差し指で大きく五芒星を描いていた。
「……皆、陣、列、前」
低く、透き通るような声色の九字の文句は、思わず聞き入ってしまうほど綺麗で。
俺だけではなく、氷鬼までポカンと口を開けていた。
「――行」
男が最後の言葉を口にした瞬間、宙に描いただけの五芒星が光り輝く。それは大きく広がったあと、檻のように怨霊を囲み、小さく萎んでいった。
最後には手の平ほどのサイズになって、音もなく消え失せる。
すげえ。霊符も式神も使わず、九字を引くだけで怨霊を祓ってしまった。相当の実力があるってことだ。もちろん俺にはできない。
刑事の男は手袋を嵌めてから、コートのポケットに手を突っ込む。
そして胡乱な目つきをして、俺に問いかけてきた。
「お前、もしかして陰陽師か?」
男の言葉に目を丸くする。やっぱりこいつは――
「そういうお前こそ陰陽師なのか」
まさか同業者に出会う日が来るとは。こんな埃を被った古くさい稼業につく者はそういないだろうと思っていただけに、驚きである。
いやあ、さすが京都。陰陽師の本場なだけあって、やっぱりいるんだなあ。
しかも警察官が陰陽師もやってるとは。世間は広いなあ。
男は不機嫌そうに俺を見たあと、氷鬼に向かって顎をしゃくった。
「どうでもいいが、ソレはなんや? 式神のつもりなんか?」
「オレを前にして『ソレ』扱いとはいい度胸だナ! 天下の氷鬼様だゾ!」
氷鬼がムッとして男を睨み、一歩前に出て腕をまくる。
「こらこら、喧嘩はダメだぞ」
俺がたしなめると、男が訝しげな顔をした。
「ソレ、どう見ても悪鬼やろ。鬼を制して式神に下したのならたいした腕やと思うけど、お前は見たところ陰陽師として半人前や。そんなんが鬼を隷属化させたとは思えへん」
そう言って、男はまるで敵を見るかのように俺を睨む。
「つまり――お前は、鬼に操られてしもうた……傀儡に成り下がった陰陽師ということか?」
ザワッと空気が変わる。
敵意を露わにした男の睨みは威圧的で、畏怖すら感じる。
冷たい氷のように凍てついた空気に、周りにいた亡霊が怯えたように震えだした。
「ま、待て! 警察で陰陽師のオッサン。違う。俺は氷鬼に操られてるわけじゃない」
「誰がオッサンやねん!」
「確かに俺は、半人前の陰陽師だ。でも、氷鬼は悪いヤツじゃないし、俺は傀儡になっていない!」
俺は氷鬼の前に立ち、かばうように両手を広げる。
「こいつはっ、……その、友達みたいなものなんだ」
「はあ?」
「氷鬼は、俺の地元で悪さしてた鬼だ。でも、説得して、わかってもらったんだよ。それ以降は一度も悪さしてない。弱い俺を見かねて、自ら式神になってくれた鬼なんだ」
真摯に言うと、男の顔は段々と呆れたものに変わった。
そして、まるで新種の生き物を見るかのような目で俺を見て「……説得?」と首を傾げる。
「お前、悪鬼を説得したんか。ほんで、そいつは人間の味方やって話を信じろと?」
「完全な味方とは言えないかもしれないけど、氷鬼はもう絶対に悪さはしないって約束してくれたんだ。……鬼は、人を惑わすけれど、嘘はつかない」
きっぱりと断言する。
男はしばらく黙った後、俺と氷鬼を見比べて冷たく返した。
「その与太話は信じられへんけど、敵意がないのはホンマみたいやな。そっちが仕掛けて来うへんなら、とりあえずは見逃したる」
そして小さくため息をつくと、俺に背を向ける。
「どうせその鬼が牙を剥いた時、最初に犠牲になるのはお前やろし。俺は、お前が食われてる間に準備して、後で鬼を滅せばええことやしな」
「うわ~、ナルキの信用が悲しいくらいにゼロだナ~」
「うう、初対面でそこまで言われる筋合いはないと思うんだが!」
圧倒的な実力差をひしひしと感じているので、俺は彼の背中に非難の言葉を浴びせるくらいしかできない。
「アホか。信用なんかゼロどころかマイナスや。どうせ地方の民間陰陽師から派生したエセ陰陽師なんやろうけど。いい加減な修行で陰陽師気取って、挙げ句の果てに鬼に取り憑かれたら世話ないわ。怒りを通り越して、いっそ呆れるで」
「ひ、ひでえな!」
確かにウチは代々民間陰陽師だ。陰陽術総本山である土御門家に認められた陰陽師との差は、認可されたか、されていないかだけなので、どっちが正しいかという話は別なのだが、まあ、狭い陰陽師の界隈では、どうしても認可されたほうが正統派っぽい感じにはなるし、民間陰陽師はうさんくさい目で見られがちだ。
実力さえあればその価値観を覆すことも可能だが、少なくとも俺の腕では、彼を納得させることは無理である。
なので、俺にできることといえば、ヤツの背中を睨むことだけだった。悲しい。
「中途半端に陰陽術をかじると破滅の未来しかない。己の驕りで鬼に食われるのなら、それは自業自得や。そこまで面倒見る義理はない。まあ、後始末はしたるから安心し。それが俺の仕事やからな」
吐き捨てるように言う男に、俺はムッと唇をへの字に曲げる。
なんだこいつ。
京都の陰陽師ってこんないじわるなヤツばっかりだとか言わないよな? 言いそうだな。
「あっそう。プライドのお高いインテリ陰陽師様は、やっぱり言うことが違うね~。血も涙もなくて、笑えるよ」
思わず減らず口を叩いてしまった。だってこいつムカつく。人の話を信じないし、鬼は裏切ると決めてかかるし、俺と会話する気ゼロだし。
コイツがどんなにお偉い人だったとしても、俺はこいつを尊敬することはない!
男は俺に何か言い返すこともせず、そのまま屋上の出口に歩いて行く。
「とにかく、さっさとここから出て行けよ。ここがヤバイってことくらいは半人前以下でもわかるやろ。ほんで、今更やけど不法侵入やで。次はないからな」
吐き捨てるような言葉を残して、屋上を出て行った。
ぽつんと残された俺。後ろには氷鬼。周りには亡霊たち。
「なっ……」
ぐぐぐ、と拳を握りしめる。
「なんだあいつー!」
空に向かって怒鳴った。ずっと溜め込んでいた怒り爆発である。
「ハハハ。いやあ久しぶりに見る正しい陰陽師だったナ。ナルキ、アレが普通の陰陽師なんだゾ?」
俺の周りをぴょこぴょこ飛び跳ねて、氷鬼が楽しそうに言う。
「正しいか正しくないかはどうでもいい! 態度が失礼すぎるだろっ!」
「いや~、鬼を前にしているにしては、だいぶ理性的な態度だったと思うけどナ。短気な陰陽師なら会話する間もなくオレと戦ってただろうヨ」
「そ、そんなに陰陽師って、問答無用なのか?」
俺が知ってる他の陰陽師なんて、父親くらいだ。その父親にしても、実際に鬼や怨霊を前にして戦っている姿は見たことがなかった。
氷鬼はニヤリと笑って、俺の頭に飛び乗る。
「当然だロ? 一秒の油断が死に繋がル。鬼との戦いとはそういうものダ」
「そこまで殺伐としてるのかあ……?」
「ナルキがいかに変わりダネか、よく理解できたカ? フフフ」
上から俺の顔を覗き込む氷鬼の顔を、俺はぐいと手で押し上げた。
「うるさいなー」
別に鬼が相手でも、会話ができるなら、まず会話を試みるのが人情ではないか。
他の陰陽師は、ちょっと人の話を聞かなすぎである。
あとあの偉そうな陰陽刑事は、カルシウムを摂ったほうがいい。イライラしてる雰囲気がひしひし届いてきて、こっちまでムカムカしてしまった。どこの一族か知らないが、陰陽師として以前に人としてどうなんだ。
「あ、そういえばあいつ……なんて名前だったんだろ」
はじめから喧嘩腰だったので、聞きそびれてしまった。
しかしまあ、別に知らなくてもいいだろう。もう二度と会うことはないだろうし。というかもう会いたくない。
「さて、俺も行くか……」
ぐるりと周りを見回して、出口に向かう。どうやらこの場所で得られるものはなさそうだ。
それに、陰陽刑事も言っていたが、ここは良くない場所である。あまり長居したくない。
さっきみたいな怨霊が現れたのも、この『場』が異常だったからだろう。それにこのすし詰めになった亡霊たちも、何らかの理由があって集まっているのかもしれない。
悔しいけど、俺の腕でどうにかなる怪異じゃないのはわかる。
俺は重々しい鉄の扉を開けて、早足でビルの階段を降りていった。
古い建物から出た途端、肌寒い春の風が頬を撫でる。
「ふぅ」
ほっと一安心して、俺は息をついた。
やっぱりこのビルは怪異そのものと化しているんだな。
そんなビルに入っていった人達が軒並み行方不明になっている。
「連続行方不明事件は、やっぱり怪異が関わっているのかなあ」
木屋町通りの歩道を歩きながら、ブツブツと呟いた。まあどう考えても無関係ってことはないよな、あからさまに怪しいし。ただ、ふたつの要素がどう繋がってるのかはまったくわからん。
思い出すのは、あの場に現れたコートの男。
彼は警察官でありながら陰陽術を使っていた。しかも、かなり高い腕を持っている。
どうして陰陽師が警察官の仕事をしているんだろう?
確かにこの業界は一部の実力者以外は、とてもそれで食べていける世界ではないが、あれだけの実力があれば、うちの親父みたいに陰陽師だけで食っていけそうなのに。
いや、問題は、それよりも。
「怪異が関係してるなら、スクープにならないじゃないかーっ!」
はぁぁとため息をつき、がっくりと肩を落とす。
京都連続行方不明事件の真相は、摩訶不思議な怪異であった! ……なんて、今どきどの週刊誌でも書かないぞ。いや、宇宙人の仕業にしてみたら、ひょっとしたらネタとして笑ってもらえるかもしれないな。しかし、どちらにしても三流ネタ決定である。
たとえ真実が怪異によるものだったとしても、今の世の中、誰もそんな話は信じないのだ。
「無駄足だったなあ」
とぼとぼと高瀬川のほとりを歩く。現状では間違いなく記事は書けない。スクープを手にしてみせると呉さんに息巻いておいて結果がコレとは、なんとも情けない。
もうひとつ、情けないついでに言ってしまうと、俺は陰陽師としてあの怪異をどうにかすることはできないのだ。
いっそ笑ってしまう。姉が聞いたら呆れた顔をして『恰好わるっ』とか言いそうだ。
「まあでも、あいつがなんとかしそうだし、いっか」
あのビルで出会った陰陽刑事は、もしかすると、怪異を祓うために来たのかもしれない。それなら、半人前の俺が心配するだけ無駄ってものだ。
「それなら、気を取り直して仕事しよっ!」
物思いにふけって高瀬川を眺めていた俺は、パンと頬を叩く。
俺が京都に来た目的のうち、目標としていたのは大スクープのゲットだったわけだが、他にも仕事がある。それは、呉さんに依頼された京都の穴場スポットとグルメ探索だ。
一応、それなりに計画はまとめてある。
記事のコンセプトは『大人の京都旅』。すでに何度も使い倒されたネタではあるが、今回は『一人旅』にズームしている。
昨今は、誰もが仲良く土日祝が休み……というわけにはいかず、友達や家族と旅行に出かけたくても休みが合わない、なんて話をよく聞く。
それならいっそ一人で旅をしてみては? という方面でアプローチするわけだ。
俺は仕事柄あちこち出かけて取材しているけれど、一人旅というのは悪いものじゃない。たまには気ままに、ノープランで、ふらっと街を歩くのもいいものだ。
そして京都は見応えのあるスポットの宝庫である。
一人旅というからには落ち着いた雰囲気で、静かに心を休められるような、癒やしのある場所を紹介したい。
「まずは、手近なところで腹ごしらえといきますか」
ポケットからメモ帳を取り出し、あらかじめピックアップしていた店リストから良さそうな食事処を探す。
「どこにするんダ?」
氷鬼が俺の肩に乗って、メモ帳を覗き込む。
「ちょうど木屋町だし、先斗町の料理屋にしようかなあ」
先斗町といえば、由緒ある古き街だ。鴨川沿いにあって、祇園と肩を並べるほどの花街として有名だった。現代でも舞妓さんが雅やかな踊りを見せてくれる劇場がある。
そんな街だからだろうか。先斗町や木屋町は居酒屋やバーといった、お酒を出すお店が多い。個人的なイメージで言えば、高級志向なら先斗町、庶民感覚なら木屋町って感じだ。俺の給料レベルで飲み歩くなら間違いなく木屋町が向いている。
いわゆる『一見さんお断り』っぽい店が多いのも先斗町の特徴かな。だから、普通の旅行客は尻込みしがちなのだが、昨今はわりと入りやすい店も増えた。もちろん、事前予約が必要な店も多いんだけど、当日予約でもなんとかなるところもあるのだ。
「記事のコンセプトはノープランのぷらっと一人旅。でも、ちょっと高級志向で、非日常を味わえるお店。ここなんてどうかな?」
メモを見ながらたどり着いたのは、威厳のある古きよき京都らしさがある店構え。
「ここは、どんな料理の店なんダ?」
「豪華絢爛、すき焼きの店だっ!」
俺は氷鬼に向かって、ばーんと両手を広げた。しかし他人に氷鬼は見えないので、俺が一人で盛り上がって独り言を口にしているように見える。
先斗町の路地は狭い。
俺の後ろを、観光客のカップルが怪訝そうに早足で通り過ぎていった。
ちょっと恥ずかしくなってしまい、コホンと咳払いをする。
「ま、まあ『大人の旅』なんだし、たまにはこれくらい贅沢に行ってもバチは当たらないだろう。普段はコスパ重視のグルメばっかり紹介してるしさ」
「うむ。オレも、こういう店は良いと思ウ。というわけで、今回はオレもつきあってやろウ」
「えっ?」
俺が目を丸くした途端、氷鬼はちゃきーんと両手を伸ばして何やら戦隊モノヒーローみたいなポーズを取った。
「ヘンシン! トウッ!」
「とう?」
氷鬼がその場でくるんと宙返りをする。――と、次の瞬間、氷鬼の姿はいつもの少年のものではなく、雅な着物姿の青年に変わっていた。
「すき焼きとやらを食すのは初めてだな。どのような味がするのか、実に愉しみだ」
悠々と微笑む男は、俺と同い年か、ちょっと年上に見える。
ちなみに、少年姿の氷鬼とまったく見た目が違う。髪の長さこそ同じくらいだが、髪と目の色は黒いし、ツノもない。そして背は俺より高くて、腹が立つほど顔が整っている。
これは氷鬼が持つ力のひとつで、簡単に言えば、こいつは人間に変化することができるのだ。年齢、性別、見た目、すべて思いのまま。でも、人間の姿を取る時は青年姿になることが圧倒的に多い。そして、今の氷鬼は他の人間にも見えるのだ。
俺はがっくりと肩を落とした。
「待てコラ。つまり食事代が二倍になるってことじゃないかっ」
一人旅だから贅沢しようってことですき焼きにしたのに、予想外の出費ではないか!
「いつもみたいに、俺のごはんを横からつまみ食いすればいいだろ。なんでわざわざ人間に変化するんだよ」
「決まっているだろう。オレもうまい肉をたらふく食べたいからだ」
「鬼の食べ物は肉じゃねーだろ!」
「うむ。鬼の糧はヒトの魂である。しかし、ケモノの肉もたまには味わいたいのだ。なんというか……そうだな。おやつみたいな感覚だな」
「お前、おやつ感覚で俺にランチ六千円を払わせるつもりなのか」
「オレの宿主なら、それくらいの甲斐性は見せろ」
ふふんと勝ち気に微笑む氷鬼は、腹が立つほど艶めかしい。ほら、通りすがりの女性が二度見している。そして俺にはチラ見もしない。くっ、悔しい。
しかし、こうと決めたら絶対に引き下がらないのが氷鬼だ。何を言ってもコイツはついてくるだろう。
「仕方ないか……。どうでもいいけど、さっきの『ヘンシン!』ってなんだよ。変なポーズも取ってさ。人間に変化するのに、そんな仕草いらんだろ」
「最近、とあるテレビ番組にハマっていてな。『百人戦隊ハンドレッドキング』というのだが、いつもあのようなポーズを取ったあと、奇妙な恰好に変装するのだ。あれが面白くて、そのうち真似てみようと思っていた」
こいつは俺が仕事をしている間にテレビを見たりゲームをしたり、腹が立つくらいニートライフをエンジョイしている。
氷鬼は大昔に発生した鬼なのだが、今の世俗に馴染むのが妙に早かった。他の鬼もそうなのだろうか? 毎日つまらないと思われるよりはいいのかもしれないが、時々羨ましくなる。住民税とか社会保険料とか払わなくていいし。
ともかく、俺はすき焼き屋に電話をかけて当日予約でも大丈夫かと尋ねてみた。すると席は空いていると返事がきたので、さっそく店に入る。
「へえ……これは」
少し薄暗くてひんやりした空間は、不思議な非日常を感じさせてくれる。
この店は、かつて『お茶屋』だったお店を改装したらしく、店内は趣のある雰囲気に包まれていた。
和服にエプロンをつけた店員が畳部屋の個室に案内してくれて、俺と氷鬼は腰を下ろす。
お目当てのすき焼きは、手際よく作ってもらえた。
丸くて平べったい鉄鍋を熱して、牛の脂を溶かす。漂うにおいに、思わず腹がぐうっと鳴った。
関西風のすき焼きは、甘辛い味が特徴だ。牛脂の溶けた鉄鍋に、ザラメに似た『ごあん』という砂糖をたっぷり敷いて、その上にサシの入った立派な牛肉を乗せて焼く。
そして秘伝の割り下をかけると、じゅうじゅうといい音がして、食欲をそそる香りが立ちこめた。
まずはお肉だけを味わってくださいと言われて、俺と氷鬼は箸で牛肉を取り、溶き卵にくぐらせて食べる。
「ほお。これはなんとも芳醇な味だ」
氷鬼が目を丸くした。俺はあまりのおいしさに言葉が出ない。
上品なだしを使った割り下に、がつんとパンチの効いた砂糖の甘さが牛肉の味をこれでもかと引き出している。
とろける牛の脂。噛むほどに出てくる肉の旨味。甘辛い味を溶き卵がまろやかに仕上げてくれて、柔らかな食感に呑み込むのが惜しくなる。
「あ~うま~い」
思わず笑顔になる。すき焼きは世界を救えるかもしれない。
あの陰陽刑事のオッサンも、このすき焼きを食べたらしかめ面が消えるかもしれないなあ。
そう考えた瞬間、ムムッと眉間に皺が寄る。
やめやめ。考えない。今の俺は陰陽師ではなく、グルメルポライターなのだ。
牛肉を堪能したあとは、肉と一緒に野菜や麩を入れて焼き煮にする。よくあるすき焼きの絵面になってきた。
俺は店員に名刺を渡して、雑誌掲載用の写真を撮ってもよいかの許可を得たあと、デジカメで写真を何枚か撮った。
そして改めて、ねぎや焼き豆腐をお椀の中に入れる。
「まったくヒトというのは業の深い生き物だな。肉は肉だけでうまいのに、さらに美味にしようと試行錯誤する。そしてどれも腹が立つほどうまいのだ。ほんに罪深いなあ」
ぱくぱくと牛肉を食べながら、氷鬼がしみじみ言う。
「そうだな、料理は人間の歴史そのものだし。ていうか氷鬼、肉ばっかり食うな。野菜も食え!」
「オレは人間の魂以外では、肉以外食わぬ主義なのだ」
「新幹線で、俺の朝食代わりのサンドイッチ食っただろうが!」
「あれはほら、カツサンドだったからな」
ああ言えばこう言う……。ていうか、俺の肉がなくなるから食うなと言ってるのだ。俺だって肉を食いたいんだ! ああでも、割り下と牛肉のうまみをたっぷり吸い込んだ麩が口の中でとろけてたまらん。豆腐もほろほろで、溶き卵にくぐらせて食べると箸が止まらない。
「くっ、この、とろとろ長ネギを食べ終えたら肉を食うから、そこでぐつぐつしてる肉は食うなよ。食うなって、うわあ~!」
俺が止める声も虚しく、鍋の中で踊っていた肉は氷鬼の口に吸い込まれていった。
「うう、この鬼め!」
「うむ、鬼だ」
もうやだこいつとご飯食べたくない。
俺はぷんすか怒りながら、鍋に新たな肉を投入する。次こそ死守してみせよう丹波牛。
氷鬼は悠々とお茶を飲み、俺を見て笑った。
「お前と一緒にいると毎日飽きないな」
「それはようござんしたね」
牛肉から目を離さず、唇を尖らせて答える。
すると氷鬼は、個室の窓に目を向け、まぶしそうに空を見た。
「あの人間の式神は、オレよりも忠義深そうな感じがしたが……さて。あやつの毎日は楽しいのかな」
俺はようやくゲットできた牛肉を溶き卵にくぐらせつつ、氷鬼を見る。
「あの人間って、屋上で会った陰陽刑事のことか? 式神がいたのか?」
「いたとも。姿は消していたがな。あの男に似て、やたら寡黙そうで堅苦しそうなヤツだったが、しかと宿主を守っていた」
へえ……。まったく気配を感じなかった。相当レベルの高い式神を使っているのだろう。まああいつのデキる陰陽師オーラは半端なかったから、当然といえば当然か。
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