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2巻 ドS極道の過激な溺愛
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自分の部屋から窓の外を見ると、そこには小さな庭がある。
すっかり土が硬くなって荒廃感が出ているが、以前は畑だった。おじいちゃんと私がふたりで食べていけるくらいの野菜を育てていた。
この家には、あらゆる思い出が染みついている。柱の傷、ふすまに残る小さな落書き。すべてにおじいちゃんとの思い出が詰まっている。
そんな場所でひとり、孤独に生活するのが、耐えられなかった。私は、とても弱かったのだ。
「法要とかいろいろあるから、結局、数ヵ月に一度帰ってきているんだけどね。……なんか、まだ、ここにちゃんと帰る勇気が出ないんだ」
窓に手をつきながら小さく呟く。
すると頭に大きな手がふわりとのった。……それは、葉月さんの温かい手。
「里衣は強いですよ」
「……え?」
「完全に逃げることも、忘れることもせず、定期的にここへ戻っている。それは、里衣が強いからですよ。あなたはきちんとおじいさんの死を受け入れている。前を向いて進んでいるからこそ、帰ることができるのですからね」
彼は私の頭を撫でてから肩に手を置き、優しくこめかみに口づけてくる。
「前々から芯のある女性だと思っていましたが、ここで再認識しましたよ。肝が据わっているのも度胸があるのも、すべてはこの家とおじいさんがあなたを育ててくれたからなのですね」
ニッコリと微笑み、共に窓からの景色を眺める。
……おじいちゃんが亡くなってからずっと、ひとりでこの家に帰っていた。寂しいのは当たり前だと受け入れ、掃除をして、時には施主を務める。すべてが終わったら、鍵をかけて数ヵ月は留守にした。
それを当然のように受け入れていたけれど、今こうやって隣に葉月さんがいるのが――ひとりではないことが、少しくすぐったくて、嬉しい。
一緒に来ると言われた時こそ驚いたけれど、今、この家にいるのは私ひとりじゃない。
……それは不思議と、心に温かさをもたらした。
スーツケースを部屋に置いて、次に広間に向かうと、少しカビっぽいツンとした匂いが鼻につく。長い間家を空けていた独特のにおいだ。
木製の雨戸と窓を開けて、部屋に空気を通す。
広間の端にある仏壇を開けると、中にはおじいちゃんとおばあちゃんの写真立てが入っている。それを手に取り、床の間の飾り棚にコトンと立てかけた。
「おじいちゃん、おばあちゃん。ただいま」
おじいちゃんは、写真立ての中でむすっとした顔をしている。おじいちゃんは笑うのが苦手だけど、とても優しくて、時々厳しい人だった。
私は仏壇の前に正座すると、線香に火をつけて立てる。そしてお鈴を鳴らし、手を合わせた。
手を下ろして場所を空けると、葉月さんも仏壇の前で正座をし、線香を立ててくれた。
「ありがとう、葉月さん」
「いいえ。それで里衣、これからどうします?」
「あ、うん。今日は山の管理をしてもらってる人のところへ挨拶に行くの。法要の打ち合わせもしたいからね」
事前に連絡してある。午後の二時頃なら家にいるそうだから、そろそろ行ったほうがいいだろう。
「あとは山を少し見ておきたいな」
「では、挨拶の前に、車で山に寄りましょうか」
葉月さんの提案に「そうだね」と頷く。さっそく私達は家を出て、葉月さんの車に乗り込んだ。
「ここから山までどれくらいかかるのでしょう」
「車なら五分くらいかな。山間の村だから、すごく近いんだよね」
道案内をしながら山のふもとまで移動する。雑木林のようなそこは、一見すると山の入り口だとわからない。登山客用に開かれていない私有地なので、あまり道を整備していないのだ。
目印は雑木林の手前にぽつんと立つ、白い看板。『ここから先は私有地につき立ち入り禁止』と書かれている。鬱蒼とした山道の手前にはロープが張られており、ロープの真ん中に下げられた木板には、やはり『立ち入り禁止』と赤字で書かれている。
「これが、里衣の山ですか……」
妙に感慨深そうに呟く葉月さん。私は頷き、くすりと笑う。
「この山は何もないけど、ひとつだけ、おじいちゃんの秘密の場所があるんだ」
「秘密の場所、ですか?」
葉月さんが興味深そうに尋ねてくる。
「山道から逸れたところに、小さな沢があるんだよ。さらさらと細い川が流れていて、そこに古い小屋が建てられているの」
内緒話のように声をひそめ、秘密を話した。本当は他人に知られてはいけない場所だけど、なんとなく葉月さんには教えておきたかったのだ。
「それが秘密の場所?」
「そう。おじいちゃんが亡くなる少し前に、そこの鍵をもらったの。近いうちに私が継ぐだろうからって」
私は何度かおじいちゃんと一緒にその小屋に入ったことがあったけど、不思議な造りだったのを思い出す。まず、小屋なのに床がない。あるのは、小屋を囲む壁と、雨をしのぐトタン屋根のみ。あとは野ざらしの地面が続いているだけで、何もない。明かりすらないのだ。
「山の管理業者が定期的に見回る場所じゃなくて、本当に隠れたところに建てられているんだよ。昔、私が『ここには何があるの?』って聞いたら、おじいちゃんは『戒めがある』って言ってた」
「戒め……ですか」
葉月さんがそう繰り返す。私は頷き、昔話をひとつすることにした。
「……おじいちゃんから聞いたのだけど。昔、私が生まれるずっと前に、この村で諍いがあったんだって」
語り始める私を、葉月さんは静かに見下ろす。
「高度経済成長期の頃に、この山を切り開いてゴルフ場を作るって話が出たらしいの」
日本が時代に沸き立ち、狂騒していた頃に突如立てられた計画。なんの特色もない閉じた村に富裕層の客を呼び込み、利潤を得ようとした一派がいたらしい。
「村の偉い人同士がいがみ合ってね。それは派閥を生んで、賛成派と反対派に、村は二分されそうになったの。だけどなんとか話し合いで解決して、ゴルフ場を作る計画はなくなったんだって」
「なるほど。そんなことがあったんですね」
相槌を打つ葉月さんにこくりと頷く。
「おじいちゃんはこの話をする時、いつもつらそうな顔をしていたんだ。私にはわからないけど、戒めと言ったのは、それに関係するのかなと思うの。沢の近くに小屋があるのも、あの沢に何か思うところがあったのかもしれない」
「沢に思うところとは、どういうことでしょう?」
葉月さんが疑問を口にする。この山は何もないに等しいけど、ひとつだけ、大切な資源がある。
「この山のお水は飲めるんだよ。すっごくおいしくて、ミネラルウォーターみたいなの」
水はふもとの用水路まで流れていて、村の人たちは、ここのお水を使って農作物を作っている。そのため、山水の使用料として村からいくらかいただいてきた。ほかにも、間引き伐採した木や、山菜やきのこなどの山の恵みを業者に売り、狩猟解禁期間には可猟区内の入山料をもらうなどして、いくらかの収入を得ていた。でも、決してその額は多くない。山の管理費と維持費、そして家の維持費をギリギリ賄えるくらいだ。
そんな山の持ち主であったおじいちゃんに、しつこく持ちかけられたビジネスがある。
「山の水源地の権利を売れって、村の人がすすめてきたんだ。おじいちゃんはいつも断っていたけどね」
「いわゆる水ビジネスですか。良質な水なら、欲しがる者が現れてもおかしくありませんね」
他にも、質のいい水源や山の幸を観光資源に、人を呼び込むという話もあった。けれどおじいちゃんは一度として首を縦に振らなかった。人を呼び込めば、山の幸などあっという間に採り尽されてしまう。適量を採るのが一番山にいいのだと、おじいちゃんはよく言っていた。
それにこの山が美しいのは、適度に人の手が入っているからなのだ。ある程度開かれた山が、おじいちゃんの目指した山のあり方だった。かといって、手が入りすぎてもいけない。人と山と獣が共存するには、そのバランスが一番大事だと考えたのだ。
「おじいちゃんは、ゴルフ場の時と同じように、水ビジネスも、諍いの種になるって思ったのかも。あの小屋を建てた理由はわからないけど、おじいちゃんの言った戒めという言葉には、そういう意味が込められてるのかなって思うんだ」
おじいちゃんはもう二度と、あの山が原因で、村に不和を呼びたくなかったのだろう。そう思うと、おじいちゃんが本当に守りたかったものが何か、私にも理解できる気がする。
「難しいことはわからないけれど、私もこの山をお金儲けの道具にしたくない。おじいちゃんは、今のままの山を守りたかった。それなら、私も同じものを守りたい。まぁ、実際の管理は業者にお願いしているけどね」
あはは、と笑って葉月さんに顔を向ける。
でも、彼はいつもの笑みを浮かべていなかった。どこか真剣な表情で、私をじっと見ている。
「ど、どうしたの?」
首をかしげると、葉月さんはふっと雰囲気を柔らかいものに変え、「いいえ」と首を振った。
「あなたの意志が素敵だな、と思ったのですよ。里衣の年でそんな風に考えられる人は、そういません。資源として活用すればお金になるかもしれないのに、それを選ばない。里衣の選んだ選択は正しいです」
ぎゅ、と手を握ってくる葉月さん。私はなんだか照れてしまって、俯いた。
そんな私の頭にキスを落とし、彼は静かに笑う。
「やっぱり、あなたについてきてよかったですね。この村ではたくさん里衣を知ることができる。……ひとつ知るごとに、抜けられない沼に落ちていくようですよ」
「……沼?」
問い返すと、葉月さんはニコリと微笑んだ。
「あなたが愛しくてたまらなくなる、ということです」
鬱蒼とした山の前で、葉月さんは私に唇を重ねた。
山を見た後は、山の管理をお願いしている人の家へ挨拶に向かう。葉月さんが運転する車の助手席に座りながら、私は「うーん」と腕を組んだ。
「どうしました? しかめっ面をして」
「うん。なんかね、気になっていたんだけど」
先ほど見た山の入り口を思い出す。あそこにひとつだけ、違和感があったのだ。
「人がたくさん歩いた跡があったんだよ。それも、業者の人の足跡っぽくないんだよね。もっとこう……何十人という人が歩いた形跡だった。立ち入り禁止のロープも、前回見た時と結び方が違っていたの」
山の入り口には多数の人間が草を踏みしめ、土面が露わになったところがあった。タバコの吸い殻も落ちていた。明確な『人の跡』だ。
おそらく、第三者があの山に入っている。多数の人間が、何回か――長期間にわたって。
「実は、去年くらいからおかしいなって思ってたの。管理業者が山の見回りをしているから、ある程度足跡があることは理解できるけど……」
「ふむ。不自然な足跡は気になりますね。一般に開放されていない私有地に、そうたくさんの人は出入りしないはずです」
「そうなんだよね。おじいちゃんが生きていた頃は、こんなこと、一度もなかったのに」
村の人が大勢で入ることはないだろうし、怪しい人がたくさんウロウロしていたら、村の人が気づくはずだ。この集落は小さいから、余所者はすぐにわかる。
「これから山の管理をしている人のところに挨拶するから、聞いてみるしかないね。でも、去年も違和感があるって言ってみたんだけどなぁ……」
立ち入り禁止と立て札をかけようが私有地だろうが、山なんて、入ろうと思えばどこからでも入ることができる。完全に見張ることは不可能だから、心ない人が入山する可能性も理解している。けれど、自分の山でそんなことをされるのは悲しい。どうにか対策を練りたいな。
「そういえば、里衣が山の管理をお願いしている人は、どういった方なのでしょう。管理業者とはまた違うのですか?」
「ええとね、実際に山の管理をしているのは、専門の業者だよ。これから行くのは、その業者に指示をしてくれている人……つまり、私の代理をお願いしている人のところなの」
見渡す限りが田畑になっている私道を、まっすぐ車で走る。あと五分くらいで着くかな、というところだ。運転をする葉月さんを見上げ、話を続ける。
「その人は県議会議員でね。村の有力者って言うのかな。大昔からこのあたりの地主さんだったらしくて、村でも一番土地を持っている人なんだよ。その人のお父さんは、村長も務めてたんだって」
「へぇ? 里衣はそんな大物とお知り合いだったのですか。ふふ、顔が広いのですね」
葉月さんは茶目っ気のある笑みを浮かべる。「からかわないでよ」と私はため息をついた。親切にしてもらっているけれど、そこまで親しいというわけではないのだ。
しばらく田畑を眺めていると、やがて大きな家屋が見えてきた。車が五台は停められそうなガレージに駐車し、私達は外門の中に入る。漆喰の塀で囲まれた日本庭園は、松の木が並び、鯉の泳ぐ池がある。先が見渡せないほど広く、石畳の敷かれた道の先に、立派な日本家屋が立っている。
「これは……いわゆる豪邸ですねぇ」
「だよねぇ。私も挨拶にうかがうたびに、大きな家だと思ってるよ」
さすがは大地主だ。家の大きさは間違いなく、村一番だろう。
昼間はいつも扉が開いているので、私は玄関をくぐると大きな声で挨拶をした。
「ごめんください。椎名ですー」
声を上げてしばらくすると、パタパタと奥から足音が聞こえてきた。
玄関に来てくれたのは中年の女性。この家に長く勤めている家政婦の田所さんだ。
「まぁまぁ! 里衣ちゃん、お久しぶりね!」
「ご無沙汰しています。明日は祖父の三回忌なので、ご挨拶にうかがいました。藤堂さんはいらっしゃいますか?」
「ええ、奥にいるわ。どうぞお入りになって」
私はお礼を口にしながら靴を脱ぐ。
田所さんは私の後に続いた同行者に少なからず驚いているようで、物珍しげに葉月さんを見上げている。その視線に気づいた葉月さんは、ニッコリと人受けのよい微笑みを浮かべた。
「はじめまして。里衣がお世話になっています」
「あ、いえ。里衣ちゃんはひとりでなんでもこなすから、いつもえらいなぁって思っているんですよ。私なんて、何もしていませんから」
「いいえ、法要とはいえ里衣がここに戻ることができるのは、あなたのような方が彼女を迎えてくれるからなのでしょう。里衣を見守ってくれて、ありがとうございます」
深々と頭を下げ、ゆるやかに目を細める葉月さん。そんな彼をぼうっと見つめ、田所さんは頬をほんのり赤らめる。
時々忘れそうになるけど、葉月さんはイケメンなのだ。――中身はエロ下着と調教大好き、残念変態ヤクザなのだが。
しかしそんな彼の本性をまったく知らない田所さんは、彼の爽やかな笑顔にすっかり骨抜きになっている。縁側の廊下を歩きながら、彼女は私の腕をくいくいと控え目に掴んできた。
「ね、あの人……もしかして里衣ちゃんの……?」
こそこそと内緒話をするように聞いてくる。私は少し悩んだが、素直に答えることにした。
「じ、実は、その、恋人なんです」
「まぁぁ、やっぱり! すごいわぁ、都会ってあんなに素敵な人がいるのね。思わず見蕩れちゃったわ」
顔と人当たりがいいというのは、やはり得なのだろう。田所さんはとても嬉しそうで、葉月さんに対して不信感をひとつも抱いていない。これが桐谷さんだったら、田所さんは間違いなく不審そうな表情を浮かべただろう。
縁側に面した部屋の前で、田所さんは足を止める。
「旦那様、里衣ちゃんがお見えですよ」
一声かけ、彼女は静かに障子を開けた。中の和室には、スーツを着た老年の男性と壮年の男性がいて、私はぺこりと頭を下げて挨拶をする。
「ご無沙汰しております。藤堂さん、取手さん」
「ああ、久しぶりだね。去年の一周忌ぶりになるのか。時が経つのは早いものだね」
歓迎の言葉をかけてくれたのは、正面に座る老年の男性、藤堂さん。白髪まじりの口ひげをたくわえ、似た色の髪を上品に後ろへ流している。彼の隣には眼鏡をかけた壮年の男性、取手さんがいて、私に優しく微笑んでくれた。
「里衣ちゃんも元気そうで何よりだよ。……ところで、後ろにいる人は?」
「あ、えっと、この人は私の恋人で……」
質問にたどたどしく答えながら、葉月さんに場所を譲る。彼は堂々と和室に入ると、頭を下げた。
「はじめまして。私は獅子島葉月と申します。椎名里衣さんと結婚を前提にお付き合いしております」
顔を上げ、ニッコリと笑顔を見せる。先ほど田所さんを骨抜きにした、人のよさそうな笑みだ。
って、ちょっと待って。『結婚を前提に』って、もうそこまで話が進んでいたっけ?
「はっ、葉月さん!」
「どうしました、里衣」
「どうしましたって、あの、今、結婚とか、言わなかった?」
彼の袖を引き、ひそひそと話す。葉月さんは至近距離でとろけそうなほど微笑んだ。
「ええ。ずっと一緒にいるって約束したじゃないですか。つまり、そういうことでしょう?」
確かに、私と葉月さんはそんな約束を交わした。私がそばにいてと口にして、葉月さんは命が尽きる最後の瞬間まで一緒にいましょうねと答えたはずだ。――つまり、結婚するという話に繋がるのか。言われるまで気がつかなかった。
「うわあ……」
結婚とはっきり言われると、なんだか照れてしまう。顔を熱くしながら藤堂さん達に顔を向けると、彼等は目を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。
あれ、どうしたんだろう? 婚約という話に驚いたのかな。
「し、しじま?」
「獅子島……葉月……?」
ふたりは彼の名を繰り返し、葉月さんを見つめている。いつにない様子に私は眉をひそめた。
「どうかしましたか?」
一拍置いて、藤堂さんが答える。
「……あ、いや、すまない。少しびっくりしてね。そう、同じ姓を持つ人を知っているものだから」
「そうなんですか?」
「ああ、昔の知り合いだがね」
藤堂さんの言葉に、取手さんも頷く。
「ずっと昔の人ですよ。もしかしたら縁のある方かと思いましたが、偶然ですよね……」
はは、とふたりは笑い合う。奇妙な会話に首をかしげていると、葉月さんが私の肩を突いてきた。
「里衣、申し訳ありませんが、紹介してもらえますか?」
「あ、ごめんなさい。えっと、向かいの方は藤堂さん。県議会議員を務めている方だよ。それから隣にいらっしゃるのは取手さん。藤堂さんの秘書をされてて、弁護士もしているんだよ」
「それはまた大御所の方ですね。こんなところまで厚かましくついてきてしまって、すみません。里衣がお世話になっていると聞きまして、どうしても私も挨拶させていただきたかったのですよ」
「いや、わざわざありがとう。里衣ちゃんのことは、赤ん坊の頃から知っている。だから彼女が幸せになるのはとても嬉しいよ。私も君たちの仲を祝福しよう」
「ありがとうございます」
眼鏡の奥にある目を細め、善人のような笑みを浮かべる葉月さん。藤堂さんは、先ほどの驚愕とは打って変わって、朗らかに笑っている。
ただ、ちらりと横を見てみると、秘書の取手さんはこわばった表情のまま、葉月さんをジッと見つめていた。
そして私達は、田所さんが淹れてくれたお茶をいただきつつ、話しはじめる。会話の内容はほとんど明日の法要と、代理で管理してもらっている山の話で、主に話すのは藤堂さんと私だ。
「そういえば、寺の住職に挨拶は行ったのかね?」
「これから顔を出す予定です。仕出しのお弁当も手配してあります」
「そうか。相変わらず里衣ちゃんはしっかりしてるな。私の出番がほとんどないよ」
「いえ……法要に来てくださる方が少ないから、そう大がかりなものじゃありませんし。やることといったら、電話をかけるくらいです。それよりも、藤堂さんには山の管理を含めて、お世話になってばかりです」
ぺこりと頭を下げると、彼は「いやいや」と手を横に振る。
「私がしていることは助力にもならない些事ばかりだよ。里衣ちゃんは告別式の時も一周忌の時も、気丈に振る舞っていたからね。若いのに感心なことだと、ずっと思っていたんだよ」
「そんな……」
褒められると照れて、かりかりと頬を掻いてしまう。そこに、黙って会話を聞いていた取手さんが、控えめに声を上げた。
「里衣ちゃん。もしかして近く、この村に帰る予定があるのかな」
「え?」
思わず聞き返すと、取手さんは所在なさげに湯のみを両手に持ち、困惑顔で葉月さんを見た。
「その、結婚するようだから。都会からこっちに戻って、あの家に落ち着くのかな、と」
「あ、それは、その……」
なんて答えればいいんだろう。私はつい、助けを求めるように葉月さんを見上げた。隣でお茶をすすっていた彼は、コトリと湯飲みを座卓に置く。
「今は私にも仕事がありまして、すぐにというわけにはまいりません。ですが、いつか里衣と帰りたいと思っています。何せここは、彼女の故郷ですからね」
私の手を握り、ニッコリと微笑んでくる。思わず、かぁっと顔が熱くなった。
取手さんは葉月さんの言葉を聞くと、ホッとしたような笑みを見せて「そうか」と頷く。
「確かに、獅子島さんにも仕事があるなら、そう簡単には都会を離れられないだろうね。ちなみにどんな仕事をしているのか、聞いてもいいかな」
「はい、調査関係全般と、人材派遣業の会社を営んでいます。とても小さな会社ですが」
「ほう、若いのにやるものだね。失礼だがおいくつかな?」
「二十七です」
正座をしながら答える葉月さんに、藤堂さんと取手さんが「二十七……」と呟き、ふたりで視線を交わす。
「本当に若いね。その年で会社の社長とは恐れ入るよ」
「県議会議員さんからそんな風に言ってもらえるなんて光栄です。ですが、まだまだ軌道には乗っていなくて。毎日が手探り状態です」
「はは、謙遜しなくてもよろしい。私の立場など、世襲の三世というだけだからね。君のしていることのほうが余程すごいことだよ。里衣ちゃんは素晴らしい殿方を見つけたようだ」
気さくに藤堂さんが笑いかけてくる。私は頭を掻いて俯くことしかできなかった。本当の葉月さんは、私にコスプレさせて毎日セクハラしてくる変態魔王なので、非常にいたたまれないのだ。
手持ち無沙汰になって残り少なくなったお茶を飲むと、先ほどのことを思い出した。私は慌てて顔を上げて、藤堂さんに問いかける。
「あの、藤堂さん。山のことなんですけど――」
山へ行った際に見つけた複数の足跡、タバコの吸殻、結び直されたロープ。私の違和感をすべて口にすると、ふたりは深刻そうな表情を浮かべた。藤堂さんが「ううむ」と腕を組む。
「実は最近、不審者がこの村をうろついているようなんだ」
「ふ、不審者ですか?」
「ああ。旅行者にも見えないし、この村の者ではない。しかも外国人らしくて」
外国人……。それだけで不安に思うのは、私も村社会で長く生きてきたからだろうか。どうしても、村の外の人達に警戒心を覚えてしまう。ましてや外国人なんて――
「その外国人が山に入っているんですか?」
「そこまではわからないが、彼らは団体で来ているようだ。近くに道の駅があるだろう? そこで住民が何度か目撃している」
団体で来ているということは、大勢の人間が踏みしめた足跡と繋がる。
「山の警備を強化するよう、私から管理会社に連絡しておこう。私有地に侵入するのは犯罪だし、何より気味が悪いからね」
「はい。私からも電話しておきます。それにしても不審者なんて、怖いですね」
この村も物騒になったということだろうか。平和だけがとりえみたいな村なのに。
挨拶を終えた私達は、藤堂さんの家をおいとまする。
「里衣ちゃん」
葉月さんの車に乗る直前、取手さんが走ってきた。彼は少し荒くなった息を整えながら、チラリと葉月さんを横目で見る。そして私だけに聞こえるよう、小声で話しかけてきた。
「あの、前にした話、考えてくれている?」
「前にした話……?」
なんだっけ。前にこの人と話をしたのは、去年の一周忌だったはず。私が首をひねって思い出そうとしていると、焦れたように「山を売る話だよ」と答えをくれた。
――あぁ、そういえば、そんな話をされたっけ。
すっかり土が硬くなって荒廃感が出ているが、以前は畑だった。おじいちゃんと私がふたりで食べていけるくらいの野菜を育てていた。
この家には、あらゆる思い出が染みついている。柱の傷、ふすまに残る小さな落書き。すべてにおじいちゃんとの思い出が詰まっている。
そんな場所でひとり、孤独に生活するのが、耐えられなかった。私は、とても弱かったのだ。
「法要とかいろいろあるから、結局、数ヵ月に一度帰ってきているんだけどね。……なんか、まだ、ここにちゃんと帰る勇気が出ないんだ」
窓に手をつきながら小さく呟く。
すると頭に大きな手がふわりとのった。……それは、葉月さんの温かい手。
「里衣は強いですよ」
「……え?」
「完全に逃げることも、忘れることもせず、定期的にここへ戻っている。それは、里衣が強いからですよ。あなたはきちんとおじいさんの死を受け入れている。前を向いて進んでいるからこそ、帰ることができるのですからね」
彼は私の頭を撫でてから肩に手を置き、優しくこめかみに口づけてくる。
「前々から芯のある女性だと思っていましたが、ここで再認識しましたよ。肝が据わっているのも度胸があるのも、すべてはこの家とおじいさんがあなたを育ててくれたからなのですね」
ニッコリと微笑み、共に窓からの景色を眺める。
……おじいちゃんが亡くなってからずっと、ひとりでこの家に帰っていた。寂しいのは当たり前だと受け入れ、掃除をして、時には施主を務める。すべてが終わったら、鍵をかけて数ヵ月は留守にした。
それを当然のように受け入れていたけれど、今こうやって隣に葉月さんがいるのが――ひとりではないことが、少しくすぐったくて、嬉しい。
一緒に来ると言われた時こそ驚いたけれど、今、この家にいるのは私ひとりじゃない。
……それは不思議と、心に温かさをもたらした。
スーツケースを部屋に置いて、次に広間に向かうと、少しカビっぽいツンとした匂いが鼻につく。長い間家を空けていた独特のにおいだ。
木製の雨戸と窓を開けて、部屋に空気を通す。
広間の端にある仏壇を開けると、中にはおじいちゃんとおばあちゃんの写真立てが入っている。それを手に取り、床の間の飾り棚にコトンと立てかけた。
「おじいちゃん、おばあちゃん。ただいま」
おじいちゃんは、写真立ての中でむすっとした顔をしている。おじいちゃんは笑うのが苦手だけど、とても優しくて、時々厳しい人だった。
私は仏壇の前に正座すると、線香に火をつけて立てる。そしてお鈴を鳴らし、手を合わせた。
手を下ろして場所を空けると、葉月さんも仏壇の前で正座をし、線香を立ててくれた。
「ありがとう、葉月さん」
「いいえ。それで里衣、これからどうします?」
「あ、うん。今日は山の管理をしてもらってる人のところへ挨拶に行くの。法要の打ち合わせもしたいからね」
事前に連絡してある。午後の二時頃なら家にいるそうだから、そろそろ行ったほうがいいだろう。
「あとは山を少し見ておきたいな」
「では、挨拶の前に、車で山に寄りましょうか」
葉月さんの提案に「そうだね」と頷く。さっそく私達は家を出て、葉月さんの車に乗り込んだ。
「ここから山までどれくらいかかるのでしょう」
「車なら五分くらいかな。山間の村だから、すごく近いんだよね」
道案内をしながら山のふもとまで移動する。雑木林のようなそこは、一見すると山の入り口だとわからない。登山客用に開かれていない私有地なので、あまり道を整備していないのだ。
目印は雑木林の手前にぽつんと立つ、白い看板。『ここから先は私有地につき立ち入り禁止』と書かれている。鬱蒼とした山道の手前にはロープが張られており、ロープの真ん中に下げられた木板には、やはり『立ち入り禁止』と赤字で書かれている。
「これが、里衣の山ですか……」
妙に感慨深そうに呟く葉月さん。私は頷き、くすりと笑う。
「この山は何もないけど、ひとつだけ、おじいちゃんの秘密の場所があるんだ」
「秘密の場所、ですか?」
葉月さんが興味深そうに尋ねてくる。
「山道から逸れたところに、小さな沢があるんだよ。さらさらと細い川が流れていて、そこに古い小屋が建てられているの」
内緒話のように声をひそめ、秘密を話した。本当は他人に知られてはいけない場所だけど、なんとなく葉月さんには教えておきたかったのだ。
「それが秘密の場所?」
「そう。おじいちゃんが亡くなる少し前に、そこの鍵をもらったの。近いうちに私が継ぐだろうからって」
私は何度かおじいちゃんと一緒にその小屋に入ったことがあったけど、不思議な造りだったのを思い出す。まず、小屋なのに床がない。あるのは、小屋を囲む壁と、雨をしのぐトタン屋根のみ。あとは野ざらしの地面が続いているだけで、何もない。明かりすらないのだ。
「山の管理業者が定期的に見回る場所じゃなくて、本当に隠れたところに建てられているんだよ。昔、私が『ここには何があるの?』って聞いたら、おじいちゃんは『戒めがある』って言ってた」
「戒め……ですか」
葉月さんがそう繰り返す。私は頷き、昔話をひとつすることにした。
「……おじいちゃんから聞いたのだけど。昔、私が生まれるずっと前に、この村で諍いがあったんだって」
語り始める私を、葉月さんは静かに見下ろす。
「高度経済成長期の頃に、この山を切り開いてゴルフ場を作るって話が出たらしいの」
日本が時代に沸き立ち、狂騒していた頃に突如立てられた計画。なんの特色もない閉じた村に富裕層の客を呼び込み、利潤を得ようとした一派がいたらしい。
「村の偉い人同士がいがみ合ってね。それは派閥を生んで、賛成派と反対派に、村は二分されそうになったの。だけどなんとか話し合いで解決して、ゴルフ場を作る計画はなくなったんだって」
「なるほど。そんなことがあったんですね」
相槌を打つ葉月さんにこくりと頷く。
「おじいちゃんはこの話をする時、いつもつらそうな顔をしていたんだ。私にはわからないけど、戒めと言ったのは、それに関係するのかなと思うの。沢の近くに小屋があるのも、あの沢に何か思うところがあったのかもしれない」
「沢に思うところとは、どういうことでしょう?」
葉月さんが疑問を口にする。この山は何もないに等しいけど、ひとつだけ、大切な資源がある。
「この山のお水は飲めるんだよ。すっごくおいしくて、ミネラルウォーターみたいなの」
水はふもとの用水路まで流れていて、村の人たちは、ここのお水を使って農作物を作っている。そのため、山水の使用料として村からいくらかいただいてきた。ほかにも、間引き伐採した木や、山菜やきのこなどの山の恵みを業者に売り、狩猟解禁期間には可猟区内の入山料をもらうなどして、いくらかの収入を得ていた。でも、決してその額は多くない。山の管理費と維持費、そして家の維持費をギリギリ賄えるくらいだ。
そんな山の持ち主であったおじいちゃんに、しつこく持ちかけられたビジネスがある。
「山の水源地の権利を売れって、村の人がすすめてきたんだ。おじいちゃんはいつも断っていたけどね」
「いわゆる水ビジネスですか。良質な水なら、欲しがる者が現れてもおかしくありませんね」
他にも、質のいい水源や山の幸を観光資源に、人を呼び込むという話もあった。けれどおじいちゃんは一度として首を縦に振らなかった。人を呼び込めば、山の幸などあっという間に採り尽されてしまう。適量を採るのが一番山にいいのだと、おじいちゃんはよく言っていた。
それにこの山が美しいのは、適度に人の手が入っているからなのだ。ある程度開かれた山が、おじいちゃんの目指した山のあり方だった。かといって、手が入りすぎてもいけない。人と山と獣が共存するには、そのバランスが一番大事だと考えたのだ。
「おじいちゃんは、ゴルフ場の時と同じように、水ビジネスも、諍いの種になるって思ったのかも。あの小屋を建てた理由はわからないけど、おじいちゃんの言った戒めという言葉には、そういう意味が込められてるのかなって思うんだ」
おじいちゃんはもう二度と、あの山が原因で、村に不和を呼びたくなかったのだろう。そう思うと、おじいちゃんが本当に守りたかったものが何か、私にも理解できる気がする。
「難しいことはわからないけれど、私もこの山をお金儲けの道具にしたくない。おじいちゃんは、今のままの山を守りたかった。それなら、私も同じものを守りたい。まぁ、実際の管理は業者にお願いしているけどね」
あはは、と笑って葉月さんに顔を向ける。
でも、彼はいつもの笑みを浮かべていなかった。どこか真剣な表情で、私をじっと見ている。
「ど、どうしたの?」
首をかしげると、葉月さんはふっと雰囲気を柔らかいものに変え、「いいえ」と首を振った。
「あなたの意志が素敵だな、と思ったのですよ。里衣の年でそんな風に考えられる人は、そういません。資源として活用すればお金になるかもしれないのに、それを選ばない。里衣の選んだ選択は正しいです」
ぎゅ、と手を握ってくる葉月さん。私はなんだか照れてしまって、俯いた。
そんな私の頭にキスを落とし、彼は静かに笑う。
「やっぱり、あなたについてきてよかったですね。この村ではたくさん里衣を知ることができる。……ひとつ知るごとに、抜けられない沼に落ちていくようですよ」
「……沼?」
問い返すと、葉月さんはニコリと微笑んだ。
「あなたが愛しくてたまらなくなる、ということです」
鬱蒼とした山の前で、葉月さんは私に唇を重ねた。
山を見た後は、山の管理をお願いしている人の家へ挨拶に向かう。葉月さんが運転する車の助手席に座りながら、私は「うーん」と腕を組んだ。
「どうしました? しかめっ面をして」
「うん。なんかね、気になっていたんだけど」
先ほど見た山の入り口を思い出す。あそこにひとつだけ、違和感があったのだ。
「人がたくさん歩いた跡があったんだよ。それも、業者の人の足跡っぽくないんだよね。もっとこう……何十人という人が歩いた形跡だった。立ち入り禁止のロープも、前回見た時と結び方が違っていたの」
山の入り口には多数の人間が草を踏みしめ、土面が露わになったところがあった。タバコの吸い殻も落ちていた。明確な『人の跡』だ。
おそらく、第三者があの山に入っている。多数の人間が、何回か――長期間にわたって。
「実は、去年くらいからおかしいなって思ってたの。管理業者が山の見回りをしているから、ある程度足跡があることは理解できるけど……」
「ふむ。不自然な足跡は気になりますね。一般に開放されていない私有地に、そうたくさんの人は出入りしないはずです」
「そうなんだよね。おじいちゃんが生きていた頃は、こんなこと、一度もなかったのに」
村の人が大勢で入ることはないだろうし、怪しい人がたくさんウロウロしていたら、村の人が気づくはずだ。この集落は小さいから、余所者はすぐにわかる。
「これから山の管理をしている人のところに挨拶するから、聞いてみるしかないね。でも、去年も違和感があるって言ってみたんだけどなぁ……」
立ち入り禁止と立て札をかけようが私有地だろうが、山なんて、入ろうと思えばどこからでも入ることができる。完全に見張ることは不可能だから、心ない人が入山する可能性も理解している。けれど、自分の山でそんなことをされるのは悲しい。どうにか対策を練りたいな。
「そういえば、里衣が山の管理をお願いしている人は、どういった方なのでしょう。管理業者とはまた違うのですか?」
「ええとね、実際に山の管理をしているのは、専門の業者だよ。これから行くのは、その業者に指示をしてくれている人……つまり、私の代理をお願いしている人のところなの」
見渡す限りが田畑になっている私道を、まっすぐ車で走る。あと五分くらいで着くかな、というところだ。運転をする葉月さんを見上げ、話を続ける。
「その人は県議会議員でね。村の有力者って言うのかな。大昔からこのあたりの地主さんだったらしくて、村でも一番土地を持っている人なんだよ。その人のお父さんは、村長も務めてたんだって」
「へぇ? 里衣はそんな大物とお知り合いだったのですか。ふふ、顔が広いのですね」
葉月さんは茶目っ気のある笑みを浮かべる。「からかわないでよ」と私はため息をついた。親切にしてもらっているけれど、そこまで親しいというわけではないのだ。
しばらく田畑を眺めていると、やがて大きな家屋が見えてきた。車が五台は停められそうなガレージに駐車し、私達は外門の中に入る。漆喰の塀で囲まれた日本庭園は、松の木が並び、鯉の泳ぐ池がある。先が見渡せないほど広く、石畳の敷かれた道の先に、立派な日本家屋が立っている。
「これは……いわゆる豪邸ですねぇ」
「だよねぇ。私も挨拶にうかがうたびに、大きな家だと思ってるよ」
さすがは大地主だ。家の大きさは間違いなく、村一番だろう。
昼間はいつも扉が開いているので、私は玄関をくぐると大きな声で挨拶をした。
「ごめんください。椎名ですー」
声を上げてしばらくすると、パタパタと奥から足音が聞こえてきた。
玄関に来てくれたのは中年の女性。この家に長く勤めている家政婦の田所さんだ。
「まぁまぁ! 里衣ちゃん、お久しぶりね!」
「ご無沙汰しています。明日は祖父の三回忌なので、ご挨拶にうかがいました。藤堂さんはいらっしゃいますか?」
「ええ、奥にいるわ。どうぞお入りになって」
私はお礼を口にしながら靴を脱ぐ。
田所さんは私の後に続いた同行者に少なからず驚いているようで、物珍しげに葉月さんを見上げている。その視線に気づいた葉月さんは、ニッコリと人受けのよい微笑みを浮かべた。
「はじめまして。里衣がお世話になっています」
「あ、いえ。里衣ちゃんはひとりでなんでもこなすから、いつもえらいなぁって思っているんですよ。私なんて、何もしていませんから」
「いいえ、法要とはいえ里衣がここに戻ることができるのは、あなたのような方が彼女を迎えてくれるからなのでしょう。里衣を見守ってくれて、ありがとうございます」
深々と頭を下げ、ゆるやかに目を細める葉月さん。そんな彼をぼうっと見つめ、田所さんは頬をほんのり赤らめる。
時々忘れそうになるけど、葉月さんはイケメンなのだ。――中身はエロ下着と調教大好き、残念変態ヤクザなのだが。
しかしそんな彼の本性をまったく知らない田所さんは、彼の爽やかな笑顔にすっかり骨抜きになっている。縁側の廊下を歩きながら、彼女は私の腕をくいくいと控え目に掴んできた。
「ね、あの人……もしかして里衣ちゃんの……?」
こそこそと内緒話をするように聞いてくる。私は少し悩んだが、素直に答えることにした。
「じ、実は、その、恋人なんです」
「まぁぁ、やっぱり! すごいわぁ、都会ってあんなに素敵な人がいるのね。思わず見蕩れちゃったわ」
顔と人当たりがいいというのは、やはり得なのだろう。田所さんはとても嬉しそうで、葉月さんに対して不信感をひとつも抱いていない。これが桐谷さんだったら、田所さんは間違いなく不審そうな表情を浮かべただろう。
縁側に面した部屋の前で、田所さんは足を止める。
「旦那様、里衣ちゃんがお見えですよ」
一声かけ、彼女は静かに障子を開けた。中の和室には、スーツを着た老年の男性と壮年の男性がいて、私はぺこりと頭を下げて挨拶をする。
「ご無沙汰しております。藤堂さん、取手さん」
「ああ、久しぶりだね。去年の一周忌ぶりになるのか。時が経つのは早いものだね」
歓迎の言葉をかけてくれたのは、正面に座る老年の男性、藤堂さん。白髪まじりの口ひげをたくわえ、似た色の髪を上品に後ろへ流している。彼の隣には眼鏡をかけた壮年の男性、取手さんがいて、私に優しく微笑んでくれた。
「里衣ちゃんも元気そうで何よりだよ。……ところで、後ろにいる人は?」
「あ、えっと、この人は私の恋人で……」
質問にたどたどしく答えながら、葉月さんに場所を譲る。彼は堂々と和室に入ると、頭を下げた。
「はじめまして。私は獅子島葉月と申します。椎名里衣さんと結婚を前提にお付き合いしております」
顔を上げ、ニッコリと笑顔を見せる。先ほど田所さんを骨抜きにした、人のよさそうな笑みだ。
って、ちょっと待って。『結婚を前提に』って、もうそこまで話が進んでいたっけ?
「はっ、葉月さん!」
「どうしました、里衣」
「どうしましたって、あの、今、結婚とか、言わなかった?」
彼の袖を引き、ひそひそと話す。葉月さんは至近距離でとろけそうなほど微笑んだ。
「ええ。ずっと一緒にいるって約束したじゃないですか。つまり、そういうことでしょう?」
確かに、私と葉月さんはそんな約束を交わした。私がそばにいてと口にして、葉月さんは命が尽きる最後の瞬間まで一緒にいましょうねと答えたはずだ。――つまり、結婚するという話に繋がるのか。言われるまで気がつかなかった。
「うわあ……」
結婚とはっきり言われると、なんだか照れてしまう。顔を熱くしながら藤堂さん達に顔を向けると、彼等は目を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。
あれ、どうしたんだろう? 婚約という話に驚いたのかな。
「し、しじま?」
「獅子島……葉月……?」
ふたりは彼の名を繰り返し、葉月さんを見つめている。いつにない様子に私は眉をひそめた。
「どうかしましたか?」
一拍置いて、藤堂さんが答える。
「……あ、いや、すまない。少しびっくりしてね。そう、同じ姓を持つ人を知っているものだから」
「そうなんですか?」
「ああ、昔の知り合いだがね」
藤堂さんの言葉に、取手さんも頷く。
「ずっと昔の人ですよ。もしかしたら縁のある方かと思いましたが、偶然ですよね……」
はは、とふたりは笑い合う。奇妙な会話に首をかしげていると、葉月さんが私の肩を突いてきた。
「里衣、申し訳ありませんが、紹介してもらえますか?」
「あ、ごめんなさい。えっと、向かいの方は藤堂さん。県議会議員を務めている方だよ。それから隣にいらっしゃるのは取手さん。藤堂さんの秘書をされてて、弁護士もしているんだよ」
「それはまた大御所の方ですね。こんなところまで厚かましくついてきてしまって、すみません。里衣がお世話になっていると聞きまして、どうしても私も挨拶させていただきたかったのですよ」
「いや、わざわざありがとう。里衣ちゃんのことは、赤ん坊の頃から知っている。だから彼女が幸せになるのはとても嬉しいよ。私も君たちの仲を祝福しよう」
「ありがとうございます」
眼鏡の奥にある目を細め、善人のような笑みを浮かべる葉月さん。藤堂さんは、先ほどの驚愕とは打って変わって、朗らかに笑っている。
ただ、ちらりと横を見てみると、秘書の取手さんはこわばった表情のまま、葉月さんをジッと見つめていた。
そして私達は、田所さんが淹れてくれたお茶をいただきつつ、話しはじめる。会話の内容はほとんど明日の法要と、代理で管理してもらっている山の話で、主に話すのは藤堂さんと私だ。
「そういえば、寺の住職に挨拶は行ったのかね?」
「これから顔を出す予定です。仕出しのお弁当も手配してあります」
「そうか。相変わらず里衣ちゃんはしっかりしてるな。私の出番がほとんどないよ」
「いえ……法要に来てくださる方が少ないから、そう大がかりなものじゃありませんし。やることといったら、電話をかけるくらいです。それよりも、藤堂さんには山の管理を含めて、お世話になってばかりです」
ぺこりと頭を下げると、彼は「いやいや」と手を横に振る。
「私がしていることは助力にもならない些事ばかりだよ。里衣ちゃんは告別式の時も一周忌の時も、気丈に振る舞っていたからね。若いのに感心なことだと、ずっと思っていたんだよ」
「そんな……」
褒められると照れて、かりかりと頬を掻いてしまう。そこに、黙って会話を聞いていた取手さんが、控えめに声を上げた。
「里衣ちゃん。もしかして近く、この村に帰る予定があるのかな」
「え?」
思わず聞き返すと、取手さんは所在なさげに湯のみを両手に持ち、困惑顔で葉月さんを見た。
「その、結婚するようだから。都会からこっちに戻って、あの家に落ち着くのかな、と」
「あ、それは、その……」
なんて答えればいいんだろう。私はつい、助けを求めるように葉月さんを見上げた。隣でお茶をすすっていた彼は、コトリと湯飲みを座卓に置く。
「今は私にも仕事がありまして、すぐにというわけにはまいりません。ですが、いつか里衣と帰りたいと思っています。何せここは、彼女の故郷ですからね」
私の手を握り、ニッコリと微笑んでくる。思わず、かぁっと顔が熱くなった。
取手さんは葉月さんの言葉を聞くと、ホッとしたような笑みを見せて「そうか」と頷く。
「確かに、獅子島さんにも仕事があるなら、そう簡単には都会を離れられないだろうね。ちなみにどんな仕事をしているのか、聞いてもいいかな」
「はい、調査関係全般と、人材派遣業の会社を営んでいます。とても小さな会社ですが」
「ほう、若いのにやるものだね。失礼だがおいくつかな?」
「二十七です」
正座をしながら答える葉月さんに、藤堂さんと取手さんが「二十七……」と呟き、ふたりで視線を交わす。
「本当に若いね。その年で会社の社長とは恐れ入るよ」
「県議会議員さんからそんな風に言ってもらえるなんて光栄です。ですが、まだまだ軌道には乗っていなくて。毎日が手探り状態です」
「はは、謙遜しなくてもよろしい。私の立場など、世襲の三世というだけだからね。君のしていることのほうが余程すごいことだよ。里衣ちゃんは素晴らしい殿方を見つけたようだ」
気さくに藤堂さんが笑いかけてくる。私は頭を掻いて俯くことしかできなかった。本当の葉月さんは、私にコスプレさせて毎日セクハラしてくる変態魔王なので、非常にいたたまれないのだ。
手持ち無沙汰になって残り少なくなったお茶を飲むと、先ほどのことを思い出した。私は慌てて顔を上げて、藤堂さんに問いかける。
「あの、藤堂さん。山のことなんですけど――」
山へ行った際に見つけた複数の足跡、タバコの吸殻、結び直されたロープ。私の違和感をすべて口にすると、ふたりは深刻そうな表情を浮かべた。藤堂さんが「ううむ」と腕を組む。
「実は最近、不審者がこの村をうろついているようなんだ」
「ふ、不審者ですか?」
「ああ。旅行者にも見えないし、この村の者ではない。しかも外国人らしくて」
外国人……。それだけで不安に思うのは、私も村社会で長く生きてきたからだろうか。どうしても、村の外の人達に警戒心を覚えてしまう。ましてや外国人なんて――
「その外国人が山に入っているんですか?」
「そこまではわからないが、彼らは団体で来ているようだ。近くに道の駅があるだろう? そこで住民が何度か目撃している」
団体で来ているということは、大勢の人間が踏みしめた足跡と繋がる。
「山の警備を強化するよう、私から管理会社に連絡しておこう。私有地に侵入するのは犯罪だし、何より気味が悪いからね」
「はい。私からも電話しておきます。それにしても不審者なんて、怖いですね」
この村も物騒になったということだろうか。平和だけがとりえみたいな村なのに。
挨拶を終えた私達は、藤堂さんの家をおいとまする。
「里衣ちゃん」
葉月さんの車に乗る直前、取手さんが走ってきた。彼は少し荒くなった息を整えながら、チラリと葉月さんを横目で見る。そして私だけに聞こえるよう、小声で話しかけてきた。
「あの、前にした話、考えてくれている?」
「前にした話……?」
なんだっけ。前にこの人と話をしたのは、去年の一周忌だったはず。私が首をひねって思い出そうとしていると、焦れたように「山を売る話だよ」と答えをくれた。
――あぁ、そういえば、そんな話をされたっけ。
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