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桔梗楓

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1巻 ドS極道の甘い執愛

1-2

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 なんだこの劣悪れつあくな環境。思わず嫌悪の表情を浮かべると、脇から「お疲れさまです」とボソッとした低い男の声が聞こえてきた。
 振り向くと、そこにはやたら背が高く、ひょろっとした男がいた。薄汚れたジーンズに、グレーのパーカーを着ている。ひどく猫背な上にフードを目深まぶかに被っているせいで、顔の造りがよくわからない。

滝澤たきざわ。急に調査を押しつけて悪かったですね」
「イエ、仕事ですから」

 獅子島はパーカー男――もとい滝澤の返事にうなずくと、私に声をかけてくる。

「里衣。こちらは滝澤虎雄とらおと言います。桐谷、あなたも挨拶あいさつしてください」

 スキンヘッド男は、ソファでタバコを吸いながら軽く手を上げる。

「……桐谷揚武ようむだ」

 最後に獅子島が、にっこりした笑みを向けてきた。

「私は獅子島葉月はづきと申します。よろしくお願いします」
「はぁ……」

 全力でよろしくしたくない。しかしそんなことは言えず、曖昧あいまいな返事をしておいた。
 ふいにジットリした視線を感じる。横を向くと、滝澤がフードの陰から私を見ていた。
 これはもしかして、私も自己紹介しなくてはいけない空気なのだろうか。しばらく悩んだ後、口を開いた。

「私は、椎名里衣と言います」

 ぺこりと頭を下げる。
 シンとした事務所で、天井の蛍光灯がしらじらと私たちを照らす。窓の外から酔っ払いの笑い声が聞こえてきて、外の世界とはまったく違う雰囲気に居心地が悪くなった。
 ……自己紹介、しないほうがよかったかな。
 私がそんな思いに駆られた時、入り口のドアがガチャリと開く。

「ただいまー!」
「帰ったっス!」

 その声で、一気に事務所の雰囲気が明るくなる。入ってきたのは、先ほど会ったばかりの男ふたり。茶髪にワインレッドのシャツ男と、逆三角形のサングラスにアロハシャツの男だ。

「おかえりなさい。今、里衣に自己紹介をしていたのですよ。これからは共に働く仲間ですからね」

 さらっと言った獅子島に、私はとっさに抗議する。

「ちょっ、私、まだ了承してない!」
「俺は曽我竜也たつやだよー。よろしく、里衣ちゃん」

 私の言葉などサラッと流して挨拶あいさつしたのは、アロハシャツの男。続いて茶髪のホスト男が敬礼するように片手をひたいに当てた。

「黒部さとしだ。これからよろしくな。いやぁ、これからは面倒な事務処理をしなくていいかと思うと、気が晴れるな。滝澤もそう思うだろ?」

 はっはっは、と笑った黒部は、滝澤の肩をぽんと叩く。滝澤は無言だったが、小さくうなずいた。

「さて、全員揃ったことですし、さっそく滝澤の報告を聞きましょうか」

 さくさくと話を進める獅子島さん。私はあわてて彼のスーツをぐいっと引っ張った。

「ちょっと勝手に話を進めないでよ。大体、社有車がいつの間にか会社のガレージに置かれていて、運転していたはずの私がいないなんて、どう考えても事件じゃない! 今頃きっと警察が――」
「心配なさらなくても大丈夫ですよ、里衣」
「心配してないです! わ、私を誘拐ゆうかいなんてしたら、警察が絶対に動くって言ってるの。大事おおごとになる前に解放したほうが、身のためだよ」
「残念ながら今の警察はこれくらいでは動きませんよ。それに、あの会社はもうすぐあなたに構っていられなくなりますから」

 にこにこと笑って、不穏なことを言う獅子島。
 一体どういう意味だろう。思わず眉をひそめると、滝澤がポケットからスマホを取り出し、操作をはじめた。そして口を開く。

「株式会社リフレトラスト代表、渡島健次郎としまけんじろう。五十二歳、バツ一。無類のギャンブル好きで、多額の借金を抱えている。ヤミ金にも手を出していた」
「……え?」

 リフレトラストは私が勤めている会社で、渡島は社長だ。しかし何を言われているのか理解できず、首をかしげる。
 そんな私をよそに、滝澤はスマホを片手に淡々と『報告』を続けた。

「カネは現在返済中。自社の利益に手を出している」
「なるほど。会社のお金を着服して、ヤミ金の返済にあてているのですね」

 ――借金、ヤミ金、利益の着服……着服?
 滝澤の言葉を脳内で整理していて、思いっきり引っかかった。

「ま、待って、あの社長、うちの会社の利益を着服してたの?」

 戸惑う私の言葉に、滝澤はコクリとうなずく。唖然あぜんとする私。しかも、滝澤の報告はまだ続く。

「内縁の妻と同居している。女はスナックの経営者。四十五歳、バツ二」
「ふむ、セオリー通りの小者ですね。これなら簡単につぶせそうです」
「つ、つぶす?」

 物騒な発言に目を丸くする。獅子島は「ええ」と事もなげにうなずいた。

「あなたが自主的に会社を辞めることができないのであれば、会社ごとつぶすしかないでしょう? どうせブラックな会社なんですし、困る人なんて、社長さんご本人くらいしかいないのでは?」
「そ、それは……」

 言い返せない。確かに、社員はみんな辞めたがっているし、モラハラに悩まされてヘトヘトだ。だけど、そんなに簡単に話が進むのだろうか。会社をつぶすなんて、決して容易じゃないはず。
 しかし獅子島はニコニコした笑みを崩さず、私の背中を軽く叩いてきた。

「里衣はなんの心配もしなくて結構ですよ。すべて私のほうで片付けておきますからね。とにかくあなたは、ここで七百万円分働いてくださればいいのです」
「待ってよ! その七百万って、正当な金額じゃないよね? 単なる言いがかりでしょ! どうして払わなきゃいけないの!」
「ふふ、法にのっとった請求書が欲しいのですか? それでしたら後日、いくらでも用意して差し上げますよ。ですがこのままだと、あなたはいつまで経っても隙を見て逃げ出しそうですね。かといって、四六時中監視するわけにもまいりませんし……」

 ふむ、と困ったように腕を組む獅子島。やがて、名案を思いついたと言うようにポンと手を打った。

「里衣、ふたつ選択肢を差し上げましょう」
「選択肢?」
「はい。監禁か軟禁、好きなほうを選んでください」

 な、何を、言っているんだろう、この男は。

「どっ、どっ、どういう意味? か、監禁か軟禁って!」
「監禁を選んだ場合は、そこの倉庫で生活と仕事をしてもらいます。軟禁を選んだ場合は、この上にある私の部屋で生活して、日中はこの事務所で仕事をしてもらいます。当然ですが、私の許可なしで外出することは禁じます。電話で助けを求めるのもだめですよ?」

 にこにこと獅子島が説明するが、うまく理解できない。ただ、彼が私に究極の選択を強いているということはわかった。

「い、いくつか質問があるのだけど、まず、倉庫って何?」

『おちつけ。里衣、おちつけ』と心の中で繰り返しつつ、思いついた質問を投げてみる。
 すると獅子島は楽しそうに微笑み、すっと人差し指で事務所の一角を示した。応接セットのすぐそばだ。

「あそこです」

 そこにあるのはスチールドア。曽我がガチャリとドアを開けてくれる。
 その部屋の中には、段ボールやガラクタが詰め込まれていた。広さは六畳ほどだが、物が多すぎて足の踏み場がない。

「こ、こんなところに監禁されたら、寝る時はどうしたらいいの! あとトイレとかお風呂とか!」
「誰かがいれば出して差し上げますが、いなかったら我慢してください。お布団は用意してあげます」

 待て。我慢なんて無理です。人間の生理現象はどうにかできるものじゃない。
 私は唖然あぜんとして倉庫をながめてから、ギギギと獅子島に顔を向けた。

「もうひとつ質問なんですが……、た、例えば軟禁を選んだとして。あなたの言葉を無視して逃げたり、電話で助けを求めたりしたら……私をどうするのでしょうか?」

 オドオドと問いかける。すごく聞きたくない質問だったが、聞かないのも怖かった。
 獅子島はまるでその質問を待っていましたとでも言うように、満面の笑みを浮かべる。

「私は、周りの人たちに、執念深いと言われていましてね」
「はぁ」
「一度うらんだ相手は絶対に忘れません。女性でも容赦するつもりはありません」
「と、言いますと……?」
「つまり、一時的に警察で保護されたとしても、私はあなたを逃がすつもりはない。警察の保護が解けたら、すぐに捕まえて完全に監禁しますね。ただ閉じ込めるだけでなく、逃げられないように物理的な処置をほどこします」

 指をふりふり揺らして、獅子島はひどいことを言う。

「あ、あの、物理的な処置って、どういう」
「一応、私も長くこの世界にいますので、逃げ切るのは不可能だと思ってくださいね」
「質問に答えてー! 物理的って、何をどうするの!? 私に何をするの!?」

 必死になってただすと、獅子島は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、「内緒です」と言った。

「わからないほうが恐怖心をあおるでしょう? そうなった時のお楽しみ、ということにいたしましょう」
「お楽しみ!?」

 私はまったく楽しくない。そして、完全に逃げ場をなくした気分だった。
 車のバンパーをほんの少しへこませただけで、怪我人もいない。本来なら、警察と保険会社に電話するだけですべて解決するような些細ささいな事故で、私はこんなところにとらわれるのか。
 ……すべては、関わった男たちがならず者だったから。
 カクリと肩を落とす。どうやら無駄な抵抗はせず、この状況において、私にとってマシな選択肢を選ぶしかないらしい。

「軟禁で、お願いします……」
「物分かりがよろしいですね。では軟禁ということで。あなたにお願いするのはひとつだけですよ。許可なしにここを出ないことです。わかりやすいでしょう?」
「嫌になるほどわかりやすいです。……本当に、七百万円分働いたら、ここから出してくれるの?」
「ええ、もちろんです。後でお給料の話をしましょうね」

 獅子島の狙い通り、というところなのだろう。『そう言うと思っていました』とばかりの態度が気に入らなくて、私は強がってみせる。

「私が大人しく軟禁されたところで、足がつかないとは限らない。明日警察が押し寄せてきても、知らないからね。私はそうなってほしいけど」
「それは怖いですね。ではさっそく、手筈てはずを整えることにしましょう」

 獅子島は余裕めいた表情で、おどけたように肩をすくめる。

「滝澤は曽我と一緒に、例の社長の居場所を探してください。黒部はフランチャイズの親会社に連絡を。桐谷は社長の内縁の妻という女を捕まえてください。私も所用を終えたら合流します」

 獅子島が言い終わる前に、滝澤と曽我は出かけてしまった。最後まで聞いた桐谷は、ソファから立ち上がると、タバコをくわえたまま「リョーカイ」と返事をして部屋を出る。最後のひとり黒部はスマートフォンをいじりながら出ていく。
 室内は静寂せいじゃくに包まれた。私がおそるおそる獅子島を見上げると、彼はにっこりと微笑む。

「さて、里衣がこころよく軟禁を受け入れてくれたことですし、さっそく私の部屋にご案内しましょう」

 獅子島は土埃つちぼこりが積もった床をザリザリと音を立てながら歩き、事務所を出る。照明のついていない真っ暗な階段を上がっていく彼に、私は恐々とついていく。

「暗いので足元に気をつけてください。この上は私室だけで、誰かを招くこともなかったですからね。階段に照明をつけていないのです」
「はぁ……」

 やがて獅子島は、三階にある無骨なスチールドアを開いた。
 一体この先はどんな部屋になっているのだろう。下と同じように汚かったらいやだなぁ、と思っていると、彼は「どうぞ」と手招きした。
 ゆっくり室内に入ってみたら、意外と普通の部屋だった。
 しかし、ひどくシンプルだ。打ちっぱなしのコンクリートの壁に、床は黒茶色のフローリング。
 部屋の間取りは二階の事務所と似ている。部屋の左角には、セミダブルのパイプベッドとパイプハンガー、黒いラック。向かいの角にはミニキッチンと冷蔵庫、小さなテーブル、椅子がふたつ。家具はそれくらいしかない、殺風景な部屋だ。ベッド側の壁には事務所と同じ硝子がらすの窓がある。カーテンはない。

「元々この部屋は、下の事務所と同じ造りになっていたのですが、生活しやすいように手を加えましてね。まぁ、男のひとり暮らしですから多少使いづらいところはあるでしょうけど、慣れてください」
「あの、私がここで生活するのはいいですけど、獅子島さんもここに住むんですよね?」
「もちろんです。ここは私の住居なのですから」

 がっくりと肩を落とす。ブラック会社に勤めていても、プライベートだけは平和だったのに。なぜ、突然見知らぬ男とふたり暮らしをするはめにおちいっているのだろう。

「ベッド、ひとつしかないんですけど」
「ええ、何か問題が?」

 問題ありありだ。この男は常識が欠如けつじょしているのだろうか。それともヤクザなんて職業の人に常識を求めるのが間違っているのか。

「あ、あの、せめて部屋を分けてもらいたいのですけど」
「残念ながら、この部屋しか生活に適していないのですよ。そっちのドアの向こうは浴室やトイレですし、あちらのドアの先は私の趣味部屋になっていますので」
「……趣味部屋?」

 獅子島が指さしたのは、ベッドがあるほうと真逆の方向。そこには黒いドアがあった。
 趣味。そういえばこの人、趣味に付き合えとか言ってなかったっけ。
 私の思考を読んだように、獅子島はにっこり微笑んで私の手をにぎってくる。

「思い出しましたか? そうです。あの先にある部屋は、あなたにとって無関係ではありません」
「つまり、あの部屋の中に、付き合ってほしい趣味のものがあるってこと?」
「ええ。少し大変かもしれませんが、そのうち慣れるでしょうし、最初は我慢してくださいね。できれば里衣にも楽しんでもらいたいですが、それはおいおいということで」

 ふふ、と意味深に笑う。しかしその笑みは不思議と不安をあおる。
 一体なんなんだ、獅子島葉月の趣味って。

「せっかくですから、見てもらいましょうか。多少ごちゃごちゃしてますが、もしあの部屋で生活なさりたいのであれば止めませんよ。一応ベッドもありますしね」
「……ベッド、あるの?」

 趣味部屋に? 頭の中が疑問符でいっぱいになる。
 しかしベッドがあるなら、たとえ部屋が散らかっていてもいい。是非その部屋で生活させてもらいたい。
 獅子島はドアノブに手をかけつつ、「そうだ」と思い出したように顔を上げた。

「里衣。私の趣味を教える前に、ひとつお願いがあるのですけど、よろしいですか?」

 よろしいですか、などと温和に問いかけているけど、私に拒否権はないのだろう。おとなしくコクリとうなずくと、獅子島は優しく目を細める。

「ずっと言うタイミングをうかがっていたのですが、私のことは葉月と名前で呼んでいただきたいのです」
「な、なまえ?」

 思わぬお願いに目を丸くする。獅子島は「ええ」と相槌あいづちを打ち、軽くため息をついた。

「実は、獅子島という姓は私の周りに何人かいましてね。勘違いされることがないよう、呼び名を分けてほしいのです」
「はぁ、そうですか」
「里衣とは当分の間、一緒に暮らす仲になりますからね。よろしいですか?」

 ドアをキィッと開けながら、彼はあらためて問いかけてくる。

「……まぁ、名前を呼ぶくらい、構わないけど」
「ありがとうございます。では、こちらが趣味部屋になりますよ、里衣」

 先に中へ入り、私を誘う獅子島。
 趣味とは一体なんだろう。胸をドキドキさせつつ部屋に入ると、そこにはある種の異空間が待ち受けていた。
 ――なに、この部屋。
 六畳ほどのこぢんまりしたそこには、先ほどの部屋と同じフローリングが続いている。
 暗く窓のない部屋。中に入った彼が電気をつけると、天井についているダウンライトがともり、その『趣味部屋』の全容が目に飛び込んできた。
 ……が、理解できない。
 天井には、頑丈な鉄パイプが張りめぐらされている。そこから鎖と金属フックが垂れ下がっていた。
 そして奇妙な椅子がある。脚が床に固定されていて、椅子だけがクルクル回るようだ。そして足をのせるところが開いている。あそこに座る時は、自然と足を開かねばならないだろう。
 さらには、病院の診察台を思わせる黒いベッドが置かれている。ベッド脇には腰高のカウンターとガラス扉のついたキャビネットがあり、中には銀色に光る医療器具のようなものがいくつか並んでいた。まるで手術でもするかのようだ。
 他にも用途不明なものがいくつかあって、奥の壁一面はクローゼットになっていた。
 殺風景なリビングとは一変して、確かにごちゃごちゃしている。
 それにしても、一体何をする部屋なんだろう。まったく予想がつかないけど、嫌な予感だけはひしひしする。ここは勇気を振りしぼって聞いてみるしかない。

「ちょ、ちょ、ちょちょちょ」

 口が回らなくて、どもってしまう。そんな私に、獅子島は変わらぬ調子で言う。

「落ち着いてください」
「ちょっと獅子島さん! あの!」
「名前を呼んでくださいとお願いしたでしょう?」
「は、葉月さん! あの、これ、どういう……ここは何をする部屋なの!?」
「何をするって、この部屋を見てわかりませんか?」

 わかりません。あと、理解したくもありません。
 完全に腰が引けている私を見て、獅子島、もとい葉月さんがふぅむと腰に手を当て、あごに指を添える。その指が、すっと室内の一点を示した。

「例えばあれなんか、有名だと思いますよ。部屋の雰囲気にはくがつくかなと思って、インテリア代わりに買ってみたのですけどね」

 ソロソロと彼の指さす方向に目を向ける。そこには、馬の形を模した乗り物が置かれていた。
 まるで公園にあるバネの乗り物だ。だけど馬の顔はやけにとんがっていて、背の部分が三角形になっている。そして足をのせるところや馬の頬の部分から鎖が垂れ下がっていて、鎖の先には手錠やかせがあった。
 おそらく、あれは三角の背に人を座らせ、手足を拘束するものではないだろうか。うん。使い方はなんとなく理解した。でも、そんなことをしたら、めちゃくちゃ痛いよね?
 私は身体を震わせながら、首だけを葉月さんのほうに向ける。

「あの……葉月さんはもしかして私を、ご、拷問ごうもんでもするつもり、なの?」
拷問ごうもんしてほしいんですか?」

 ぶるぶるぶるっと高速で首を横に振る。されたくないに決まっている。
 だけど、あれもこれも拷問ごうもんするための器具に見えてきた。だってどの置き物にも手錠や足枷あしかせみたいなものが垂れ下がっている。
 葉月さんは優しく目を細め、「冗談ですよ」と笑った。

「これが私の趣味なんです。私の趣味はですね、性調教なんですよ。あくまで趣味なので、お遊びみたいなものですけどね。里衣、これからはどうぞ、私の趣味に付き合ってくださいね」

 さわやかに歯を光らせ、優しい口調でとんでもないことを言ってくる。

「あ、ちなみにここの器具はすべて新品です。私の趣味で改造しただけの部屋なので、まだ誰ひとり入れたことがないのですよ。安心してくださいね」

 私は一体どう安心したらいいのだろう。葉月さんの言っていることがわからない。とりあえず自分が大ピンチということはわかった。
 いや、ピンチと言うのなら、私が接触事故を起こした時から、危険信号がピカピカと光っていた。
 しかし今はそれを凌駕りょうがして、もっと具体的かつ真剣なピンチだった。
 だって『調教の相手になれ』なんて、無茶ぶりにもほどがある。
 そんなことは、絶対にやりたくない!
 それに、ろくに知識も持たない私が、この人を満足させられるとも思えない。

「む、無理だよ。私、ズブの素人しろうとなんだよ!?」
「知っていますよ。あなたがプロだったら、それはそれで驚きます」

 くすくすと笑う葉月さん。どうしよう、どうやったら説得できるんだ。

「そうじゃなくて、私、こういう趣味ないし、そもそも興味もなかったから知識もないし。だから、あの」
「別に無理むりいはしませんが、断るなら約束をたがえたということで、あなたをお風呂に沈めますよ」
「……お風呂?」

 キョトンと首をかしげると、葉月さんがニッコリする。

「風俗店で働いてもらうということです」
「ぎぇ!? で、でも、絶対無理だよ! だって、わかんないもん。こ、こんなのとか、あんなのとか、使い方とか全然わかんないし!」

 必死に椅子やベッドを指さしてわめく私。しかし葉月さんは「え?」と意外そうに首をかしげた。

「使うのは私なんですから、あなたが使い方を覚える必要なんてありませんよ」

 ごもっともな言葉に、私は言い訳を失って口ごもってしまう。

「い、いや、そうかもしれないけど……何より、こんなの付き合えって言われても、付き合えないよ! わ、私、マゾじゃないし!」

 調教されるってことは、むちで叩かれたり、ろうそくを垂らされたりするんでしょう? そんなの嫌に決まっている。世の中には、そういうことをされるのが好きな人がいるらしいけど、私は違う。痛いのも熱いのも嫌だ。
 それなのに、何故か葉月さんはすごく嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。

「もちろん存じていますよ。逆にマゾに目覚めていたら困ります。全力で嫌がるから、楽しいんじゃないですか。泣きわめいて拒絶する相手を、無理矢理拘束して好き勝手するのがいいんですよ。やがて相手が快楽に目覚め、屈辱くつじょくの中でオーガズムに達する瞬間、私はカタルシスを感じるのです。だから、里衣は私に遠慮することなく嫌がってくださいね」

 な、何を言っているんだろう、この人は。彼の言葉は半分以上が理解不能だ。
 本当に、こんなオソロシイところで生活しなくちゃいけないの?
 身体がガクガクと震え、半泣き状態の私に、葉月さんは菩薩ぼさつのような微笑みを向けてきた。

「どうしても辞退なさりたいのでしたら、それでも結構ですよ?」
「で、でも、辞退したら、私は風俗店に売られるんだよね?」

 葉月さんは、事もなげに「はい」とうなずく。なんてことだ。これは究極の選択である。
 風俗店で金を稼ぐか、ここで事務職として金を稼ぎながら葉月さんの趣味に付き合うか。
 はっきり言って、どっちも嫌だ。
 しかしそんなことも言えずに、私はただただ震える。
 すると葉月さんは、キャビネットを開き、黒いむちを取り出した。葉月さんが振ると、むちはピシィッとしなる。

「せっかくですから軽くウォーミングアップをしておきましょうか。あなたのことも、ちゃんと知っておきたいですからね」

 むちの先を軽くしならせながら微笑む葉月さんは、めちゃくちゃ怖い。
 あと、ウォーミングアップって何? 調教用語? 違うよね。
 私はじりじりと葉月さんから距離を取り、ついに壁にべたりと張りついた。

「あああああああの、ほら、あの、い、今はちょっとっ、ほら、夜ですし!」
「ええ。これから夕飯を食べて寝るだけですから、丁度いいじゃありませんか」

 言い訳のチョイスを間違えたらしい。私はあわてて方向転換する。

「丁度よくない! あああ、あと忘れてたけど、ごはん食べたい! お腹がすきました!」
「調教が終わったらごはんをあげますよ」
「ひぃ! や、あの、ほら、桐谷さんたちが帰ってくるかもしれませんし……!」
「この部屋は防音になっておりますので、物音は階下に響きません。それから所員のことはまったく気にしなくて結構です。彼らは私の趣味を理解していますからね」

 理解済み!? つまり私がこういう目にうことを知っているのか。恥ずかしい!
 いよいよ逃げ場がなくなって身体をこわばらせる私の前に、葉月さんがしゃがみこむ。そして下から覗き込むように私を見上げると、ツイッと胸元を、むちの先でなぞってきた。

「さぁ、そこのベッドで横になってください。まずはあなたの身体を『点検』させてもらいますよ。もちろん抵抗なさっても結構ですけどね」

 どうせ抵抗しても無駄なんだよね……

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