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1巻 ドS極道の甘い執愛
1-1
しおりを挟む第一章
緊急事態である。
私、椎名里衣がこの世に生を受けて二十年。二年前、育ての親だったおじいちゃんを亡くし、家族と呼べる人がいなくなった私は、高校卒業後に田舎から都会に出た。就職した会社は、なんの因果かブラック企業。仕事を辞めたいと思いながらも社長が怖くて辞められず、営業として馬車馬のように働いている。
この二年、数々の修羅場をくぐり抜けてきた。けれど、ここまでのピンチに出くわしたことがあっただろうか。いや、ない。
「これは酷いなァ。ほら見てみろよ、バンパーがベッコベッコだわ。これはなァんも言い訳できねェなァ?」
「ぶつかってきた時は、チンピラが喧嘩でも吹っかけてきたのかと思ったっスねー」
「確かにそれくらいの勢いがあったよな、ははは」
そう言いながら迫ってくる三人組は、とてもガラが悪い。危険な雰囲気をぷんぷんさせていた。
一番はじめに口を開いたのは、スキンヘッドに蛇骨の刺青が入った男で、次はワインレッドのシャツに黒ネクタイという、ホスト風の茶髪の男。最後のひとりは、逆三角形の黒いサングラスにアロハシャツを着た男だ。
はっきりわかる。この人たちはタチが悪い人種だ。まったく関わりたくないタイプだけど、今こうして私が絡まれているのは、自分のせい。
ここは国道で、日はとっぷり暮れている。
数分前、私は社有車に乗って、営業先から会社に戻っていた。そして、あろうことか接触事故を起こしてしまったのだ。
連日のサービス残業で疲労もピークを超えていたのか、赤信号で停車中、ブレーキを踏む力を抜いていたらしい。ハッと気づいた時には、目の前の車にゴツッとぶつかっていた。
慌てて外に出たら、ぶつけた車からもぞろぞろと人が出てきて――それが、先ほどのセリフを放った三人だ。
黒塗りの高級車。黒フィルムの貼られた窓。ガラのよくないお兄さんたち。
その情報だけでわかる。この人たちはいわゆる『ヤ』がつく職業なのだろう。
そんな三人が、ポケットに手を突っ込んで顎を突き出し、私を囲い込んでいる。信号はすでに青になっていたが、周囲の車は私たちを避けて走っていた。
信号の目の前で停車し続けているのに、クラクションも鳴らされない。おそらく、あの様子はヤバイとみんなわかっているのだ。君子危うきに近寄らず――と。
男たちはまるで肉食獣みたいに私を見ている。この女をどう料理してやろうか、と考えているのだろう。
私がガタガタと震えて身を縮こませていると、ふいに黒塗りの車のドアがガチャリと開き、黒いスラックスに包まれた長い足が現れた。
新たに出てきたのは、驚くほど眉目秀麗で長身の男だった。柔和な笑みを浮かべ、眼鏡をかけている。
スキンヘッドの男が、振り向いて彼に声をかけた。
「獅子島」
獅子島と呼ばれた男は、ゆるやかに眼鏡のブリッジを押し上げる。
「まぁまぁ、そんなに威嚇しては、彼女も畏縮してしまうでしょう。可哀想に、震えていますよ?」
彼は穏やかな笑顔で、気味が悪いほど優しく目を細めている。彼の言葉に三人の男たちの雰囲気が和らぎ、ふっと肩の力が抜けた気がした。
この人たちはヤがつく職業の方々みたいだけど、獅子島という人は、比較的優しいのかもしれない。ひょっとすると、このままお咎めなしで解放してくれるのかな。そんな期待を持って見上げると、彼はにっこりと笑みを向けてくる。
「とりあえず移動しませんか? でないと、いつまで経っても取るものが取れないでしょう。大事な車を傷つけてくれたのですし、ちゃんとあなたの誠意を見せてもらわなければ、ね?」
優しく、いっそ甘いと言えるほどの猫撫で声で、男は悪魔のようなことを口にした。
顔が引きつり、身体がいっそうがたがたと震える。やっぱり獅子島も、ヤがつく職業の人なのだ。本当に、私はどうして、よりにもよってこんな人たちの車に社有車をぶつけてしまったのか。これが運命なのだとしたら、相当不幸な星のもとに生まれてきたのだとしか思えない。
私は社有車の後部座席に押し込まれた。隣にはスキンヘッド男がどっかりと座った。そして運転席にアロハシャツ男が乗る。逃げたくても、わずかな隙も見つからない。
黒塗りの高級車には、茶髪と獅子島が乗り込んだ。
社有車は走り出し、路地に入って小さなコインパーキングで停まった。黒塗りの車も隣に停車する。
スキンヘッド男に促されて社有車から出る。夜のコインパーキングは、まるでスポットライトのように白い防犯ライトに照らされていた。
「ご足労いただき、ありがとうございます。さて、これはまた派手に傷がつきましたね。後ろのバンパーがすっかりへこんでいます。修理に幾らかかるでしょうか」
男たちに囲まれた私に、獅子島が話しかけてくる。しかし私は答えるどころではない。
とにかく警察に連絡しなければ。震える手でポケットから携帯電話を取り出すと、あっという間に取り上げられた。
しまった! 隠れて電話するべきだった。
携帯電話を掴んだ獅子島は、ニッコリと微笑む。私は顔から血の気が引くのを感じた。
「あの……」
なんとか声を絞り出すと、獅子島が「なんですか?」と返してくる。
「しゅ、しゅうりだいは、おいくらくらいかかるんでしょうか?」
この際、多少ふっかけられてもいい。それよりも、さっさとお金を払って逃げたい。しょせん、彼らの目的はお金なのだ。数十万なら、なんとか貯金で賄える。
獅子島はふむと相槌を打ち、顎に指を添えて、スキンヘッドの男に顔を向けた。
「お幾らくらいでしょうね。桐谷、わかりますか?」
「そーだなァ。バンパーの交換、塗装、内部点検も兼ねるとなると、まぁいいお値段になるんじゃねェか? 車だけで二百万くらいか」
「にひゃくっ!?」
声が裏返る。いやいや、ない。どんな高級車でも、バンパーをへこませただけで二百万だなんて。
ぱくぱくと口を動かし、声にならない悲鳴を上げていると、アロハシャツの男が黒塗りの車をぺしぺし叩いた。
「直すのは車だけじゃないよ。ぶつかった時、強い衝撃を感じたからさぁ。もしかしたら首を痛めてるかも。治療費も出してくれないと、割に合わないよね」
「それに修理に出す間、車がないとなると仕事に支障が出るし、病院通いするにも時間がかかるし、慰謝料も払ってもらいたいっスねー」
茶髪男まで乗ってくる。
獅子島に桐谷と呼ばれたスキンヘッドの男は腕を組み、威圧的に私を見下ろした。
「まぁ、諸々の費用を合わせると、ザッと計算して七百万くらいかな」
「なっ……!?」
目玉が飛び出そうになる。七百万ってなんだ。新車一台を余裕で買える値段じゃないか。唖然として立ち尽くしていると、桐谷が心外そうな表情をした。
「割と良心的な金額だぞ。俺の知り合いは、車を軽く擦られただけで、千二百万くらい巻き上げたし」
「それはまた、実に金払いのいい人に巡り合えたのですね。うらやましい話です。きっと上手に話し合いをされたのでしょう」
そう言ったのは獅子島だ。
「相手が手を打つ前に、免許証と勤務先と住所を押さえたからな。妻子がいると簡単に払ってくれるし、家族さまさまだよ。ははは」
ほがらかに笑い合う獅子島と桐谷。しかし会話の内容はどう聞いても笑えない。
どうしたらいいのか。携帯電話は取り上げられてしまった。夜の帳が落ちてあたりは暗く、人の気配はない。ここで大声を上げたところで、駆けつけてくれる人はいるのだろうか。それよりも私が声を上げたことによって、目の前の男たちが激高する可能性のほうが高い気がする。
私が思考を巡らせていると、獅子島があらためて声をかけてきた。
「さて、お嬢さん。七百万が相場だそうですが、今すぐ払えるとおっしゃるなら、示談成立。今回の件はなかったことにしましょう。しかしその表情を見るに、どうやらお金を用意するのは難しそうですね?」
力なく、こくんと頷く。どうしよう。どうすればいいんだ。私がぼんやりしていなければ、こんなことにはならなかったのに。
自然と顔は俯き、黒いアスファルトをジッと見つめる。涙は出ない。泣いたところで、この人たちは許してくれそうもないが。
獅子島は楽しそうにくすりと笑う。
「さて、お金がないなら困りましたね。とりあえず財布を預かりましょうか」
「へっ、あ、はいっ」
はじまった。いよいよ私はカスカスになるまで搾り取られるのだ。獅子島は優しげな表情を浮かべているが、やっていることは極悪である。顔のよさや物腰の柔らかさに騙されてはいけない。
そろりとポケットから財布を取り出し、獅子島に渡す。抵抗したところで奪われるだろうから、今は言う通りにしておいたほうが利口だ。
使い古された私のお財布は、黒の柔らかい革製。刻印のようにデザインされた花柄が気に入っている。高校の入学祝いにおじいちゃんが買ってくれた一品ものだ。
獅子島が財布を開くと、ファスナーにつけているお守りが揺れた。これもおじいちゃんにもらった交通安全のお守りだ。交通安全……効かなかったよ、おじいちゃん……
「うーん。思っていたよりも赤貧な方ですね」
獅子島の言葉に、三人の男たちも私の財布の中を覗き込んで、声を上げる。
「うっわ、これはひどい。まさかこれ、全財産じゃねえよな?」
「そんなわけあるか。でも今時珍しいな。クレジットカードが一枚もないぞ」
「後はポイントカードとレシートだけか。しょぼいなー」
言いたい放題である。クレジットカードはなんとなく持つのが怖くて、作っていない。
確かにお財布の中には千円札一枚しか入っていないが、私は必要な額しか持ち歩かないだけで、アパートにはまだ幾らかお金がある。もちろん銀行にも。さすがに七百万はないけれど。
「どうする? コレ、売れるかな」
私を親指で示しながら、不穏なことを口にするアロハシャツ。
「顔はたいしてよくねェからなァ。かといって身体がイイわけでもねェし。繁華街で小銭を稼ぐくらいにしか、使い道ねェだろ」
スキンヘッドの桐谷は、私の頭からつま先までを値踏みするように眺めて、言いたい放題言う。余計なお世話だと思ったが、口には出せない。
獅子島は、困ったように腕を組んだ。
「ふむ。商品としては今ひとつのようですね。ですがこちらとしても、払うものは払っていただきたいですし、ここはひとつ、セオリーとは違う使い方をしてみましょうか」
財布から抜き出した私の運転免許証を手に、にっこりと笑う獅子島。そして、ゆっくりと言い含めるように、私に話しかけてきた。
「これは提案ですが、あなた、うちで働きませんか?」
「……え、はたらく?」
獅子島を見上げると、彼は「ええ」と頷き、眼鏡の奥にある目を細める。
「私は会社を経営しているのですがね、前から事務員が欲しかったんですよ。あなたさえよければ、うちで働いてもらい、そのお給料でお金を払ってはいかがでしょう」
ヤクザにしては良心的な提案をしている気がする。金が払えなかったら身体で稼げと言われるのかと思いきや、どうやら仕事内容は単なる事務員のようだ。悪くない。
だが、話には続きがあるらしく、獅子島はニコニコ笑顔で人差し指を横に振った。
「でも、それだけだと私がいい人みたいですよね。だからもうひとつ、あなたに務めを果たしてもらいましょう」
いい人みたいって自分で言わないでほしい。七百万を笑顔で請求してる時点で、まったくいい人じゃないし。
おかしな言い分をかざしながら、眼鏡の男は笑顔のままで「難しいことじゃないですよ」と言った。
「ただ、私の趣味に付き合ってくださればいいのです」
「しゅ、趣味ですか?」
「ええ。ひとりではできない趣味を持っていましてね。一応いくつかの条件があるのですが、あなたはなかなか素質がありそうです。きっと、私も楽しめることでしょう」
「……はぁ」
何を言われているのかよくわからないが、私は適当に相槌を打つ。すると、桐谷が「へぇ?」と楽しそうな声を上げた。
「なんだ、獅子島。こういう娘が好みだったのか?」
「ええ。すれた感じのしない真面目な雰囲気が好ましい。初心そうなところも高評価です」
「初心ねえ。単に童顔で田舎くさいだけだろ」
何気に私をけなす桐谷。次に話に加わったのは茶髪男だ。
「でも真面目っ子をグチャグチャにする楽しみはありそうっスね」
「別にグチャグチャにしたいわけではありませんよ。真面目であることは私の趣味において大切な要素のひとつなんです。不真面目な人はすぐに堕ちますからね。それではつまらないでしょう?」
なるほどー、と頷く男たち。
私は話がさっぱり見えない上に、嫌な予感がひしひしとしてくる。
そうだ。嫌な予感しかしない。獅子島は一見穏やかで優しそうだけど、確実にヤバイ人だ。そんな人が経営する会社の事務員なんて、絶対ろくでもないところに決まっている。
それに、私は大きな問題をひとつ抱えていた。話が盛り上がっているところで水を差すのは勇気がいるけど、これだけは言っておかねばならない。私はおずおずと手を上げた。
「あの……、スミマセン。あなたの提案に乗るのは、たぶん無理だと思います……」
そんな私の言葉に、桐谷が「あぁ?」と酷くドスのきいた声を上げて睨んでくる。
はっきり言って、めちゃくちゃ怖い。だけどそんなに凄んでも、無理なものは無理なのだ。私に転職は許されない。否、会社を辞めることが許されないのだ。むしろ、辞められるのなら、とっくの昔に辞めている。
辞められないのは、私の勤める会社がいわゆるブラック企業だから。ヤクザとそう変わらない悪辣な社長のもと、私たち営業は慢性的な睡眠不足を抱えて、奴隷のように働いている。あの社長が私という働きバチを手放すわけがない。
迫力のある睨み顔に囲まれながら、私はたどたどしく自身の境遇を説明した。
――私の働く会社は、とある企業に属する小さなフランチャイズの工務店。住宅のリフォームや耐震工事が主な事業内容で、営業である私は、客から契約をもぎ取ってくるのが仕事だ。その営業方法は訪問販売とテレアポだった。
『常に瀬戸際と思え。目標売上は這いつくばってでも達成しろ。まずは身内に売れ』
そんな言葉を聞かされ続ける毎日。
営業は疲れ果てた手足を動かし、なんのために働いているのかわからないまま、働きバチのように担当エリアを回る。給料はほぼ歩合制。最低賃金は約束されているが、社長の満足する数字が取れなければ給料泥棒のレッテルを貼られ、地獄の説教と数時間にわたる正座を強いられる。私も何度か目標を達成できなくて、その地獄を味わったことがある。
本当はみんな、会社を辞めたくて仕方がない。しかし辞めることができないのだ。社長は全社員の個人情報を掌握しており、脅迫も辞さない鬼だ。
その鬼の所業を見たのは、元社員が退職しようとした時だった。彼は無断欠勤を繰り返し、退職届を送ってきた。すると社長は、彼の家族や親戚すべてに嫌がらせの電話をし、彼の中傷を書いたビラを自宅周辺にばらまいたのだ。終いに、『辞めたいなら損失金額を払え』と元社員を脅し、ノイローゼになるまで追い込んだらしい。結局その人は、身内から大金を借りて損失金額を払い、会社を辞めた。
逃げれば最後、尻の毛までむしられて泣きを見る。そう痛感した一件だった。
もちろん、公的な相談所に駆け込み、救いを求めるという手立てはある。しかしその後に待ち受けている社長の報復を考えると、誰も行動に移せなかった。
求人雑誌には『アットホームな社風です』って書いてあったのに、毎日が絶対零度の寒々しい職場である。
それらのことを話し終えると、私の向かいでヤンキー座りをしていたアロハシャツの男が、「フーン」とかるーく相槌を打った。そして彼はすぱーっとタバコの煙を吐き出す。
そろそろこのあたりの住民が、フラリと夜の散歩に出てこないものか、と周囲を見渡してみる。しかし、ここは本当に都会なのかと疑ってしまうほど人通りがなくて、悲しい。
ぐー、と小さく腹の音が鳴る。夕飯の時間などとっくに過ぎているし、そろそろ会社に帰らないと、課長から文句の電話が来るだろう。
「なかなかブラックなところで働いてんだねー。苦労してんだな」
「悪辣でいいじゃねェか。俺はその社長、気に入ったなァ」
「最近はカタギのほうがタチ悪いって聞くっスねー」
世間話でもするかのように軽い会話を交わす男たち。ただ、獅子島は会話に参加せず、私の免許証を眺めて黙り込んでいた。
「あの、つまりそういうわけなので、私は会社をすぐに辞めることができないんですよ。だから、どうか許してもらえないでしょうか。七百万は無理ですけど、修理代は払いますから」
「んーどうする、獅子島。さすがに七百万はやめとく?」
アロハシャツの男が獅子島に声をかける。
ちょっと待て。『七百万はやめとく?』って、やっぱりその金額は、法外にふっかけているって自覚しているんじゃないか。なんてひどいヤクザなんだ、と心の中で憤慨する。
すると獅子島はゆっくりと視線を上げ、私の顔をジッと見た。
「――椎名、里衣」
「え?」
私の名を呼んだ獅子島の視線が、ねっとりと身体中にまとわりついた気がする。
奇妙な感覚に思わず身を震わせた。彼は微笑みこそ維持しているが、目が笑っていない。
それなのに、なぜか、嬉しそうに見えた。まるで、ようやく見つけたと言っているかのように。
「私は方針を変えるつもりはありません。あなたには七百万分、うちで働いてもらいますよ。……そうですね、数年といったところでしょうか」
「数年! そんなに長い間!?」
「では、もっと稼げるところで働きますか? 性風俗店でがんばれば、一年くらいでしょうか。ご希望なら、あなたを紹介しても構いません」
性風俗。そこで一体どのような仕事をするのか詳しくは知らない。けれど、不特定多数の男性に対して、いかがわしいことをするのはわかる。
……そんなの嫌すぎる。そもそも、どうして私はこんな状況になっているの?
藁にも縋る思いで、私は獅子島に訴える。
「さっきも言いましたけど、私、会社を辞めることが難しいんです。あの社長が許してくれません。あの人はヤクザ相手でも平気で喧嘩を売る人なんです。鬼で悪魔で銭ゲバの拝金主義者なんですよ。だからどうか私を事務員として雇うことは諦めて、小金で我慢してもらえないでしょうか!」
「ふふ、それでは是非、社長さんにはその悪辣な手腕を振るってもらいましょうか」
獅子島は懐からスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかけはじめる。私の必死の訴えなど、のれんに腕押し状態で、彼は聞く耳などひとつも持っていないらしい。
「――すみませんね、作業中に。実はひとつ、最優先でやっていただきたい仕事があります。内容は身辺調査。隅々まで洗ってください。対象は……」
言葉を切り、チラリと見るのは私が運転していた社有車。車体に貼られたステッカーには、でかでかと社名が書かれており、獅子島はそれを口にする。
「はい。代表取締役を調べてください。……ええ、そうですね。では三十分後に」
電話を終えると、彼は懐にスマートフォンを戻しつつ、黒塗りの高級車の後部ドアを開けた。
「乗ってください」
「……え」
「せっかく見つけた働き手ですから、逃すつもりはありませんよ。このままウチの事務所に向かいますので、乗ってください」
まじですか。アパートに帰ることも許されないのですか。
事態がめまぐるしく進んでいく。もしかして私、大変なことに巻き込まれている?
ゆっくりと状況をのみこんでいく。自分の立場を、自覚して――
気付けば地面を蹴り、逃げだしていた。このままではろくなことにならないと、本能が察知した。
しかしそんなのは、抵抗のうちにも入らなかったらしい。獅子島はすぐさま追いつくと私の手首を掴み取り、強く引っ張った。そのまま引きずられるように高級車まで連れていかれ、後部座席に押し込められる。
「や、やだ! 許して。お金なら払うから、何年かけても払うからーっ」
「それはありがたい。是非、私の会社で働いてお金を払ってもらいましょう」
「違うの、今の会社で働いて返すって言ってるの。あなたたちは、お金さえ手に入ればいいんでしょう? なんであなたのところで働かなきゃいけないの。性風俗も嫌だけど、あなたの会社で働くのも嫌なのーっ!」
「ここであなたを解放すれば、すぐに警察に駆け込むでしょう? 桐谷、出してください。曽我と黒部はその車を会社に返しておいてください。黙ってガレージに置いておくだけでいいですから」
「ういっス」
「了解っス」
コインパーキングに残ったアロハシャツの男と茶髪男が返事をする。それと同時に、いつの間にか運転席にいた桐谷がエンジンをかけ、車が動き出した。
「どうして? バンパーをへこませたくらいで、なぜこんな目に遭わなきゃならないの!」
「それは厄介な私たちに出会ってしまったからですよ。運の尽きだと思って、諦めてください」
「自分で厄介とか言わないで。これって拉致でしょ。警察にバレたら、捕まっちゃうんだから!」
「ええ、だから捕まらないように、あなたを隠しておかないとね。ふふ、里衣は威勢のいい娘ですから、なかなか楽しめそうです」
私の腕を掴んだまま、にっこりと笑う獅子島。
どうして彼はずっと、穏やかで優しい笑みを浮かべているのだろう。まるで顔に仮面を貼りつけているみたいだ。そう思った瞬間、身体がぞくりと震えた。
車は淡々と道を走っていく。どうやら繁華街に向かっているようだ。夜の街にふさわしい色鮮やかなネオンがあちこちを照らし、居酒屋やクラブといったお店が見えてくる。
車が停まったのは、そんな繁華街の一角。一階がシャッターつきのガレージになっている、コンクリートの三階建ての建物だった。ガレージで停車すると、車から降ろされる。
獅子島に腕を掴まれたまま、私は周囲を見渡した。
住宅という感じはしない。入り口は硝子扉だし、店名の書かれたステッカーが張ってある。
「ここ、どういうところなの。ヤクザの事務所じゃないの?」
「まさか。普通の事務所ですよ? ヤクザにも生業は必要ですからね。こう見えて私たちも、真面目に働いているんです」
「う、嘘! だって……、真面目に働いてる人は、こんなことしない!」
二の腕を引っ張られて歩きながら、噛みつくように怒鳴り立てる。
なのに獅子島は、「誤解ですよ」と明るく笑う。
「誰にも迷惑をかけていない。きちんと税金も納めていますしね」
「私はめちゃくちゃ迷惑してます!」
「それはあなたが先に迷惑をかけたからですよ」
「だ、だからって、いきなりこの仕打ちはない! 車のバンパーをへこませたくらいで、どうしてこんなことになるのよ!」
ばたばたと暴れるが、腕を掴む彼の手は少しも力がゆるまない。
階段を上って二階に着くと、三階へ続く階段と磨り硝子の扉がある。獅子島は右側の扉を開き、中に私を引きずり込む。
――そこは思っていた以上に汚く、いかにも男所帯な、タバコ臭い事務所だった。
フロアは広すぎず、狭すぎず、といったところだろうか。床は土埃にまみれて茶色く、目の前には汚れた応接セットの黒いソファとテーブルがあった。そこに置かれたアルミ灰皿は、吸い終わったタバコでハリネズミ状態だ。左側の壁は一面窓になっていて、その前にはスチールデスクが四つ置かれ、どれも書類の山がいくつもできている。天井を見上げれば、埃であちこちが黒ずんでおり、ところどころに蜘蛛の巣まであった。
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