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六章 戦争
38 夢の果て
しおりを挟む「ふ、ふ、ふ……」
声が聞こえる。
「こうしますの?」
懐かしい声だ。
「うむ、なかなか筋が良いの」
なぜ、その声まで聞こえる。
べったりと寄り添って、仲睦まじげに。
「うふ、ふ」
見たことも無い顔で、
髪が乱れて、頬が染まって、
伸ばした手に、白い手が重なる。
何でそんな顔で見る。
どうしてそんなに近付ける。
「リナッーーー!!」
目が覚めるとまだ薄暗い。元ブルグンド帝国の寝室だった。
甘たるい匂いが皇宮全体を覆っていて、気分が悪い。
「夢か……」
空気も、水も、食べ物も、何もかもが侵されている。
「本当に夢か?」
「くそっ!」
起きて、手早く身繕いをする。
声を聴いたら会いたくなるから、何も聞かない様、何も考えない様、心に蓋をしていたのに、こんな形で──。
同じ部屋に寝ていたフォルカーとスチュアートとジョサイアとシドニーが侍従らと共に起き出す。結界が欠かせなくて、広い続き部屋にみんなで雑魚寝であった。
「クリス殿下?」
ジョサイアが手早く身繕いをしてクリス王子を追いかけた。
部屋を出ると結界の外だ。女がたくさんいる。どういう訳か女達は、今日は纏わり付かずに、皆ぐたりと蹲っていた。
「おはようございます」
ブルグンド帝国の宰相が、愛想笑いを浮かべて頭を下げる。
心なしかこの男も顔色が悪かった。
「何だこれは。いい加減にしろ」
女の山をかき分けて、広間に向かう。
(そうだ、もう取り繕うことも無いのに、私は何をしている。いつの間にか受け身になっていた。あの時と同じように)
ブルグンド帝国は強大だ。皇帝が斃れても、代わりの皇帝候補はごまんといた。
クリス王子は融和策を取った。一時は、穏健派の代表で纏まるかにみえたその政策は、ひとりの過激派によって覆され、それに習うようにして沸き起こった百家争鳴によって泥沼と化した。いつの時代にも声の大きい勇ましい発言に引き摺られる者は多い。
ブルグンド帝国は一枚岩ではない。何代か前から皇帝が、営々と周辺諸国を切り取り併合し従えてきた、様々な国の集合体であった。その頂点に立つ者が斃された。
小国の若造が何を言っても、誰も聞きはしない。若造には女人を与えておけばいい。
誰もが狙う頂点へと、帝国の貴族諸将の思惑は走った。
「ブルグンド帝国の者どもを広間に集めよ」
その日、広間に集まった者たちは、一様に怯えていた。
「その方らの言い草はもう聞き飽きた。疾く決めてやる」
もっと早くこうすれば良かったのだ。
ぐずぐずと付き纏う元ブルグンド帝国の貴族たちの言い分を聞いて、落としどころを探ってきた。禍根の根を作るまいと、双方にとってより良い道を探そうとした。
だがそれを、小僧とバカにされていたのだ。侮られていたのだ。
何故早く気付かなかったのか。彼らの術中に嵌まっていたのを。
「気に入らないものは前に出よ、いくらでも話は聞いてやる」
剣を抜いて突き付ける。この国をどうこうできると思っていたのが間違いだった。自分にはまだそんな力はない。今は身の内を堅め力を蓄えるのみ。
「しかし、私は時間が惜しい。一分一秒でも私の時間を縮めれば、その分自分の寿命が縮まると思え」
「仰せのままに──」
元ブルグンド帝国の貴族たちは競って跪き、そそくさと下がって行った。
どうしたのか。
側に控えた元ブルグンド帝国の宰相に問い質す。
「夢を、恐ろしい夢を…、女神が現れて恵みを返せと……」
震える声で宰相は答えた。
「恵み……?」
「愛とエロスと豊穣の…………」
そんな夢は見なかった。ただ梨奈が現れて魔王と戯れて──。
苦い顔をして、後ろに控えるジョサイアと、追いかけてきたフォルカー達を見やったが、誰も首を横に振る。
「恵みを返せとは──」
* * *
あれは、夢を作っていたのだ。女神の夢を魔王と一緒に──。
夢は現実になる。自分の夢も現実になった。
女神が焦れて、ブルグンド帝国の民から女神の恵みを奪った。
愛とエロスと豊穣と──。
精気の抜けたブルグンド帝国の貴族諸将の顔。
愛もエロスも豊穣もない、何も欲しいと思わず、何も愛そうと思わず、何の実りもない。もはや、何の為に生きるのか──。
何も生み出さないブルグンド帝国に未来はない。
梨奈を連れて来れば良かったのか? 片時も離さなければ。
できる訳もない。戦場に連れて来るわけにはいかない。
矢玉の飛び交う戦場に、連れ出すことは出来ない。しかも、少しでも離れれば、誰に攫われるかも分からない。そして、連れ添えば否が応でも分かる。梨奈が自分の愛人だと。集中して攻撃されるか、攫って弱みにするか。
どう考えても連れて行けない。
本当にそうか?
あれは神殿に飾ってある女神ではなく、生身の人間だ。かよわい女性で、力もなく、すぐに攫われ、すぐに泣いて、簡単な毒で死にそうになる。
戦になど連れて行けば、あっという間に殺されてしまう。
だが、本当にそうか?
今、誰が彼女に手を出せる、誰が女神を手に掛けられるというのだ。女神な上に、すでに魔王の血まで取り入れているというのに。
何をおいても離すべきではなかったのだ。自分は間違えたのだ。
王都の離宮にこのままひとり放置しておけば、あの跳ねっ返りのリナがじっと待っているだろうか。狙う者はいくらでもいるのに魔王然り国王とて王宮で預かると言ったではないか。
ここにこうしている訳にはいかない。
* * *
「元ブルグンド帝国の帝都からここまで、早馬でどの位かかります?」
梨奈の問いにダールグレン教授が答える。
「早くて10日、遅くて15日だね」
「じゃあ真ん中で」
「急いで帰ることもあるまい。魔領を案内してやろう」
魔王様が親切に言う。
「そうですね、どうせ一年休学になるんだし、帰るのは春でもいいかなあ」
梨奈が魔王様の言葉に頷きかけると、教授も梨奈の喜びそうな事を言う。
「私も案内するよ。温泉もあちこちにあるんだよ。北のラグーンは火山が近くにあってドラゴンも傷を癒しに来るんだ」
「ええ? すごいですね。私、こっちの世界って、何処も知らないわ」
「クリス殿下にしてみたら、戦争前だったし、仕方がないんだけどね。まあ帰って来たら、いくらでも連れて行ってもらえるだろう?」
「そなたが帰ると、この世界はどう転ぶか分からぬのう──」
魔王様の最後の一言は、ムキになっている梨奈の頭を冷やすには十分であった。
そうだ。ジジの企みが上手く行っていたら、今頃ノイジードル王国はブルグンド帝国に征服されていただろう。そうしたら、人間と魔族は泥沼の戦闘状態になって、魔王様も引っ張り出されて、この地は、この世界はどうなっていたのか分からない。
好むと好まざるとにかかわらず、梨奈は救世の女神であった。本人に自覚は薄いけれど。だからまだ帰ると言っている。置いて行かれたことを恨んで、意地を張っているだけだ。それが長引いて、感情が拗れてしまっただけだ。
誰も梨奈を帰そうとは思っていない。オブラートに包んで宥めているのだ。
梨奈は思う。取り敢えず、こちらに召喚されたノルマみたいなものは、一応クリア出来たと思う。ノイジードル王国は無事に戦に勝って、存在感を見せつけた。戦による疲弊も最小限で済んだ。
分かっている。梨奈が帰ると喚いて駄々をこねているのは、クリス王子が梨奈を置いて行ったから腹が立って、連れて行ってくれないのが悔しくて、側に居られないのが悲しくて、一人なのが寂しくて、会えないのが辛くて、クリス王子が平気でいると思うと、更に辛くて口惜しくて──。
梨奈の我が儘であった。
(だから叫んでいるんだ。帰るって。本当は待っているの。待っていたいの。大人しく待っているのは辛いけど、だから、だから、だから……)
(早く帰ってきて!)
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