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57 それぞれの居場所(2)

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 冬の間に王宮職員や王国軍兵士、騎士団のワクチン接種を済ませてしまったモンタニエ教授は、春になると新しく併合された公国を辺境領として治めているエドガールの所に職員を連れてワクチン接種にやって来た。
 エドガールは鉱山の町の検問施設や鍛錬場の辺りをミハウから割譲してもらい、そのままそこに住んでいる。いずれは城か砦を築くつもりであった。

「やあ教授、というか博士というべきか病院長というべきか」
「やあ、エドガール辺境伯」
「くそう」
「まだ怒っているのか」
「いや、帝国の様子を見に行こうと思っていたのにだな」
「ここからでもよく見えるだろうが」
「まあそうだがな」
「どんな様子だ」
 二人は声を潜めて語る。

「内戦になっとる。暫らく泥沼だろうから巻き込まれないようにしないとな」
「恐ろしいな。貴族も逃げて来るか?」
「ああ。そういえばいいものを見つけたぞ」
 エドガールが上着をくつろげて見せたのはジレだ。
「何だこれは。刺繍だな。綿か」
「そうだ。刺繍の中に綿を巻き込んでいるんだが、暖かくて軽くて、なかなか着心地が良いぞ。あんたにもやろう。侯爵にも贈ったが喜んでいた」

 エドガールは控えていた侍従に箱に入ったジレを持って来させた。モンタニエ教授が袖を通してみると、なるほど着心地が良く軽くて暖かい。刺繍が丁寧にびっしりと施してあり見場も良い。
「ほう、これはいい」
「小公国の職人が何人か流れて来ているから、あのお針子に世話してやろうかと思ったが、ここだと北の国から綿が入って来るのだ」
「北の国は貿易港があるからな。これはこれで、ここで特産にすればよかろうが」
「それもそうだな」
 綿工場は北の国に近い公国にあったなと、エドガールは考える。

「それよりこれを作って見ないか」
 モンタニエ教授は手のひら大の小箱を取り出して押し付ける。エドガールが開けると丸くて鎖の付いた小さな機械が入っている。
「何だこれは」
「それは懐中時計だ」
「時計か」
「どこかに職人はいないか」
「エリザ嬢が得意そうだが」

 赤い髪のモンタニエ教授と一緒にいる勝気そうな美人を思い浮かべる。彼女のお陰で魔石の鉱山は問題なく稼働している。納品先はエリザの工房以外は、王家の商会を通して随時売買契約を結ぶ。

「魔石を使わない物は得意ではないそうだ。これは使ってくれればよい」
 モンタニエ教授は気軽に懐中時計をくれた。ベストといい懐中時計といいお互い様である。コレをなあなあと呼ぶか共有と呼ぶか。
「そうか。ではありがたく使わせてもらおう。だがひとつではな、工房を探してみるか」
「何に使うんだ」
「軍事用を想定している」
「あるのか」
「いつでも想定しておいて損はない」
「ふむ」


  ◇◇

 国王のミハウはあちこち飛び回り、王妃は薬作りに忙しい。アストリの作った丸薬はモンタニエ教授が率いる王立病院から処方されており、薬を求めて王都ノヴァ・スルにわざわざ買いに来る者もいる。

「教会で主導して薬作りを教えることにいたしましたの。王妃様もぜひご一緒に」
 ブルトン夫人に誘われてアストリも参加する事にした。
 この国の教会は『女神サウレは全ての人に愛を下さる』という教えを採る。心の拠り所として女神を愛し愛され、隣人を愛そうという教えである。

 アストリは月に二度、修道院や教会の孤児院に出向き、孤児たちに薬作りを教えた。するとその噂を聞きつけた学校が王妃の授業を望んだ。アストリは気軽に出向いて分け隔てなく教える。
 ミハウが王都の工房を買い取り、薬職人に育った者を雇って、安価な傷薬、毒消し、湿布薬など薬の詰め合わせセットを王立病院や聖堂に置いて販売も始めた。

「先生とか教授とか呼ばれますの。何だか違うと思うのですけれど」
 小首を傾げる少女のようなアストリにミハウも苦笑いする。
「君が教えているんだから、先生で間違いない」


  ◇◇

 ミハウはアストリを連れて王都のマリーの店にお忍びで行った。マリーに美味しい魚卵が手に入ったと聞いて、アストリがミハウに強請ったのだ。
 スプーンでグレーの魚卵を掬って食べたアストリは「んんん、美味しいですー」と口の中に広がる濃厚な味わいを堪能する。

「本当に、この魚卵はとても美味しいですわ。何にでも合いそうですしオードブルより特注の一品料理にした方がいいかしら。ところでこのワインは?」
 アストリたちの隣のテーブルにはブルトン夫人がいて、ロジェと一緒にワインを飲んでいる。

「この前セヴェリンとジャンが王都に来た時、うちの店にも来て、ワインの樽を甘口と辛口と頂いたの。これは辛口の方ね、どちらが合うかしら」マリーはいつものカウンターの中で、マガリとクルトがカウンター席でちびちびとお相伴にあずかっている。

 アストリと一緒に魚卵を堪能しながら、これがどこで穫れるか知っているミハウはチラリとマリーを見る。
「君の所為じゃないのか」
 ボロウスキ公爵が離縁したことは噂になったが、ノヴァーク王国の夜会、社交界自体が賑やかではなかったので一部で囁かれる程度であった。

「まあ、わたくしは知りませんわ。あの男が勝手に熱を上げているだけよ。わたくしは殿方にチヤホヤされたいだけ」
 マリーの言い様にミハウは溜め息を吐く。
「夫婦なんて、いくらでも形があるだろう」
 五月蝿がったマリーは、隣で静かに聞いているアストリに振る。
「……、アストリ様はどう思われます?」
「あら、私? そういうの分からないし、私はミハウ様しか知らないですし」

 ミハウは嬉しそうな顔をして「じゃあ次に行こうか」と、アストリをエスコートして店を出て行ってしまう。暫らくバタバタと忙しかったので、今日はゆっくり二人で王都のデートコースを洒落込む。
「ご馳走様、これはホテルの目玉としてもいいわね」
 ブルトン夫人もロジェと一緒に店を出て行く。
 王宮の不満分子の最大勢力のボロウスキ公爵が陥落して、王都ノヴァ・スルはかなり安全な街になった。

「私よりあざといわ」思わずマリーが愚痴をこぼすと「で、本当の所はどうなんです?」と、マガリが身を乗り出す。
「それがね、この前辺境伯と言う方がお店にいらして、それがまたいい男。背が高くて大きくて、低い声がもう素敵」
 サッサと話題を変えるマリーと調子よくそれに乗るマガリ。
「あら、バクスト辺境伯ですね。あの方の声、痺れますよね」
「そうそう」
 暫らくその話で盛り上がった。

「そういえば、この前セヴェリンがジャンと一緒に王都に来たでしょう」
「ええ、来ましたね。ワインを持って」
「トカイは物凄く甘いワインだと聞いたのだけど──」
 マリーはエリクサーを飲みはしたがトカイはまだ飲んでいない。

「それが葡萄のカビの生え方とか、どこを使うかによって味が変わるんだそうですよ。カビのある所だけだとすごく甘いのだそうですけど、全体を使うと辛口とか、すっきりした甘口とかになるそうですの。また他のワインとブレンドして──」
「そうそれでセヴェリンも何か逞しくなっちゃって、ジャンもあの茫洋としたところが捨てがたく──」
 マガリの話を遮って女子トークを再開したマリーに、流石にマガリも呆れてしまう。こうやってワイワイ話をするのは好きなのだが。
「気が多いわね、ひとりに絞れないの」
「うーん」

 そこにボロウスキ公爵が店にやって来た。
「今、帰ったぞ」と、もはや亭主気取りである。
「あら、お帰りなさい」
「ワハハ、この身体は良い。湖賊を全て片付けてやるぞ」
「さようで、岸辺に死体が落ちていたら拾ってやりなさいよ」
「あい分かった」
 お似合いじゃないの。と、マガリが言ったとか言わなかったとか。

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