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一章 死んだ俺と死神と

六話

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『オイ、時間だ』
 獅子人形の死神の声が、突然俺の頭の中に響いた。
 まだ何も解決していない。ここで、三人の人間の目の前で消えるわけにはいかない。俺はそそくさと立ち上がって、麻里子のアパートを後にした。

 外に出た途端、俺は魂になったらしい。
 銀の死神のアロウが腕を組んで、アパートの階段の向こうの宙に浮かんでいるのが見える。
 そのアロウに身を寄せて、腕をアロウの身体に回し、黒いカラスが……、いや妖艶な死神が俺を見ている。ニヤリと笑って。


 俺は何だか嫌な気分になって、唇を噛んでそっぽを向いてしまった。
「フフン」とカラスが面白がるように笑う。

 銀の髪のアロウはカラスの九朗を引き剥がして俺の方に来る。
 美しい人形のような、少しも表情の変わらない面貌、濃い紫の瞳をチラとも俺の方に向けないで、アロウは「部屋に行こう」と俺たちを置いて、スイと麻里子のアパートに戻って行く。

 アロウの後を追いかけようとした。その俺の腕を掴んで、長い髪を掻き上げ、九朗が話しかける。
「お前、今、妬いたろ」
 言ったカラスを振り返るとニヤリと笑った。
 妬いたって焼きもちか……? 俺が……?

「オイ、何をしている」
 長い銀の髪を翻してアロウが俺を呼んだ。もうアパートの中に入りかけている。俺は慌てて後を追いかけた。
「お前がその気なら、俺にも考えがある」
 後ろから九朗が俺に囁いた。九朗はそのままスススッと後ろに下がる。
 九朗の言葉が気になったが、そんな暇はなかった。


 アロウは俺の背中を押すようにして、ドアをすり抜け麻里子のアパートに入ってゆく。
 アロウの身体からいい匂いがする。思わず惹き込まれるような。アロウが死神で俺がもう死んでしまった魂だからそうなのだろうか。しかし九朗が側に寄っても何も感じない。アロウは俺の担当の死神だからそう感じるのだろうか。

 俺とアロウはぴったりとくっ付いて、麻里子の部屋の様子を見ていたが、銀の髪が俺の頬に触れる度、そんなことばかり考えてしまう。



「先程の三村さんと仰る方はどういう……」
 麻里子の部屋でそう聞いているのは、柊という麻里子の自称恋人ではなく校倉の方だった。

「死んだ七斗のお友達だったみたいね。あたしは会ったことはないけど、結婚式には来て下さる筈だったの」
「そうですか」
 校倉は暫らく考えていたが、今度は柊という麻里子の自称恋人を見た。
「あなたは麻里子さんの恋人ですか?」
 柊はニヤニヤ笑って校倉を見ているだけだ。校倉はコホンと咳をして眼鏡を押し上げた。
「私は雪柳七斗さんの従兄弟で校倉と申します」
「それはもう聞きました」
 柊は相変わらずニヤニヤ笑いながら言った。一体この男は何が可笑しいんだろう。

 校倉はもう一度コホンと空咳をして、今度は麻里子の方に向き直る。
「実は、お亡くなりになった雪柳さんには借金がありました。これが借用証書の写しです。融通したのは私の父です」
 校倉は手に持ってきた鞄の中から書類を取り出した。

 何を言い出すんだこの男は……。俺は誰にも借金なんかした事はない。思わず部屋の中に出て行こうとしたが、アロウが引き止める。

「何でだよ!」
 藻掻く俺にアロウが低い美声で囁いた。
「向こうとこっちとは次元が違う。実体のないままで接触すると危険だ。霊が散逸して、天国へ行けなくなる可能性も出てくる」

 その言葉とアロウの力強い腕に抱きすくめられて、俺の体から力が抜ける。
 何で死神に抱きしめられて、気持ちがいいなんて思ってしまうんだろう。


「こんな……、嘘よそんなこと」
 麻里子は校倉が出した借用書を手にぶるぶると震えている。
「嘘ではありません。借金されたのは雪柳さんの御両親ですが。二人で駆け落ちする時に、私の両親に用立ててもらったようですね」
 そう言って校倉はもうひとつの書類を取り出した。

「七斗さんが相続された土地は、ご両親の借金の担保になっていました。これがその書類の写しです」
 校倉は淡々と麻里子に説明している。

 俺の親父は自分のものでもない、将来得るかもしれない土地を担保に、この校倉という男の親から借金したんだろうか。貧しい、何もない山奥の田舎だった。そんな高速道路が出来るとは思いもしないような。何かの冗談の弾みだったのだろうか。

 しかし親父は一人っ子だった。何故この男は俺の従兄弟を騙るんだろう。その方が麻里子に取っ付き易いにしても。

「つまりあなたが相続された七斗さんの遺産は、担保として借金の返済に当てる事で帳消しという事になります」
 校倉は眼鏡の奥に表情を隠し、淡々と麻里子に向かって告げた。

 ちょっと待て! 一体どれほどの借金だったんだ。

 俺はアロウの腕の中でまた藻掻いた。昔の借金だったら利子が雪達磨式に増えたかもしれないが、俺は親父からそんな借金の事は何も聞いていない。
 親父はバカ正直で真面目な男だった。そんなものがあったら、さっさと返している筈だが。

「なあんだそうだったのか」と突然柊が立ち上がった。
「そんなことなら長居は無用ですね」
 麻里子を見下ろしニヤニヤと笑いながら言う。

 こ…、この男は……。

「柊さん」
 麻里子は突然の出来事と、柊の豹変に付いて行けないで、呆然と柊を見上げた。
「あんたに大金が転がり込むというから親切にしたが、僕は貧乏な生活はしたくないんでね」
 柊はさっさと麻里子のアパートから退散した。

「どうも…、申し訳ないことで……。後ほど弁護士の方から、正式なお話が来ると思いますので」
 校倉もそう言って、そそくさと麻里子のアパートを逃げ出した。
 後には麻里子が校倉に渡された書類を手に、テーブルに座ったまま呆然としている。

 あ…、あいつら……!!
 俺はアロウの手を引っ掴んで、出て行った男たちの後を追いかけた。


 アパートの外に出ると、今度はアロウが俺を小脇に抱えて宙に浮かび上がった。
 銀の髪が幾筋か俺の頬を撫でていく。見上げると美しい人形のような顔の中、紫の瞳が地上を見下ろしている。

 俺たちの足元を校倉が歩いていた。その横に一台の車が止まった。校倉は咄嗟に周りを見回すと、その車の中に滑り込んだ。
 運転しているのは柊だ。車はそのまま慣れた運転捌きで走り出した。アロウは俺を抱えたまま車を追いかける。


 俺は今、空を飛んでいるんだよな。
 それは俺を抱えている死神のお陰な訳で、死んだ後で、こんな美形の死神と、あの世ではなく現実世界を、まるでアニメのように移動しているなんて……。

 死神でしかも美形とはいえ男に抱きかかえられて、こんなに近くすぐ側にいるのに、どうして嫌だと思うどころか、快適だとか満更でもないとか思ってしまうんだろう…。成り行きで身体を重ねただけなのに……。アロウは俺の魂がちょっとばかし綺麗だったから食指が動いただけだろうし……。

 いや、俺は何を考えているんだ。今はあいつらの事だ。


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