愛なんかなかった

拓海のり

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十一話

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 この屋敷に連れてこられた後、仕事に行きたいと言い出した。広い屋敷でする事もなく暇を持て余していたからだった。
 磯崎はベッドに座った直樹を見下ろして好きにしろと言った。そう言ったくせに翌日には仕事先を見つけてきた。受けてみろと言ったそれが湊フーズだった。経営の思わしくなかった総合食品会社の輸入と食品加工を扱っている部門を、磯崎商事の傘下の食品商社が買い取った子会社である。

「どうだ、やっているか」
 直樹が倉庫で配達の商品を積んでいると先輩の香田が聞いてきた。
「はい、今のところは。香田さんの企画は順調ですか」
「それがな、添加物で規制に引っかかるものがあって、早めに見つかったから対処できたが一時はどうなることかと気をもんだぜ」
「そうですか」
 直樹は香田を見て少し首を傾けた。香田は湊フーズの生え抜きの社員だと聞いている。
「香田さんは景山課長の事をよく知ってらっしゃいますか」
「景山課長か」
 香田は直樹の質問を別に咎めもせずに答えた。
「あの人は台湾に居たんだよ。輸入担当でね。できるという話だがまあ仕事振りはおいおい分るだろう」
「そうですか」
 いかにも体育会系といった感じの香田は、大柄の身体を少し折り曲げて直樹に囁いた。
「気をつけた方がいいかもな」
 直樹はそんなに小柄ではない。身長は平均より少し高い。しかし細くて華奢で優しげな容貌は、香田の大柄でごつい男くさい身体に圧倒されてしまう。それが顔に出たのだろうか、香田はスマンと大きな手を頭にやってガシガシ掻いた。
「いえ、そのそれはどういう…」
「いや、余計な事を言ったようだ」
 香田は身を引いて倉庫を出て行こうとする。直樹はそれを引き止めた。
「言いかけて止めないで下さい」
 直樹に引き止められて香田は驚いたように直樹を見る。その顔を少し染めて低い声で言った。
「ここじゃなんだし、帰りにどうかな」
 香田が酒を飲む手付きをする。直樹は黙って頷いた。

 * * *

 その日の業務を終えて、直樹が事務所で日報を書いていると影山課長が側に来た。低い声で囁くように言う。
「別に構わないだろう」
 直樹の机に置いた手には何も装飾のないプラチナの指輪が鈍く光っている。その手を辿って直樹は景山の顔を見上げた。景山は読めない表情で直樹を見下ろしていた。
「なにがでしょうか」
「相手がいてもいなくても、君たちは気が向いたら誰彼無しにやるんだろう」
 直樹の眉が上がった。この男は何を言いたいのか。
「課長、何が仰りたいのか─」
「別に何も」
 景山はすいと背中を向けた。しかし、そのまま行きかけて振り向いた。
「金曜日の接待に君も来てもらうよ」
(どういう接待だろう。今までの話し振りからして気が進まない。断ることが出来るのだろうか)
 しかし景山は直樹の顔を見て少し笑って言った。
「台湾の輸出先から五人ほどお客さんがいらっしゃるんだ。女性も二人いらっしゃるし君にも行ってもらおうと思ってね。こちらからは私と山田君と君とで」
 景山は三十前後の眼鏡をかけた同僚の名前を挙げた。
「でも、俺は中国語は──」
「心配要らない。英語が出来れば大丈夫だ」
 そういうことなら断る理由もなかった。
(しかし、景山は何故その前にあんなことを言うのか)
 直樹はすでに背を向けた景山の背中を不安げな面持ちで眺めた。

 * * *

 その日、香田と居酒屋に繰り出して直樹は意外な事を聞いた。
「景山課長はゲイだと聞いた事があるんだ」
「え…、でも指輪を」
「大分前に聞いた噂なんで確かなことは知らないが、案外隠れホモかもな。気をつけろよ、三日月君を狙っているかも知れんぞ」
 香田が襲い掛かる真似をする。
「よしてくださいよ」
 直樹は冗談っぽく言い返したが、心の中では不安が膨れ上がった。香田は直樹の不安には気が付かないでジョッキのビールを呷り、口を拭った。
「美味い。お前みたいな美人と飲んでいると酒もことのほかだ」
「美人って…、そういえば香田さんは付き合っている方がいるんでしょう。スゴイ美人だってもっぱらの評判ですよ」
 直樹は得意先で聞いたことを言った。
「はは、三日月君には結婚が決まってからでないと紹介できないな。それより年上の彼女がいるそうだな」
「え、誰から聞いたんですか」
「めったなことで口を滑らすなよ。お前みたいな奴の噂はすぐに広まるぞ」
「香田さんほどじゃないですよ」
 それからは女談義で盛りあがった。直樹は不安を振り切るようにわざとはしゃいだ。直樹はもともとは女と付き合っていたし、磯崎以外の男と抱き合いたいとは思わなかった。久しぶりに気の置けない同僚としたたかに飲んで酔った。何軒かはしごして足取りも危うくなった。
「大丈夫か」と、まだ幾分しっかりしている香田が聞く。
「よかったら、うちはここから近いし寄って酔いを醒ましてから帰ったらどうだ」と、香田が誘った。その言葉をどこかで言ったような気がすると思いながら直樹は頷いた。

 香田のアパートは2kで直樹のアパートより広かった。キッチンで水を貰って飲み干すと案外近くに香田の顔が直樹を見下ろしていた。酔ってふらふらと揺れて頼りなげな直樹の身体を支えていたのだった。男らしい精悍な顔、がっちりとした大きな体。直樹はこんな男らしい男になりたかった。上背があっても痩せているから華奢に見える。男らしいといわれたことはなかった。
「お前って綺麗だよな。肌なんか透き通った感じで、会社のジャンパーもお前が着ると綺麗に見えるぜ」
 そう言う香田の顔が随分と近い。手が伸びて直樹の顔をなぞった。親指が唇に触れる。水を飲んで濡れたままの唇だった。指がゆっくりと唇をなぞった。直樹は突っ立ったままぼんやりと香田を見上げている。香田の手が伸びて肩を掴もうとしたときにケータイがけたたましく鳴り出した。二人の体が弾かれたように離れた。
(俺は何をしようと……)
 そう思ったのはどちらだったか。

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