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本編
第十七話 灯の在り処 1
しおりを挟むふっと目を覚ますと、黄色みがかった皮製のテントの屋根が見えた。五角形の形に骨組が組まれている、広々としたテント内は、側面に刺繍された気温調節の魔法陣のお陰で、極寒にも関わらず温かい。
ここが〈氷雪の樹海〉と呼ばれる森で、氷竜の寝床だと思い出した修太は、顔を洗おうと起き上がり、足元に寝そべっているコウをそのままにして、ごそごそとテントから外に這い出た。
ここには黒狼族とモンスターしかいないので、黒目をさらすのを気にしなくていいからフードを被らずに済んで楽だ。
肘までを覆う程度の長さしかないいつものポンチョは、熱遮断だか気温調節だかの魔法陣のお陰で着ていると温かいので常に羽織り、その下の上着とズボンはビルクモーレで新調していた。襟と袖口に草の刺繍が黄色で縁取りされている濃い緑色の半袖の上着と、その下にタートルネック型の黒い長袖を着て、下衣は分厚い布地の黒い長ズボンだ。ブーツは前と同じ濃い緑色に羽飾りがついた民族調のものである。長距離を歩いても足を痛めないように、分厚めの靴下を履いている。お陰で寒い中で外を歩いていても霜焼けにならずに済んだ。
氷で作られた家の中は、中央部の地面に石組みされた炉の中で焚火が燃えていて温かいが、それでも普通の家よりは寒い。スペースだけは広いからテントを広げる隙間があったので、修太は屋内にテントを置いて寝ていた。
ちなみにこの家にはトイレはない。昨日、窪地の外にリーリレーネに小さい家を作って貰い、床に当たる地面に穴を掘って、そこで用を足せるようにした。これは絶対に必要なことだからすぐに整えた。
家の裏でもいいではないかと思うだろうが、窪地の中はリーリレーネの巣だから、外でないと駄目らしい。それに黒狼族は鼻が良いので、近場は嫌だという意見もあった。
(おっと、まだ寝てるのか)
修太がテントの外に出ると、驚いたことに黒狼族の三人がまだ寝ているのが見えた。ここには外敵はいないので、三人とも焚火を囲うように敷いた毛織の敷物の上で、毛布を三枚程重ねて横たわっている。
(寝てるとこ、初めて見た……)
ついまじまじと、入口から近い位置に寝ているグレイを見る。背中しか見えないが、グレイは野営の時は絶対にハルバートを抱えた格好で座ったまま寝るから、何となく不思議になる。そういえば、宿でもグレイが寝ているところは見たことがない。それというのも、修太はグレイより早く寝てしまうし、朝はグレイの方が早くに起きるのだ。いったいいつ寝ているのかと不思議に思っていたが、やっぱり寝るのだなと当たり前のことを確認して少し安堵した。
三人とも昨日は影の道を通ったせいで疲弊していたし、疲れているのだろう。
修太は三人を起こさないように気を付けて、出入り口を埋めている木板を外して外に出る。そうすると、白い巨体の竜が、尻尾を巻きつけるようにして身を丸めて寝ているのが見えた。
そして、その傍ら、地に座るリーブルにもたれるようにして座っていた雪乙女が修太に気付いて微笑んだ。
――お早うございます、シューター
「おはよう」
小声で返しながら、さくさくと雪を踏んで歩いていく。
「なあ、顔洗いたいんだけど、湧水の所まで行ってきていい?」
――それでしたら、湯の出る泉がありますよ。ほら、そちら、湯気が出ているでしょう?
「温泉?」
そういえば、昨日も見えた。リーリレーネの尾からもっと向こうにある地面では、窪地の斜面から水が流れ出して小川を作っており、そこだけ氷が溶け、湯気が立ち上っている。流れはそのまま窪地の下へと消えている。地下水路でもあるのかもしれない。
――人間はそう呼ぶのですか? あいにくとわたくしは雪の化身。あのような熱いものに触れると身が溶けてしまうので触れませんが、人間でしたら普通の湧水よりあちらの方がいいのでは?
雪乙女は「人間は熱すぎても寒すぎても死ぬのでしょう?」と小首を傾げる。
「そうだな。まあ、それでも適応して生きるのも人間だよ」
――ええ。知恵なくしては、あのような脆弱な生き物は自然に淘汰されているでしょう
それには修太は肩をすくめて返し、温泉の方に歩いていく。
温泉の出ている場所は、近付くと泉のようになっているのが分かった。人頭大の丸い石がごろごろ転がっていて、その中に白濁した湯が流れ込み、湯気とともに硫黄のにおいをまき散らしている。
「ああ、惜しいな。もっと広かったら風呂に入れたのに」
洗面器程度の深さしかないのをもったいなく思いつつ、熱すぎたらどうしようかと水面に手を近付ける。湯気の感じでは熱く思えないので、思い切って人差指を付けてみた。
「おっ、ちょうどいい温度だ」
ますます浸かりたい。温泉好きな日本人の血が騒ぐ。
内心でうずうずしながら、湯に両手を差し入れて顔を洗う。そして、旅人の指輪からタオルを出して、水気を拭う。気持ち良さにふうと息を吐くと、空気が真っ白に染まった。
――むぐぅ……むにゃむにゃ……
「?」
変な声が聞こえたので振り返ると、リーリレーネが身じろぎしたところだった。眠たげに目蓋を持ち上げると、深い青の瞳が覗く。一本の亀裂が入った、鋭くも美しい目だ。
――ふああ。むぅ、いいにおい……
寝ぼけ眼で身を起こしたリーリレーネがこちらを向く。
「ん?」
何故か昨日のように嫌な予感がした。無意識に身を引こうとした修太だが、あいにく後ろには泉があって動けない。
――いただきまぁーす!
「え!? なんだそれ!?」
そう来るとは思わなかった。無意味に両手を前に突き出して止めようとするが、寝ぼけているリーリレーネは完全に修太を餌と勘違いして、丸呑みしようと口を開いた。
「ひーっ!」
声になっていない悲鳴を上げながら、修太はリーリレーネの巨大な口を凝視する。次の瞬間、黒い影が一つ、視界を遮った。左から飛び出してきたグレイが、身をひねって回し蹴りをリーリレーネの右頬に叩きこむ。どごっと鈍い音が辺りに響いた。
――うがっ
小さく声を漏らし、頭をのけ反らせるリーリレーネ。鱗よりも白く見える喉元の皮が無防備にさらされる。
「……起きろ」
音も無く着地したグレイは静かに言った。いつもの黒衣の上に着たコートの黒毛が、着地した拍子にふわりと揺れた。このコートはビルクモーレで揃えた物だ。セーセレティー精霊国は亜熱帯地域だが、ビルクモーレにあるダンジョンの中には極寒エリアが存在するので、ビルクモーレの店には防寒着も普通に売っている。どれも動物の毛皮を利用したものなので、値が張る代物ばかりだった。
(おおお!)
修太は感動してグレイの背を見つめた。グレイが死神じゃなくて普通の神様に見えた。
(いつ見ても死神みたいだなんて思っててすみませんでした!)
修太は内心で拝み倒しながら、失礼なことを呟いた。
――う? うう?
寝起きで口端から涎を垂らしていたリーリレーネは、目をパチパチさせ、頭を振る。
――おお、おはよう、小さき子ら。どうした? その冷たい目は
どうやらやっと覚醒したらしい。修太とグレイがじと目で睨んでいるのに、リーリレーネは居心地悪そうに身じろぎする。
そこへ、グレイが面倒臭そうに言う。
「あんた、寝ぼけてこいつを食おうとしてたぞ」
――そっ、そうか。それは済まなかった。まだ疲れが残っていてな……。頼むからクロイツェフ様には内緒にしてくれ、この通りだ
べたっと地面に伏せ、リーリレーネはぶるぶる震えながら謝ってきた。三角の耳がぺたんと寝ている様は愛嬌がある。
「あんなことを言ってるが?」
ちらとこっちを振り返るグレイ。修太は仕方ないなあと肩をすくめる。
「あと一回あったら言うから」
――おお! おお! ありがたい!
パッと身を起こし、リーリレーネは嬉しそうに声を上げた。それを横目に、修太はグレイに礼を言う。
「グレイ、ありがとう。でも、さっき寝てなかったか?」
「横になってただけで起きていた。火を切らしたら凍死するからな、焚火番だ。ちょうど顔を洗おうと外に出たら、お前が丸呑みにされそうになっているのが見えた」
「なるほど……。でも、焚火番? あんまり寝てないのか?」
「俺達は一鐘半も寝れば睡眠は充分に足りる。あいつらと交代制だから気にしなくていい」
一鐘半はだいたい三時間くらいだ。それだけで睡眠が足りるなんて流石は頑丈な一族である。
「俺も焚火番くらいするよ。いつでも起こしていいからな」
任せっきりなのも悪いと主張する。
「間に合っているから手はいらん」
一言ぼそりと返すと、グレイは修太の頭をポンポンと右手で軽く叩いた。
(……ぐっ、これはもしかして頑張っている子ども扱いなのか?)
気遣いか、気遣いなのか?
修太は精神的にダメージを負った。子ども扱いは修太の自尊心をかなり傷つけるのだが、相手が落ち着いた大人なグレイであるのでどうにも反感を抱けない。これがフランジェスカやサーシャリオンなら怒るところだ。
ときどき素で子ども扱いしてくるグレイには困る。無表情すぎて似合わないのだが、子どもの扱いに慣れているせいで、無意識にそうしてしまうのだろう。だが、面倒見ていた子どもがシークやトリトラのような奴らなら、確かに子どもの扱いは上手くなる気がする。
―― 子ども扱いされて不貞腐れる子ども。ああ、なんて可愛らしいんですの! わたくしもわたくしも!
横からずいっと出てきた雪乙女も修太の頭を撫で始める。
「だぁもう、やめろっ!」
ぐしゃぐしゃに髪を掻き回され、修太は雪乙女の手を振りほどいて、肩をいからして睨む。しかし雪乙女には逆効果だった。
――怒っている〈黒〉も綺麗! 感情的になった時のカラーズの魔力は本当に綺麗ですわ
手を組んでうっとり呟かれ、修太はぞわわわと腕に鳥肌が立った。本気で思考回路が危ないんじゃないか、このモンスター女。
「無理無理。俺、無理。ほんと、こいつだけは無理」
とりあえず関わりたくないと思った修太は、グレイの後ろへと逃げに走った。壁にされたグレイは一つ溜息を吐く。
「そこの危険女。その思考の駄々漏れぶりをどうにかしろ。白教徒より恐れられるなんて問題外だ」
――はっ。申し訳ありません。あんまりおいしそ……いえ、綺麗だったので、つい
何で口元を手でぬぐってるんですかね、雪乙女さん。本気で、気付いたら指がなくなってたりしたらどうしよう。修太は悪寒を覚えた。
寝ぼけて食べようとしてくる竜と、危険なお姉さんモンスター。なんていう最凶な組み合わせだ。どうしてここに預けた、サーシャリオン。
話は済んだと思ったのか、グレイが背中側にいる修太を振り返る。そして、修太が右手にタオルを持っているのを見て、すぐ横にある温泉と見比べた。
「ところでお前、ここで顔を洗ったのか?」
「ああ、そうだよ」
「こんなくさい泉でよく洗えるな」
「温泉だから硫黄くさいのは仕方ないよ。でも、温度はちょうど良かったぞ? もっと深くて広かったら浸かれるのに」
あんまり声ががっかりしていたせいか、リーリレーネがついと頭を出した。
――浸かるのか? このくさい熱湯に?
「……あのな、くさい水とか湯とか言うなよ。温泉はすごいんだぞ? 疲労回復、打ち身や切り傷、腰痛の治療にも効果的。それに女性には肌がつるつるになるって喜ばれる。湯治って言って、病気や怪我の治療にも使われてるくらいだ」
「そんな効果があるのか? これに?」
グレイの表情は動かないが、声がうろんだ。
「なんだ、見たことないのか? たいてい火山や休火山の麓に湧き出ることが多いんだ。俺の故郷は山が多かったんで、結構あちこち温泉で有名な場所があってな。観光地としても栄えているし、温泉に行くのはポピュラーな旅行先だったんだ」
修太はやや浮き浮きしながら言う。
「故郷の人間は毎日風呂に入るくらい風呂好きでな、温泉なんて最高だよ。湯には薬効があるし、疲れがとれて体調まで良くなるんだから」
――まあ、確かにここより北には昔火山だった山があるな……。君の知識は面白いが、我は熱いのは好かぬからなあ
「そうか。それは残念だ」
この喜びを分かち合えないのはつまらない。修太は肩を落とした。
――だが、広くて深めにするくらいなら、我がやってやろう。つまり、人間が浸かって溺れない程度の深さがあればいいのだろう?
のしのし歩いてきたリーリレーネは、温泉をじっくり見ると、右の前足の爪で底をえぐり、土を掻き出す。白く濁っていた温泉はあっという間に茶色く濁った。その後、適当に見栄えを整えると、一つ頷いた。
――あとは放置していれば、明日には澄むだろうよ。これでいいな?
「ありがとう、リーリレーネ! さっきのことは完全にちゃらにする!」
――おお、そうかそうか。それはありがたい
修太が機嫌良く礼を言うと、リーリレーネは心底ほっとしたように何度も頷いた。
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