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第一部 邪神の神子と不遇な王子

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 その日、到着日に約束していた通り、燻製チーズと木の実を作って、レジナルドに献上した。
 ガーエン領のチーズは名産品でおいしい。燻製がさらに味わい深くしたおかげで、レジナルドはとても気に入ったようだ。おいしいものを食べさせてくれた礼にと、織物の反物を一つくれた。

「これでアリサに服を作ってやれと、陛下が」

 翌朝、レグルスとの朝食の席でそう言われた。

「なんで私に?」

 同席しているだけで、パンや果物を籠につめながら、有紗は問い返す。スープはレグルスが食べてくれている。モーナに頼んで、後でガイウスに渡してもらうつもりだ。

「燻製の知識は、アリサがもたらしたものですから」
「うーん、でもね。この間、ヴァネッサさんが服をそろえてくれたから、レグルスが使えばいいわよ」
「気にしなくていいですよ。服は多くても困りませんから」

 有紗の固辞こじを、レグルスはやんわりとしりぞけた。こういうところは頑固だ。
 褒美は予想外だが、王が気に入ってくれたのは良いことだ。有紗はにんまりする。

「燻製チーズの売り込みが成功したわね。これで良い売り文句が使えるわ」
「どういうことです?」

 スープを飲む手を止め、レグルスはわずかに首を傾げる。
 朝日のやわらかい光に照らされて、レグルスの顔には優しさが浮き彫りになっている。有紗はこの時間を一緒に過ごすのは好きだ。静かな時間、小鳥のさえずりを聞きながら、二人で食事をする。有紗は同席しているだけだが、特別な時間に思える。

「『異国の料理』より、『王様が喜んだ料理』のほうが、食いつきが良いと思わない?」
「なるほど」
「商人が来たら、そう話すの。でも、それだけだと弱いから、試食させたいわよね」

 実際に食べておいしいと思えば、彼らも未知の料理を怖がらず、仕入れてくれるだろう。

「それなら、収穫祭の時に出しましょうか。収穫祭では、領主が領民に料理と酒をふるまうんですよ。商人の出入りもあります。燻製を誰かに真似されたとしても、ガーエン領のチーズはおいしいので損にはなりません。遠方からも買い付けにくるでしょうしね」
「あ、そっか。やり方さえ分かれば簡単だから、周りに広まる恐れがあるのか……」

 うまいこといったと浮かれていて、その考えがなかった。

「保存食は冬を越すために必要なので、むしろ広めたほうがいいでしょうね。そして、評判になれば、僕達の勝ちです」
「そうだったわ、レグルスが王様にふさわしいって思わせるのも大事なんだったわね。味方を作らなきゃ」
「アリサのおかげで、土台を少しずつ築いていますよ。ありがとうございます」
「ううん。聖典を読むためだもん、もっとがんばるわ」

 この調子では、いったいいつになるのか分からない。有紗は物思いに沈んだせいで、レグルスがさびしげな目をしていることには気付かなかった。

「ええ、がんばりましょう、アリサ。あなたの大恩にむくいるためにも。我が国の罪をつぐなうためにも」
「ありがとう、レグルス。私、レグルスがいるから希望を失わずにすんでる。……日本に帰りたいの」

 そして、いつかここで過ごしたことが、夢だったと思えたらいいのに。
 そんな空想をしては、まだここにいることに失望する。有紗にとって、覚めない悪夢と変わらない。



 その日の午後、ヴァネッサが顔を出した。

「アリサ、すっかり忘れていたのだけど、あなた用の短剣ができていたのよ」

 美しい紋様を刻んだ革のさやに、先がとがった短剣がおさまっている。細身で持ちやすいものだ。

「あのかせがこんなふうになるなんて、不思議」
「護身用でもあるけれど、貴族の女が持つ場合、敵の手に落ちる前に死ぬようにっていう覚悟をあらわしたものなんですって。こちらに嫁いだ時、王妃様にプレゼントされて顔が引きつったのを思い出したわ。あなたはそんなことにならないように、レグルスが守るでしょうけど、いざとなったら、敵の足を狙うのよ?」
「足、ですか?」

 ヴァネッサが物騒なことを言うので、有紗は面食らう。

「動けなければ、足止めできるでしょう? その間に逃げるのよ。とにかく、逃げることが大事」
「分かりました」

 そんな状況になって実際に使えるかは別として、有紗は頷いた。腰のベルトに下げると、ちょっとした安心感がある。

「陛下がね、あなたはどこの国の人なのかって気にしてらしたわよ。うまいこと誤魔化せるように、レグルスと相談しておくといいわ」
「お会いしたんですか?」
「ええ、久しぶりの再会だったから、盛り上がってしまったわ。あの綺麗な下着の試作品を着てみたおかげよ。ありがとう」

 うふふと少女みたいに、ヴァネッサは軽やかに微笑む。

「盛り上が……あ、そういう意味ですか」

 ヴァネッサは王の妃なのだから、下着を見せる状況といえば、そういうことである。
 寝床事情を暴露され、有紗は反応に困った。頬を赤らめて横を見ると、ヴァネッサが抱き着いてきた。

「可愛らしいわね! そうだわ、何か困ったことはない?」

 体を離し、ヴァネッサは本当の母親みたいに有紗を心配する。

「大丈夫です」

 自分でやり返しているので、問題ない。

「すごく頭にきても、王妃様のことを立てるのよ。ここで平穏に暮らすなら、そうするしかないの」
「分かりました、気を付けます」
「それではね。ふわあ、私は昼寝するわ」

 あくびをしながらヴァネッサは部屋を出て行った。その入れ替わりにミシェーラが遊びにきた。

「アリサお姉様、最終チェックに来ましたわ」
「ミシェーラ、体は大丈夫なの?」
「ええ。ゆっくり休んで、疲れがとれました。それより、パーティーは明日なんですもの、慌てないように、しっかり準備しておきましょう」

 それから、ドレスやアクセサリーについて確認して、マナーの復習をする。女が三人も集まれば、自然とおしゃべりが増えるもので、気付けば夕方になっていた。

「あら、もうこんな時間。わたくし、部屋に戻りますわ」
「明日はがんばろうね」

 有紗が声をかけると、ミシェーラは栗鼠りすみたいな可愛らしい顔に笑みを浮かべ、品よくお辞儀をして退室した。
 パーティー当日は朝から準備に忙しい。髪と体を洗って、王族の前に行くにふさわしいみだしなみを整える。モーナが不要な品を片付けるのを横目に、有紗はレグルスの部屋に向かう。お腹が空いたので、散策がてら聖堂に行きたい。

「レグルス……?」

 ノックをして返事があったので中に入ると、レグルスがいつか見た木箱を持っていた。小さな紙片は、有紗が書いた単語が記されている。

「それ……」

 まさか王宮にまで持ってくるほど大事にしていると思わず、有紗は妙に動揺した。
 レグルスはいつものように静かに微笑んで、紙片を木箱に入れ、木箱の蓋を閉める。

「それ、なんて書いてあるの?」

 なんとなく、聞いてはいけないような気がしたが、有紗は好奇心に負けた。

「……いつか、アリサから聞きたい言葉です」

 彼があんまり優しい顔をしているので、有紗はどんな単語か感づいた。
 ――いや、本当は、気付かないふりをしていた。
 レグルスが有紗に好意を向けていることは分かっていた。それでも、それに気付くわけにいかなかった。
 命の恩人だから好かれているのだと思うことで、それ以上を考えないようにしていた。
 だって有紗は、元の世界に帰りたいのだから。

「ご……ごめ……」

 後じさって、扉に背中が当たる。
 情けなくて、涙が出てきた。
 結局、有紗も王宮の人達と変わらない。利用しあうと言いながら、レグルスを踏みにじっている。
 ここでの保護者だとレグルスに依存しながら、有紗はその愛にはこたえない。

「私……私……帰りたいの」

 なんとかそう言うのが精いっぱい。ぎゅうと両手を握りしめる有紗の傍にやって来て、レグルスは有紗の頭を撫でた。

「分かっているので、大丈夫ですよ」

 わしゃわしゃと、犬にでもするみたいな乱雑な撫で方で、何とも言えない空気が霧散する。有紗はやっと呼吸を思い出して溜息をつく。

「女性は男性を恐れるものです。僕はあなたを傷つけたくない。怖がらせたくない。あなたを故郷から切り離し、自分勝手に殺そうとした神官達と同じことはしない。アリサが自然と好きになってくれたらうれしいけれど、保護の見返りに強要もしない」

「……うん」
「アリサが僕を必要としてくれるだけで、うれしい。でも、一つだけ許せないことはある」
「何?」

 少しだけ身構えて、有紗はレグルスを見上げる。レグルスは少しだけ険しい顔をして、きっぱりと言った。

「他の男は、駄目です」
「男?」
「例えば第一王子とか」
「お兄さん?」

 なんて可愛らしい嫉妬しっとだろう。有紗は噴き出した。

「ありえないわ。会ったこともないのに」
「ガイウスやロズワルドとか」
「ロズワルドさんだけは絶対にないから、やめてよね」

 思わず真顔で否定してしまった。想像しただけで身震いする。彼は有紗の天敵だ。

「どっちにしろ、聖典を読むまでは他のことは考えられないわ」

 そのために必死になっていたら、この世界のことも、変わってしまった肉体も、元の世界のことも考えなくて済む。
 有紗が一番怖いのは、気持ちが闇に墜落して、立ち止まることだ。いやおうなく、現実を叩きつけられることなのだ。

「それなら、僕は大丈夫です。聖典のために共にがんばりましょう」

 レグルスはそう言うと、「すみません、ぼさぼさになってしまいましたね」と苦笑を浮かべた。
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