29 / 125
第一部 邪神の神子と不遇な王子
9
しおりを挟む女官長、侍女、騎士を一人ずつ味方に付けた。
たった数日でこの成果なら、良いほうだろう。
あれから三日過ぎたものの、まだリストアップしているところだ。
何か書くものをくれと言ったら、樹皮紙をもらった。その名の通り、木の皮をハンマーで薄く叩いたものである。作る時に破けやすいのが難点らしいが、羊皮紙や紙よりはずっと手軽に手に入るらしい。メモ程度ならこちらを使って欲しいとのことだ。
羽ペンの先をあぶって、インクを付けて書くと、ちょっとだけ紙にインクがにじむ。だがメモする物が無いよりは良い。
羊皮紙は長持ちするので、保管する書類は羊皮紙に書く。それ以外は紙に書くそうだ。紙は使い終わった後、再利用もできるらしい。
「やっぱり住む場所の改善が先だよね。雨漏りと隙間風は駄目だよ。清潔さは大事だから、ゆくゆくはお風呂を作るとして……。水をたくさん汲み上げるのに楽なのは、ここだと水車かなあ。山なら、湧水を樋で運んでくればいいから解決なんだけどなあ」
「どうして住み心地の話で、清潔の話が出てくるんです?」
ウィリアムの問いに、有紗はきょとりと首を傾げる。
「え? だって、不潔だと病気になるでしょ」
「えっ」
「こっちが『えっ』なんだけど」
有紗とウィリアムのやりとりを聞いて、レグルスが有紗のほうを見る。読み途中の書類を机に置いた。
「お風呂の話は、それが理由ですか?」
「私の国は水が豊富で、ほとんど毎日のようにお風呂に入ってたわ。そこまでは求めないけど、手洗いとうがいくらいはしたほうがいいわよ」
「うがい?」
「お水を口に含んで、上を向いて、ガラガラガラってさせて吐くのよ。喉を洗う感じかな?」
「それをするとどうなるんです?」
レグルスは気になることは深く問うところがある。真剣に聞いてくれるのがうれしくて、有紗も真面目に説明する。
「目には見えないんだけどね、空気の中に、病気の原因になるウィルスっていうものがあるの。それは鼻や口から体内に入るのよ。鼻は鼻毛があるから防いでもらえるけど、口から入りやすいのね。乾燥すると体内に入って、病気のもとになったりするから、うがいをして、口や喉についたものを外に出すと、病気の予防になるってわけ」
「手を洗うのはどうしてです?」
「あちこちに触ると、そういうウィルスが手にくっつくのね。レグルス達はパンや食事を手づかみでしてるでしょ? 手から食べ物にくっついて、それを食べると、体内に入っちゃうのよ」
「なるほど。そちらは大丈夫ですね、食べる前に、手を洗ってますから」
そういえばテーブルにフィンガーボウルがあったなあと、有紗は思い出した。
「できれば外から帰ってきて、すぐに手を洗ってうがいしたほうがいいわよ。建物内のあちこちに触ることで、あちこちに広めちゃうから。これは予防の話ね」
「理にかなっておりますね」
レグルスは頷いて、考え込むような仕草をする。
「へえ、病気になるもとっていうのがあるんですか。どうしてそんなものがあるとご存知なんです? 目に見えないのに」
ウィリアムが素朴な疑問を口にする。
「私の住んでいた場所は、ここよりもずっと技術が進んでいるのよ。そういう、小さすぎて目に見えないものを、見えるようにする道具があったの。でも、私は道具があるのは知ってるけど、それの仕組みは知らないから、作って見せることはできないわ」
有紗はやんわりと苦笑する。
「普通、こんな話をしたら、信じられないわよね」
「どんなものか分かりませんが、それだけで病気を予防できるなら、広める価値はありますよ。私は民には心穏やかに生きて欲しいので」
レグルスは口元にかすかに笑みを浮かべて、優しい目をして言った。
「レグルス……!」
なんて良い人! 有紗はじーんと感動した。一方、ロドルフはぶつぶつと呟く。
「闇の神子だと公言できれば、一発で広められるんですがねえ。神からのお言葉だと言えば、詳しい説明はしなくて済みますし」
「これは聖堂で試してもらえばいいんじゃない? なんか体に良いっぽいよってニュアンスで、誰かが真似すれば広まる気がするわよ。それこそ『ありがたい神官様の教え』で充分じゃない?」
「アリサ様、なかなか策士ですなぁ」
「ロドルフさんと似たことを言ってるだけでしょ、策士って何!?」
言葉の裏に「腹黒」と聞こえる気がして、ロドルフに褒められると少し警戒する有紗である。
そこへ、扉をノックする音が響いた。
「殿下、ロドルフ様、ご報告がございます」
レグルスが許すと、扉が開き、騎士が顔を出す。
「どうした、何か問題か?」
ロドルフの問いに、騎士は首を振る。
「いえ、門番のガイウス・ケインズが、騎士達に勝負をしかけておりまして……。なんでも全員に勝ったら、団長になるとかなんとか。ロズワルド殿の後任が決まっていないとはいえ、皆、気が立っていまして」
「つまり喧嘩になっているのか?」
レグルスは慎重に問う。
「は。正式に試合として許可いただかなければ、収まりがつかないかと愚考いたします」
困り顔の騎士に、ロドルフは面白そうににやにやしている。
「殿下、いいではありませんか。これで全員に勝って実力を見せつければ、誰も文句は言えませんぞ」
「ガイウスは本気で言っていたのか……。よし、試合を許す。私も見に行こう。正式に立ち会えば、結果でもめることもないだろう」
「殿下、審判はわしにお任せを!」
ロドルフは喜び勇んで、騎士とともに書斎を出て行く。
「まったくもう、ロドルフ様は……。あの方、喧嘩好きなんですよ。たまの楽しみが闘鶏なんです」
子どもを見るみたいな生温かい目をして、ウィリアムも椅子を立つ。彼もどこかそわそわして、ロドルフのことを言えない態度だ。
「私も見学してよろしいですよね?」
「ああ」
「では、お先に失礼します。ええと、騎士の名簿」
ウィリアムは書類を持ち出して、素早く出て行く。
「なんだか楽しそうね」
レグルスが椅子を立ったので、有紗もぴょんと床へ下りた。
「喧嘩は娯楽ですからね」
「レグルスも、そういうのが楽しいの?」
「喧嘩は特には。ですが、騎士達の試合は好きですよ。ルールにのっとっていますから。同じ試合でも、決闘は無益なので好みませんね」
「試合と決闘って違うの?」
有紗の問いに、レグルスは大きく頷いた。
「試合は日ごろの鍛錬の成果を示すだけですが、決闘は誇りを守るため、命を賭けてするものです。負けたほうは死にます」
「絶対?」
「ええ、必ず。しかし、それで兵力を減らすのは馬鹿らしいので、平時では禁止されていますよ」
「ん? それ以外の時があるの?」
「戦時です。団体戦では不利でも、個人戦で勝つことで、戦の流れを勝利に持ち込めることがあります。そういった賭けに出ることはありますね。決闘を申し込まれて断るのは、恥ずかしいこととされているので……」
「なるほどねえ」
戦国時代っぽい考え方だなと、有紗はしみじみと頷いた。
「アリサはどうしますか?」
「行くよ。ガイウスさんをスカウトしたのは私達だから」
「では、外套を……。さ、フードをしっかり被ってください」
椅子の背にかけていた薄手のマントを取り上げて、レグルスが有紗に着せかける。
「自分で着られるのに」
「お世話をしたいんです」
「変わった王子様ね。でも私、子どもじゃないから、恥ずかしいんだけど……。何?」
自分でフードを被せながら、レグルスが残念そうにしているので、有紗は意味を問う。
「アリサの顔が見えなくなるのは寂しいです」
「だ、だって、しかたないでしょ。黒目を隠せって言うから。隣にいるから寂しくないでしょ?」
ちょっと動揺した有紗だが、なんとか気を取り直してレグルスに言い返す。レグルスは嬉しそうに微笑んだ。
「試合が終わったら、聖堂に行きましょうか」
「そうね。でも忙しいのに、いつも付きあわせちゃってなんだか悪いわ……」
レグルスが来てくれるとありがたいが、ここが小規模な領地でも、領主は結構忙しい。いつも書類を見ているか、伝令からの報告を聞いている。冬の間は落ち着くらしいが、それまではまだ長い。
「座ってばかりいると、体が強張りますからね。気分転換になって、むしろ仕事がはかどっていますよ。ありがとうございます」
「そこでお礼を言われると、余計に困るわ」
有紗はレグルスの態度を見ていると、ちょっと落ち込む。
「甘やかされてる気がする」
「はい、そうしています」
「や、やっぱり! ええとね、それでレグルスがいつか負担に感じて、私が嫌われて邪魔になったら悲しいから……ほどほどがいいな」
「アリサ、心配無用です。この程度、まだまだです。本気を出したら、こんなものではありません」
「まだまだなの!?」
まったく想像がつかなくて、目を丸くして驚く有紗の手を引いて、レグルスは書斎を出る。
「そんなことより、試合を見に行きましょう。立会人がいないと、始まりませんからね。皆が待っていますよ」
「え? そんなこと? そんなことなのかなあ。ううん」
不思議がる有紗だが、レグルスは全く気にしていない。
当のレグルスが問題無いと言っているのだから、良いのだろうか。謎だ。
10
お気に入りに追加
962
あなたにおすすめの小説
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
〖完結〗その愛、お断りします。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚して一年、幸せな毎日を送っていた。それが、一瞬で消え去った……
彼は突然愛人と子供を連れて来て、離れに住まわせると言った。愛する人に裏切られていたことを知り、胸が苦しくなる。
邪魔なのは、私だ。
そう思った私は離婚を決意し、邸を出て行こうとしたところを彼に見つかり部屋に閉じ込められてしまう。
「君を愛してる」と、何度も口にする彼。愛していれば、何をしても許されると思っているのだろうか。
冗談じゃない。私は、彼の思い通りになどならない!
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
「いなくても困らない」と言われたから、他国の皇帝妃になってやりました
ネコ
恋愛
「お前はいなくても困らない」。そう告げられた瞬間、私の心は凍りついた。王国一の高貴な婚約者を得たはずなのに、彼の裏切りはあまりにも身勝手だった。かくなる上は、誰もが恐れ多いと敬う帝国の皇帝のもとへ嫁ぐまで。失意の底で誓った決意が、私の運命を大きく変えていく。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
冤罪から逃れるために全てを捨てた。
四折 柊
恋愛
王太子の婚約者だったオリビアは冤罪をかけられ捕縛されそうになり全てを捨てて家族と逃げた。そして以前留学していた国の恩師を頼り、新しい名前と身分を手に入れ幸せに過ごす。1年が過ぎ今が幸せだからこそ思い出してしまう。捨ててきた国や自分を陥れた人達が今どうしているのかを。(視点が何度も変わります)
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる