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第一部 邪神の神子と不遇な王子

四章 どんな王様になりたいか 1

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 その夜、有紗は自室の窓を開けて、空を眺めていた。
 薄らと雲がかかる空に、少し欠けた大きな白い月と小さな赤い月と青い月が浮かんでいる。
 あの月を見るたびに、有紗はここが違う世界だと思い知らされる。水底にぶくぶくと沈んでいくみたいに、気持ちも落ち込んでいく。

(……寒い)

 体ではなく、心が。
 元の世界への戻り方も、元の肉体にどう戻るのかも、有紗には分からない。
 分からないなら、不可能と同じことだ。
 森で一人さまよった一週間、これが悪い夢で、起きたら温かい我が家にいないかと期待した。そして目覚めるたび、現実に打ち砕かれたのだ。
 望まずに連れてこられた世界で、ここから出たいと、帰りたいとばかり願うなら、ここは有紗にとって、世界という名のだだっぴろい牢獄だ。

「はあ……」

 深いため息がこぼれ落ちる。
 もし肉体が作り変わっていなかったら、有紗はただ帰ることを望んで、その方法を探せば良かった。この状況で帰るのは怖い。

「約束はしたけど、会いたいなあ。お父さん、お母さん……」

 どうして有紗が神子に選ばれたのだろう。不思議でしかたがない。
 それでも、あの闇の中で会った美しい人が、有紗と会えたことを喜んでいたのを思い出すと、胸の奥が温かくなる。これも神子になった影響なのだろうか。

「こういう時、お母さんならどう言うかな?」

 有紗自身ではこの沼から抜け出せない。それなら、記憶にある誰かに相談すればいい。
 確か小学校高学年の時だった。友達と喧嘩をして、あの子のこういうところが嫌いだと愚痴っていた時、母は有紗の話をおざなりに聞いてから、あっけらかんとこう言っていた。

「変えられないもので、いつまでも悩まないの。どうせなら変えられるものについて悩みなさい」

 口に出して呟いてみる。
 どうしてこれを思い出したのか分からない。
 だが、有紗は落ち込むと、いつもこの言葉を思い出す。

「帰り方は分からないし、肉体の変化なんて私にはどうしようもない。これは変えられないことだよね。今、変えられるものは……気分の向きかな。今は後ろ向きだから、前向きになれそうなことを探してみるってのはどうかな」

 そう思って、部屋を見回す。
 清潔な個室をもらって、綺麗な服に身を包んでいる。助けてくれる人達は優しい。
 指折り数えてあげていくと、頭の奥で、ありし日の母の声がよみがえる。

「上手。その調子よ、有紗」

 有紗は声に出して呟く。郷愁がこみあげて、涙が浮かんだ。ネグリジェの袖で、ごしっとこする。

「そうよね、今はこれだけで充分」

 怖くて寒い気持ちに蓋をして、有紗は木製の鎧戸を閉めると、掛け布に潜りこんだ。



 寝床に入ったものの、あんまり眠れないまま、部屋が明るくなってきた。そっと鎧戸を開けると、朝日はまだ顔を出していない。地平線に光が滲み、空気はひんやりとして青みを帯びている。
 こんなに早い時間だというのに、隣で扉が開く音がしたので、有紗も扉を開けて、部屋の前を通りがかったレグルスに声をかける。

「おはよう」
「おはようございます、アリサ。ずいぶん早いお目覚めですね。まだ寝ていていいんですよ?」

 レグルスは小声であいさつを返す。ネグリジェにショールを羽織っているだけの有紗と違い、彼の身支度はすでに済んでいた。今日のレグルスは腰の高さくらいの赤い胴着を身に着け、黒いタイツ状の靴下を履いている。

「眠れなかったんですか?」
「分かる?」
くまが」

 レグルスが親指でそっと有紗の目元を撫でた。
 なんだか心地良くて、有紗がついその手に頬をすり寄せると、レグルスは息を飲んだ。何故かこちらをじっと見下ろすので、有紗もなんとなく見つめ返す。

「おおっと、失礼」

 ちょうど階段を上がってきたところだったロドルフが回れ右をして立ち去る。

「……何?」
「いえ」

 有紗がそちらに気を取られると、何が「いえ」なんだかよく分からないまま、レグルスがそっと手をどけた。

「アリサ、僕は朝の稽古があるんです。後で迎えに来ますから、朝食は一緒にとりましょう」
「食べられないのに?」
「それでも雑談はできますし、妃候補として座っていれば、使用人にも僕がアリサを大事にしていると伝わるので、アリサの立場が安定します」

 有紗は少し考える。

「ええと、つまり、食事に同席しないってことは、そこまで仲良くないですよって言ってる感じなの?」
「そういうことですね。もちろん、気乗りしないならお部屋にいて構いませんよ。ただ、僕が……」
「何?」
「アリサと食べたら、食事がいっそうおいしくなりそうだと思って」

 にこりと微笑んでの言葉に、有紗は気を良くした。

「そんなふうに言われたら、同席しないわけにはいかないわね」
「では、また後で」

 レグルスはお辞儀をすると、機嫌が良さそうな足取りで立ち去った。
 ひとりぼっちだと心が寒いが、レグルスといる時は温かい気がする。つい、カルガモの雛が親鳥を追うみたいに、レグルスを無意識に追いかけてしまいそうになるのを我慢して、有紗は着替えを済ませることにした。
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