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1巻
1-1
しおりを挟む序章
「父上の具合はいかがです?」
足早に廊下を歩いてきた金髪の青年は、王の寝室の前で医師に問う。今日が峠だと聞き、戦後処理をしていた戦場から急いで戻ったせいで、薄汚れた緑色の軍服を着たままだ。二十二歳になる彼は、優しげで整った顔に不安を滲ませていた。
そんな彼を見て、初老の医師は、首を横に振ってみせる。
「相変わらずでございます、アレクシス殿下。最善を尽くしましたが、敵将につけられた傷が深く……。陛下が殿下と二人きりでお話ししたいそうです。陛下の傷に障らぬよう、出来るだけお静かにお願いいたします」
そう言うと、医師は寝室の扉を振り返った。衛兵がその扉を開ける。青年――アレクが頷き、中に入ると、扉はすぐに閉じられた。
寝室の中央にある豪奢な寝台の上で、くすんだ金髪をした、厳めしい男が眠っている。
アレクはその様子を目にして、戸口で足を止めた。
医師の言うことを信じたくはなかったが、目の前にあるこれが現実だ。
男の――リヴィドール国王の寝室には、静かな死の気配が漂っていた。
アレクは気を強く持ち直すと、王の寝台の傍まで歩いていき、床に膝をつく。
「父上、アレクシスです」
王の体を労わり、ささやくように話しかけると、王の目蓋がゆっくりと持ち上がった。深緑色の目が動き、アレクを捉える。
「……来たか」
そのたった一言でも疲れたと言わんばかりに、王は大きく息を吐いた。声がかすれていて聞き取りづらかったので、アレクはもう少しだけ王に近付いた。すると王は続ける。
「アレクシス、私の最後の息子……。二人の兄王子を病で亡くした今、お前がこの国の最後の砦だ。アスラ国のいいようにさせてはならぬ」
「心得ております、父上」
アレクは王の右手を取り、彼を安心させるためにはっきりと答えた。
アスラ国は、古来より人間と敵対する魔族が作った国だ。人間側の大国であり、その国と隣り合っているリヴィドール国は、たびたび戦禍にさらされていた。
王がこうして床についているのも、ほんの二日前に終わった戦のせいだ。王は兵達の先頭に立ち、多くのドラゴンを味方につけて戦場に赴いた。聖竜エルマーレに乗った彼は、敵将と一騎討ちをして、からくも勝利した。だが、その時に大怪我を負ったのだ。医者はもう長くないと言っていた。
王はしばらくアレクを眺めた後、僅かに眉尻を下げる。
「お前は優しすぎる。それだけが心配だ。王になった後でよいから、良き妃を迎えなさい」
「はい。母上のような方を見つけることを、お約束いたします」
アレクが答えると、王の目元がふっと和らいだ。
「それでいい。それから、エルマーレももう長くないだろう。産卵直後だというのに無茶をさせた。すまないことをしたと思っている」
「父上……、聖竜は喜んで共に旅立ちました。きっと後悔されてはいないでしょう。それにアスラ国を撃退したことで、我が子を守れたのですから」
「そうだな……。アレクシス、国のことも、あれの子のことも頼むぞ。ドラゴンの導き手を召喚し、あれの子を正しく導いて頂くのだ。伝承の通りに」
「分かりました、父上。必ずやそのように」
アレクの返事を聞いて満足したのか、王はゆっくりと目を閉じた。握っていた右手から力が抜けたことに気付き、アレクは寝台にすがりつく。
「父上? ……父上、父上!」
呼びかけても返事が無い。
異変に気付いた医師が飛ぶようにやって来て、診察を始める。
――その日、リヴィドール国王の訃報が国内を駆け巡った。
◆
菊池結衣が宿舎の外に出ると、辺りはまだ薄暗く、空の端には星が見えていた。
彼女は小さく欠伸をし、眠気をこらえて宿舎の扉を閉める。そして朝靄の中、短い黒髪を手櫛で整えながら、向かいの建物を目指して歩き始めた。
ここは日本のとある山の中に立つ、犬の訓練所だ。
夏はもう終わりに近付いているので、朝は結構冷えて、冷え性の身には辛い。これさえなければ騒音を気にしなくていい最高の立地なのにと、朝になる度に思ってしまう。
結衣はドッグトレーナーをしている。犬が人間と生活を共にするために必要なしつけを行うのが仕事だ。この訓練所では問題を抱えた犬達を預かり、ドッグトレーナーがそれぞれ担当の犬をしつけている。
結衣は高校卒業後にドッグトレーナー養成学校に入り、一年近くかけてライセンスを取得した。独立開業を目指している結衣は、まずは経験を積もうと、この訓練所に就職したのだ。
食事付きの宿舎がある代わりに、給料はお小遣い程度しかもらえない。だが、上司や先輩達のようなドッグトレーナーになりたいと夢中でやっているうちに、気付けば五年目を迎えていた。
基本的なノウハウは身に付けたし、もっと給料の良い所はないかと、転職先を探しているところだ。それというのも、この間実家に帰省した時、いつまで仕送りさせる気だと親に冷たい目で見られてしまったのだ。
結衣は親の顔を思い出して溜息を吐き、中庭を横切って、宿舎の真正面にある犬舎へ向かう。自分の朝食の前に、担当している犬に朝食を与えがてら、しつけをしなければならないのだ。
犬舎の前で気持ちを切り替えると、結衣は鉄製の重い扉を押し開けた。そして電気を点け、中の犬達に向かって明るく挨拶をする。
「みんな、おはよー!」
そして同僚からどんぐりみたいと言われる大きな目で、さっと辺りを見回した。
入り口から真っ直ぐ伸びるコンクリートの通路。その横には、一頭分ずつ壁で仕切られた檻がある。檻の中には色んな種類の犬がいた。
結衣は通路を進みながら檻の中を覗き込んで、犬達の様子を見ていく。
床に伏せたまま耳だけ動かしている犬、鉄格子の傍まで歩いてきてこちらを様子見する犬、檻に前足を掛けて吠える犬など、様々なタイプがいる。時には激しく吠え立てる犬もいるが、この周辺には人家がないので気にする必要はない。
生活するには不便な立地だが、お陰でのびのびと訓練することが出来るのだった。
犬達に声をかけつつ、結衣は健康状態を観察していた。問題があるように見える犬はいなかったので、そのまま一番奥の檻へと歩いていく。そこには結衣が訓練を担当しているゴールデンレトリバーのラッキーがいるのだ。
「おはよう、ラッキー」
結衣が声をかけると、ラッキーは鉄格子から離れて激しく吠えた。
吠え癖がひどいという理由で、最近ここに預けられたラッキー。だが、少しばかり警戒心が強すぎるだけなのだろう。
そんなラッキーを安心させるように、結衣は優しく微笑みかける。そして早く吠え癖を直して飼い主のもとへ帰してあげようと思いながら、檻の鍵を開けた。
◆
リヴィドール国王の死から二ヶ月が経った。
雲一つない晴天に恵まれた朝、白い石造りの神殿は、慌ただしい雰囲気に包まれていた。
アレクは紺色の上着と白いズボンという正装姿で、赤いマントの裾をなびかせながら、神殿の廊下を歩いていく。
時折、儀式の道具を運ぶ女性神官達とすれ違う。白いシャツとスカートという衣装に身を包んだ彼女達は、アレクに気付くと端に避けて頭を下げる。
忙しそうな神官達を横目に、アレクは高揚した気分で神殿の奥を目指した。
この神殿は、聖竜を信仰する聖竜教会の本部だ。王城の城壁内にあり、限られた一部の者しか出入り出来ない。だが、幼い頃から出入りしていたアレクにとっては、とても馴染みのある場所だ。
彼が神殿を頻繁に訪れていたのは、聖竜エルマーレに会うためだった。しかし王の死後、まるで後を追うかのごとく、エルマーレも亡くなった。優しい祖母のような存在だったドラゴンの死を思い出し、アレクの心は痛んだが、首を振って気を取り直す。
今日は特別な儀式を行う日なのだ。沈んだ気持ちで儀式を行ったら、亡きエルマーレが怒るだろう。
「殿下! アレクシス殿下、お待ち下さい!」
ばたばたという騒がしい足音と共に、長い黒髪を持つ青年が追いかけてきた。三十二歳という若さで宰相を務めるオスカーである。
足を止めて振り返ったアレクは、今日もいつもと同じ黒衣を身に着けている彼を見て呆れた。
「おはよう、オスカー。今日みたいなハレの日くらい、黒衣をやめてはどうだい?」
リヴィドール国では、王の死後一年間は喪に服すため、黒衣を身に着ける習慣がある。アレクもここのところずっと黒衣を着ていたが、今日は特別な祭事を行うので、正装を身に着けていた。だが、オスカーは今日も真っ黒いローブ姿だ。喪中とは関係なく、普段からこの姿なのである。
「おはようございます、殿下。ですが、私にとってはこれが正装ですから」
普段、体力よりも頭を使う仕事をしているせいか、オスカーは乱れた呼吸を整えながらそう返した。
折に触れて明るい色合いの服を着るよう勧めてきたアレクにとって、オスカーの返事は予想通りだった。仕方ないなあと思いながら、それ以上服に口出しするのはやめる。その代わり、未だに幼少期からの呼び方をするオスカーを、やんわりとたしなめた。
「オスカー、私はもう殿下ではないよ」
「はっ、申し訳ありませんでした、アレクシス陛下。ですが、どうかお待ち下さい。そんなにお急ぎにならずとも、儀式は逃げたりいたしません!」
「楽しみなのだから仕方ないだろう? お伽話やエルマーレ様のお話に出てきた、ドラゴンの導き手。あの伝説の存在に会えるんだ」
アレクは、はやる気持ちを抑えきれずに再び歩き出す。オスカーはその左斜め後ろにつき、ハンカチで汗を拭きながら後を追った。
「お気持ちは分かります、陛下。ですが、今までの導き手の中には他の世界の住人もおりました。鱗の肌をした方や、魚のような水かきを持つ方など……。今回も、どんな方がいらっしゃるか分かりません。何かあってからでは困るのです。ですから準備は万端に、護衛も大勢用意しなくては」
「駄目だ、オスカー。そんな真似をしては、導き手を怖がらせてしまう。第一、聖竜が選ぶのだから、間違いなど起きはしない」
アレクに切り返され、オスカーは口をつぐんだ。聖竜は人間を守る存在であり、人間に害を与えることはないと、リヴィドール国の人間はよく知っている。
再び前を向いたアレクは、憧れを込めて呟く。
「今度のドラゴンの導き手は、いったいどんな方なんだろう。早くお会いしたい」
導き手の召喚を早めるための儀式の間、その入り口である大扉が、教会兵の手で開けられる。
アレクは期待に胸を膨らませ、扉の向こう、光溢れる場所へと一歩踏み出した。
第一章 ドラゴンの導き手
名前を呼ばれたような気がして、眠っていた結衣は、ぱっちりと目を開けた。
上半身を起こし室内をきょろきょろと見回してみたが、宿舎の狭い和室には誰もいない。
誰か訪ねて来たのかと思って扉の方に注意を向けても、何の音もしなかった。窓の外から、木々の枯葉が風で擦れ合う音が聞こえてくるだけだ。
「気のせいか……」
結衣は自分の寝ぼけっぷりに苦笑しつつも、念の為、枕元に置いてあったスマホを確認する。着信履歴が無いことにほっとした後、そこに表示されている時間を見た。
アラームをセットしてある時刻まで、あと十五分しかない。
(寝直すには微妙だし、起きるか……)
少し損をした気分になりながら、結衣は支度を始める。
室内は暗いが、近くに置いてあった作業着を彼女は迷わず手に取った。毎晩寝る前に、決まった場所に畳んで置いているからだ。
座ったまま作業着の上着に袖を通したところで、ふと先程まで見ていた夢を思い出す。
見渡すばかりの青空の下、どこまでも広がる緑の草原。その真ん中に結衣は立っていた。空を見上げると、銀色に輝く星が一つ降ってくる。
結衣はそれを受け止めようと両手を広げたが、そこで目が覚めてしまった。
なぜあんな夢を見たのかは分からないが、星が手の中に降ってくるなんて、何だか縁起が良さそうだ。
「今日は、何か良いことがあるのかな」
そう思ったら、少し早く目が覚めてしまったことも気にならなくなった。
「よし、今日もワンコのお世話を頑張るぞ」
小声で自分に活を入れ、結衣は鼻歌を歌いながら着替えを再開した。
「おはよう、ラッキー。今日もよろしくね!」
結衣が声をかけると、檻の中で伏せっていたラッキーは、黒く優しそうな目で彼女を見上げた。そしてすぐに立ち上がり、元気よく尻尾を振る。
そんなラッキーに、結衣はにっこり笑い返した。
この犬を預かったのは、夏の終わり頃だった。あれからもう二ヶ月が経つ。
最初は警戒心を露わにしていたラッキーだが、今は結衣や他のトレーナーにすっかり慣れた。また訓練の甲斐あって、滅多なことでは吠えなくなっている。
元々吠え癖を除けば、賢くて優しい犬なのだ。当初の予定通りあと一ヶ月は預かる予定だが、迎えに来た飼い主の喜ぶ顔を見るのが結衣は楽しみだった。
(その頃には、私の転職先も決まっているといいんだけど……)
そんなことを思いながら、彼女はラッキーの檻の鍵を開ける。
休日を利用してせっせと転職活動をしているのだが、なかなか上手くいかない。つい溜息が出そうになるが、犬達を不安にさせたくないのでこらえる。
結衣はラッキーの檻に入り、首輪にリードを繋いだ。そして訓練のために、檻の外へ出そうとする。
その時突然、ラッキーが激しく吠え始めた。
「ラッキー、駄目!」
結衣はきっぱりと叱ったが、ラッキーは吠えるのを止めない。壁や天井に向かって吠え続けている。
これ以上叱っても無意味だ。構ってもらえていると勘違いしてしまう。
吠える原因を取り除くのが最優先だと考えた結衣は、ラッキーを刺激するものは何かと、その視線を追った。そして、間の抜けた声を上げる。
「え?」
足元の地面が、ぐにゃりと柔らかくなったのだ。
この感覚には覚えがあった。小学生の頃、田植え体験に参加した際、泥に足を取られた時と似ている。自力で動けなくて怖かったことを思い出し、結衣は青ざめた顔で足元を見下ろした。
そこにあったのは、黒い沼だった。結衣が立っている場所を中心にして、小さな沼が広がっている。
「え? なにこれ、やだ!」
慌てて、足を引き抜こうともがく。だがもがけばもがく程、足は沈んでしまう。
なぜこんな所に沼があるのだろう。何がなんだか分からないが、非常事態ということだけは確かだ。結衣はすっかりパニックに陥った。
一方、ラッキーは黒い沼に向かって吠え続けている。
(あ、いけない。リード!)
吠え声で我に返った結衣は、ラッキーのリードを握ったままであることに気付いて手を離した。この怪現象から、せめて犬だけでも救わなくては。
そんなことをしているうちに、気付けば腰まで沈んでしまっていた。
目の前にいるラッキーは、困ったようにクウンと鼻を鳴らす。そして檻の中を右往左往して歩き回ると、開いている扉からおもむろに外へ駆け出した。
「あっ!」
――しまった、脱走してしまう!
結衣は焦ったが、同時に一つの可能性を思い浮かべる。
賢い子だから、助けを呼びに行ったのかもしれない。
「ラッキー、お願い。出来れば誰か呼んできて……!」
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◆
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驚いた拍子に吐き出した息は、幾つもの気泡になって散らばる。
(なにこれ、水!?)
結衣はもがいた。水の中にいるらしいが、混乱していてどちらが水面か分からない。怖くなって両手をばたばた振り回していると、右腕を誰かに引っ張られた。
ざばっという大きな音と共に、上半身が水から出て目の前が開ける。そのまま地上に体ごと引き上げられた。
「大丈夫ですか、ドラゴンの導き手殿!」
「げほっ、ごほげほっ」
声をかけられ、結衣は返事をしようとしたが、飲んだ水のせいで激しく咳き込んだ。四つん這いの体勢で、必死に息を整える。気管に水が入ったらしく、苦しくて涙が出てきた。
やがて落ち着いた結衣は、助けてくれた人に礼を言おうと顔を上げる。
(え……?)
目の前に立つ恩人の姿に、結衣は息を呑んだ。
(私、もしかして死んじゃったのかな……。天使が見える)
そう疑ってしまう程、その青年は美しかった。
二十代くらいのヨーロッパ系外国人で、背が高くすらりとしている。肌は白く、髪は金色で、エメラルドを思わせる緑の目をしていた。その目を縁取る睫毛も、眉も金色だ。
こんなに完成された美貌を間近で見たのは、生まれて初めてだった。いや、テレビや雑誌でも見たことがない。まるで天使の彫像が動いているかのようだ。
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結衣がそう自分に言い聞かせたところで、青年が心配そうに顔を覗き込んできた。
「ドラゴンの導き手殿?」
そこで結衣は、先程の質問を思い出した。そういえば、大丈夫かと問われていたのだ。
「だ、大丈夫です! それより、ち、近い!」
青年の顔があまりに近くて仰天した結衣は、反射的に彼を押し返した。
「あっ、失礼」
青年は謝って、一歩後ろに下がる。
距離が開いたことで、ひとまず結衣がほっとしていると、青年の後ろから別の青年が顔を出した。長い黒髪と琥珀色の目を持ち、黒ずくめの服装をしている。彼もまた整った容貌をしているが、なんだか冷たそうだった。金髪の青年が太陽なら、黒髪の青年は月といったような、真逆の印象である。共通しているのは、髪の一房を選り分けて、色の付いた紐を結んでいることくらいだ。
黒髪の青年は結衣と目が合うと、会釈をする。
「ようこそリヴィドール国へ、ドラゴンの導き手様。あなた様のご来訪、心よりお待ち申し上げておりました」
そう言って、彼は右手を左胸に当て、恭しくお辞儀した。大袈裟な挨拶だが、気品があって美しく見える。
「は?」
対する結衣の返事は間抜けなものになった。青年の仕草に見とれてしまい、言葉の内容を遅れて理解したせいだ。
先程から奇妙な呼ばれ方をしている。それも当たり前のように。だが何もかもが意味不明なので、どこから突っ込んでいいのか分からない。
放心状態の結衣に、黒髪の青年が促す。
「どうぞこちらへ。お召し替えなさいませんと、お風邪を召されてしまいます」
「オスカーの言う通りです。ご婦人が体を冷やすのは良くないと聞きます。すぐに着替えないと。さあ、行きましょう」
金髪の青年が至極もっともだという風に頷き、結衣に左手を差し出す。流れるような動作だったので、結衣は思わず右手を載せてしまった。
そこで我に返り、慌てて手を引っ込める。すると金髪の青年がおや、と言わんばかりに片方の眉を跳ね上げた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! あの、あなた達はいったい誰で、ここはど……こ?」
ようやく周りに目を向けた結衣は、自分の目に映ったものが信じられず、辺りをきょろきょろと見回す。
結衣は今、小さな泉の縁に立っていた。目の前には、そこへ下りるための階段があり、青年達はその一番下の段に立っている。階段は白大理石で出来ており、頑丈そうだ。更に視線を上げると、同じく白大理石で造られている重厚な趣の神殿があった。
続いて結衣は後ろを振り返る。泉の周囲には草木が植えられ、その向こうには高い壁がそびえていた。それは映画などでよく見る城壁のように立派だった。遠くに見える空を、虹色に輝く小鳥が飛んでいくのを見送ったところで、結衣は青年達に視線を戻す。
「……ほ」
「ほ?」
青年達が同時に首を傾げた。
「本当にどこですか、ここ!」
結衣は耐えきれずに叫んだ。
まったくもって理解不能である。
さっきまで自分は、山の中にある犬の訓練所にいたはずだ。実際は毎日掃除をしていて清潔だが、古びているせいで小汚い印象のある犬舎。あれはどこに行ったんだ。可愛いワンコ達はどこだ。
半ば混乱していたが、見知らぬ他人に丁寧な言葉を使う程度の理性は、かろうじて残っていた。
そこで結衣は思い出す。犬舎でラッキーの世話をしていて、黒い沼に落ちたことを。
(きっとあそこから夢なんだ。きっとそうだ)
結衣はあまり賢い方ではない。犬についての勉強は大好きだが、中学や高校のテストでは平均点を取るのがやっとだった。今でも教科書や参考書を見ると頭痛がする。深く考えるのは苦手だ。
そんな結衣なので、この時も考えることをあっさり放棄した。これは夢だと決めつけて、泉の方を再び振り返る。
水面に映る自分は、癖のある黒髪のショートヘアと大きな丸い目のせいで、実年齢より幼く見えた。そして、訓練所にいた時と同じ紺色の作業着を着ている。見覚えの無い、オカリナに似た笛が首にかかっている以外は全ていつも通りだ。
今の状況とそぐわないその格好を見て、確信した。
――間違いない。変な夢を見ているのだ。
結衣は手っ取り早く目を覚ますため、勢いよく泉へ飛び込んだ。
「驚きました。まさかご自分から泉に突っ込まれるとは……。大丈夫ですか? ああ、いえ、分かっております。大丈夫ではありませんね。ひどく混乱されている、それは確実です」
バスタオルにくるまってガタガタと震える結衣に、黒髪の青年が心配そうな顔で言った。
「これが夢じゃないなら、そりゃ混乱しますよ……」
そう返す結衣の声には覇気が無い。泉の水の冷たさによって、これが夢ではないことを、嫌でも理解せざるを得なかったせいだ。
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そして今、結衣はこうして震えている。
日本でいえば秋くらいの気温なので、濡れれば寒いのは当然だった。
「このままでは、本当にお風邪を召されてしまいます。さあ、こちらへ」
黒髪の青年はそう言って、神殿のような建物へと案内する。
意味不明な状況に未だ混乱しているが、風邪を引くのはごめんだ。結衣は金髪の青年と共に、黒髪の青年の後に続いた。
建物の中は、とても広かった。薄暗い廊下を、壁につけられた燭台の明かりを頼りに進みながら、結衣は遠い目をした。
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