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2巻
2-2
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だが、どういうわけか部屋の気温が下がった気がして、ハンスはぶるりと震えた。誰か代わってくれと、この場にいない同僚達に心の中で助けを求める。
次いでハーシェルは、妹の計画をあっさり否定した。
「無理だと思うよ。だって彼、この街の女性と婚約したからね」
「そのお話、シェディールお兄様からもお聞きしましたわ」
些末なことというふうに、セシリアは扇子で軽く扇ぎながら言う。
「どうせ、大した娘ではないのでしょう? それに、あの無愛想では、すぐ振られてお仕舞いに決まってましてよ」
「それが、かなりの美人なんだよね。大変な恥ずかしがり屋で対人恐怖症なのに、ロベルトのことは怖がらないんだよ。面白いだろう?」
ハーシェルが楽しげに語るのを聞き、セシリアは思い出したという様子で身を乗り出した。
「そういえば、お兄様も平民と婚約したと聞きました。本当なのですか? しかも、ロベルトの婚約者の妹だとか」
「ああ、その通りだよ。アイシス・トレーズ嬢というんだ。とても可愛らしくて、元気で明るい良い娘だよ。そうそう。この間のデートの時なんて……」
ここぞとばかりに始まったハーシェルののろけ話を、セシリアはテーブルを叩くことでぶった切った。
「そんな浮わついた話、聞きたくありませんわ! わたくしは、その婚約には大反対でしてよ!」
「ええ、どうして? 兄上は喜んでくれたのになあ」
ハーシェルはセシリアの怒りを飄々と受け流し、不思議そうな顔をした。
セシリアは長椅子に深く座り直して答える。
「わたくし、身分をわきまえることは大切だと思っていますの。昔から、身分違いの恋は悲劇を生むものです。お兄様、あなたは貴族の生まれですし、男ですからまだよろしいですわ。ですが、もしお兄様の気持ちが離れた時、その娘に待っているのは辛い現実でしてよ。血の繋がった兄のせいで朽ちていく花など、見たくありませんわ」
口調は冷たいが、セシリアは平民であるアイシスを気遣っているようだった。
ハンスはその言葉を聞き、気性が激しいだけのお姫様ではないのだなと感心する。
セシリアの侍女も、彼女に同意するように頷いていた。
「そんな心配は無用だよ、セシリー。僕には生涯アイシス嬢だけだって確信しているからね」
ハーシェルは真剣な顔で、歯の浮くような台詞を口にした。
だがセシリアにはふざけているように聞こえたらしく、再び眉を吊り上げる。
「ハーシェルお兄様の〝絶対の愛〟なんて、全く信用できませんわ! 子どもの頃から、女性を見ればふわふわフラフラしていましたもの。そういう殿方が、妻の妊娠中に浮気したりするんですわ!」
女性特有の鋭い切り口でもって、セシリアはハーシェルの言葉を全否定した。
「今すぐ別れた方が、その娘のためです!」
とどめを刺され、さしものハーシェルも顔を強張らせた。
「僕は浮気なんかしない。彼女のことは本気なんだ。セシリー、君は僕のことをどれだけ知っているっていうんだい? 憶測でそこまで言い切るのはやめてくれないか」
ハーシェルの声には、静かな怒りが満ちていた。
ハンスは青ざめ、逃亡したいあまりにちらちらと扉を見てしまう。
視界に入ったセシリアの侍女も、同様に青い顔をしていた。
しかしセシリアはつんと顎を上げ、ハーシェルを真っ向から睨み返している。
それでもハーシェルは淡々と続けた。
「それにね、君の許可なんか必要ないよ、セシリー。僕は自分の選んだ人をお嫁さんにするからね。せっかく次男という気楽な立場に生まれたんだから、好きに生きるって決めているんだ」
「そういう軽薄な態度が、領主家の品位を落とすんですわ!」
「人の心配をしている暇があったら、嫁ぎ先に帰って君の愛する旦那の補佐をしていなさい」
「余計なお世話です! とにかく、ロベルトは絶対に連れ帰りますから!」
ハーシェルとセシリアは、無言で睨み合った。
ハンスは、頼むから帰らせて下さいと心の中で懇願する。
やがて、セシリアは右斜め後ろに立つ女性騎士をキッと振り返った。
「エルネ! 部下達に命じて、ロベルトを探し出すのです! わたくしも出ます!」
「はっ、セシリア様!」
女性騎士は、両足を揃えて右の拳を左胸に当てると、即座に執務室を出て行く。
(何だ、この軍隊みたいなノリ……)
ハンスは静かに閉まる扉を唖然と見つめる。その後ふとハーシェルに視線を戻し、息を呑んだ。
彼は、ものすごく剣呑な目つきで女性騎士の出て行った扉を見ていたのだ。
ハーシェルはセシリアに向かって呆れたように言う。
「いつだって君は力ずくだよね。僕はそういうスマートじゃないやり方は嫌いだよ」
するとセシリアは扇子で口元を隠し、ドレスの裾を揺らして席を立った。そして横目でちらりと兄を見る。
「わたくし、お兄様のように気が長くありませんの。では、失礼」
そう言って、侍女とともに退室した。
彼女が立ち去った室内は、しんと静まり返る。
(うっわ、気まずっ)
ハンスは部屋の隅で直立不動のまま、この気まずさをどうしようかと思っていた。常に飄々としているハーシェルが、今は見たことがないような冷たい目をしている。まるで別人だ。
やがてハンスが困惑しているのに気付いたのか、ハーシェルが表情を緩めて苦笑した。
「ああ、妹とは仲が悪いわけじゃないんだよ? ちょっと意見が合わないだけなんだ」
「はあ……」
「妹は、あの通り気が強くってねえ。それに加えて男勝りに武芸も好むし、政治への関心も強いんだ」
「すごいですね。貴族のお嬢様というのは、そういうものなのですか?」
ハンスが恐る恐る問うと、ハーシェルは目を丸くした後、笑い出した。
「そんな、まさか! あれは稀少な例だよ。安心して夢を見ていなさい。――あ、でもさっきので壊れてたらすまないね」
ハーシェルは、謝りながらも楽しそうに言う。だがすぐに笑みを消して顎に手を当て、苦い顔をした。
「セシリーはね、スノーエイラ領に嫁いだんだよ」
「スノーエイラというと、西にある小さな領地ですか? 周辺の領地とのいざこざが絶えず、盗賊なども多いっていう……」
ハンスが噂を思い出して尋ねると、ハーシェルは頷いた。
「そう。小さな領地の割に、土地が豊かなものだからね。加えて隣接するうちの一つが敵国の領地だし、周囲は他も貧しい領地ばかりなんだ。妹はあの通りの性格だろう? 正直、あんな血の気が多い娘を嫁にくれという物好きはいないだろうと、僕も兄上も思っていたんだ。けど、スノーエイラの領主が是非うちに来てくれって言ってね。セシリーは嬉々として嫁いでいったよ」
「そうなんですね……」
ハンスは、領主家にまつわる新事実を知って、諦めたように呟いた。
警備団に入ってからというもの、ハーシェルをはじめ領主家の人達は変わっているのではないかと疑っていた。きっと気のせいだと自分に言い聞かせてきたけれど、そろそろ無理がある。
「ちなみに、話を聞いてて分かったと思うけど、ロベルトが〝鉄仮面〟になっちゃった原因は妹だよ。君はロベルトに付いてるんだから、よく覚えておいて。逃亡の手助けもしてやってね」
「え、よろしいんですか?」
「うん。うちの妹もいい加減、思い通りにならないこともあるって知るべきだからね」
ハーシェルから輝くような笑みを向けられ、ハンスは思わずぶるっと震えた。そして、やはり本当は兄弟仲が悪いのではないかと思うのだった。
*
――お姫様は、騎士が守ってくれるんだって。だからロベルトは騎士になって、お兄様達と私を守ってね。
ロベルトが八歳の頃、童話を読み終えたセシリアが、可愛らしく微笑みながらそう言った。
自分のことだけでなく兄達のことも守るように言ったので、ハーシェルも隣で嬉しそうに笑っていた。その頃のセシリアはハーシェルにべったりだった。だから彼もそんな妹を可愛がり、面倒をよく見ていたのだ。
ロベルトもまた、思いやり溢れるセシリアの言葉に笑みを浮かべていた。昔から表情が乏しかった彼だが、当時はまだそれなりに感情を表現できていたのだ。
お姫様の可愛らしい頼みに「もちろんです」と答え、ロベルトは剣の訓練に身を入れた。
――ロベルト、あの童話の騎士みたいに強くならなくては駄目よ。弱虫なんかいらないの。だから修業よ、修業!
ロベルトが十一歳になる頃、セシリアはお姫様ではなく騎士に憧れるようになった。何と、ロベルトを叱咤激励するようになったのだ。
ロベルトは、その期待に応えようと頑張った。子どもながらにハーシェルの従者として、領主家の人々を守りたいと思っていたからだ。
やがて、何かおかしいような気がしてきた。セシリアは、次第に無理難題を課してくる。それでもロベルトは、強くならないと屋敷を追い出されるかもしれないという不安もあり、黙々と従っていた。
だが時に死ぬような目に遭わされているうちに、セシリアのことを「可愛らしいお姫様」でなく「恐ろしいお嬢様」と思うようになったロベルトは、彼女から逃げ回り始めた。
そのような日々の中で、ロベルトの顔からは表情がどんどん失われ、ついには街の人々から〝鉄仮面〟とあだ名されるまでになったのである。
封印したい過去を思い出して青ざめながら自宅に戻ったロベルトは、まっすぐクローゼットに向かった。
両開きの扉を勢いよく開け、セシリアからいつでも逃げられるようにと常備している鞄を取り出す。彼女が遠い地に嫁いでも、油断しなかった自分を褒めたい。
ロベルトは黒い外套を羽織り、鞄を背負って家を出ようとした。
その時、ふと思いついて庭へ行く。
そこで飼っている鳩を一羽、小さな鳥籠に入れて携えると、今度こそ家を出た。
*
「あとちょっとで完成ね」
ロベルトが逃亡の支度を整えている頃、フィオナは自室で趣味の裁縫をしていた。
青色のリボンに、白い糸で花を刺繍していく。妹のアイシスのために作っているハンドバッグに、飾りとしてつける予定のものだ。
「次はいつお会い出来るかしら」
機嫌良くさくさくと縫いながら、フィオナは口元に笑みを浮かべて呟いた。今度はもっと長く一緒に過ごせたらいいと思うが、外は寒いので、長時間出歩くのは無理そうだ。
(いっそのこと、夕食にお招きしようかしら)
特に父ノルマンは、フィオナがロベルトと交際していることを喜んでいる。笑顔で迎え入れるのではないだろうか。
楽しい計画を頭の中で立てていると、ふいにカシャンという音がした。
「……?」
驚いてパッと顔を上げたフィオナは、目の前の窓ガラスに小さな石が当たるのを見た。
立ち上がって窓の下を見れば、家の前の通りにロベルトが立っていた。彼は一生懸命トレーズ家の裏庭を指し示している。
「どうなさったのかしら」
なにやら周囲を気にしている様子から、ただ事ではない気配がする。フィオナは針を針山に刺してリボンを机に置くと、すぐに裏庭へ向かった。
「ロベルトさん? いったいどうし……」
フィオナが声をかけると、彼は「しーっ」と言いながら口元に人差し指を立てた。
パッと両手で口を覆ったフィオナは、しきりに辺りを警戒しているロベルトを怪訝に思いつつ、小走りに駆け寄った。
そして、今度は小さな声で問う。
「どうしたんですか? 表から訪ねて下さればいいのに。お茶をお出ししますから、中へどうぞ」
「申し訳ない、フィオナ殿。その誘いには心惹かれるが、今は時間がない。可及的速やかに用事を済まさねばならんのだ」
真面目な顔で意味不明なことを口にし、ロベルトは手にしていた鳥籠をフィオナに渡した。
つい受け取ってしまったフィオナは、きょとんとして籠の中の鳩を見る。
すると、鳩はくりくりっとした赤い目で見つめ返してきた。
(どうして鳩?)
やっぱり意味が分からない。
それに、ロベルトの服装もだ。まるでこれから旅に出るといわんばかりの格好である。
彼は声をひそめて言う。
「実は今、セシリアお嬢様がこの領にお戻りになっているんだ」
「セシリアお嬢様?」
どこかで聞いた名前だ。籠を抱えたまま、フィオナは小首を傾げた。
「ハーシェルの妹君だよ。五年前に西の辺境スノーエイラ領に嫁がれたが、名前くらいは聞いたことがあるだろう?」
そこまで説明されて、やっと思い出した。領主のシェディールには弟のハーシェルの他に、妹のセシリアがいるのだ。とても美しい姫君だと昔から評判で、フィオナが小さい頃は人形遊びをする時、お姫様役の人形にセシリア姫と名付けるのが流行った。
「ああ、あのセシリア様ですね。ですが、セシリア様が戻られたことが、この鳩にどう関係するのですか?」
「セシリアお嬢様は、ハーシェルとあまり仲がよろしくなくてな。おそらくハーシェルが己の立場をわきまえず、一般市民と婚約したのが不満で、アイシス殿に直接ハーシェルとの婚約を取り消すよう忠告するはずだ。そして、俺の婚約者であるフィオナ殿にも」
「え? 私にですか?」
それはロベルトがハーシェルの従者だったからだろうか。だが、貴婦人が元使用人の婚約者にわざわざ会いたがるものだろうか。
首を傾げるフィオナの目を、ロベルトがじっと見つめた。
フィオナは恥ずかしさから、頬を赤くする。
「何か問題が起きたら、この鳩に手紙を括り付けて空に放してくれ。絶対に駆け付ける」
「は、はい……」
ロベルトに真剣な顔で言われ、フィオナはぶんぶんと頭を振って何度も頷いた。
「では、俺はもう行く。しばらく森に潜伏するつもりだ」
「へ? え? ロベルトさんっ?」
潜伏という言葉に慌てて理由を聞こうとした時には、彼はすでに立ち去っていた。その足の速さに驚き、フィオナは唖然とする。
「いったいどういうことなんだろう。そんなにセシリア様が苦手なのかしら。ねえ、あなたは何か知ってる?」
籠の中の鳩に聞いてみても、鳩はただクルルゥと鳴いて、首を傾げるだけだった。
*
その日の夕方、セシリアは領主館の客室にいた。黄緑色の壁紙が貼られ、家具は白で統一された女性らしく華やかな部屋だ。
「まったく、ロベルトときたら失礼すぎますわ! 何も全力で逃げなくてもいいじゃないの」
ハーシェルから咎められたことも面白くないが、何より五年ぶりに帰郷したというのに、生まれた時からの付き合いである自分を徹底的に避けるロベルトに腹が立つ。
セシリアはティーカップに手を伸ばし、紅茶を飲んで気分を落ち着かせようとした。だが同時にハーシェルの「ロベルトを苛めている」という台詞を思い出し、思わず言い訳のような言葉を口にする。
「わたくし、ロベルトを苛めたことなんてありませんわ。修業です、修業! ねえ、マリアンもそう思うでしょう?」
セシリアは、茶器を載せたカートのそばに立つ侍女マリアンを見た。彼女は三つ編みにした茶色の髪を揺らして首を傾げていた。やがてセシリアの問いを理解したのか、眼鏡の奥の目を見開く。
「え、あれは苛めではなかったのですか?」
「なっ!」
そう問い返され、セシリアは絶句した。
まさか自分の乳母の娘であり、一番信頼しているマリアンにまでそう言われるとは思っていなかった。セシリアは昔から、マリアンの言うことにだけは耳を傾けるのだ。
そんなに非道な真似をしただろうかと過去を振り返ってみたが、やはり修業だったとしか思えなかった。
考え込む主人に、マリアンは落ち着いた声で説明する。
「お嬢様が修業だと思われていたことは理解していますが、さすがにナイフと弓矢だけを渡して熊を狩って来いと命令された時は、ロベルトのことが嫌いなのかと思いました。……まあ結果として、ロベルトは本当に狩って来てしまったわけではありますが」
「何故、あの時にそう言わなかったの?」
「申し上げましたよ。あまりに危険なのでやめた方が良いと。ですが、お嬢様は聞く耳をお持ちではありませんでした」
それは責めるような物言いでも表情でもなかったのだが、セシリアは少し反省してうなだれた。
マリアンは変わらず淡々と続ける。
「まあ、ロベルトは機転が利きますから、熊を崖に追い込んで落とすという手段を思いついたようですけど。熟練の猟師ならともかく、普通は熊狩りなど一人でするものではありません。猟師とて、一人であれば狩猟犬を連れて行きます」
「わ、分かっていてよ。当時のわたくしが浅はかだったのです」
「そうでございますね」
マリアンは遠慮なく言った。ぐっと詰まるセシリアに、更に畳み掛ける。
「あんまり可哀想でしたので、私はロベルトの逃亡を何度か手助けいたしました。そのことはお詫びいたします」
「そうでしたの?」
「はい。だってお嬢様、ロベルトはただでさえ無愛想な子どもでしたのに、どんどん無表情になっていくんですよ? しかもセシリアお嬢様のお名前を聞くだけで、青くなって逃げ出す始末。幼馴染としては、とても見ていられず……」
眼鏡を外し、そっと涙を拭うマリアン。
ちくちくと責められて、セシリアは気まずくなった。
セシリアにとってマリアンは、ハーシェルにとってのロベルトのような存在だ。セシリアの遊び相手として領主館で育った彼女は、使用人仲間のロベルトとも親しくしていた。だからロベルトをこっそり庇っていたと聞いても、何も不思議ではない。
マリアンも悪気があってしたわけではないのだし、今更そんな昔のことをつつく気もなく、セシリアはただ諦めたように溜息を吐いて言った。
「今更、咎めはしませんわ。とにかくロベルトを捕まえ次第、連行するよう騎士達に言いつけていますから、彼が戻ってきたらこちらに通しなさい」
「お嬢様、そのように強引なことをなさるから、ロベルトが逃げるのです。彼に限らず、殿方というのは追えば追うほど逃げたくなるものだそうですよ」
「仕方ないじゃないの。スノーエイラへ帰るまで、日にちがありませんもの」
「……窮鼠猫を噛むということわざをご存知ですか?」
「マリアン、お小言はもういいわ。ロベルトが騎士達を返り討ちにすることを心配しているのなら、それはないでしょう。そんなことをしたら我が領とのいざこざに発展しかねませんもの」
したたかな打算を口にするセシリア。
マリアンは諦めたように首を振り、溜息を吐く。
その時、コンコンと扉がノックされた。
「セシリー、私だ。少し話があるのだが」
「シェディールお兄様? どうぞ、お入りになって」
予定外の訪問だったが、セシリアは気にせず部屋に招いた。
「失礼するよ」と断ってから客室へ入ったシェディールは、セシリアの向かいの長椅子に座る。
マリアンは手早く紅茶を淹れ、彼の前にカップを置いた。
「どうしましたの、お兄様。今日は晩餐でお会いする予定でしたでしょう?」
話があるならその席ですればいいのにと言いたげなセシリアに、シェディールは苦笑した。
「いや、君が彼女と会う前に、忠告しておこうと思ってね」
「彼女?」
シェディールは長椅子の背にゆったりともたれ、長い足を組む。
「そう。昨日ハーシェルの婚約の話をしただろう?」
「ええ」
セシリアは頷いた。
「例のアイシス嬢が、ハーシェルの正式な婚約者になったのでね、彼女には屋敷に行儀見習いに来てもらうことになったんだよ。週に三日、妻のヨランダと侍女頭が指導している。実は、今日も来ているんだ」
「まあ」
セシリアは青い目を煌めかせた。
「それは、是非お会いしたいですわ」
「そう言うと思ったから、ここに来たんだよ」
シェディールの話は回りくどくて要領を得ない。セシリアは柳眉をひそめた。
「何をおっしゃりたいんですの、お兄様」
「簡単なことだよ。アイシス嬢に一人で会ったり、呼び出したりするのはやめておきなさい。彼女は平民で、君は貴族。ただでさえ平民は萎縮してしまうのに、婚約に反対してる君が一人で行ったら、脅しているのと変わりがない」
「それで〝忠告〟ですか」
シェディールは真面目な顔で、大きく頷いた。
どうやら、彼はハーシェルの味方のようだ。
「もしアイシス嬢に会いたいなら、ヨランダかハーシェルを通すように。君は不服だろうが、ハーシェルに関わることは、この領の問題でもある。ハーシェルは次男とはいえ、私に何かあったら領主家を継ぐことになるのだからね。君から見れば、浮わついて頼りない兄なのだろうけど、ハーシェルはハーシェルで苦労しているんだ。最愛の人と結婚したいというなら、それくらいの望みは叶えてあげようではないか」
「……わたくしはあくまで反対ですが、お兄様のおっしゃりたいことは分かりました」
ハーシェルの婚約が彼だけの問題にとどまらないことはセシリアも理解している。
だがセシリアには、ハーシェルが次男坊の立場を気楽なものととらえ、恋愛にうつつをぬかしているようにしか見えなかった。その割に学業も武芸もそつなくこなす器用さがある。それがセシリアには昔から悔しくてたまらない。自分が男に生まれていれば、もっと家のために働くのに。
しかしそれは叶わない話だし、今は他家に嫁いだ身だ。たとえ故郷のことだろうと、よその領地の問題に口を突っ込むべきではない。
(まあ、それでもハーシェルお兄様の婚約には反対ですし、婚約者に会わせてもらいますけど)
あのハーシェルが婚約を望んだアイシス・トレーズとはいったいどんな娘なのだろうと、セシリアは単純に興味があるのだ。
次いでハーシェルは、妹の計画をあっさり否定した。
「無理だと思うよ。だって彼、この街の女性と婚約したからね」
「そのお話、シェディールお兄様からもお聞きしましたわ」
些末なことというふうに、セシリアは扇子で軽く扇ぎながら言う。
「どうせ、大した娘ではないのでしょう? それに、あの無愛想では、すぐ振られてお仕舞いに決まってましてよ」
「それが、かなりの美人なんだよね。大変な恥ずかしがり屋で対人恐怖症なのに、ロベルトのことは怖がらないんだよ。面白いだろう?」
ハーシェルが楽しげに語るのを聞き、セシリアは思い出したという様子で身を乗り出した。
「そういえば、お兄様も平民と婚約したと聞きました。本当なのですか? しかも、ロベルトの婚約者の妹だとか」
「ああ、その通りだよ。アイシス・トレーズ嬢というんだ。とても可愛らしくて、元気で明るい良い娘だよ。そうそう。この間のデートの時なんて……」
ここぞとばかりに始まったハーシェルののろけ話を、セシリアはテーブルを叩くことでぶった切った。
「そんな浮わついた話、聞きたくありませんわ! わたくしは、その婚約には大反対でしてよ!」
「ええ、どうして? 兄上は喜んでくれたのになあ」
ハーシェルはセシリアの怒りを飄々と受け流し、不思議そうな顔をした。
セシリアは長椅子に深く座り直して答える。
「わたくし、身分をわきまえることは大切だと思っていますの。昔から、身分違いの恋は悲劇を生むものです。お兄様、あなたは貴族の生まれですし、男ですからまだよろしいですわ。ですが、もしお兄様の気持ちが離れた時、その娘に待っているのは辛い現実でしてよ。血の繋がった兄のせいで朽ちていく花など、見たくありませんわ」
口調は冷たいが、セシリアは平民であるアイシスを気遣っているようだった。
ハンスはその言葉を聞き、気性が激しいだけのお姫様ではないのだなと感心する。
セシリアの侍女も、彼女に同意するように頷いていた。
「そんな心配は無用だよ、セシリー。僕には生涯アイシス嬢だけだって確信しているからね」
ハーシェルは真剣な顔で、歯の浮くような台詞を口にした。
だがセシリアにはふざけているように聞こえたらしく、再び眉を吊り上げる。
「ハーシェルお兄様の〝絶対の愛〟なんて、全く信用できませんわ! 子どもの頃から、女性を見ればふわふわフラフラしていましたもの。そういう殿方が、妻の妊娠中に浮気したりするんですわ!」
女性特有の鋭い切り口でもって、セシリアはハーシェルの言葉を全否定した。
「今すぐ別れた方が、その娘のためです!」
とどめを刺され、さしものハーシェルも顔を強張らせた。
「僕は浮気なんかしない。彼女のことは本気なんだ。セシリー、君は僕のことをどれだけ知っているっていうんだい? 憶測でそこまで言い切るのはやめてくれないか」
ハーシェルの声には、静かな怒りが満ちていた。
ハンスは青ざめ、逃亡したいあまりにちらちらと扉を見てしまう。
視界に入ったセシリアの侍女も、同様に青い顔をしていた。
しかしセシリアはつんと顎を上げ、ハーシェルを真っ向から睨み返している。
それでもハーシェルは淡々と続けた。
「それにね、君の許可なんか必要ないよ、セシリー。僕は自分の選んだ人をお嫁さんにするからね。せっかく次男という気楽な立場に生まれたんだから、好きに生きるって決めているんだ」
「そういう軽薄な態度が、領主家の品位を落とすんですわ!」
「人の心配をしている暇があったら、嫁ぎ先に帰って君の愛する旦那の補佐をしていなさい」
「余計なお世話です! とにかく、ロベルトは絶対に連れ帰りますから!」
ハーシェルとセシリアは、無言で睨み合った。
ハンスは、頼むから帰らせて下さいと心の中で懇願する。
やがて、セシリアは右斜め後ろに立つ女性騎士をキッと振り返った。
「エルネ! 部下達に命じて、ロベルトを探し出すのです! わたくしも出ます!」
「はっ、セシリア様!」
女性騎士は、両足を揃えて右の拳を左胸に当てると、即座に執務室を出て行く。
(何だ、この軍隊みたいなノリ……)
ハンスは静かに閉まる扉を唖然と見つめる。その後ふとハーシェルに視線を戻し、息を呑んだ。
彼は、ものすごく剣呑な目つきで女性騎士の出て行った扉を見ていたのだ。
ハーシェルはセシリアに向かって呆れたように言う。
「いつだって君は力ずくだよね。僕はそういうスマートじゃないやり方は嫌いだよ」
するとセシリアは扇子で口元を隠し、ドレスの裾を揺らして席を立った。そして横目でちらりと兄を見る。
「わたくし、お兄様のように気が長くありませんの。では、失礼」
そう言って、侍女とともに退室した。
彼女が立ち去った室内は、しんと静まり返る。
(うっわ、気まずっ)
ハンスは部屋の隅で直立不動のまま、この気まずさをどうしようかと思っていた。常に飄々としているハーシェルが、今は見たことがないような冷たい目をしている。まるで別人だ。
やがてハンスが困惑しているのに気付いたのか、ハーシェルが表情を緩めて苦笑した。
「ああ、妹とは仲が悪いわけじゃないんだよ? ちょっと意見が合わないだけなんだ」
「はあ……」
「妹は、あの通り気が強くってねえ。それに加えて男勝りに武芸も好むし、政治への関心も強いんだ」
「すごいですね。貴族のお嬢様というのは、そういうものなのですか?」
ハンスが恐る恐る問うと、ハーシェルは目を丸くした後、笑い出した。
「そんな、まさか! あれは稀少な例だよ。安心して夢を見ていなさい。――あ、でもさっきので壊れてたらすまないね」
ハーシェルは、謝りながらも楽しそうに言う。だがすぐに笑みを消して顎に手を当て、苦い顔をした。
「セシリーはね、スノーエイラ領に嫁いだんだよ」
「スノーエイラというと、西にある小さな領地ですか? 周辺の領地とのいざこざが絶えず、盗賊なども多いっていう……」
ハンスが噂を思い出して尋ねると、ハーシェルは頷いた。
「そう。小さな領地の割に、土地が豊かなものだからね。加えて隣接するうちの一つが敵国の領地だし、周囲は他も貧しい領地ばかりなんだ。妹はあの通りの性格だろう? 正直、あんな血の気が多い娘を嫁にくれという物好きはいないだろうと、僕も兄上も思っていたんだ。けど、スノーエイラの領主が是非うちに来てくれって言ってね。セシリーは嬉々として嫁いでいったよ」
「そうなんですね……」
ハンスは、領主家にまつわる新事実を知って、諦めたように呟いた。
警備団に入ってからというもの、ハーシェルをはじめ領主家の人達は変わっているのではないかと疑っていた。きっと気のせいだと自分に言い聞かせてきたけれど、そろそろ無理がある。
「ちなみに、話を聞いてて分かったと思うけど、ロベルトが〝鉄仮面〟になっちゃった原因は妹だよ。君はロベルトに付いてるんだから、よく覚えておいて。逃亡の手助けもしてやってね」
「え、よろしいんですか?」
「うん。うちの妹もいい加減、思い通りにならないこともあるって知るべきだからね」
ハーシェルから輝くような笑みを向けられ、ハンスは思わずぶるっと震えた。そして、やはり本当は兄弟仲が悪いのではないかと思うのだった。
*
――お姫様は、騎士が守ってくれるんだって。だからロベルトは騎士になって、お兄様達と私を守ってね。
ロベルトが八歳の頃、童話を読み終えたセシリアが、可愛らしく微笑みながらそう言った。
自分のことだけでなく兄達のことも守るように言ったので、ハーシェルも隣で嬉しそうに笑っていた。その頃のセシリアはハーシェルにべったりだった。だから彼もそんな妹を可愛がり、面倒をよく見ていたのだ。
ロベルトもまた、思いやり溢れるセシリアの言葉に笑みを浮かべていた。昔から表情が乏しかった彼だが、当時はまだそれなりに感情を表現できていたのだ。
お姫様の可愛らしい頼みに「もちろんです」と答え、ロベルトは剣の訓練に身を入れた。
――ロベルト、あの童話の騎士みたいに強くならなくては駄目よ。弱虫なんかいらないの。だから修業よ、修業!
ロベルトが十一歳になる頃、セシリアはお姫様ではなく騎士に憧れるようになった。何と、ロベルトを叱咤激励するようになったのだ。
ロベルトは、その期待に応えようと頑張った。子どもながらにハーシェルの従者として、領主家の人々を守りたいと思っていたからだ。
やがて、何かおかしいような気がしてきた。セシリアは、次第に無理難題を課してくる。それでもロベルトは、強くならないと屋敷を追い出されるかもしれないという不安もあり、黙々と従っていた。
だが時に死ぬような目に遭わされているうちに、セシリアのことを「可愛らしいお姫様」でなく「恐ろしいお嬢様」と思うようになったロベルトは、彼女から逃げ回り始めた。
そのような日々の中で、ロベルトの顔からは表情がどんどん失われ、ついには街の人々から〝鉄仮面〟とあだ名されるまでになったのである。
封印したい過去を思い出して青ざめながら自宅に戻ったロベルトは、まっすぐクローゼットに向かった。
両開きの扉を勢いよく開け、セシリアからいつでも逃げられるようにと常備している鞄を取り出す。彼女が遠い地に嫁いでも、油断しなかった自分を褒めたい。
ロベルトは黒い外套を羽織り、鞄を背負って家を出ようとした。
その時、ふと思いついて庭へ行く。
そこで飼っている鳩を一羽、小さな鳥籠に入れて携えると、今度こそ家を出た。
*
「あとちょっとで完成ね」
ロベルトが逃亡の支度を整えている頃、フィオナは自室で趣味の裁縫をしていた。
青色のリボンに、白い糸で花を刺繍していく。妹のアイシスのために作っているハンドバッグに、飾りとしてつける予定のものだ。
「次はいつお会い出来るかしら」
機嫌良くさくさくと縫いながら、フィオナは口元に笑みを浮かべて呟いた。今度はもっと長く一緒に過ごせたらいいと思うが、外は寒いので、長時間出歩くのは無理そうだ。
(いっそのこと、夕食にお招きしようかしら)
特に父ノルマンは、フィオナがロベルトと交際していることを喜んでいる。笑顔で迎え入れるのではないだろうか。
楽しい計画を頭の中で立てていると、ふいにカシャンという音がした。
「……?」
驚いてパッと顔を上げたフィオナは、目の前の窓ガラスに小さな石が当たるのを見た。
立ち上がって窓の下を見れば、家の前の通りにロベルトが立っていた。彼は一生懸命トレーズ家の裏庭を指し示している。
「どうなさったのかしら」
なにやら周囲を気にしている様子から、ただ事ではない気配がする。フィオナは針を針山に刺してリボンを机に置くと、すぐに裏庭へ向かった。
「ロベルトさん? いったいどうし……」
フィオナが声をかけると、彼は「しーっ」と言いながら口元に人差し指を立てた。
パッと両手で口を覆ったフィオナは、しきりに辺りを警戒しているロベルトを怪訝に思いつつ、小走りに駆け寄った。
そして、今度は小さな声で問う。
「どうしたんですか? 表から訪ねて下さればいいのに。お茶をお出ししますから、中へどうぞ」
「申し訳ない、フィオナ殿。その誘いには心惹かれるが、今は時間がない。可及的速やかに用事を済まさねばならんのだ」
真面目な顔で意味不明なことを口にし、ロベルトは手にしていた鳥籠をフィオナに渡した。
つい受け取ってしまったフィオナは、きょとんとして籠の中の鳩を見る。
すると、鳩はくりくりっとした赤い目で見つめ返してきた。
(どうして鳩?)
やっぱり意味が分からない。
それに、ロベルトの服装もだ。まるでこれから旅に出るといわんばかりの格好である。
彼は声をひそめて言う。
「実は今、セシリアお嬢様がこの領にお戻りになっているんだ」
「セシリアお嬢様?」
どこかで聞いた名前だ。籠を抱えたまま、フィオナは小首を傾げた。
「ハーシェルの妹君だよ。五年前に西の辺境スノーエイラ領に嫁がれたが、名前くらいは聞いたことがあるだろう?」
そこまで説明されて、やっと思い出した。領主のシェディールには弟のハーシェルの他に、妹のセシリアがいるのだ。とても美しい姫君だと昔から評判で、フィオナが小さい頃は人形遊びをする時、お姫様役の人形にセシリア姫と名付けるのが流行った。
「ああ、あのセシリア様ですね。ですが、セシリア様が戻られたことが、この鳩にどう関係するのですか?」
「セシリアお嬢様は、ハーシェルとあまり仲がよろしくなくてな。おそらくハーシェルが己の立場をわきまえず、一般市民と婚約したのが不満で、アイシス殿に直接ハーシェルとの婚約を取り消すよう忠告するはずだ。そして、俺の婚約者であるフィオナ殿にも」
「え? 私にですか?」
それはロベルトがハーシェルの従者だったからだろうか。だが、貴婦人が元使用人の婚約者にわざわざ会いたがるものだろうか。
首を傾げるフィオナの目を、ロベルトがじっと見つめた。
フィオナは恥ずかしさから、頬を赤くする。
「何か問題が起きたら、この鳩に手紙を括り付けて空に放してくれ。絶対に駆け付ける」
「は、はい……」
ロベルトに真剣な顔で言われ、フィオナはぶんぶんと頭を振って何度も頷いた。
「では、俺はもう行く。しばらく森に潜伏するつもりだ」
「へ? え? ロベルトさんっ?」
潜伏という言葉に慌てて理由を聞こうとした時には、彼はすでに立ち去っていた。その足の速さに驚き、フィオナは唖然とする。
「いったいどういうことなんだろう。そんなにセシリア様が苦手なのかしら。ねえ、あなたは何か知ってる?」
籠の中の鳩に聞いてみても、鳩はただクルルゥと鳴いて、首を傾げるだけだった。
*
その日の夕方、セシリアは領主館の客室にいた。黄緑色の壁紙が貼られ、家具は白で統一された女性らしく華やかな部屋だ。
「まったく、ロベルトときたら失礼すぎますわ! 何も全力で逃げなくてもいいじゃないの」
ハーシェルから咎められたことも面白くないが、何より五年ぶりに帰郷したというのに、生まれた時からの付き合いである自分を徹底的に避けるロベルトに腹が立つ。
セシリアはティーカップに手を伸ばし、紅茶を飲んで気分を落ち着かせようとした。だが同時にハーシェルの「ロベルトを苛めている」という台詞を思い出し、思わず言い訳のような言葉を口にする。
「わたくし、ロベルトを苛めたことなんてありませんわ。修業です、修業! ねえ、マリアンもそう思うでしょう?」
セシリアは、茶器を載せたカートのそばに立つ侍女マリアンを見た。彼女は三つ編みにした茶色の髪を揺らして首を傾げていた。やがてセシリアの問いを理解したのか、眼鏡の奥の目を見開く。
「え、あれは苛めではなかったのですか?」
「なっ!」
そう問い返され、セシリアは絶句した。
まさか自分の乳母の娘であり、一番信頼しているマリアンにまでそう言われるとは思っていなかった。セシリアは昔から、マリアンの言うことにだけは耳を傾けるのだ。
そんなに非道な真似をしただろうかと過去を振り返ってみたが、やはり修業だったとしか思えなかった。
考え込む主人に、マリアンは落ち着いた声で説明する。
「お嬢様が修業だと思われていたことは理解していますが、さすがにナイフと弓矢だけを渡して熊を狩って来いと命令された時は、ロベルトのことが嫌いなのかと思いました。……まあ結果として、ロベルトは本当に狩って来てしまったわけではありますが」
「何故、あの時にそう言わなかったの?」
「申し上げましたよ。あまりに危険なのでやめた方が良いと。ですが、お嬢様は聞く耳をお持ちではありませんでした」
それは責めるような物言いでも表情でもなかったのだが、セシリアは少し反省してうなだれた。
マリアンは変わらず淡々と続ける。
「まあ、ロベルトは機転が利きますから、熊を崖に追い込んで落とすという手段を思いついたようですけど。熟練の猟師ならともかく、普通は熊狩りなど一人でするものではありません。猟師とて、一人であれば狩猟犬を連れて行きます」
「わ、分かっていてよ。当時のわたくしが浅はかだったのです」
「そうでございますね」
マリアンは遠慮なく言った。ぐっと詰まるセシリアに、更に畳み掛ける。
「あんまり可哀想でしたので、私はロベルトの逃亡を何度か手助けいたしました。そのことはお詫びいたします」
「そうでしたの?」
「はい。だってお嬢様、ロベルトはただでさえ無愛想な子どもでしたのに、どんどん無表情になっていくんですよ? しかもセシリアお嬢様のお名前を聞くだけで、青くなって逃げ出す始末。幼馴染としては、とても見ていられず……」
眼鏡を外し、そっと涙を拭うマリアン。
ちくちくと責められて、セシリアは気まずくなった。
セシリアにとってマリアンは、ハーシェルにとってのロベルトのような存在だ。セシリアの遊び相手として領主館で育った彼女は、使用人仲間のロベルトとも親しくしていた。だからロベルトをこっそり庇っていたと聞いても、何も不思議ではない。
マリアンも悪気があってしたわけではないのだし、今更そんな昔のことをつつく気もなく、セシリアはただ諦めたように溜息を吐いて言った。
「今更、咎めはしませんわ。とにかくロベルトを捕まえ次第、連行するよう騎士達に言いつけていますから、彼が戻ってきたらこちらに通しなさい」
「お嬢様、そのように強引なことをなさるから、ロベルトが逃げるのです。彼に限らず、殿方というのは追えば追うほど逃げたくなるものだそうですよ」
「仕方ないじゃないの。スノーエイラへ帰るまで、日にちがありませんもの」
「……窮鼠猫を噛むということわざをご存知ですか?」
「マリアン、お小言はもういいわ。ロベルトが騎士達を返り討ちにすることを心配しているのなら、それはないでしょう。そんなことをしたら我が領とのいざこざに発展しかねませんもの」
したたかな打算を口にするセシリア。
マリアンは諦めたように首を振り、溜息を吐く。
その時、コンコンと扉がノックされた。
「セシリー、私だ。少し話があるのだが」
「シェディールお兄様? どうぞ、お入りになって」
予定外の訪問だったが、セシリアは気にせず部屋に招いた。
「失礼するよ」と断ってから客室へ入ったシェディールは、セシリアの向かいの長椅子に座る。
マリアンは手早く紅茶を淹れ、彼の前にカップを置いた。
「どうしましたの、お兄様。今日は晩餐でお会いする予定でしたでしょう?」
話があるならその席ですればいいのにと言いたげなセシリアに、シェディールは苦笑した。
「いや、君が彼女と会う前に、忠告しておこうと思ってね」
「彼女?」
シェディールは長椅子の背にゆったりともたれ、長い足を組む。
「そう。昨日ハーシェルの婚約の話をしただろう?」
「ええ」
セシリアは頷いた。
「例のアイシス嬢が、ハーシェルの正式な婚約者になったのでね、彼女には屋敷に行儀見習いに来てもらうことになったんだよ。週に三日、妻のヨランダと侍女頭が指導している。実は、今日も来ているんだ」
「まあ」
セシリアは青い目を煌めかせた。
「それは、是非お会いしたいですわ」
「そう言うと思ったから、ここに来たんだよ」
シェディールの話は回りくどくて要領を得ない。セシリアは柳眉をひそめた。
「何をおっしゃりたいんですの、お兄様」
「簡単なことだよ。アイシス嬢に一人で会ったり、呼び出したりするのはやめておきなさい。彼女は平民で、君は貴族。ただでさえ平民は萎縮してしまうのに、婚約に反対してる君が一人で行ったら、脅しているのと変わりがない」
「それで〝忠告〟ですか」
シェディールは真面目な顔で、大きく頷いた。
どうやら、彼はハーシェルの味方のようだ。
「もしアイシス嬢に会いたいなら、ヨランダかハーシェルを通すように。君は不服だろうが、ハーシェルに関わることは、この領の問題でもある。ハーシェルは次男とはいえ、私に何かあったら領主家を継ぐことになるのだからね。君から見れば、浮わついて頼りない兄なのだろうけど、ハーシェルはハーシェルで苦労しているんだ。最愛の人と結婚したいというなら、それくらいの望みは叶えてあげようではないか」
「……わたくしはあくまで反対ですが、お兄様のおっしゃりたいことは分かりました」
ハーシェルの婚約が彼だけの問題にとどまらないことはセシリアも理解している。
だがセシリアには、ハーシェルが次男坊の立場を気楽なものととらえ、恋愛にうつつをぬかしているようにしか見えなかった。その割に学業も武芸もそつなくこなす器用さがある。それがセシリアには昔から悔しくてたまらない。自分が男に生まれていれば、もっと家のために働くのに。
しかしそれは叶わない話だし、今は他家に嫁いだ身だ。たとえ故郷のことだろうと、よその領地の問題に口を突っ込むべきではない。
(まあ、それでもハーシェルお兄様の婚約には反対ですし、婚約者に会わせてもらいますけど)
あのハーシェルが婚約を望んだアイシス・トレーズとはいったいどんな娘なのだろうと、セシリアは単純に興味があるのだ。
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