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1巻
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怖い。なにこの絵本の中の王子様みたいな人。眩しくて同室にいるのも居たたまれなくなる。
「おや、僕のことを知ってるのかい?」
白い歯をきらりと輝かせ、笑みを浮かべるハーシェルに、アイシスは何度も頷く。
「ええ、もちろんです! この街でハーシェル様のことを存じ上げない娘なんて一人もいませんわ。申し遅れました。私、アイシス・トレーズと申します。それからこちらは、姉のフィオナ・トレーズです」
「ああ、トレーズ商会の所の娘さんか。しかもその姉ってことは……。へえ。じゃあ、君が噂の〝目隠し姫〟? 本当に目を隠してるんだなあ」
じろじろと見られて、ますます居心地が悪くなって縮こまる。
「わ、私のような醜い者は、隠れている方がいいのです。領主様のご子息の目にさらすものではありませんっ」
フィオナは小声ながらも、そうきっぱりと言い切った。
うう。自分で言った言葉だけど、ちょっと泣きそう。
フィオナがしょんぼりしたのを見て、アイシスのまとう空気が厳しいものに変わる。
「恐れながら申し上げます、ハーシェル様。女性の見た目について軽々しく口にするものではありません」
綺麗な少女に睨まれて、ハーシェルは頭をかいた。
「これはこれは。申し訳ありませんでした、ご婦人方。噂に翻弄されるなど、警備をあずかる者として恥ずべき行為でしたね。許していただけるとありがたいのですが……」
ちらっとハーシェルが窺うようにこちらを見るので、フィオナはぶんぶんと首を縦に振った。アイシスも睨むのをやめて、穏やかに微笑む。
「姉は許すそうですわ。もちろん、私も」
「それはありがたい」
ハーシェルは胸に手を当て、気障ったらしい礼をした。
フィオナは更に恐縮して、あわあわとアイシスを盾にする。どうせアイシスはハーシェルに見惚れているだろうから、盾にされても気にしないだろう。
「あ、あの。お忙しいようなので、この辺で失礼します。本当にありがとうございました。……行きましょ、アイシス」
「え? ええ……。お邪魔しました。ハーシェル様、お会い出来て光栄でした」
「こちらこそ、麗しいレディー」
やや不満そうだったが、素直に頷いたアイシスに、ハーシェルは片目をつぶってみせた。途端にアイシスはぼっと頬を赤らめる。
フィオナは夢でも見ているかのようにぼんやりするアイシスを引っ張り、そそくさと部屋を後にした。
*
「隅に置けないなあ、ロベルト。いつの間にトレーズ商会の姉妹と知り合ったんだい?」
「三日ほど前に、街で具合が悪そうにしていたので、家まで送り届けただけだ」
ロベルトとハーシェルは乳兄弟であり親友でもあるので、公の場以外では敬語を使わずに話す。そうしないとハーシェルが嫌がるのだ。
ロベルトは、先程フィオナが渡してくれた籠をちらりと見た。
そういえば、菓子と言っていたがどんなものだろう。ずっと書類仕事をしていたので、ちょうど糖分が欲しいと思っていたところだ。籠の中身を見ると、黄色い布の包みと走り書きされたメモが入っていた。
〝小腹が空いた折にでもお召し上がり下さい。甘いものが苦手でしたら、どなたかに差し上げて下さい〟
綺麗な字でそう書かれている。いったい何が入っているのかと布の包みを開ければ、両手で抱える程の大きさの丸い籠と同じサイズのアップルパイが入っていた。それも五枚も。
「へえ、ちなみにどっちを助けたんだい?」
ハーシェルが興味津々に聞いてくるのを、ロベルトはどうしてそんなことを訊くのかというように、やや首を傾げて見た。
「姉の方だ。――ああ、ハンス、茶を用意してくれないか。君の分も」
「分かりました、副団長」
「僕の分もよろしくね」
「……かしこまりました、団長」
そう事務的に返事をし、ハンスが執務室を出ていく。
「なんだ、〝目隠し姫〟の方か。てっきり、春の女神のようだと言われている妹の方かと思ったよ」
「その〝目隠し姫〟というのはなんだ? それに、そんなにあの姉妹は有名なのか?」
ロベルトの問いに、ハーシェルは頷く。
「有名だとも。姉の方は、あまりの醜さに前髪を伸ばして顔を隠しているため、〝目隠し姫〟と揶揄されているらしい。反対に妹の方は、その可憐な容姿のために求婚者が後を絶たないとか。妹に近付くために姉に見合い話を持っていく輩もいるようで、父親や妹がそれをはねのけているらしい。極めて姉妹仲が良いようだね」
ロベルトは先程の二人の様子を思い出した。
フードを目深に被り、前髪で鼻の上まで隠した姉が、おどおどと妹に寄りそっている様子を。そして目隠し姫と呼んだハーシェルに、妹が憤然と抗議する様子を。
街の者達の口さがない言いようや、知っていてあだ名を口にするハーシェルの言葉を聞くと同情が湧いてくる。最初は、他の人間と同様に、自分の無愛想な態度に怯えているのだと思っていたが、それが極度の人見知りのせいだったと知れば尚更だ。それに、よくよく考えてみれば、心根のいい娘だ。怖がっていても礼をきちんと言い、後日こうして改めて礼にやって来るのだから。更に言えば、自分よりもハーシェルに声をかけられた時の方が怯えていたのが、小気味よかったのもある。普段なら逆だ。
「ハーシェル、女性をそんなあだ名で呼んでやるな。仮にも女扱いに長けていると言うなら、余計にな」
「仮にもってなんだい、ロベルト。本当のことだよ」
にやっと笑うハーシェル。
その傲岸不遜な、けれど女性に騒がれる綺麗な顔立ちを一瞥して、ロベルトは溜息をつく。実際、女にもてるので反論出来ない。
そこへ、ハンスが茶器と皿を載せた盆を持って戻って来た。盆をロベルトの机に置くと、すぐにまた出て行き、今度は椅子を一脚持ってくる。
「どうぞ、団長」
「ありがとう、ハンス」
ハーシェルは礼を言って椅子に座ると、ハンスの注いでくれた茶をおいしそうに飲んだ。
一方、ロベルトはハンスが持ってきた皿にアップルパイを載せ、それぞれに配る。そして、茶を飲んでからアップルパイを口に運ぶと、驚きのあまり目を丸くした。
表情が読みとりにくい上司の珍しい変化に、ハンスは警戒してロベルトを凝視する。
「どうかしましたか、副団長。まさか毒でも入って……」
「……美味い」
「鉄の表情が変わるくらい、おいしいんですか?」
心配は杞憂に終わったものの、今度は思わず口から失礼な言葉がついて出るくらいにハンスは驚いた。ロベルトはあまり味に頓着しないタイプなのだ。
ロベルトはあえて聞き流し、顎をしゃくる。
「食べてみろ」
「はいっ。では失礼して」
立ったまま、むしゃりと遠慮なくがっついたハンスは、その姿勢のままぴたりと動きを止めた。青い目に涙が浮かぶ。
「お、おいしいぃぃっ!」
そしてもの凄い勢いで完食すると、感極まったように騒ぎ立てる。
「なんなんです、これは! こんなおいしいパイ、初めてですよっ! 風見鳥亭のものよりおいしいだなんて!」
風見鳥亭というのは、警備団本舎から近い場所にあり、地元でもおいしいと評判の食堂だ。警備団の敷地内には食堂がないので、ほとんどの団員が愛用している。
「本当だ。これは美味い。姉がこの技量なら、妹殿もさぞかし上手なのだろうな」
ハーシェルも驚いた顔をして、何やら一人うんうんと頷いている。
先程からやたら姉妹の話をするハーシェルを、ロベルトはうろんな顔で見やる。
「お前、もしや……」
「なんだい、ロベルト。綺麗な女性を見かけたら、声をかけるものだろう」
つまり、妹の方にちょっかいをかける気満々らしい。
まあ、彼は一週間前に恋人と別れたはずだから、障害はないだろうが……
「子ども相手に……」
「彼女は十六だよ。結婚適齢期。問題ない」
そう言って、楽しげに笑うハーシェル。
「ほどほどにしておけよ。トレーズ商会を怒らせると、領主家が困るだろう」
「分かってるよ」
……本当に分かっているのだか。
ロベルトはアップルパイを咀嚼しながら、アイシスがハーシェルの魔の手から逃げ切れることを祈った。
が、恐らく無駄なのだろう。ハーシェルを見た時の彼女の態度は、完全に恋している娘そのものだったから。
*
「きゃあああ、姉さん姉さん! 聞いて聞いてーっ!」
黄色い悲鳴を上げながら、どたばたと階段を駆け上がってきたアイシスは、フィオナの部屋の扉を勢いよく開けた。
(また、ハーシェル様のことかしら)
フィオナはそう予想して、裁縫の手を止めると、体ごと扉の方を向く。
今日はハンカチに趣味の刺繍をしていて、あと少しで終わるところだった。
焦げ茶色をベースにしたフィオナの部屋には、ベッドと机と椅子、それから本棚に箪笥、クローゼットが置いてある。あとは、あちこちに花や、フィオナが自分で作った小物が飾られていて、女性らしい雰囲気を醸し出していた。ここはフィオナの安全地帯であり、憩いの空間だ。
アイシスもそれなりに料理や裁縫は出来るが、フィオナ程ではない。だから、時々アイシスに頼まれてぬいぐるみや小物を作ったり、アイシスの誕生日にはフィオナお手製の服やアクセサリーをプレゼントしていた。今は夏服を頼まれていて、部屋の隅には、作りかけのワンピースをかけたトルソーがある。
アイシスはフィオナの作る服のことを、その辺の仕立屋よりセンスがあって素敵だと言ってくれる。それが嬉しくて、ついつい手をかけて作ってしまうのだ。それに可愛らしい妹に可愛らしい服を着て欲しいという姉心もある。……ややシスコン気味なのは自分でもよく分かっていた。
「これ見て! ハーシェル様がくださったの! 今度、一緒にお食事しませんか? ですって。いやぁぁぁ!」
部屋に入ってきてフィオナに花束を見せた後、アイシスは興奮のあまりその花束を抱きしめて、身をよじって叫ぶ。
嬉しいのか嫌なのかどっちなんだろう。
「花をくださったって……まさかここまでいらしたの?」
「ええ! 店にわざわざいらして、花束を片手にデートの申し込みをして下さったのよ。素敵だわ。今日は嬉しすぎて眠れないっ」
まあ、それだけ興奮していれば確かに眠れないだろう。
きゃあきゃあと浮かれているアイシスに、フィオナは確認をとる。
「それで、いつデートに行くの?」
「明後日よ!」
「良かったわね、アイシス」
「うん! ありがとう、姉さん!」
アイシスが喜ぶのはフィオナも嬉しいが、不安も残る。なにせ、街で浮名を流しているあのハーシェルが相手だ。平民の娘との恋愛はただの遊びと考えていたら、アイシスが傷つく可能性がある。
だが、貴族の次男という高嶺の花へ、遠くから思慕を募らせていたアイシスに、ハーシェルが目をとめたのは幸運なことだ。
(大丈夫かしら……)
もし何か悪いことが起きても、慰められるように自分も覚悟しておこう。
(明後日なら、コサージュくらいは作れるかしら)
アイシスのことだ、めいっぱいおめかししてデートに臨むだろう。そんな妹を応援したい。
フィオナの頭の中には、アイシスに似合う色のコサージュが浮かび始めていた。
裁縫箱や布地や端切れを入れた箱を覗き、考える。布は足りているけれど、糸と飾りが足りない。どうせなら飾りボタンをつけた花のコサージュにしたい。
「ちょっと買い物に行ってくるわね」
「えっ!」
くるくると回って喜びを体全体で示していたアイシスは、ぴたっと動きを止める。
「こないだ貧血になったばかりでしょ。私も一緒に行こうか?」
「大丈夫よ。今日は調子が良いから」
穏やかに言うと、しばらくフィオナの顔をじっと見てから、アイシスは頷いた。
「うん、確かに顔色はいいみたいね。それなら私は家にいるわ。今日は私が夕飯の当番だから」
「留守番よろしくね」
アイシスにそう声をかけると、フィオナは緑の外套を着て、フードを目深に被り、手に買い物籠と財布を持った。
たまに、フィオナが見本として作った品を見た客がそのまま買い取ることもあるし、その見本品を参考にして布を買うことも多いため、両親はフィオナが物作りに金をかけるのを奨励してくれていた。その分、フィオナにもお小遣いが入るし、ありがたいことだ。
準備を整えたフィオナは、トレーズ商会の隣に建つ自宅を出て街に向かった。
*
午後三時過ぎ。
夏の日差しが少し穏やかになってきた時分、ロベルトは街の見回りに出ていた。
本来なら副団長のする仕事ではないが、ロベルトは自分の目で直接街を見て回るようにしていた。普段の状況を知っていれば、緊急時にすぐ対応ができるからだ。
(しかし、暑いな……)
色の明るい服が苦手なので、黒や灰色をよく着ているのだが、暗い色は熱がとどまりやすいし、見た目にも夏向きではないとつくづく思う。
内心で、こんな日にハンカチを執務室の鞄の中に忘れてきてしまった自分の失態を呪う。
しかも、つい先ほど、メインストリートで引ったくりを一人捕まえた時に立ち回りを演じたため、とても暑い。汗だくで気持ち悪いくらいだ。
引ったくりから取り返した鞄は盗まれた女性に返し、犯人は近くを通りかかった部下に引き渡したので一段落したのだが……
「はあ……」
その時のことを思い出すと、溜息が出る。
被害者の女性がロベルトを見た時のあの顔ときたら。鞄を取り返して以後気を付けるようにと注意するロベルトに、彼女は笑顔を取り繕い損ねたのか顔を引きつらせ、話が終わるや否や礼を言ってそそくさと帰っていったのだ。
――何故だ。
ロベルトには訳が分からない。
小さい頃から、普通に話しかけているだけなのに、何故か相手に異様に怖がられるのだ。以前ハーシェルが、無表情で淡々と語るのが怪談話をしているみたいで恐ろしいと言っていたが、ロベルトにはそんなつもりは更々ない。それなのに女は強張った顔をし、子どもは急に泣き始める。お陰でロベルトは女や子どもが苦手である。その辺を歩いていた犬にまで怯えられた時は、本気でどうしようかと悩んだものだ。
その一方で、子どもを除いた男連中には、女に媚びないところが格好良いなどと慕われる。女性には努めて優しく声をかけているつもりのロベルトからすれば、そんな風に言われるのは心外だ。ハーシェルと比べれば、確かにそう見えるのかもしれないが。
そんなことを考えながら見回りを続行していると、ふとロベルトは向こう側から歩いてくる少女に気付いて足を止めた。
緑色の外套のフードを目深に被った少女。前髪のせいで、顔は鼻から下しか見えない。道の端を歩く少女は、どこか浮かれた様子で足取りも軽やかだ。
あの娘は、確か――
「アップルパイの……」
思わず名前より先にそちらを思い出したのは、致し方ないだろう。それだけあのアップルパイは、おいしかった。
ロベルトのその呟きを拾ったのか、フィオナはきょろりと周りを見回した。そして、ロベルトを認めると、ぎょっとしたように後ずさる。
「ふ、副団長さん……」
フィオナの小さな唇が、そっと言葉を紡ぐ。
小さいが、綺麗な声をしている。一般的に背の低い娘の方が良いという価値観があるが、フィオナは若干背が高めである。加えて、顔が醜いから余計に人々は騒ぐのだろうか? しかし、目が隠れているとはいえ、噂ほどとは思えない。
ハーシェルの話を思い出して、ついまじまじとフィオナを観察してしまう。そのせいで、可哀想にフィオナはすっかり顔を赤くして縮こまってしまった。そういえば人見知りするのだったと、ロベルトが思い出した時にはもう遅い。
「あ、あの、私、何かしてしまいましたか……?」
小さく、泣きだしそうな声でフィオナは問う。
警備団員に睨まれれば、一般人は何かしたのかと不安に思うだろう。
「いや、すまない。何でもない。……あのアップルパイ、おいしかった」
ロベルトは少し焦った挙句、そんなことしか付け足せなかった。
しかし、フィオナにはそれで十分だったらしい。見るからに体から緊張が抜け、ほっと息を吐く。
「お口にあって良かったです。副団長さんは見回りですか……?」
ぽそぽそと囁くフィオナ。首を傾げる動作に合わせ、緩やかにカーブを描く黒髪が揺れる。髪の黒さもあって、わずかに覗く肌の白さが際立って見えた。ロベルトも黒髪だが、肌は日に焼けているので、絶対にこんな風には見えないと思う。
「そうだ」
「副団長さんみたいな偉いお立場でも、見回りされるんですね」
「本来はする必要はないが、俺は好きで自分からしている」
「そうなんですか。副団長さんがご立派な方という噂は、本当なんですね。そんな方が見回りをして下されば街の人達も安心しますし、私も同じ街の者としても嬉しいです」
打算も何もない、心からそう思っているというような言葉だ。
「俺が見回りをすると、何故喜ぶ? 誰が見回っても同じだろう?」
ロベルトの問いに、フィオナは首を振る。
「いいえ。同じではないと思います。偉い方のそういう姿を見ると、ちゃんと街のことを考えて下さっているように思えますから」
「そ、そうか……」
真っ直ぐな言葉に、柄にもなく照れてしまう。
それならば、ハーシェルにも見回りをしてもらった方が効果的かもしれない。だが、あいつが見回りをすると、女に囲まれて仕事にならないから邪魔か。
「……買い物か?」
特に口にすることを思いつかず、なんとなく買い物籠を見て問いかける。いや、買い物籠を持っている時点で買い物しか用事はないのだろうが。
ロベルトの端的な問いに、フィオナは気分を害した様子もなく頷く。
「……はい。あの、ハーシェル様が妹と食事に行くそうなので、妹のために、コサージュを作ろうかと」
「ハーシェルが?」
「はい」
その材料の買い出しのようだが、問題はそこではない。あの男、動くにしても早すぎやしないか。あれから二日しか経っていないのに。
「妹はとても喜んでいて。……でも、少し心配です」
フィオナはやや視線を落とした。
何が心配なのかは、言わずとも分かった。ハーシェルの浮名など街の者なら誰でも知っていよう。
「そうだな。……俺も心配だ」
主に、いつかハーシェルが背後から誰かに刺されないかが。
「しかし、君は器用だな。あんな美味い菓子を作る上に、コサージュまで作るとは」
「私は、家の手伝いをするくらいしか能がありませんので……。私の家は布地商をしていますから、売る時の見本用に、ハンカチや服、それにコサージュなどのアクセサリーを作るのです。それで自然と覚えただけです」
どこか困ったようにフィオナは言う。謙遜しているというより、本気でそう思っている感じだ。
「見本になるものを作れるのなら、大したものだ」
「……ありがとうございます」
恐縮した様子で身を縮めるフィオナ。褒められ慣れていないのだろうか。
「あ、あの。これ、よかったら使って下さい……」
少し逡巡して、籠から取り出した物をフィオナが差し出す。
「汗を、その、たくさんかかれているようですから……」
見れば、白い木綿のハンカチだ。オウムを模したと思われる、見事な鳥の刺繍が緑の糸で施されているのが見えた。
ロベルトが思わずそれに見惚れていると、差し出したままのフィオナの手がぶるぶる震えだした。
「だ、大丈夫です。清潔です。まだ使ってません」
途切れがちな言葉。どうやらなかなか受け取らないのを、清潔かどうか疑っているからだと思ったらしい。
このままでは傷付くだろうと思い、ロベルトはハンカチを受け取る。四角に折りたたまれたそれを広げると、オウムの全体像が露わになった。
「見事な刺繍だな」
「趣味で作ったものなので、そんな褒められるものでは……。でもよろしかったら、そのまま使っていただいて結構です」
「君が作ったのか?」
「え、ええ……」
フィオナは籠を握りしめる。
これはますますすごい。この間の菓子もそうだが、裁縫の腕もプロ顔負けのようだ。
感心していると、急に俯いていたフィオナが顔を上げた。
「す、すみません。出過ぎた真似を……。副団長さんでしたら、きっと素敵なお相手がいらっしゃいますでしょうに、こんな不細工な者から物を贈られるなんて不快でしょう。気付かなくてすみません。や、やっぱり返して下さい」
伸びてきた手を避け、思わずハンカチを持った手を上げてしまう。
「迷惑に思った覚えはない。正直、もらえると助かる。ハンカチを忘れてきてしまってな。困っていたんだ」
「……そうですか?」
やや疑わしげに問い、遠慮しなくていいというように続ける。
「お邪魔でしたら、暖炉にくべるなり、庭に埋めるなりお好きにして下さい」
「しないから安心しろ」
ロベルトはフィオナのその言葉に、思わず苦笑する。いくらロベルトが「鉄仮面」「冷たい」と言われていても、そんなひどい真似はしない。
「これでも警備団の副団長なのだが……俺はそんなに極悪非道に見えるのか?」
つい疑問が口から出た。客観的にそうなのかと思っただけだが、問われた娘は仰天したように三歩ほど後ずさり、激しく首を横に振る。
「ごめんなさい! そういうつもりで言ったんじゃ……。あの、大丈夫です。副団長さんは優しいと思いますっ」
その返答に、今度はロベルトが仰天した。
優しいなど、今まで女子どもには言われたことのない台詞だ。
「それならありがたい。あんまり周りに怖がられるのでな、そう見えるのかと思っていたんだ」
「そ、そうですか……」
ロベルトが怒ったわけではないと分かったのか、フィオナの様子が落ち着いた。
「フィオナ殿、だったか? ハーシェルと妹殿のことで何かあったら、いつでも俺の所に相談に来るといい。あいつとは親しいから、たいていのことはアドバイス出来ると思う」
「……よろしいんですか?」
恐る恐る問い返すフィオナ。
なんだろう。あんまりびくびくこわごわしているので、だんだん周りを警戒している小ウサギのように見えてきた。
「ああ。では、俺は見回りを再開するので、これで失礼する」
「あ、はい。お気遣いありがとうございます」
小さく会釈をし、ロベルトの横を通り抜けて歩いていくフィオナ。そのほっそりした後ろ姿を見送ってから、もらったハンカチで汗を拭った。
木綿のハンカチから花の香りがして、どきっとした。なんとなく居心地の悪さを覚え、ごまかすようにハンカチをズボンのポケットに押しこんだ。ロベルトも男だ。女性が持ち歩くような良い香りのする物をもらうと、落ちつかない気分になってしまう。
(別に俺は悪いことはしてないぞ。まったく、なんなんだろうな……)
ぐしゃぐしゃと自分の頭をかき回しながら、この姿をハーシェルに見られたら笑われそうだと考えた。
「おや、僕のことを知ってるのかい?」
白い歯をきらりと輝かせ、笑みを浮かべるハーシェルに、アイシスは何度も頷く。
「ええ、もちろんです! この街でハーシェル様のことを存じ上げない娘なんて一人もいませんわ。申し遅れました。私、アイシス・トレーズと申します。それからこちらは、姉のフィオナ・トレーズです」
「ああ、トレーズ商会の所の娘さんか。しかもその姉ってことは……。へえ。じゃあ、君が噂の〝目隠し姫〟? 本当に目を隠してるんだなあ」
じろじろと見られて、ますます居心地が悪くなって縮こまる。
「わ、私のような醜い者は、隠れている方がいいのです。領主様のご子息の目にさらすものではありませんっ」
フィオナは小声ながらも、そうきっぱりと言い切った。
うう。自分で言った言葉だけど、ちょっと泣きそう。
フィオナがしょんぼりしたのを見て、アイシスのまとう空気が厳しいものに変わる。
「恐れながら申し上げます、ハーシェル様。女性の見た目について軽々しく口にするものではありません」
綺麗な少女に睨まれて、ハーシェルは頭をかいた。
「これはこれは。申し訳ありませんでした、ご婦人方。噂に翻弄されるなど、警備をあずかる者として恥ずべき行為でしたね。許していただけるとありがたいのですが……」
ちらっとハーシェルが窺うようにこちらを見るので、フィオナはぶんぶんと首を縦に振った。アイシスも睨むのをやめて、穏やかに微笑む。
「姉は許すそうですわ。もちろん、私も」
「それはありがたい」
ハーシェルは胸に手を当て、気障ったらしい礼をした。
フィオナは更に恐縮して、あわあわとアイシスを盾にする。どうせアイシスはハーシェルに見惚れているだろうから、盾にされても気にしないだろう。
「あ、あの。お忙しいようなので、この辺で失礼します。本当にありがとうございました。……行きましょ、アイシス」
「え? ええ……。お邪魔しました。ハーシェル様、お会い出来て光栄でした」
「こちらこそ、麗しいレディー」
やや不満そうだったが、素直に頷いたアイシスに、ハーシェルは片目をつぶってみせた。途端にアイシスはぼっと頬を赤らめる。
フィオナは夢でも見ているかのようにぼんやりするアイシスを引っ張り、そそくさと部屋を後にした。
*
「隅に置けないなあ、ロベルト。いつの間にトレーズ商会の姉妹と知り合ったんだい?」
「三日ほど前に、街で具合が悪そうにしていたので、家まで送り届けただけだ」
ロベルトとハーシェルは乳兄弟であり親友でもあるので、公の場以外では敬語を使わずに話す。そうしないとハーシェルが嫌がるのだ。
ロベルトは、先程フィオナが渡してくれた籠をちらりと見た。
そういえば、菓子と言っていたがどんなものだろう。ずっと書類仕事をしていたので、ちょうど糖分が欲しいと思っていたところだ。籠の中身を見ると、黄色い布の包みと走り書きされたメモが入っていた。
〝小腹が空いた折にでもお召し上がり下さい。甘いものが苦手でしたら、どなたかに差し上げて下さい〟
綺麗な字でそう書かれている。いったい何が入っているのかと布の包みを開ければ、両手で抱える程の大きさの丸い籠と同じサイズのアップルパイが入っていた。それも五枚も。
「へえ、ちなみにどっちを助けたんだい?」
ハーシェルが興味津々に聞いてくるのを、ロベルトはどうしてそんなことを訊くのかというように、やや首を傾げて見た。
「姉の方だ。――ああ、ハンス、茶を用意してくれないか。君の分も」
「分かりました、副団長」
「僕の分もよろしくね」
「……かしこまりました、団長」
そう事務的に返事をし、ハンスが執務室を出ていく。
「なんだ、〝目隠し姫〟の方か。てっきり、春の女神のようだと言われている妹の方かと思ったよ」
「その〝目隠し姫〟というのはなんだ? それに、そんなにあの姉妹は有名なのか?」
ロベルトの問いに、ハーシェルは頷く。
「有名だとも。姉の方は、あまりの醜さに前髪を伸ばして顔を隠しているため、〝目隠し姫〟と揶揄されているらしい。反対に妹の方は、その可憐な容姿のために求婚者が後を絶たないとか。妹に近付くために姉に見合い話を持っていく輩もいるようで、父親や妹がそれをはねのけているらしい。極めて姉妹仲が良いようだね」
ロベルトは先程の二人の様子を思い出した。
フードを目深に被り、前髪で鼻の上まで隠した姉が、おどおどと妹に寄りそっている様子を。そして目隠し姫と呼んだハーシェルに、妹が憤然と抗議する様子を。
街の者達の口さがない言いようや、知っていてあだ名を口にするハーシェルの言葉を聞くと同情が湧いてくる。最初は、他の人間と同様に、自分の無愛想な態度に怯えているのだと思っていたが、それが極度の人見知りのせいだったと知れば尚更だ。それに、よくよく考えてみれば、心根のいい娘だ。怖がっていても礼をきちんと言い、後日こうして改めて礼にやって来るのだから。更に言えば、自分よりもハーシェルに声をかけられた時の方が怯えていたのが、小気味よかったのもある。普段なら逆だ。
「ハーシェル、女性をそんなあだ名で呼んでやるな。仮にも女扱いに長けていると言うなら、余計にな」
「仮にもってなんだい、ロベルト。本当のことだよ」
にやっと笑うハーシェル。
その傲岸不遜な、けれど女性に騒がれる綺麗な顔立ちを一瞥して、ロベルトは溜息をつく。実際、女にもてるので反論出来ない。
そこへ、ハンスが茶器と皿を載せた盆を持って戻って来た。盆をロベルトの机に置くと、すぐにまた出て行き、今度は椅子を一脚持ってくる。
「どうぞ、団長」
「ありがとう、ハンス」
ハーシェルは礼を言って椅子に座ると、ハンスの注いでくれた茶をおいしそうに飲んだ。
一方、ロベルトはハンスが持ってきた皿にアップルパイを載せ、それぞれに配る。そして、茶を飲んでからアップルパイを口に運ぶと、驚きのあまり目を丸くした。
表情が読みとりにくい上司の珍しい変化に、ハンスは警戒してロベルトを凝視する。
「どうかしましたか、副団長。まさか毒でも入って……」
「……美味い」
「鉄の表情が変わるくらい、おいしいんですか?」
心配は杞憂に終わったものの、今度は思わず口から失礼な言葉がついて出るくらいにハンスは驚いた。ロベルトはあまり味に頓着しないタイプなのだ。
ロベルトはあえて聞き流し、顎をしゃくる。
「食べてみろ」
「はいっ。では失礼して」
立ったまま、むしゃりと遠慮なくがっついたハンスは、その姿勢のままぴたりと動きを止めた。青い目に涙が浮かぶ。
「お、おいしいぃぃっ!」
そしてもの凄い勢いで完食すると、感極まったように騒ぎ立てる。
「なんなんです、これは! こんなおいしいパイ、初めてですよっ! 風見鳥亭のものよりおいしいだなんて!」
風見鳥亭というのは、警備団本舎から近い場所にあり、地元でもおいしいと評判の食堂だ。警備団の敷地内には食堂がないので、ほとんどの団員が愛用している。
「本当だ。これは美味い。姉がこの技量なら、妹殿もさぞかし上手なのだろうな」
ハーシェルも驚いた顔をして、何やら一人うんうんと頷いている。
先程からやたら姉妹の話をするハーシェルを、ロベルトはうろんな顔で見やる。
「お前、もしや……」
「なんだい、ロベルト。綺麗な女性を見かけたら、声をかけるものだろう」
つまり、妹の方にちょっかいをかける気満々らしい。
まあ、彼は一週間前に恋人と別れたはずだから、障害はないだろうが……
「子ども相手に……」
「彼女は十六だよ。結婚適齢期。問題ない」
そう言って、楽しげに笑うハーシェル。
「ほどほどにしておけよ。トレーズ商会を怒らせると、領主家が困るだろう」
「分かってるよ」
……本当に分かっているのだか。
ロベルトはアップルパイを咀嚼しながら、アイシスがハーシェルの魔の手から逃げ切れることを祈った。
が、恐らく無駄なのだろう。ハーシェルを見た時の彼女の態度は、完全に恋している娘そのものだったから。
*
「きゃあああ、姉さん姉さん! 聞いて聞いてーっ!」
黄色い悲鳴を上げながら、どたばたと階段を駆け上がってきたアイシスは、フィオナの部屋の扉を勢いよく開けた。
(また、ハーシェル様のことかしら)
フィオナはそう予想して、裁縫の手を止めると、体ごと扉の方を向く。
今日はハンカチに趣味の刺繍をしていて、あと少しで終わるところだった。
焦げ茶色をベースにしたフィオナの部屋には、ベッドと机と椅子、それから本棚に箪笥、クローゼットが置いてある。あとは、あちこちに花や、フィオナが自分で作った小物が飾られていて、女性らしい雰囲気を醸し出していた。ここはフィオナの安全地帯であり、憩いの空間だ。
アイシスもそれなりに料理や裁縫は出来るが、フィオナ程ではない。だから、時々アイシスに頼まれてぬいぐるみや小物を作ったり、アイシスの誕生日にはフィオナお手製の服やアクセサリーをプレゼントしていた。今は夏服を頼まれていて、部屋の隅には、作りかけのワンピースをかけたトルソーがある。
アイシスはフィオナの作る服のことを、その辺の仕立屋よりセンスがあって素敵だと言ってくれる。それが嬉しくて、ついつい手をかけて作ってしまうのだ。それに可愛らしい妹に可愛らしい服を着て欲しいという姉心もある。……ややシスコン気味なのは自分でもよく分かっていた。
「これ見て! ハーシェル様がくださったの! 今度、一緒にお食事しませんか? ですって。いやぁぁぁ!」
部屋に入ってきてフィオナに花束を見せた後、アイシスは興奮のあまりその花束を抱きしめて、身をよじって叫ぶ。
嬉しいのか嫌なのかどっちなんだろう。
「花をくださったって……まさかここまでいらしたの?」
「ええ! 店にわざわざいらして、花束を片手にデートの申し込みをして下さったのよ。素敵だわ。今日は嬉しすぎて眠れないっ」
まあ、それだけ興奮していれば確かに眠れないだろう。
きゃあきゃあと浮かれているアイシスに、フィオナは確認をとる。
「それで、いつデートに行くの?」
「明後日よ!」
「良かったわね、アイシス」
「うん! ありがとう、姉さん!」
アイシスが喜ぶのはフィオナも嬉しいが、不安も残る。なにせ、街で浮名を流しているあのハーシェルが相手だ。平民の娘との恋愛はただの遊びと考えていたら、アイシスが傷つく可能性がある。
だが、貴族の次男という高嶺の花へ、遠くから思慕を募らせていたアイシスに、ハーシェルが目をとめたのは幸運なことだ。
(大丈夫かしら……)
もし何か悪いことが起きても、慰められるように自分も覚悟しておこう。
(明後日なら、コサージュくらいは作れるかしら)
アイシスのことだ、めいっぱいおめかししてデートに臨むだろう。そんな妹を応援したい。
フィオナの頭の中には、アイシスに似合う色のコサージュが浮かび始めていた。
裁縫箱や布地や端切れを入れた箱を覗き、考える。布は足りているけれど、糸と飾りが足りない。どうせなら飾りボタンをつけた花のコサージュにしたい。
「ちょっと買い物に行ってくるわね」
「えっ!」
くるくると回って喜びを体全体で示していたアイシスは、ぴたっと動きを止める。
「こないだ貧血になったばかりでしょ。私も一緒に行こうか?」
「大丈夫よ。今日は調子が良いから」
穏やかに言うと、しばらくフィオナの顔をじっと見てから、アイシスは頷いた。
「うん、確かに顔色はいいみたいね。それなら私は家にいるわ。今日は私が夕飯の当番だから」
「留守番よろしくね」
アイシスにそう声をかけると、フィオナは緑の外套を着て、フードを目深に被り、手に買い物籠と財布を持った。
たまに、フィオナが見本として作った品を見た客がそのまま買い取ることもあるし、その見本品を参考にして布を買うことも多いため、両親はフィオナが物作りに金をかけるのを奨励してくれていた。その分、フィオナにもお小遣いが入るし、ありがたいことだ。
準備を整えたフィオナは、トレーズ商会の隣に建つ自宅を出て街に向かった。
*
午後三時過ぎ。
夏の日差しが少し穏やかになってきた時分、ロベルトは街の見回りに出ていた。
本来なら副団長のする仕事ではないが、ロベルトは自分の目で直接街を見て回るようにしていた。普段の状況を知っていれば、緊急時にすぐ対応ができるからだ。
(しかし、暑いな……)
色の明るい服が苦手なので、黒や灰色をよく着ているのだが、暗い色は熱がとどまりやすいし、見た目にも夏向きではないとつくづく思う。
内心で、こんな日にハンカチを執務室の鞄の中に忘れてきてしまった自分の失態を呪う。
しかも、つい先ほど、メインストリートで引ったくりを一人捕まえた時に立ち回りを演じたため、とても暑い。汗だくで気持ち悪いくらいだ。
引ったくりから取り返した鞄は盗まれた女性に返し、犯人は近くを通りかかった部下に引き渡したので一段落したのだが……
「はあ……」
その時のことを思い出すと、溜息が出る。
被害者の女性がロベルトを見た時のあの顔ときたら。鞄を取り返して以後気を付けるようにと注意するロベルトに、彼女は笑顔を取り繕い損ねたのか顔を引きつらせ、話が終わるや否や礼を言ってそそくさと帰っていったのだ。
――何故だ。
ロベルトには訳が分からない。
小さい頃から、普通に話しかけているだけなのに、何故か相手に異様に怖がられるのだ。以前ハーシェルが、無表情で淡々と語るのが怪談話をしているみたいで恐ろしいと言っていたが、ロベルトにはそんなつもりは更々ない。それなのに女は強張った顔をし、子どもは急に泣き始める。お陰でロベルトは女や子どもが苦手である。その辺を歩いていた犬にまで怯えられた時は、本気でどうしようかと悩んだものだ。
その一方で、子どもを除いた男連中には、女に媚びないところが格好良いなどと慕われる。女性には努めて優しく声をかけているつもりのロベルトからすれば、そんな風に言われるのは心外だ。ハーシェルと比べれば、確かにそう見えるのかもしれないが。
そんなことを考えながら見回りを続行していると、ふとロベルトは向こう側から歩いてくる少女に気付いて足を止めた。
緑色の外套のフードを目深に被った少女。前髪のせいで、顔は鼻から下しか見えない。道の端を歩く少女は、どこか浮かれた様子で足取りも軽やかだ。
あの娘は、確か――
「アップルパイの……」
思わず名前より先にそちらを思い出したのは、致し方ないだろう。それだけあのアップルパイは、おいしかった。
ロベルトのその呟きを拾ったのか、フィオナはきょろりと周りを見回した。そして、ロベルトを認めると、ぎょっとしたように後ずさる。
「ふ、副団長さん……」
フィオナの小さな唇が、そっと言葉を紡ぐ。
小さいが、綺麗な声をしている。一般的に背の低い娘の方が良いという価値観があるが、フィオナは若干背が高めである。加えて、顔が醜いから余計に人々は騒ぐのだろうか? しかし、目が隠れているとはいえ、噂ほどとは思えない。
ハーシェルの話を思い出して、ついまじまじとフィオナを観察してしまう。そのせいで、可哀想にフィオナはすっかり顔を赤くして縮こまってしまった。そういえば人見知りするのだったと、ロベルトが思い出した時にはもう遅い。
「あ、あの、私、何かしてしまいましたか……?」
小さく、泣きだしそうな声でフィオナは問う。
警備団員に睨まれれば、一般人は何かしたのかと不安に思うだろう。
「いや、すまない。何でもない。……あのアップルパイ、おいしかった」
ロベルトは少し焦った挙句、そんなことしか付け足せなかった。
しかし、フィオナにはそれで十分だったらしい。見るからに体から緊張が抜け、ほっと息を吐く。
「お口にあって良かったです。副団長さんは見回りですか……?」
ぽそぽそと囁くフィオナ。首を傾げる動作に合わせ、緩やかにカーブを描く黒髪が揺れる。髪の黒さもあって、わずかに覗く肌の白さが際立って見えた。ロベルトも黒髪だが、肌は日に焼けているので、絶対にこんな風には見えないと思う。
「そうだ」
「副団長さんみたいな偉いお立場でも、見回りされるんですね」
「本来はする必要はないが、俺は好きで自分からしている」
「そうなんですか。副団長さんがご立派な方という噂は、本当なんですね。そんな方が見回りをして下されば街の人達も安心しますし、私も同じ街の者としても嬉しいです」
打算も何もない、心からそう思っているというような言葉だ。
「俺が見回りをすると、何故喜ぶ? 誰が見回っても同じだろう?」
ロベルトの問いに、フィオナは首を振る。
「いいえ。同じではないと思います。偉い方のそういう姿を見ると、ちゃんと街のことを考えて下さっているように思えますから」
「そ、そうか……」
真っ直ぐな言葉に、柄にもなく照れてしまう。
それならば、ハーシェルにも見回りをしてもらった方が効果的かもしれない。だが、あいつが見回りをすると、女に囲まれて仕事にならないから邪魔か。
「……買い物か?」
特に口にすることを思いつかず、なんとなく買い物籠を見て問いかける。いや、買い物籠を持っている時点で買い物しか用事はないのだろうが。
ロベルトの端的な問いに、フィオナは気分を害した様子もなく頷く。
「……はい。あの、ハーシェル様が妹と食事に行くそうなので、妹のために、コサージュを作ろうかと」
「ハーシェルが?」
「はい」
その材料の買い出しのようだが、問題はそこではない。あの男、動くにしても早すぎやしないか。あれから二日しか経っていないのに。
「妹はとても喜んでいて。……でも、少し心配です」
フィオナはやや視線を落とした。
何が心配なのかは、言わずとも分かった。ハーシェルの浮名など街の者なら誰でも知っていよう。
「そうだな。……俺も心配だ」
主に、いつかハーシェルが背後から誰かに刺されないかが。
「しかし、君は器用だな。あんな美味い菓子を作る上に、コサージュまで作るとは」
「私は、家の手伝いをするくらいしか能がありませんので……。私の家は布地商をしていますから、売る時の見本用に、ハンカチや服、それにコサージュなどのアクセサリーを作るのです。それで自然と覚えただけです」
どこか困ったようにフィオナは言う。謙遜しているというより、本気でそう思っている感じだ。
「見本になるものを作れるのなら、大したものだ」
「……ありがとうございます」
恐縮した様子で身を縮めるフィオナ。褒められ慣れていないのだろうか。
「あ、あの。これ、よかったら使って下さい……」
少し逡巡して、籠から取り出した物をフィオナが差し出す。
「汗を、その、たくさんかかれているようですから……」
見れば、白い木綿のハンカチだ。オウムを模したと思われる、見事な鳥の刺繍が緑の糸で施されているのが見えた。
ロベルトが思わずそれに見惚れていると、差し出したままのフィオナの手がぶるぶる震えだした。
「だ、大丈夫です。清潔です。まだ使ってません」
途切れがちな言葉。どうやらなかなか受け取らないのを、清潔かどうか疑っているからだと思ったらしい。
このままでは傷付くだろうと思い、ロベルトはハンカチを受け取る。四角に折りたたまれたそれを広げると、オウムの全体像が露わになった。
「見事な刺繍だな」
「趣味で作ったものなので、そんな褒められるものでは……。でもよろしかったら、そのまま使っていただいて結構です」
「君が作ったのか?」
「え、ええ……」
フィオナは籠を握りしめる。
これはますますすごい。この間の菓子もそうだが、裁縫の腕もプロ顔負けのようだ。
感心していると、急に俯いていたフィオナが顔を上げた。
「す、すみません。出過ぎた真似を……。副団長さんでしたら、きっと素敵なお相手がいらっしゃいますでしょうに、こんな不細工な者から物を贈られるなんて不快でしょう。気付かなくてすみません。や、やっぱり返して下さい」
伸びてきた手を避け、思わずハンカチを持った手を上げてしまう。
「迷惑に思った覚えはない。正直、もらえると助かる。ハンカチを忘れてきてしまってな。困っていたんだ」
「……そうですか?」
やや疑わしげに問い、遠慮しなくていいというように続ける。
「お邪魔でしたら、暖炉にくべるなり、庭に埋めるなりお好きにして下さい」
「しないから安心しろ」
ロベルトはフィオナのその言葉に、思わず苦笑する。いくらロベルトが「鉄仮面」「冷たい」と言われていても、そんなひどい真似はしない。
「これでも警備団の副団長なのだが……俺はそんなに極悪非道に見えるのか?」
つい疑問が口から出た。客観的にそうなのかと思っただけだが、問われた娘は仰天したように三歩ほど後ずさり、激しく首を横に振る。
「ごめんなさい! そういうつもりで言ったんじゃ……。あの、大丈夫です。副団長さんは優しいと思いますっ」
その返答に、今度はロベルトが仰天した。
優しいなど、今まで女子どもには言われたことのない台詞だ。
「それならありがたい。あんまり周りに怖がられるのでな、そう見えるのかと思っていたんだ」
「そ、そうですか……」
ロベルトが怒ったわけではないと分かったのか、フィオナの様子が落ち着いた。
「フィオナ殿、だったか? ハーシェルと妹殿のことで何かあったら、いつでも俺の所に相談に来るといい。あいつとは親しいから、たいていのことはアドバイス出来ると思う」
「……よろしいんですか?」
恐る恐る問い返すフィオナ。
なんだろう。あんまりびくびくこわごわしているので、だんだん周りを警戒している小ウサギのように見えてきた。
「ああ。では、俺は見回りを再開するので、これで失礼する」
「あ、はい。お気遣いありがとうございます」
小さく会釈をし、ロベルトの横を通り抜けて歩いていくフィオナ。そのほっそりした後ろ姿を見送ってから、もらったハンカチで汗を拭った。
木綿のハンカチから花の香りがして、どきっとした。なんとなく居心地の悪さを覚え、ごまかすようにハンカチをズボンのポケットに押しこんだ。ロベルトも男だ。女性が持ち歩くような良い香りのする物をもらうと、落ちつかない気分になってしまう。
(別に俺は悪いことはしてないぞ。まったく、なんなんだろうな……)
ぐしゃぐしゃと自分の頭をかき回しながら、この姿をハーシェルに見られたら笑われそうだと考えた。
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