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1巻
1-1
しおりを挟む序章
「その顔を見せないでちょうだい!」
継母がそうわめくようになったのは、フィオナが七歳になった頃だった。
フィオナが四歳の時に実母は亡くなった。その半年後に、父が子どものためにと再婚した新しい母は、とても美しい人だった。太陽の日差しのように輝く金髪に、夏の日の新緑を思わせる緑色の目。その健康的な美しさは、彼女をより輝かせていた。継母の連れ子である、フィオナの二つ年下のアイシスも母親似でとびきり可愛かった。
それでフィオナは思ったのだ。
――私は相当醜い顔をしているのだろう。だから、お母さんは私の顔を嫌がるのだ。
それ以来、フィオナは前髪を伸ばして顔を隠すようになった。
義妹は可愛らしい人形のよう。姉は不細工。
フィオナの夢は幸せな花嫁さんになることだったが、これでは誰もお嫁にもらってくれないと思い哀しくなった。
だが、それはそれで仕方がない。世の中そんなに上手く回るものではないと、商人である父はよく言っている。
だからフィオナは結婚を諦めて、一人でも生きていけるように勉強や商売の手伝いに勤しんだ。もちろん、家事も覚えた。
これで大丈夫。これなら、一人でも生きていける。
でも、もし小さな希望を抱いても構わないなら――どこかに自分みたいな醜い女をもらってくれる物好きな殿方が一人くらいいないものだろうか。
フィオナは夜空の星に願いを呟き、今日も針仕事に励むのだった。
一章 目隠し姫と鉄仮面
「すっごく素敵なのよ、ハーシェル様って。ああ、一度でいいからお話ししてみたいわ!」
妹のアイシスは、今日も針仕事に精を出しているフィオナの部屋にやって来て、いつものように椅子に座るなり、溜息混じりに呟いた。
「そうなの」
フィオナがそう答えるのもいつものことだったが、アイシスは話を聞いてくれれば満足なのか、気にせず続ける。
「あの太陽も真っ青になるほど見事な金色の髪に、空みたいに澄んだ青い瞳。背も高くていらっしゃるし、剣の腕も素晴らしいと聞くわ。あんな方がこの街の警備団の団長様だなんて、私、とってもついてるわ!」
妹が恋する御方は、フィオナ達が暮らす街メリーハドソンの警備団の団長だ。ウォルトホル領主家の次男にして、容姿端麗で明るく社交的なハーシェル・クレスシェン・ウォルトホルは、二十四歳と若く、しかも独身ということもあって、街の――いや、領内の若い娘達の憧れの的だ。長男ではないので、将来は貴族の家に婿入りすることも、市井の娘と結婚して穏やかに暮らすことも出来る。平民の娘達が騒ぐのも無理はないだろう。なにせ、手の届くところにそんな素敵な人がいるのだから。
「でも、あの方はしょっちゅう誰かとお付き合いしていると聞くわ。アイシスなら上手くいくかもしれないけれど……あなたを大事にしてくれない方は、姉さん嫌よ」
フィオナが静かな声でそっと言うと、アイシスは頬をうっすらと赤らめた。
「そんな風に言ってくれるの、姉さんだけよ。母さんなんて、いい歳して夢見るのはやめなさいって言うの。私、まだ十六よ? 夢見ていいと思わない!?」
つーんと唇を尖らせる仕草をしても、アイシスの可憐さは損なわれない。それどころか、より一層可愛らしく見える。
そう、アイシスは姉の目から見てもかなりの美人なのだ。
フィオナより二つ年下の、義理の妹。フィオナが物心がつくかつかないかという頃に家族になったので、本当の姉妹のように仲が良い。アイシスは妹ということもあって少しばかりわがままだが、天真爛漫な性格なので付き合いやすい。まあ、わがままといっても自室を改造したいというささやかなものだし、むしろ、ちょっとしたことなら喜んで聞いてあげたくなるくらいだ。
(私みたいな醜い姉にはもったいない妹だわ)
フィオナはちらりと自室の隅に目を向ける。そこに置いてある姿見には、鼻まで前髪を伸ばし、顔の上半分が見えない女が映っていた。あまりに醜い顔なので、前髪を伸ばして顔を隠しているのだ。緩やかに波打つ長い黒髪は艶やかだが、長い前髪が逆に彼女を薄暗く見せてしまっていた。着ている服も灰色で、夏だというのに薄地の長袖を着て肌を隠している。唯一色があるのは、作業用の緑のエプロンくらいだ。
「アイシスったら。そんなこと言わないで。結婚適齢期ですもの、大事な娘を早く嫁がせたいんでしょう。私にもらい手がない分、ね」
やんわりと微笑んで言うと、アイシスはむすっとむくれた。
「うるさい娘を追い出したい、の間違いじゃないの? それに姉さん、そんな言い方しないで。見る目のない男達のことなんか放っておきなさいよ。それこそ、あいつらに姉さんはもったいないわ。この間の奴のことはもう、ほんっと腹立っちゃって! 私、あいつの帰り際に、濡れた雑巾を背中に投げつけてやったわよっ」
「……アイシス」
妹はどうも癇癪持ちのようで、時々感情のままに動くところがある。その辺は義理の母にそっくりだ。
しかし、まさかこの前のフィオナのお見合い相手に無礼を働いたとは。道理で、先方から怒り狂った断り状が送りつけられてきたわけだ。
「だってだって、あの人、『これが噂の醜い目隠し姫さまか』って言うのよ? あいつが姉さんの何を知ってるって言うの。ああもう、ぐしゃぐしゃにして踏んづけてやりたいわ!」
思い出したらますます腹立たしくなってきたのか、アイシスはスカートをぐしゃぐしゃと手で握りしめた。
「アイシス、皺になるからやめなさい。そんな風に言ってくれるのは、それこそあなただけよ? 第一、本当のことなんだから、気にしなくていいのに」
「いいえ、駄目よ! 姉さんの相手は、姉さんをうんっと幸せにしてくれる男の人でなくっちゃ。あ、もちろん、私の相手だって、私と幸せに生きてくれる人でなきゃ駄目ね」
にこっと明るい緑の目を緩ませて微笑むアイシスは、愛らしい春の女神のようだ。「幸せにしてくれる」ではなく、「一緒に幸せに生きる」と言うあたりに、アイシスの前向きな性格が滲み出ていた。
まあ、結婚を端から諦めているフィオナにとっては、アイシスにムキになられても困ってしまうのだが。
アイシスには悪いが、フィオナはとっくの昔に一人で生きていく覚悟を決めている。
(そんな人、一人でもいたら奇跡だと思うわ)
フィオナは心の内でそっと溜息を零した。
その日の午後、フィオナは街に買い物に出かけた。
フィオナの父ノルマン・トレーズは、トレーズ商会という、この近隣では有力な布地商を営んでいた。屋号に家名が付いているのは、フィオナの祖父が創業したからだ。フィオナは商売の手伝いの一つとして、見本用の衣服やハンカチなどを作る仕事をしていた。加えて、家事の手伝いもしっかりやっている。食事の用意は母と姉妹で当番制にしていて、今日はフィオナの当番日だった。
自分の容姿にコンプレックスを持っているフィオナは、人前に出るのが苦手だ。通り過ぎる人達が、自分のことを好奇の目で見ているような気がするからだ。だから、フードをしっかりと被って、出来るだけ人目を避けていた。しかし、隠していると暴きたくなるのが人の性で、フィオナのそういう行動が更に人の好奇心を呼び起こすのだが、本人はそれに気付いていなかった。
ぎゅっと買い物籠の取っ手を握りしめ、身を縮こまらせて歩く。
早く終わらせて安全地帯に帰ろう。
そう思い、早々に用事を済ませたけれど、帰る途中で急に眩暈を覚え、道の端に座り込んでしまった。
フィオナは小さい頃から慢性的な貧血を患っており、時々思い出したようにクラクラして座り込んでしまう。病気がちだったという実の母に似たのだろう。そのせいで父や妹はフィオナに甘かった。今の母も気にかけてくれるが、父や妹のように過剰反応は示さない。フィオナとしては、母くらいの方が助かるのだが。
(よりによって外で貧血になるなんて……)
一刻も早く家に帰りたいのに、眩暈がひどくて動けない。仕方ないので、当分ここでじっとしていよう。少し経てば回復するはずだ。
そう心を決めたところで、自身に影が落ちたのに気付いた。
「……どうした、具合が悪いのか」
「……?」
フィオナがそろそろと顔を上げると、黒い何かが視界を埋めつくした。
その正体は、黒髪黒目で日に焼けた肌をした青年だった。落ち着いた雰囲気を醸し出していて、問いかける声も静かだった。けれど聞き取りづらいわけではない。
夏の日差しの中、黒い上着とズボンを身に着けている男は、上半身に赤い懸章をかけていた。そこに描かれている盾の紋章を見て、フィオナはほっとした。この街の警備団の紋章だ。見回りの最中に具合が悪そうに座り込んでいるフィオナを見て、声をかけてくれたのだろう。
「すみません、貧血で……。あの、放っといてくれて構いませんので。そのうち治ります」
街を守る仕事中だろう警備団の手を煩わせるのも申し訳ないと思い、フィオナはそう返した。具合が悪いせいで弱々しい声しか出ず、ちゃんと聞こえただろうかと不安になる。
「今日は暑い。そんな中、具合が悪い者を外に放置するのは気が咎める。家まで送ろう。どこだ?」
青年は端的に問うてくる。軍人の見本みたいな話し方だ。
「い、いえっ。そんな、悪いですから」
「心配いらない。俺はこの後、休みでな。時間が空いているから、具合の悪い者を送り届ける程度のこと、何の問題もない」
「お休みなら余計に悪いです……!」
そういう問題ではないのだと、気付けば声を張り上げてしまっていた。人見知りする性分なので、小さい声になってしまうことが多いフィオナには珍しいことだ。そのことにも動揺して更にまごまごしていると、向こうの方から少女らしい高い声が響いた。
「ちょっと、そこのあんた。うちの姉さんに何してんのよっ!」
「アイシス」
フィオナは驚いて小さく声を漏らす。アイシスはずかずかと歩いてくるや否や、青年とフィオナの間にずいっと割り込んだ。
「姉さんがなかなか帰って来ないから、様子を見に来たのよ。……またからかわれてたのね。ほんと男ってどうしようもないんだから!」
アイシスはそう勘違いをして怒っている。フィオナはちゃんと説明しようと、アイシスの黄色いワンピースの腰あたりを軽く摘まんでそっと引いた。
「違うのよ、アイシス。この方は、具合が悪い私を気遣って声をかけて下さっただけで……」
「具合が悪いって……姉さん、大丈夫なの? ああ、暑い中、買い物になんて行かせるんじゃなかったわ」
お願いだから、人の話を聞いてちょうだい。
フィオナは困り果ててしまった。
「あの、ごめんなさい。妹が……」
フィオナが身を縮めて謝ると、青年は特に気にした様子もなく、口を開く。
「気にしていない。家族の者が迎えに来たようだが、女性では連れ帰るのにも苦労するだろう。よければ手を貸すが」
青年がちらりとアイシスを見ると、アイシスは少し考え込んだ後、頷いた。
「確かに私一人では厳しいわ。手伝って下さい」
「了解した」
青年はあっさり頷くと、フィオナの横にすっとしゃがみこんだ。
なんだろうときょとんとした瞬間、体がふわりと浮かび上がった。
「さて、家はどちらにある?」
「なにも抱えなくても……」
「暑い日差しの下での貧血を甘く見てはいけない。もしかすると熱中症かもしれない」
予想外の出来事に、石のように硬直している姉に同情しつつ、アイシスは頬を引きつらせた。
しかし、思ったより朴念仁らしき青年は、ややずれたことを言う。
「……こっちです」
なんだか説明するのも面倒になったアイシスは、先に立って青年を誘導する。
(ひぃぃぃ、いやああ、恥ずかしいぃぃぃっっ)
一方、フィオナは顔を赤くして、内心でもだえまくっていた。
*
「これはこれは、ロベルト殿ではないですか! 娘を助けていただき、誠にありがとうございます!」
フィオナとアイシスの父であるノルマンは、青年に抱えられて帰って来た娘を見て、最初は驚愕していたが、ハッと我に返って頭を下げた。
どうやら父は、この青年を知っているらしい。
「父さん、この人を知ってるの?」
アイシスの問いに、ノルマンは頷く。
「知ってるも何も、警備団の副団長様じゃないか! ロベルト・アスレイル殿だよ」
「ええ!? じゃあこの人が、あの噂の〝鉄仮面〟……むぐっ」
「これ、アイシス! なんて失礼な口を!」
ノルマンが慌ててアイシスの口を手で塞ぐ。冷や汗をかきながら、ノルマンはゆっくりと青年を振り返る。
「はは……すみません、ロベルト殿。娘はその……時々口が暴走しまして」
「構わん。言われ慣れている。それより、もう一人の娘御はどちらに運べばよろしいか? 具合が悪いのだから、早く休ませなくては」
「ああっ、そうでした! 申し訳ありませんが、こちらまでお願い出来ますか。私はこの通り、膝の調子が悪いもので」
ノルマンは左膝を痛めている。かろうじて杖をつかずに歩けるが、人を運べる程ではないのだ。
ノルマンの案内でロベルトは、フィオナを自室まで運んでくれた。アイシスが言ったように、先程から〝鉄仮面〟のごとく表情が動かない。
恥ずかしさと居たたまれなさで放心気味だったフィオナだが、フィオナをベッドに下ろすや否や、さっさと出口に向かうロベルトを、慌てて呼び止める。
「あ、あの!」
「……?」
わずかに振り向くロベルト。
フィオナはありったけの勇気を振り絞り、必死に頭を下げた。
「ありがとう、ございました……」
「お大事に」
ロベルトはそれだけ返すと、ノルマンとともに階下に下りていった。
閉まった扉を見つめていたフィオナは顔を赤くし、ばすっと枕に倒れ込んで頭を抱えた。助けてくれて感謝しているが、往来で知らない男の人に運ばれた事実はかなり恥ずかしい。当分顔を上げられそうになかった。
あんな所で座り込んでいてごめんなさい……!
どうせ運ぶのなら、フィオナみたいな醜女より、アイシスみたいな美少女の方が良かっただろうに、嫌な顔一つせずに運んでくれたのだ。
なんて良い人!
(……あの方が、〝鉄仮面〟。でも、噂って当てにならないのね)
警備団副団長のことは、噂好きな同年代の女友達から聞いている。
団長であるハーシェルの乳兄弟。ハーシェルより剣の腕が立つにもかかわらず、物静かで常にハーシェルを立てるため、絶大な信頼を得ているとか。更に、本人の性格の良さも相まって、部下に慕われている。ハーシェルを陰から支える有能な副官だと評判だ。ここまでは良い話なのだが――その後に続くのが、寡黙であまり表情を表に出さないせいで、妙な迫力があって恐ろしいという話だ。そのため、たいてい初対面の女性や子供には怖がられるらしく、ついたあだ名が〝鉄仮面〟。字面の通り、その表情は金属のように冷たいという話だったが……
(別に怖くはないし、むしろ親切で優しかったと思うのだけど)
噂って本当に信用ならない。
フィオナも街の者の間で〝目隠し姫〟などと呼ばれているので、そういった噂に左右されるのは好きではない。似たような、あだ名被害者として同情してしまう。
いや、それはどうでもいい。とにかく、お世話になったのだから、今度会ったらお礼をしよう。
フィオナは貧血がおさまるようにと掛け布団にくるまる。
そして、お礼の内容を考えながら、目を閉じた。
*
ロベルトに助けられた日から三日後。
フィオナはこれまでの人生で最大の難関を前にしていた。
緊張のあまり震えながら、アップルパイの入った籠を最後のよすがのように握りしめ、門を睨みつける。その隣では、アイシスが呆れた顔をしていた。
「姉さん、そんなに怖いんなら、私が一人で行ってくるわよ?」
「だ、だだだ駄目よ、アイシス。お礼なんだから、自分で言わなくちゃっ」
噛みながらも反論する。
父にも直接礼を言えと言われているし、何よりフィオナ自身がそうしなくては気が済まない。ただ、とても一人ではここに来られそうになかったので、アイシスについてきてもらったのだ。
そういうわけで、警備団の門前にこうして立っている。
黒い鉄柵の門の向こうにある立派な白い石造りの建物が、警備団の本舎だ。他にもこの敷地には、修練場と馬屋、宿直用の建物があるらしい。確かに見回してみれば、それくらいあってもおかしくないくらいには広い。
門番に訪ねた目的を話すと、少し待つように言われた。二人いるうちの一人が本舎に確認を取りに行き、しばらくして戻ってくる。
「お会いになるそうです。どうぞこちらへ」
「あ、ああありがとうございますすす」
「ありがとう、門番さん」
アイシスはガチガチな返事をするフィオナを、しっかりしてよと言わんばかりに軽く肘で小突きながら、姉の態度をごまかすように笑顔を取り繕って礼を言う。綺麗な少女の花のような笑みに、門番の男は「いえいえ」と眉尻を下げた。
対人恐怖症なフィオナには、人の多い警備団の本舎はとても恐ろしい場所に見えた。まるで悪魔の根城か、竜の巣穴のようである。
それでもなんとか震える足で前に進み、門番の案内で副団長の執務室にたどり着いた。副団長は、警備団に届く書類や手紙を適切な者に振り分けたり、書類の作成や手紙の返信といった、判断を必要とする事務仕事が多いので、別に部屋を与えられているらしい。これは、廊下を歩きながら門番がアイシスに語ってくれたことだ。
(……門番さん、いくらアイシスが綺麗だからって、鼻の下を伸ばしすぎです)
あまりに露骨なので、姉としてはこの後アイシスが迫られるのではないかと少し心配になる。
「ロベルトさん、お客様をお連れしました」
「入ってくれ」
木製の分厚い扉の向こうから、抑揚のない声が入室を促す。
(わあ……)
一歩入った執務室の様子にフィオナは圧倒された。
奥には重厚な造りのデスクがあり、そこに書類の山に埋もれるようにしてロベルトがいた。部屋の中には棚がたくさん並んでいる。ある棚には書類の束が分類されて置かれており、別の棚には本が詰めこまれていた。更に、その手前に置かれた細長いテーブルの上には、書類が山を築いている。そして、団員の証である懸章をかけた少年が一人、書類の山の間を行ったり来たりしていた。
「では、ロベルトさん。俺はこれで」
「ああ、ご苦労だった」
フィオナとアイシスを残し、門番が去ると、ロベルトはようやく書類から顔を上げた。
「すまないな、ご婦人方に立ち話をさせてしまうが……。さて、用件を伺おう」
フィオナはたちまち罪悪感に襲われた。
「すみません、こちらの都合で急に押しかけてきてしまって。お忙しいのでしたら、後日改めて参りますが……」
「いや、ちょうど息抜きをしたかったところだ。気にしなくていい。――ハンス、少し休んでいろ」
「分かりました」
ちょこちょこ動いていた背の高い赤毛の少年は、一つ返事をすると、すっと部屋の隅に移動した。
ますます申し訳なくなったフィオナは、緊張が悪化してぶるぶる震えてしまう。しかし、勇気を出して手にした籠をずいと差し出した。
「この間は、助けていただいてありがとうございました。お、お礼にお菓子を焼いたんです。どうかお納め下さい!」
「……姉さん。お納め下さいって……」
後ろでアイシスがぼそりと呟くが、フィオナは必死過ぎてそれどころではなかった。部屋の隅からブッと噴き出した音が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。
ロベルトはやや驚いた様子で籠を見つめ、少ししてから受け取った。
「ありがとう。……まさかこのためにわざわざここへ?」
「はっ、はい。あの、お礼は自分でするものですから……」
フィオナは恐々と首をすくめつつ、無意識にじりじりと後ろに下がった。伸ばした前髪の向こうで、ロベルトが片眉を上げたのが見えた。一気に青ざめる。
「も、もしかして、ご迷惑でしたか……? それなら遠慮なく暖炉の種火にでもして下さいっ」
「いや、そんなことはしないが……」
わずかに苦笑らしきものを浮かべたロベルトは、呆れたように返す。
「俺が怖いのなら、わざわざ礼をしに来なくてもよかったのにと思っただけだ」
その言葉の意味を理解した途端、慌ててしまった。フィオナが人から距離を取りたがるのも、無意識に後ずさる癖があるのも、単に人と話すのが苦手なだけで、別にロベルトが怖いからではない。
「ち、違いますっ。私、その、怖くなんて……」
困り過ぎて泣きそうな声が出てきた。何て言おう。お礼を言いに来たのに、逆に相手を傷つけてどうする。
「そうそう、違いますよ、副団長さん。姉さんは人見知りをしているだけです」
アイシスが苦笑混じりに助け舟を出してくれたので、フィオナはそれに後押しされて続けた。
「妹の言う通りです。私、人の多い所は苦手で……。それは確かに怖いんですけど、副団長さんが怖いわけではなくて……っ」
なんか駄目だ。言いたいことが口に出来ない。
「ううっ、ごめんなさい!」
耐えきれなくなって、謝るとすぐに妹の後ろに逃げ込んだ。
帰りたい帰りたい帰りたい。こんな所まで来てごめんなさいぃぃっ。
心の中では、謝罪の念と後悔の嵐が吹き荒れている。
でも、これだけは言おう。同じあだ名被害者であるロベルトに、どうしてもエールを送りたい。
「あの、私も、その、街の人に変わったあだ名をつけられていて……。だからその、副団長さんも大変でしょうけど、頑張って下さい……」
「……?」
フィオナが消え入りそうな声でそう言うと、ロベルトは怪訝そうに眉を寄せた。彼が何か言おうと口を開きかけた途端、フィオナ達の背後で扉が前触れなく開く。
「おーい、ロベルト! 来月の見回りのスケジュールで相談が……。っと、おや、お客さんか」
ひぎゃっ!
フィオナは飛び上がる程驚いて、妹の腕にしがみついた。
すると、アイシスの喜色を含んだ声が響く。
「……ハーシェル様!」
「へ?」
フィオナは恐る恐る扉の方を振り返った。すると、そこには金髪碧眼の背の高い美青年が立っていた。青い糸で縁飾りや刺繍が施された白い上着と黒いズボン姿で、上半身には赤い懸章をかけている。そして、腰には警備団の紋章が刻まれた長剣を下げていた。
(き、キラキラしてる……っ)
フィオナはますます怯えて、アイシスの背中に隠れる。
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