目隠し姫と鉄仮面

草野瀬津璃

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スピンオフ アイシス編「斜陽の女主人」

05 (完結)

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 行くとは言ったものの、ハーシェルの足取りは重かった。
 ハーシェルの記憶が正しければ、エリーゼ・マドソンとは円満に別れたはずだった。今更何を蒸し返すのだという気持ちが強い。だが約束したからにはそれを果たさなければならない。

「アイシス嬢は嫉妬もしてくれないし、散々だよ。まあ、そんなところも好きだけどね」

 馬車から降りながらのハーシェルの呟きを拾い、先に馬車を降りていたテオが、肩に掛けた鞄の位置をずらして、安定させながら小言を口にした。

「ハーシェル様、これから元恋人と話をなさるという時に、のろけられるのは流石に不謹慎かと」
「こうでもしないとやってられない」

 ハーシェルはしぶとく返し、門扉から屋敷を見る。
 記憶にあった時よりも荒れていた。
 玄関周りに植えられていた花は姿が見えず、代わりに雑草が生い茂っている。

 すぐにテオが伺いを立てに玄関へと向かい、使用人の男を連れて戻ってきた。
 男に案内され、通された温室は昔と変わらず花に溢れていた。
 テオを廊下に残し、温室に足を踏み入れる。
 昔、よく語らった場所だ。そこに、記憶よりも痩せたエリーゼがいた。

「ハーシェル様、ようやく迎えに来て下さったのですね!」

 頬を紅潮させ、涙に目を潤ませて感極まった風情のエリーゼが、アイアンワークの美しい白い椅子を蹴立てて、こちらへと小走りに駆け寄ってきた。勢いよく抱き着かれる。

「私、ずっと待っていました……。今に『頭が冷えた。君しかいない』と言って、あなたが私のところに戻るのを」
「ハドソン嬢、離れて下さい」

 ハーシェルは右手でエリーゼの肩を軽く掴み、自分から引きはがした。
 目を丸くしたエリーゼが、呆然と佇む。

「どうして、そんな冷たいことをおっしゃるの?」

 信じられないと露わにして、エリーゼは涙ぐむ。ハーシェルは肩を落とす。

「説明しないと分かりませんか? あなたが昨日、私の婚約者にしでかした事はすでに分かってるんですよ」
「まあ、ひどい言いようですわ。ご招待したのに、いつの間にかお帰りになっていただけですのに……」

 弱った声で呟くと、エリーゼは眉を寄せる。

「あの悪女、そうやってあなたの関心を奪ったのね。することがひどいわ」

 ハーシェルは溜息を吐いた。

「最近、彼女の家に脅迫の手紙が届いていました。だから私は彼女に、こっそり護衛を付けていたのです。彼が全て知ってますよ」
「ではその男をそそのかしたんですわ」
「いい加減にしなさい!」

 ハーシェルはとうとう冷たく切り捨てた。エリーゼはビクリと肩を揺らして、ハーシェルを見上げる。怯えを含んだ顔を見下ろし、ハーシェルは努めて冷静に告げる。

「私はあなたと復縁するつもりはありません。とっくにあなたとの縁は切れました。別れた時、あなたもそれを認めた。あなたはあなたの幸せを見つけるべきですよ」
「やめて!」

 つんざくような声で、エリーゼは叫んだ。両手を耳に押し当てる。

「私の幸せはあなたなの、ハーシェル様。本当は別れたくなんて無かった。でもしつこくして、嫌われて憎まれるのが怖かった。だから別れ話を受け入れたわ。あなたが戻って来ると信じてたから!」

 青い目から涙が次々に零れ落ちる。

「それなのに、私よりずっと若くて、顔だけが取り柄なような子と婚約するなんて……。あなたに路上で水をかけるような人なのに」
「そうですね。確かにアイシス嬢は激しいところがありますが、身を挺して他人を守ろうとするような優しい人でもあります」

 エリーゼは悔しそうにキッとハーシェルをにらみつける。

「水をかけたのよ?」
「ええ」
「私の使用人に、椅子を投げたわ」
「ええ、友人を守ろうとしたそうですね」
「信じられない、彼女は淑女とは言い難いわ!」
「礼節や教養は学べばいいだけの話です。それに、彼女が実力行使に出るのが嫌なら、私が守ればいいだけです。簡単なことだ」

 淡々と返すハーシェルを、エリーゼは食い入るように見つめる。ぺたっと床に座り込んだ。

「あなた、本当に彼女が好きなのね」
「ええ、愛しています」

 ハーシェルが即答すると、エリーゼは再び眉を吊り上げた。

「……って」
「え?」
「帰って! 私の愛を裏切った人なんてもう知らないわ。二度と私の前に姿を現さないで!」

 涙声の中に、怒りも混ぜて、エリーゼは叫んだ。
 そのまま床に突っ伏すようにして泣き始めた彼女の姿に、ハーシェルは苦笑する。
 少しやりすぎたかもしれないと思ったが、いずれにせよ、彼女を泣かす結果に代わりは無い。

「テオ、あれを」
「はい、失礼します」

 ハーシェルが廊下に声をかけると、すぐに駆けてきたテオは、肩掛け鞄から書類を取り出して、エリーゼの傍のテーブルの上に置いた。
 ハーシェルはテオとともに温室の入口に向かい、テオを先に廊下に出させて、扉の前でエリーゼを振り返る。

「昔馴染というよしみです。あなたの婿か嫁ぎ先か、良さそうな家を見繕っておきました。気に入った人がいたら、このテオにでも言づけておいて下さい。見合いの席を設けますよ」

 そう言うと、素早く扉を閉める。
 流石のエリーゼも怒ったのだろう、すぐに扉に何かが当たり、割れるような音がした。恐らくカップだ。

「最低ですね、ハーシェル様」

 待っていたテオが言った。そのまますたすたと廊下を歩き始める。言葉の冷たさの割に、テオはあまり興味が無さそうだ。

「知っているよ。だが、彼女に別に好きな人間が出来れば、私のことなんか忘れるさ。そうなると私もありがたい」
「若奥様も大変ですね……」

 呆れ顔のテオに、ハーシェルは微笑みを返す。
 エリーゼはハーシェルがアイシスに無理矢理捕まえられたように思っていたが、ハーシェルからすれば、捕まえたのはハーシェルの方だ。もしエリーゼがハーシェルのことをもっとよく理解していたなら、むしろアイシスに同情するだろう。

(逃がすつもりもないけどね)

 想い人のことを思い浮かべて、笑みを浮かべるハーシェル。そんな主人を見上げて、テオは首を横に振る。そして小さな声で、お可哀想な若奥様、と呟いた。

     *

 後日、エリーゼからの手紙が届いた。中には一枚の書類が入っていただけだが、ハーシェルには意味が分かった。
 結局、エリーゼはハーシェルのことを諦めて、別の出会いを選んだようだ。
 これで一段落だと機嫌良く執務をこなしていると、ロベルトが不気味そうに訊いてきた。

「何だ、どうしたんだ。気持ち悪い……」
「こないだのハドソン嬢の件だよ、片が付いた」
「そうなのか? 良かったな。いったいどうやったんだ?」

 驚くロベルトに仔細を話すと、害虫でも見るような目をされた。

「ハーシェル、それは本当に最低だ……。自分を好きだと言ってくれている人に、見合いの書類を渡してくるなどと、お前、悪魔か!」

 女性には親切だと信じていたのにとぶつぶつぼやくロベルトは、額に手を当てて、頭痛をこらえている。
 ハーシェルは書類にサインする手を止めて、ロベルトを見据える。

「でも彼女は別の人間を選んだ。それが答えだよ、ロベルト。愛や恋だけでこの世は回っていないんだ。そのことを、困窮している彼女はよく分かってる。僕は彼女に、身を引く代わりに嫁ぎ先を提供してあげただけ。僕の婚約者に手出ししておいてこれで済んだんだから、むしろ親切だと思うけどな」
「……はあ」

 色々と言いたいことがありそうだが、結局言葉を飲み込んだらしいロベルトは溜息を返した。

「まあ、お前が恋に現を抜かそうと、どこか冷めているのは知ってたが……。ここまでとは恐ろしい。まさか、アイシス嬢もそうなのか?」

 さっと青ざめるロベルトに、ハーシェルは首を横に振って返す。

「ありえないよ。彼女のことは本気だからね。――そうだね、僕は愛や恋だけじゃないって知ってるから……信じたくなったんだ。彼女となら愛も確かにそこにあるかもしれないってね」
「言う事が詩人みたいだが、単に惚れたってだけの話だろ。頭の良い奴はややこしいことを考えるから面倒だ」

 不可解だと呟いて、ロベルトはトントンと指先でハーシェルの机を叩いた。サインをしろという催促に、ハーシェルは書類仕事を再開する。

「トレーズ家の面々にはなんと言うつもりだ?」
「ちゃんと話して分かってもらえたとすでに話してあるよ」
「抜かりない奴」

 ハーシェルはすぐに急ぎの書類に目を通してサインをすると、椅子を立つ。そしてさっと上着を身に着けて、ロベルトを振り返る。

「それじゃ、仕事は済んだから僕は少し出てくるよ」
「ん? 今日は外出の予定は無かったはずだが……」
「あるよ。アイシス嬢とデートの予定が」
「は? おい待て、ハーシェル。うわっ」
「後はよろしくね、副団長殿」

 ハーシェルに勢いよく書類を押し付けられたロベルトは、結局床にばらまいてしまう。慌てて拾い上げて振り返ると、すでにハーシェルは部屋を出た後だった。

「ハーシェル、愛を信じるのは良いが、仕事をしろ!」

 警備団に、ロベルトの声が響いた。


  ……終わり。

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