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第一幕 取り違えにご用心!
七章 迷惑な善人
しおりを挟む「ヘグシュンッ」
レニーは悪寒に身を震わせ、盛大にくしゃみをした。
(何でかしら、今、陰湿眼鏡の顔が浮かんだわ……)
ぐずっと鼻を鳴らしながら、言いようの知れぬ嫌な予感に身を縮める。きっとあの執事は相当お冠だろう。
(親切な人だと思ったのに……。都会には羊の皮を着込んだ狼がたくさんいるから気を付けろって、家を出る前にお義母さんが言ってたのに。狐の顔した狼もいるのね)
今更ながらジゼルの注意を思い出し、ややずれたことを考えて、レニーは溜息を吐く。その視線の先で、暖炉にくべられた薪ががらりと崩れた。静かな所に音が響き、思わずびくりとしてしまう。
足の手当てはしてもらえたし、寝台しかない粗末な部屋には小さな暖炉があるから暖かい。それに毛布などの寝具もきちんと揃えてくれている。具合が悪いご令嬢の容体が落ち着くまでという名目らしいが、どうもホルソンズは、保護した“ディアナお嬢様”と引き換えに謝礼金を貰う心積もりらしかった。
見知らぬ屋敷の一画に閉じ込められたレニーはすっかり困ってしまった。レニーはディアナではないからだ。
とりあえず、人違いとばれて非道な目に遭うのは怖いので、ディアナのふりをしつつ、逃げる機会を伺っている。
窓から外を見ると、日が沈んでだいぶ経っているのもあり、すっかり藍色に染まっていた。昼間に降り続いていた雪は、いつの間にかやんでいた。
パンとスープの食事はもらえたし、寒いだろうからと薪だけはたくさん用意されているので問題無いが、扉は鍵をかけられている。ここは一階なので窓から脱出してもいいが、そちらも鍵がかかっていた。内側から鍵をかけるタイプの窓で、その鍵は従者が持っている。加え、窓の立てつけが悪い上に寒さで凍りついているらしく、あの筋肉従者がひどく苦労して窓を開けて換気していた。
(つまり、窓から逃げようとしたら、逃げ切る前に音が響いて捕まるってわけよね)
この部屋にある物は、ベッドと寝具、そして薪。もし椅子があったら窓を割ることも出来たが……。
そこでふと、レニーは自分の頭に手を当てた。
(そうだわ、この髪飾り、花の部分の形を綺麗にする為に、細い針金を使ってたじゃない)
細工物が好きなのもあり、装飾類は手に取れば何となく材料が分かるので、感心した覚えがある。
髪飾りを手に取って、花飾りの花弁に手を当てる。いい具合に太い針金だ。
(後で修理して返そう。そうしよう)
花を形作る布は破らないように、縫い目の隙間から針金を慎重に取り出そうと、暖炉の明かりだけを頼りに奮闘し始めた。
準備を終えたレニーは、逃げる時間を稼ぐ為、燃え盛る薪を一本、暖炉から取り出した。何とか手で持てる所がある程の薪があって助かった。彼らは火かき棒すら置いてくれなかったのだ。
それを掴んで扉まで行くと、真鍮製の丸い取っ手の上に薪を乗せ、簡単に落ちないように、扉の装飾へとドレスのリボンで結びつけた。
そうしておいてから、下着や髪飾りから取り出した針金で、窓の鍵穴をこじ開けた。窓を必死に押し開け、立てつけが悪いせいでギイギイと軋んだ音がするのに焦るが、全開にするのに成功する。
「よしっ」
窓をよじ登り、反対側の地面へと飛び降りた。
「つめたっ」
この怪我ではとてもヒールは履けないので、裸足だ。雪が積もった地面のせいで、足の裏を針に刺されるような鋭い冷気が襲う。それに着地の衝撃で右足が痛んだ。
レニーはぐっと唇を噛んで耐え、憤然と顔を上げる。
「負けないわよぉっ」
主に己との戦いである。星明りを頼りによろよろと走り出したレニーは、ここが王都の外れか、もしくは外にある小さな林の中だと気付き、ゾッとした。どこに逃げればいいのか分からないが、林に逃げ込むことに決める。
そうして駆け出したレニーの後ろで、騒ぎを聞きつけた従者が部屋にやって来て、うっかり熱された取っ手を掴み、悲鳴を上げるのが聞こえた。
(あんなことしたんだもの、捕まったらただじゃ済まないわ)
遅れて怒りの声が遠くから聞こえたことに、レニーは足が痛いのも忘れ、恐怖に突き動かされて林をひた走る。もう前しか見えなかった。
どれくらい走っただろうか。
真っ暗な林の中で、レニーは木の幹に手を当て、肩で息をしていた。ひどく疲れていたし、足が痛かった。怪我のせいだけではなく、裸足で駆け回ったせいで、足の裏を石や草で切ったせいだ。
そうしていて、ハッと顔を上げる。
犬が吠える声がしたのだ。
レニーは流石に青ざめた。
(あいつら、もしかして狩猟犬を放したんじゃ……)
確証はなかったが、周りを見回し、登れそうな木に当たりを付けると、レニーは木に登った。これほど、田舎育ちで良かったと思うことはない。
犬の吠える声や息遣いが近づいてくるのを、レニーは木の上でじっと見守る。体がぶるぶると震えてくるのを止められない。寒さのせいだけではなく、単純に犬が怖いせいだった。
小さい頃に犬に手を噛まれてから怖いのだ。相手は子犬で、甘噛みのつもりだったらしいが、幼いレニーにはそんなことは関係なかった。すっかり犬とは怖いものという印象が植えつけられてしまっている。
虫や蛙、馬や牛や羊は平気なのに、犬が苦手というのはどうなんだろうと思わなくもない。
幹にしがみついて、絶対にここから離れるものかと頑なに身を強張らせていると、とうとう犬が三匹、レニーの足元の木までやって来て、盛んに吠えたてた。
「こここ怖くないわよ! あっち行きなさいよ! それで肉屋の主人に蹴り飛ばされて追い払われなさいよっ!」
完全に弱者の負け惜しみを木の上から叫ぶレニー。
「どんな罵倒ですか、まったく……」
呆れた声がして、「えっ」とそちらを見ると、犬三匹の首輪についた紐の先に、カンテラを片手に灰色の執事が立っていた。
「ええっ、陰湿眼鏡!?」
「……どうやら、あなたとはじっくり話す必要があるようですね。田舎娘?」
悪魔のような笑みを浮かべるダリアン。
「ああ、本物だわ。その悪魔じみた最低な笑顔! 助けに来てくれたんですか?」
「そのつもりだったんですが、見なかったことにして帰ってもいいですか?」
「駄目よ、駄目駄目駄目! ごめんなさい! つい本音が出ちゃって」
「しおらしく言っても、失言は取り消せませんよ」
レニーは後ろ頭を掻いて、てへっと可愛らしく笑って誤魔化してみたが、ダリアンには効果は無かった。
「とりあえず下りてきてはいかがですか?」
「その、か、可愛らしいワンちゃん達が、あっちに行ってくれたらね」
「ああ、気付かなくて申し訳ありません。ご婦人には猟犬は恐ろしいですよね。いえね、坊ちゃまの指示であなたのいる場所を突き止めたはいいんですが、どこかの間抜けなお嬢さんが、よりによって山の中へ逃げ込んだせいで、こうするしかなかったんですよ。雪の積もる山に逃げるだなんて、凍死したいんだか知りませんけど、馬鹿の所業ですね」
レニーから遠く離れた木の幹に紐を括り付ける間も、ダリアンは淡々と嫌味を言った。そして、空に向けて銃を鳴らす。
驚くレニーに、ダリアンは言う。
「合図ですよ。ここであなたを見つけたという」
「あ、そうなの……。というか、ここって山なんですか? 林かと思ってたわ」
寒さのせいで指先がかじかみ、危うく滑りかけながら、ゆっくりと木から下りたレニーは、改めて周りを見回してみた。緩やかな起伏を伴い、林が奥へと続いていた。星と雪明かりでぼんやりと見える感じでは、やはり林にしか見えない。
「もう少し行けば、勾配が急になりますよ。しかし、運が良かったですね。雪だまりにはまっていたら、そのまま身動き出来ずに凍死なんてことがあったかもしれません」
「そうですね……」
それを考えると、ゾッとした。今頃になって怖くなっていると、ダリアンが自分の着ていたコートを脱いで、レニーに手渡した。
「ひどい格好ですよ。それでも着て下さい」
「えっ?」
特に服装は触っていないのだが、どこかおかしかっただろうか。レニーは自身の格好を見下ろして、さっと青ざめた。
白いドレスの裾は草の汁や泥で汚れ、更に、知らないうちに木の枝で引っ掛けたのか、あちこちが切れている。みすぼらしいことこの上ない。
レニーは衝撃のあまり、ふらりとよろけた。驚いたのか、手を差し出したダリアンの左腕にしがみつき、レニーは涙目で見上げる。
「どうしよう、ダリアンさん! 私、私……」
「なんなんですか、急に。落ち着いて下さい」
切迫したレニーの様子に、さしものダリアンもたじろぐ。
「私、弁償するお金がありませんっ!」
「…………は?」
唖然と目を瞬くダリアンに、レニーは怒涛の勢いで言葉を連ねる。
「こんなお高そうなドレス、私の給料の何年分で払えるんでしょうか? 何年かかっても働いて返しますから、お願いします、警察に突き出すのだけはやめて下さいっ! 悪気はなかったんですっ」
必死に訴えてダリアンの腕を揺さぶりながら、レニーの目にじわじわと涙が浮かんできた。
「何てことなの。堅実にお金を稼いで、生活するのがモットーなのに、都会に出て一ヶ月目で借金を作るだなんて! 死んだ両親に申し訳が立たないわ! 何より何て言い訳しよう! 不良娘ってニーネさんに追い出されたら、私、行く宛がないのにっ」
飛躍した予想は、レニーが路頭に迷う所まで進んだ。暗い未来に耐えかねてわっと泣き出したレニーは、ダリアンを巻き込み、その場にぺたりと座りこむ。
巻き込まれて雪の積もる地面に座りこむ羽目になったダリアンは呆れた様子だ。真剣に悲嘆に暮れているレニーを見下ろし、対処に困ったようだったが、やがて観念すると、仕方なさそうにレニーの頭をぽんぽんと撫でた。
「そこでそういう方向に行くとは予想外でしたね。無駄にまっすぐな人ですね、面倒くさい」
言っていることは酷かったが、子ども扱いで頭を撫でる手は存外に優しかった。しばらくそうして泣いているうちに、頭が真っ白になっていたレニーの気持ちが、次第に落ち着いてくる。
ディアナが言っていた、ダリアンが冷たいところはあるが優しい人だというのは、こういう所なのかもしれない。
陰湿眼鏡のくせに良い所もあるのではないかと、レニーが少しだけ見直していると、ひんやりとした声が頭上から降ってきた。
「……何やってるの? 二人とも」
反射的に上を見たレニーは、そこにいつの間にか人が増えているのに気付いた。視界は涙でぼやけており、判然としないが、ランタンを手にした焦げ茶色の髪の少年が立っているらしいのは分かった。
「……誰?」
よく見えないので目元を手でこすったが、やはり視界が歪んでいてよく見えない。レニーの問いに、おぼろげな少年はそういえばというように言った。
「ああ、この格好じゃ分からないかな。エリックだよ」
「え? エリックなの?」
いつもの女装ではないから分からなかった。男装することもあるのか。
ずれたことを考えたが、遅れて雇い主でもあるのだと気付いた瞬間、先程の衝動がぶり返した。
「ごめんなさい! 借りたドレスをこんなにボロボロにしちゃって。わざとじゃないの。だからお願い、警察に突き出さないでっ」
そして、せめて猶予をくれるようにと必死に頭を下げた。
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