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第一幕 取り違えにご用心!
六章 着せ替えとお散歩
しおりを挟む「あのう、ミセス。そろそろ退出したく思うのですが……」
「次はこれよ、レニーちゃん」
「ミセス……?」
「それで、髪にはこれね!」
「…………」
レニーは若干涙目で、レニーの声を無視して衣装を用意するミリセントを見つめた。その無言で解放を願う様に、メイド達が気の毒そうに苦笑している。しかし彼女達も止める様子はない。
「ミセス、そろそろ十着目です。飽きませんか……?」
飽きていて欲しいと願うが、ミリセントには眩しい笑顔で否定される。
「まさか。まだまだ足りなくってよ。さあ、次はこれよ。レニーちゃんは明るくて綺麗な金髪をしているから濃い色合いの服が似合うけれど、こういう色合いも良いと思うの。そうだわ! これを着たら、お出かけしましょう」
「えっ!? 待って下さい、ミセス。私の仕事は細工物で……」
「いいわ、本当に良い考え! 私、娘と公園を散歩するのが夢でしたの。ディアナとそっくりなあなたとなら、そんな気分になれるわ」
病気の娘を持ち出された上にさっくりと流され、レニーは何も言えなくなる。溜息を吐き、されるがままで、工房の道具に思いを馳せる。切実にあそこに帰りたかった。
ただ服を着せ替えられて髪に飾りを付けられるだけだが、非常に疲れる。
(世の中のお姫様たちは大変な仕事を毎日しているのね……)
レニーだって女の子なので、美しいドレスを身に着ける貴族の令嬢のように綺麗な服を着てみたいと思うことはあったが、実際にしてみるとこんなに疲労するとは。こんなことを、貴族の女性は毎日しているのだ。彼女達は、部屋着、朝食を食べるドレス、午後に着るドレス、お茶の時に着るドレス、夜に着るドレスというように、一日に何度も着替えると聞く。だからこそ、仕立屋にも注文が多く来るのだ。社交会シーズンはもっと増える。流行のドレスに身を包むことが、彼女達のステータスなのだから。
気持ちがめこっとひしゃんできたレニーだが、線の細いディアナを思い出して気合を入れた。
(こんなことを、あのお嬢様にさせられないもの。ちょっとの我慢よ、レニー!)
今日会ったばかりで親しいわけでもないのに、似た顔をしているせいかすっかり親近感が湧いてしまっていたレニーは、間接的に役に立てたならそれでもいいじゃないとお人好しなことを考えた。
だが、嬉々として衣装部屋に飛び込んでいくミリセントを見ていたら、その気持ちもすぐに薄れた。
(本当に、いつ解放して下さるんですか、ミリセント様……!)
逃げたいところだが、雇用主の母親だし、大事な飯の種。しかも宿舎は屋敷の敷地内なので逃げ場はない。
げんなりしたり気合を入れたりと忙しく気持ちを切り替えながら、レニーは次のドレスを半ば絶望的な気持ちで眺めた。
*
女神像が抱えた甕から水が落ちる様子の噴水が、太陽の光を反射してきらりと光った。
あちこちに創世神話にえがかれる神々の石像が建てられている為に“神話公園”と呼ばれているカレアンテ公園内は、綺麗に除雪されており、朱色の煉瓦床が綺麗に顔を出していた。
整然と植えられているイチョウには葉はなく、その寂しい枝を北風が通り抜けてヒュウヒュウと音を立てている。
この寒さの中、レニー達以外にも散歩する者がまばらに見かけられ、レニーは物好きが他にもいるのだなと心中で呟いた。
「娘と散歩だなんて嬉しいわぁ」
物好きの一人であるところのミリセントは、ドレスの上にしっかりと毛皮のコートを着込み、日傘を差して歩きながら、にこやかに微笑んでいる。
「そうですねえ、お母様。良い天気ですわ」
“マデリーン”になっているエリックも微笑んで返す。
(“娘”でしょ、何同意しちゃってんの、この人)
顔を引きつらせそうになるレニーの前の方で、扇子で口元を隠したミリセントが微かに眉を寄せる。
「ああ、ゾッと寒気がするわ、その言葉遣い。でもその服装もよく似合っていてよ、“マデリーン”」
ミリセントは気持ち悪そうに身震いしたが、最終的にエリックを褒めた。
「ありがとうございます、お母様」
微笑み返すエリック。
(女装は良くて、女言葉だけ気持ち悪いなんて理解不能だわ……)
ミリセントとエリックの後ろを、ミラベルの補助を受けてのったりと亀の歩みで追いかけながら、レニーは数度目になる頭痛を覚えた。
「レニーもとっても可愛らしくってよ」
「……どういたしまして」
エリックが褒めるのに、レニーはむすりと口を引き結んだ。
というのも、レニーが着ているのは真っ白いドレスだったからだ。白という色は、結婚式のウェディングドレスか、小さな子どもが着る衣装の色である。エリックが可愛いというのは、子どもの服が似合っていて可愛いと遠回しにからかっているのだ。
(腹立たしいわ。そりゃあ、十六になったばかりで成人したてだけど。子ども服が似合うなんて頬っぺたをつねってやりたい!)
レニーは内心で凶暴な衝動と戦っていた。確かにレニーは背が低くて痩せっぽちなので、年下に見られがちだが、服装までそうしたいとは思わない。
(でも奥様に口答えする勇気はないわ)
ミリセントは優しそうに微笑んでいるが、どこか厳格そうな雰囲気も合わせもっているので、雇われたばかりのレニーは上手い言い方を思い付かず、様子見で口を閉じている。最初から波風を立てるものではないだろう。
これも全て、細工道具を新調する為だ。その為ならレニーは数か月くらいは我慢してもいい。
とはいえ、一度も助けにこなかったエリックには腹が立つ。雇用主なら、労働者が気持ちよく働ける環境を整えるべきだ。最初から妨害されていては仕事も進まない。
レニーが針のような視線でちくちくとエリックの背中に攻撃を仕掛けていると、さりげなく右横に来るようにスピードを落としたエリックが苦笑して小声で謝った。
「そんなに怒らないで下さいまし、レニー。お母様はああ言い出したら父さんでも止められないのですわ。それに、私、最初にちゃんと忠告しましたでしょう? お腹が真っ黒だって」
「だからって、一度も止めに来ないのはどういうことなの? 私は細工をしに来たのよ。お人形さんごっこじゃないの」
レニーもこそこそと言い返す。
「お母様もそこは分かってらっしゃいますわ。今日一日付き合って差し上げれば、満足するはずです」
「むぅ」
頬を膨らませて黙り込むレニーを、エリックは笑う。
「そういう仕草をしてると、本当に子どもみたいですわよ、レニー。うっ、ごめんなさい!」
「うふふふ。それ以上おっしゃっるのでしたら、仕事を放棄して帰りますね、私」
「それは困りますわ! 申し訳ありませんでした!」
慌てるエリックを見ていたら、すかっとした。
「とにかく、レニー。あなたは私の趣味を見ても引いて逃げない大事な友達ですもの、今回は私が悪かったですけれど、どうか仲良くして頂きたいわ」
「う、うーん。何か誤解があるみたいだけど、マデリーン、どん引きしてるからね、私」
「そういう正直さも良い所ですわよね」
どうしてそこで嬉しそうにするのかが理解出来ない。
(ああ、やっぱりよく分からない)
エリックの性格がさっぱり掴めないが、変人臭だけは嗅ぎ取って、レニーは引きつり気味の笑みを返した。
*
「はあ……」
深い溜息が口から零れ、空気が白く染まった。
レニーは公園の隅にあるベンチに座った格好で、肩を落としている。視線の先には、赤くはれあがった右足首があった。
すると、ミラベルがかがんで、レニーのスカートの裾をさっと手で直した。
「レニーお嬢さん、足はお隠しなさいませ。その恰好で足を見せるのは不作法っていうんですよ」
「痛いからどうなってるのかなって思ったんだけど、見たら余計に痛くなってきた」
熱を持ってずきずきとうずくような痛みに、レニーはまた気落ちして溜息を吐く。
「ねえ、ミラベル」
「なんでしょう、お嬢さん」
「私、格好悪いよね」
沈黙したミラベルは、数秒後、素直に頷いた。
「あんなに見事な転倒を見たのは初めてでございますよ。格好悪いより、痛々しかったです」
「……そう。何の慰めにもなってないけど」
「それはそうです。慰めたのではなく、事実を申し上げただけなので」
「……はあ」
レニーはまた溜息を吐いた。
公園を散歩し始めてすぐ、レニーは煉瓦を敷き詰めた地面にハイヒールの踵を引っ掛け、ミラベルが支えるのもむなしく、派手にすっ転んでしまったのだ。しかもその拍子に右足をひどくひねってしまった。その時、グキッとものすごい音がしたくらいだ。結局、痛みで動くに動けず、困った結果、ここで休んでいるからその間に散策してくれとエリックとミリセントに頼んだのだった。
エリックはレニーを置き去りにするのを渋ったが、その辺りがあっさりしているらしきミリセントは、メイドのミラベルにレニーの世話を言いつけ、エリックを案内役にして散策を再開した。公園の奥にあるという迷宮庭園に出向くのが目的だったらしく、近くにその姿は見えない。
レニーは隣で大丈夫かと騒がれるのは嫌だったが、ここまであっさり置き去りにされるのは複雑な気分だった。しかし、ミリセントならば仕方ないような気がした。きっとあのご婦人は、超が付くマイペース人間だ。エリックのマイペースさは、母親であるミリセント譲りに違いない。ただ勘だが、きっとそうだ。ああいうタイプは、いちいち気にしているとこちらの身がもたないので、適度に諦めた方が良い。
「本当に痛そうですね、お嬢さん。こちらでしばらくお待ちになっていて頂けますか? 馬車に治療箱を取りに行ってきます。すぐに戻りますから」
「いいわよ、そこまでしなくて……」
「駄目です。本当は馬車にお連れしたいんですが、その様子では厳しいでしょう? そうだわ、ついでに御者をお連れしますから、運んでもらうようにお願いしてみますね」
「ええっ、ますますいらないわよ。あんなお爺さんに運んでもらうだなんて、お爺さんが可哀想!」
ミラベルはくすっと微笑む。
「御者のリブスさんはとっても力持ちですから、心配いりませんわ。では、ここで大人しく待ってて下さいね。絶対に勝手に動かないで下さいね?」
「子どもじゃないんだから、そんなに言わなくても動かないわ。それに動けないし」
「そうですね。すぐに戻ります」
気の毒そうな顔をし、ミラベルは早足でその場を立ち去った。
ミラベルがいなくなると、レニーはまた溜息を吐いた。
(何でこうなっちゃうんだろう。あんなの履いて、悠々と歩けるお嬢様達はきっと素晴らしいバランス感覚の持ち主なのね。私は駄目だわ。野良猫にだって鼻で笑われちゃう)
ヒール部分に体重をかけるとぐらりとする頼りない感覚が微妙な気持ちになるし、歩くたびに靴が抜けそうで、普段のように大股で歩けない。なるほど、これは淑女の靴だ。姿勢を正しくしないと、早足で歩くのは難しいだろう。
(自分のがさつさが浮き彫りになったわ……。へこむ)
レニーの考察は己を傷つけただけで終わった。
肩を落とし、煉瓦床を見つめてうなだれていると、足元に淡い影が落ちた。
「……?」
もうミラベルは戻ったのかと顔を上げると、灰色のトレンチコートを着た紳士が立っていた。黒いシルクハットといい、コートの下から覗く灰色のスラックスの裾や、磨きこまれた黒革靴といい、紳士だ。黒い髪は整髪料でしっかり撫でつけているその男は、三十代くらいに見えた。狐のような尖った顔立ちの中で、鼻の下にある二本の髭が印象的だ。
「失礼、驚かせて申し訳ありません。どうやらお困りのようだとお見受けしましてね」
「え?」
つい二本の髭に見とれていたレニーは、男の問いかけにきょとんと返す。
「お困りなのでしょう?」
ずいと身を乗り出す男。勢いに圧されて後ろにのけぞりながら、レニーは曖昧に頷く。
「え、ええ、まあ……」
困っているといえば確かに困っている。
「でも大丈夫で」
「やはりいけない!」
「……いえ、だいじょ」
「こんな若いお嬢さんを、冬空の下に放置するだなんて、何を考えていらっしゃるのでしょう! しかも、お嬢様は確かお体を悪くされていたはず」
話を遮り、熱弁する男を、レニーはどう口を挟んだものかと見上げるばかりだ。
(ん? 体が悪い……? 私は元気だけど)
男の言葉が引っかかり、怪訝に思う。
「お屋敷までお送りしますよ、ディアナ嬢」
男が胸に手を当てて、軽く一礼するのをレニーはぽかんと見つめ、遅れて合点する。
(この人、ディアナお嬢様と私を間違えているのね!)
レニーは憤然となった。あんなお嬢様と自分を間違えるだなんて、この男の目は悪いに違いない。
「結構です!」
怒りに身を任せ、立ち上がったレニーは、右足首にビキッと嫌な感覚が走り、動きを止めた。冷や汗が背中に浮かぶ。
痛いと叫びたいくらいの激痛が走ったのだが、そうして声を出すことが足の怪我に響きそうで身動きが取れず、口をわななかせて耐える。
「お顔の色が真っ青ですよ、ディアナ嬢。ご無理をなさらず、どうぞこちらへ! ほら、お前、お嬢様をお運びするんだ」
「畏まりました、旦那様」
隅に控えていた従者が近付いてきて、身じろぎするのを恐れて硬直するレニーをひょいと腕に抱え上げた。それで足への負荷がなくなったレニーだが、今度は従者が歩くたびに足が揺れて、痛みが波のようにやって来た。
「い……っ、ちょ、止まっ」
「おい、お前。お嬢様は繊細なのだ。宝石のように扱え!」
「はい、旦那様!」
足を揃えて踵を鳴らし、勢いよく返事する従者。
その動作がとどめだった。
(ぬわぎゃあぁぁぁっ。滅茶苦茶痛いわ! っていうか、私、ディアナ様じゃないっ。ちょ、止まんなさいよ。どこ行くのよ! この筋肉~~っ!)
心の中では散々に叫んでいるのだが、従者がぞんざいな運び方をするせいで、足にばかり意識が集中して声に出せない。
(そもそもあんたは誰なのよ、この髭男ーっ!)
どうやらディアナと知り合いのようだが、あいにくとレニーはディアナではないので分からない。
ようやく話を聞けたのは、男の馬車の椅子に座り、痛みが治まった後だった。
「み、ミスター? あのぅ、ミスターはどちらの方でいらっしゃいます……の?」
ぐったりとしてはいたが、レニーは何とかそう訊いた。だいぶ消耗してしまった。
本来は他人の馬車に容易に乗るものではないだろう。ディアナみたいなお嬢様なら尚更だ。男はどうやらレニーが置いてきぼりにされたと思ったのか、勘違いから親切心で手助けしようとしているようだし、そもそも反論する隙が無かった。
きょとりと黒目を瞬いた男は、左の髭を指先で梳きながら答える。
「あ、ああ。そうですね、四年前にリッドフォード家の茶会に招かれて以来ですから、覚えていないでしょう。何せ、あの時あなたはまだ小さかったですし、何より、あなたの兄君の後ろに隠れておいででしたから」
何それ、可愛い。
想像したレニーは、口元を緩ませた。
あのお人形みたいなディアナが、砂糖菓子のようなエリックの後ろにいるだなんて可愛い。
(って、ちがーう!)
女装姿のエリックで想像してしまった己の妄想に、レニーは大急ぎでバツ印を付けた。顔がハテナ状態のエリック少年が立ち、その後ろにディアナを持ってきてみた。これは怪しい。
見た事が無いエリックの男の格好がさっぱり想像出来ないレニーは、眉間に皺を刻む。
その様子を勘違いした男は、やんわりと取り成す。
「いえ、そこまで必死に考え込まなくても大丈夫ですよ。私が覚えていますから。申し遅れました、私はランバート・ホルソンズと申します」
「ホルソンズ……というと、美術商の?」
美術商ホルソンズといえば、王都でも名が通っている。十年前から成長してきているやり手の美術商だ。人気画家の絵から名画や古物、果ては沈没船に残る宝物まで、手広く取り扱っているとか。海賊と手を組んでいるというほの暗い噂がある。レニーの雇い主であるニーネに思いを寄せている布地商の青年が、前に夢見心地に語っていた。「もし自分が沈没船の宝を見つけたら、その宝石で指輪を作ってニーネにプレゼントしたい」と。それにレニーは「沈没した船の宝で作ったアクセサリーなど、ニーネだけでなくどの女性も不気味がって受け取らないからやめておいた方がいい」と返した覚えがある。ロマンが無いと嫌そうに言われたが、沈没した船の宝だなんて呪われてそうだし、何より縁起が悪いから誰だって拒否すると思う。
「あの日、ご当主の頼み通り、冒険譚をお聞かせしようと思いましたが、調子を悪くされてすぐに奥へお帰りになられたのですよ。ですから、覚えていなくても当然かと」
「そうなんですか……」
そういえば、美術商ホルソンズは、冒険記を出しているのでも有名だった。仕事で取引している相手の冒険譚を買い取って、自分の手柄としているというもっぱらの噂だ。こっちはゴシップ誌が叩いていたのをニーネから聞いた。ニーネは、日常の退屈しのぎにゴシップ誌を読んで、それで騒いで憂さ晴らしをするところがある。同じ理由で大衆小説も好きだから読書家でもあった。
馴染みの青年やニーネの語りを思い返し、一つ頷くレニーの反応を見て、ホルソンズは薄笑いを浮かべた。
「ご存知のようで嬉しいですよ。さあ、参りましょうか」
「ちょっと待っ」
話を聞いていたせいで、戻ると言うのを忘れていた。何て大失態だ。
慌てて口を開こうとしたレニーは、直後、馬車がガタンと大きく揺れたせいで舌を噛み、口元を手で押さえて黙り込む羽目になった。車輪が石でも踏んだのだろう。ついでに足の怪我にも響いた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。きちんとお送りしますからね」
ホルソンズのにこやかな笑みはどこか胡散臭く、善意を疑うようで気が引けたが、レニーはやっぱり降ろしてもらわねばと思考を巡らせた。
*
エリックがミリセントを宥めすかし、ようやくベンチのある場所まで戻ってくると、メイドのミラベルが青ざめた顔できょろきょろと周りを見回しているところだった。傍に御者のリブス老人がいて、怪訝そうな顔をしている。
「どうしたの、ミラベル」
マデリーンになりきって、女言葉で問いかけるエリックをミラベルは救いの神でも見るような目をした。
「わ、若旦那様! いえ、マデリーンお嬢様!」
慌てて言い直すミラベルにエリックが事情を聞くと、話し終えたミラベルは走り出して行こうとする。
「レニーお嬢さん、あの足じゃ遠くには行けないはずです。迷子になって泣いてたら可哀想ですから、探してきます!」
「落ち着いて、ミラベル。レニーは迷子になって泣くような柄ではありませんわ」
エリックが冷静に言うと、ミラベルはキッと睨みつけてきた。
「若旦那様、王都に来てまだほんの一ヶ月だなんて、不慣れもいい所なんですよ! うっかり裏路地にでも入ったら、目も当てられませんわ。それに、あんなドレスを着てるし、ごろつきのカモにされてしまいますっ」
「そう、まさにそこですわ。あんな白いドレスが目立たないわけがない。彼女を見かけた人がいるかもしれないわね」
「確かにそうでございますねっ。では、ミラベルは目撃情報を探して参りますっ!」
メイド服の黒いスカートを翻し、ミラベルはカモシカのように去っていった。猪突猛進そのものだ。御者のリブスが呆れた目でその後ろ姿を見送っている。
ミラベルが完全にいなくなると、エリックはちらりとミリセントを見た。ミリセントは静かに微笑んでいる。
「……お母様?」
「エリック、その話し方は今はやめなさい」
「分かりました。それでどうされたんです、怖いお顔をされて」
「いえ、どちらかしらと思っただけよ。貧乏人がドレスを売ってお金儲けをしようとしているのか……」
「母さん」
エリックは低い声でミリセントを遮った。
「その推測は彼女にも僕にも失礼ですよ。第一、彼女がドレスなんて着る羽目になったのは、彼女の意思ではありません」
「分かってるわ、言ってみただけです」
ツンと顎を上げて返し、ミリセントは口元を扇子で隠した。そして、目をすぅっと鋭くさせる。
「そちらでも迷子でもないなら、ディアナと勘違いした馬鹿者の仕業でしょう。身代金の請求でもするつもりかしら。あの娘はディアナではありませんけれど、我が家への宣戦布告としては充分ね」
パチンと扇子を閉じると、ミリセントは日傘を差した格好で歩き出す。曇天の空から、ひらりと雪が降り始め、視界をちらつく。
「エリック、あなたの好きになさい。今回は私が悪いから、何も口出ししないわ。――でも、報復は忘れずに。私は先に帰ってお茶にしますわ」
「ええ、女性が体を冷やすのは良くありませんから、是非ともそうされて下さい。ですけどね、母さん。もしかしたら迷子に道案内でもしているかもしれないから、またお知らせしますよ。それから、リブス。母さんを馬車に案内した後でいいから、僕の鞄を持ってきてくれるかい?」
「畏まりました、坊ちゃま」
顔の左頬にある日焼けによるシミが印象的な、小柄な体躯のリブス老人は、黒い丸帽子を脱いで会釈をすると、ミリセントの後ろについて馬車の方に帰っていった。やがて戻ってくると、一抱えもある革製のトランクをエリックに差し出す。
「ありがとう。少し待っててくれる?」
「構いませんよ」
頷くリブスに背を向け、エリックは降り出した雪の為にすっかり人けが無くなった公園の隅に向かい、高い植込みが重なっている所にひょいと入りこむ。その姿は完全に隠れた。
そして、すぐにばさばさという布の音がして、ドレスが植込みの上に放られるのをリブスは複雑そうに眺め、溜息を吐いて首を振った。そこへ、ミラベルが猛然と走ってきた。
「マデリーンお嬢様ーっ、情報ゲットですーっ! って、あれ、“若旦那様”に戻られたんですか?」
「よいしょ……っと。ああ、ご苦労様、ミラベル。そうだね、この格好も好きなんだけど、動きにくいから」
油をしみこませたハンカチで顔を拭き、乾いたハンカチでもう一度拭くと、化粧が綺麗に落ちた。
そうして顔を上げたエリックには、女性らしさは見当たらなかった。優しそうな顔立ちは綺麗だが、青年らしい溌剌としたもので、白いシャツと青いベスト、黒の乗馬用ズボンとブーツがよく似合っている。意識的に高い声音を保っていたのをやめてしまえば、完全に男である。どの辺が美少女だったのかが分からないくらいの変わりように、何度見てもミラベルやリブスは複雑な心境にさせられる。変装が上手すぎるのだ。
生ぬるい目をする二人をよそ目に、エリックは更にその上に茶色のコートを羽織ると、ドレスを回収して鞄に仕舞った。
「それで、ミラベル。報告の続きは?」
「はい! 公園を散策していた紳士から、ホルソンズらしき人物が、白いドレス姿の少女を運んでいったというお話を聞けました。顔色が悪かったそうなので、医者に連れていくのだろうと不思議には思わなかったそうです」
「ホルソンズ? ランバート・ホルソンズ? 美術商のあの狸?」
「どちらかというと、狐かと。見た目が特徴的なので、すぐに分かったとおっしゃってましたよ」
エリックは口元に手を当て、笑いを零す。
「あはは、確かに狐だ。上流階級に大人気の方だ、分かる人にはすぐに分かるだろうね。でもそうか、彼ならディアナだと思っても無理はないかな。四年前の茶会に招かれていたからねえ」
「四年前の曖昧な記憶でなら、そうでしょうね。それにディアナ様なら、あの色のドレスでもおかしくありませんし」
「ふーん、なるほどねえ。彼は今、金に困ってるらしいから、動機はそれかな?」
「そうなのですか? やり手の富豪の一人ではないのですか?」
不思議そうなミラベルに、エリックはあっさりと答えを返す。
「彼は、一ヶ月くらい前に噂になった贋作事件の当事者だよ」
「ああ、そういえばそんな事件もありましたね。よりによって、公爵家に贋作を売りつけてしまったんでしたっけ? 全額返金、公爵家の顔に泥を塗ったことへの多額の賠償金、それから信頼失墜での返品騒動が起きてましたよね」
「そうそう。彼がまだ王都にいたことの方が驚きかな」
エリックは何度も首肯しながら、リブスにトランクを渡す。
「はい、これよろしく。リブスは母さんと一緒に屋敷に戻って、ダリアンに話を通しておいて」
「坊ちゃまはどうされるんです?」
リブスの問いに、エリックは飄々とした笑みを返す。
「僕とミラベルは適当に辻馬車でも拾うから平気だよ。ホルソンズがどっちに向かったかくらいは聞いているんだよね? ミラベル」
「もちろんでございます! あちらの馬車乗り場に向かったそうですわ」
「西の方か。彼の持ち家には幾つか心当たりがあるから、探ってみよう」
「お気を付けて、坊ちゃま」
リブスにひらりと手を振り、歩き出すエリック。それを見送ると、リブスは待たせているミリセントの元に戻る為にきびすを返した。
「若旦那様、どうして持ち家のことをご存知なのです?」
ミラベルの問いかけに、エリックは天気の話題でもするような穏やかさで返す。
「ん~? いやあ、うちも幾つか返品したい絵があってね。一応、探してはいたんだよ。でも、鑑定士によれば本物だったから、必要はなくなってね」
「若旦那様も大変でいらっしゃいますね。奥様からの課題でしょう?」
「うん? そうでもないよ。僕は話を聞いて回るだけで、探すのはダリアンだから」
「それなら大丈夫ですね!」
執事のダリアンが嫌いなミラベルは、輝かしい笑みとともに言い放った。エリックも特に咎める真似はせず、それどころかそうだろうと言って同意するのだった。
*
噂のダリアン青年はというと、屋敷に届いた手紙にこめかみをピクつかせていた。
「まったく、あの田舎娘。何やってんですかね。そもそも奥様と坊ちゃまも一緒で、どうしてこうなるんですか」
ぶつぶつと文句を言いながら、手紙をきっちり折り直す。
手紙はランバート・ホルソンズなる人物からのもので、「冬空の下に一人でいらっしゃったご令嬢ディアナ様と再会しまして、具合が悪そうなのが気の毒で、私の屋敷にて保護させて頂いています。体調が戻り次第、そちらにお送りいたします。ああ、お礼など結構ですので、あしからず」という、暗に謝礼を寄越せと滲ませているがめつい文が書かれていた。脅迫文ではないが、こちらの神経を逆撫でするには充分な内容だった。
実際、ミリセントに報告すると、見た者を凍りつかせるような笑みを浮かべた。「我が家に金を要求するだなんて、何て生意気な」と、表情が語っている。
しかし、ミリセントは怒らず、エリックに任せているからそちらの指示に従えと言い残し、屋敷の奥へと戻っていった。
詳しい話はリブスに聞き、ダリアンは手早く準備を済ませると、馬車に乗り込んだ。
(まったく、リッドフォード家に喧嘩を売るなんてどうかしてますね)
綿のような雪が舞い降りる灰色の空を眺め、ダリアンは嘆息した。
(ですが、ディアナ様を出汁にしようだなんて、許しがたき悪行です。手紙の内容も馬鹿にしているとしか思えません。それから、あの田舎娘、見つけたら三時間説教コースですね)
眼鏡を怪しく光らせ、ダリアンは仄暗い笑みを口元に浮かべた。
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拗れた殿下が妻のオリエを愛する話です。
ただそれがオリエに伝わることは……
とても設定はゆるいお話です。
短編から長編へ変更しました。
すみません
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
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「あの、……どなたのことでしょうか?」
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今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
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