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第一幕 取り違えにご用心!
五章 暁の細工師と奥方様
しおりを挟む午後三時。再度迎えにやって来たダリアンと共に、少しだけ元気になったレニーとニーネはリッドフォード家の屋敷へと馬車で向かった。若干マシになったとはいえ、二人ともまだ目の下の隈は消えていない。
屋敷に入ると、そのまま工房へ案内された。
「エリックお坊ちゃまは、午後三時より茶会の予定がありましたので、本日はもうお会いになられないかと。明日、お会いになられると思いますが、気まぐれな方なので私も分かりません。ともかく、本日は宿舎と工房の使用法を説明いたします」
青い屋根の横に長い煉瓦造りの工房兼住居を、白い手袋のはまった手で示して、ダリアンはそう説明した。
「見た通り、工房と住居が扉続きで繋がっている家が、こちらの区画にあります。右手がレニー嬢の使う細工師向けの工房、左手の少々広めの家が、ノードリーさんが使う仕立屋向けの工房になっています。どちらも台所と風呂場がありますが、火の取り扱いにはご注意下さい。特にレニー嬢」
付け加えるダリアンの声の強さに、悪意が潜んでいる気がする。
眼鏡をちゃきっと掛け直すダリアンを、レニーは顔を引きつらせないように必死で耐えて見つめる。青灰色の目は、やっぱり冷たい光を宿しているような感じがする。
「細工には火を使う場合もあるでしょうから、工房には鍛冶用の炉も据え付けています。そちらを使うようにお願いします」
ダリアンは、面倒な仕事をさっさと終えたいとばかりに、淡々と話を進めていく。
中に案内して、一通り使い方や道具の位置、材料の置き場所などを説明したところで、ダリアンは二人にまた外に出るように言った。すると、黒いワンピースに白いエプロン姿のメイドが二人、いつの間にか外に待機していた。赤銅のような赤毛が印象的な活発そうな少女と、小さくて小柄で、どこかおどおどしている灰色の髪の少女だ。赤毛の方は、ディアナの部屋で見かけたメイドなような気がする。
「この二人は、助手兼身の周りの世話をする者達です。屋敷内のうろついていい場所や近付いてはいけない場所なども把握していますし、食事は彼女達が運びます。屋敷から外に出る際は、彼女達に言づけて下さい。あなた方は雇われた身です、使用人頭として私はあなた方を管理する義務があります。いいですか、あくまで期間中は雇われた身なのです。無断外出は控えるように。知り合いを招き入れるなんてもっての他です」
ダリアンは厳しく言うと、あとは任せたとばかりにメイドを一瞥し、足早に去っていった。
ダリアンの姿が遠のくと、赤毛のメイドがちっと舌打ちした。
「相変わらず、いけ好かない奴! なんでお嬢様はあんな陰険眼鏡のことがお好きなんだろ」
「ミラベルちゃん、お客さんの前よ……?」
おどおどしながらも、そっとたしなめるもう一人のメイド。小鳥みたいな印象の娘だ。
「あ、ごめんなさい。私はミラベル。レニーお嬢さん付きになるように、ディアナ様から派遣されてきました! 家事全般得意なので、どうぞよろしく!」
びしっと手を上げ、ミラベルは言い、態度のがさつさとは正反対の優雅なお辞儀をしてのけた。
「私はマチルダです。ニーネさん付きになりました。お料理と裁縫は得意なので、お役に立てると思います。どうかよろしくお願いします」
マチルダは、スカートの裾を持ち上げて、ちょこんとお辞儀をした。人形みたいで可愛らしい。ニーネはすっかり微笑ましい目になり、にっこり笑いかける。
「こちらこそよろしくお願いします。ではさっそく、工房に行きましょうか。荷物を片付けたいですし」
「あ、私が運びます!」
旅行鞄一つに纏めた荷物を、マチルダは細腕で軽々と持ち上げる。そして、目を丸くしているニーネの前を素早く歩き抜け、仕立屋用の工房ハウスへと向かった。
「じゃあね、レニー。いつでも来てね」
「ええ、ニーネさんも」
レニーとニーネは短く言葉を交わす。
ニーネが立ち去ると、レニーはミラベルに視線を戻した。ミラベルが若干吊り上がり気味の大きな青い目でレニーをじろじろと見ていることに気付き、身を僅かに引く。
「髪色と肌の白さと雰囲気以外は、ほんっとお嬢様にそっくりだね、お嬢さん」
「そうかな? 私とディアナお嬢様を並べるなんておこがましいわよ」
「それは一理あるけど、でもやっぱ似てるよ。――あ、ごめんなさい。ついため口になっちゃった。同い年なんでしょ? 私も十六歳なんだ」
ミラベルは、にこっと明るい笑みを浮かべた。そうすると、両の頬に笑窪がくっきりと浮かび上がり、人好きする表情になる。
「いいよ、ため口で。あ、でも、ダリアンさんの前ではやめた方が良いかも」
「よく分かってるね。じゃあ、あなたといる時は、気楽にさせて貰うね。さ、中に入って。荷物は私が持つから――重っ!」
小型トランクの隣に置かれた取っ手付きの金属製の箱を持ち上げようとしたミラベルは、予想外の重さに声を張り上げた。両手で必死に持ち上げるそれを、レニーは素早く奪い取る。
「あ、これは触っちゃ駄目! 大事な工具が入ってるから……。ごめん、運ぶならこっちをお願い」
「ああ、それ工具なんだね。納得だよ。片手でよく持てるね……。こっちは衣装ケースかな? 軽いね」
「私、あまり荷物持ちじゃないから。仕事道具の方が大事なの」
「ふーん。女の子なのに、変わってるね」
呆れたように呟いてから、ミラベルはにかりと笑う。
「でも、そういうのって男女に関わらず好ましいよ。私も、食器類は大事に扱うから」
自分の仕事に誇りを持っているらしきミラベルをレニーはまじまじと見る。仕事人間同士、うまは合いそうな気がした。
「私も、仕事道具を大事にする人って好きだよ。よろしく、ミラベル」
レニーの言葉に、ミラベルは一層親しみを込め、猫のように目を細めて笑い返した。
「こっちこそよろしく、お嬢さん」
「レニーお嬢さん、これからの予定はどうなってるの?」
工房の机に工具箱を置いたレニーは、奥の部屋から顔を出したミラベルを振り向く。
「今日は、荷物を片付けた後は、細工品のデザインを考えるわ。一週間くらいかけてね」
「それはいいんだけど、お嬢さん。鞄の中身が、分厚い本一冊とスケッチブックと筆記具以外、寝巻きと着替え二着と肌着二着しか入ってないってどういうこと?」
「え? この時期に着替えはそうそう洗わないし、洗うにしても二日に一度洗えば足りるでしょ?」
工具箱を開けて、中身を机に並べながら、レニーは不思議そうに問う。
手元に影が落ちたのに気付いて顔を上げると、ミラベルが腰に手を当ててこちらをじっと見ていた。
「ねえ、女の子が、化粧水の一つも持ってないのってどうなの? 化粧品すらないじゃない」
「いらないわよ、そんなもの。必要ないもの」
「それって、自分の肌に自信があるって意味?」
「そうじゃなくて、綺麗にする必要ないでしょ? 私の仕事は仕立屋の助手兼細工師で、表に出る必要がないもの。それに、そんなことに時間をかける暇があるなら、細工してたいわ」
ミラベルは大きな溜息を吐いた。
「流石は坊ちゃまに気に入られるだけあって、お嬢さんも変わってらっしゃるんですね」
「……ちょっと、エリックと一緒にしないで」
大変遺憾だ。
むぅと口をへの字にするレニー。しかしすぐに仕事の話に戻す。
「ミラベル、悪いんだけど、工具類には触らないでね。散らばってるからって片付けようとするのもやめて。私なりの感覚で置いてるから」
「分かったわ。工房には入らないので、掃除が必要な時だけ声をかけて」
「ありがとう。でも掃除くらい、私でも出来るけど……」
「レニーお嬢さん、これが私の仕事なんです。仕事を取り上げないでください。それに、掃除する時間も仕事に当てればいいでしょ?」
確かにそれは魅力的な話だ。
「うん、そうだね。そうしようかな。でも慣れちゃったら、元の生活に戻った時が大変そうね」
「大丈夫ですよ。人間ってすぐに慣れる生き物ですから。――では、トランクの中身は箪笥とクローゼットに移しておきますから」
「ありがとう。あ、本とスケッチブック……」
「お持ちしますから、どうぞ座ってて下さい。それから、お茶もお淹れしましょうね。寒いから暖炉にも火を入れないと。ふふ、お客様専属メイドになるのは初めてだから、腕が鳴るわぁ」
ミラベルは嬉々として袖まくりをすると、レニーが驚く勢いで働き始めた。
ここで手を出したら、確実に邪魔になりそうだ。
いつもは自分ですることを他人にしてもらう居心地の悪さを覚えながら、レニーは手元の工具を手に取る。金属を叩きのばす為の金槌を触ると、机に置いた。ヤスリ、手袋、火花から顔を守る為の眼鏡を、一つ一つ手に取って眺める。手入れするのは後回しにして、今日はデザインを決めようと、ミラベルが運んできた植物図鑑とスケッチブックを広げ、真剣な顔で鉛筆を手に取った。
*
朝、清々しい気分で目が覚めたレニーは、素早く着替えると、手をこすって暖を取りながら寝室を出て、続きの食堂を兼ねた部屋に出た。するとすでにメイド服を隙無く着こんだミラベルがいて、にこりと笑った。
「おはよう、レニーお嬢さん。顔を洗うんなら、そこのお湯を使ってね。タオルは側に置いてるよ。それから、もう朝食の用意が出来てる」
「…………」
驚いたレニーはぱっかりと目と口を開け、テーブルに並んだ、白パンとコーンポタージュスープと目玉焼きとベーコンとサラダという豪華すぎる朝食を見つめた。ほかほかと湯気を立てていて、見るからにおいしそうで、そうと気付いたら現金なことにお腹がクゥと音を立てた。
恥ずかしくなって顔を赤くしたレニーは、今度はおどおどとミラベルを見る。
「え? こんな豪華な朝食が本当に私のなの?」
「そうよ。お嬢さんは雇われた職人だけど、お客さんでもあるから、こんな待遇なの。ほら、冷めるから、早く顔を洗って食べて」
「分かった」
ミラベルに促され、レニーは急いで顔を洗い、髪を整えると、席に着いて食事を摂り始める。普段、パンとスープの朝ご飯を食べているレニーには少し量が多かったが、おいしかったのでぺろりとたいらげた。
「ご馳走様でした」
「お粗末様です。食後のお茶をどうぞ」
ミラベルは茶の給仕までこなす。レニーは所在なげに肩をすくめ、良い香りのするハーブティーを口に運ぶ。
(ここまで高待遇で良いのかしら)
レニーが気詰まりしているのに気付いたのか、ミラベルが明るく問うてきた。
「デザインの方はどう? 順調に進んでる?」
「うーん。まだ、モチーフが決まってないの。ディアナ様はねえ、なんとなく、菫をモチーフにした小さくて可愛らしいアクセサリーにしようかなって思うんだけど、エリック……、いや、マデリーンがねえ」
「薔薇はどうなの? お似合いよね」
「そういうのってたぶん、あの人はたくさん持ってると思うのよ。似合うけど、他にも良いものがありそうで……。図鑑を見ながら検討中」
「図鑑? あの本って図鑑だったの?」
ミラベルはきょとりと青い目を瞬く。
「そ。植物図鑑。お父さんから貰った物でね、形見なんだ」
「お父さん、亡くなってるの?」
「うん、二ヶ月前にね。家は義理の兄が継いだから、私は都会に出て働いてるの」
「それは……残念ね。嫌なことを聞いてごめんなさい」
ミラベルは申し訳なさそうに眉尻を下げ、素直に謝った。
「いいの。お父さんの店を継げなかったのは悔しいけど、兄に腕が劣ってるのは事実だから。修行して、見返してやるのよ!」
打倒イクスと燃えるレニー。ミラベルはぐっと拳を握る。
「その意気よ! 女だって負けてないってとこ、見せてやらなきゃね!」
二人して気合を入れ直すと、レニーは席を立つ。デザインを決めることに思考が移ったのだ。
「じゃあ、私、工房に籠るわね。ミラベル、暇だろうし、ずっとここにいなくても大丈夫だよ?」
「お嬢さん、これがメイドの仕事なんです。でも気遣ってくれてありがとう」
ミラベルはこちらも笑顔になるような明るい笑みを浮かべ、スカートの裾を持ち上げて優雅にお辞儀した。
気負いさせないミラベルの態度を見て、レニーは自分付きのメイドがミラベルで良かったと思った。親しみやすいから、従姉妹の相手でもしている気分で気が楽なのだ。
そして、食後、レニーが工房にこもって、図鑑片手にスケッチブックに花の絵をスケッチしたり、デザイン画を描いては消していると、昼食前くらいの時間帯にエリックの訪問を受けた。
本日のエリックの女装は、ラベンダー色のドレスに、銀糸で飾られた黒のストールを合わせたシックな装いだった。きつく巻いた髪にはラベンダー色の花飾りが散りばめられている。
(何でこの人、女じゃないのかな……)
真実が男だというのが怒りを誘う。
世の不条理を嘆きながら、レニーはにっこり笑顔のエリックを見た。
「どう、レニー。我が家の工房は?」
「とても素晴らしいわ。使いやすいし、何より材料が揃ってる。でも、敷地内に工房を置くお金持ちって珍しいわよね? 普通、職人の家に注文しに来るだけなのに」
「雇っている間は、我が家の仕事にだけ集中して欲しいからね。それに、職人は周りの雑多なことに気をとられるのが煩わしい人が多いから、この方が助かるってよく言われるよ」
確かにその通りだ。
住まいを変えれば、周囲から隔絶されて集中しやすいだろう。
身の周りのことを自分でするレニーは、少しばかり戸惑ってしまうが、こんな生活が職人にとって魅力的だというのは否定できない。
「気に入ってくれたんなら良かったよ。期限を守ってくれれば、僕はしつこくせっついたりしないから、ゆっくり自分のペースで作って」
「ありがとう。そう言ってくれると助かるわ」
集中しやすいのは良いが、雇用主からまだかまだかとせっつかれて煩わしくなるのだけが心配だったレニーは、エリックの鷹揚とした言葉に安堵した。
(歳はそう変わらないのに、なんだか達観してるわよね、この人……)
エリックは、自分がどういう風に動けば相手が動きやすく、それでいて自分の思うように事を進められるのか、感覚的に分かっているのかもしれない。
天才だと自称していただけはある。それでいて、有能さより変人さの方が目立つので、関わりすぎると面倒臭そうだなあとしか思えない。
「それでね、レニー」
大人しくエリックを見上げたレニーは、僅かに小首を傾げる。
「母さんが君に会いたいそうだよ」
「はい!?」
意味が分からない。
「だから、これから連れて行くつもりで用意しようと思って」
「また急ね!?」
「三時の茶会に来て欲しいそうなんだ。母さんは大のお茶会好きだから、人を招きたがるんだよ。あ、今回は僕と君と母さんだけのお茶会だから安心して」
そういうことなら安心だ。いや、安心出来るのか……?
「ご挨拶するのは構わないけど、用意って?」
レニーの問いに、エリックはパチンと手を叩く。すると、工房の扉が開き、箱を手にしたダリアンが入ってきた。
「失礼します。坊ちゃまの言いつけの品、ご用意致しました」
「……気のせいかしら。ドレスが入っている箱に見えるのだけど」
冷や汗をだらだらと流すレニーに、エリックは笑顔を浮かべる。砂糖菓子みたいな笑みなのに、容赦の無さが見える。
「僕のお下がりで悪いけど、君に似合いそうな物を選んでおいたから、それ着て。母さんは、下町の女性の格好がお嫌いなんだよ。僕は良いと思うんだけどなあ、ほら、裾が少し短めで足首が見えるあたり!」
「ねえ、女の子みたいな顔なのに、助平親父みたいなこと言わないでよ。夢が一気に覚めるじゃない」
そんな邪な目で見ていたのかと、頬を引きつらせるレニー。これは下町の女性皆の足首が危ない。
しかし、エリックは肩をすくめ、堂々と駄目出しをしてきた。
「分かってないなあ、レニーは。上流階級では、胸元や肩を広めに出すのは良いけど、足を出すのは下品って言われてるんだよ。だけど、そんな普段見られないところが、僅かに見えるっていうのが、ロマンなんじゃないか」
「……私、女ですからね。男のロマンなんか知りません」
あろうことか、「ふう、駄目だね、この人」みたいな目で馬鹿にされ、レニーは冷たく返す。
「今度、下町の女性に扮するのも面白そうだね。それで、一緒に買い物に行こうよ、レニー。わくわくするなあ!」
なんだ、その倒錯的な友達ごっこは。
レニーはぐりぐりとこめかみを親指で押さえ、懸命に頭痛をこらえる。
「それはいけません、エリックお坊ちゃま。外出禁止になりますよ」
ダリアンが冷たい声でそう言うと、エリックは口を尖らせる。
「口うるさいな、ダリアンは。好きにさせてよ」
「何をおっしゃってるんですか、これだけ自由に振舞っておいて」
ダリアンの声が険を帯びる。吹雪のようなオーラを受け、エリックは渋々引き下がる。
「分かったよ、下流階級の女性に扮するのはやめる。それでいいんだろ」
それに対し、ダリアンは満足げに頷いた。
(だんだん、陰険眼鏡が一番まともに見えてきたわ……)
自分と同じ境遇のような香りがする。レニーは親近感を覚える傍ら、ダリアンがエリックの暴走を程良く止めることを祈った。レニーだと止めるどころか突破されて巻き込まれる気がするので止められない。それに止め方も分からない。
「とにかく、ミラベル、このドレスを彼女に着つけておいて。二時半にダリアンを迎えに寄越すよ」
「かしこまりました、若旦那様」
ミラベルは恭しく頭を下げる。心なしか、とても楽しそうに見える。
慌てたのはレニーだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ……!」
どうにか阻止出来ないかと思考を巡らせるレニーの言葉を、エリックが笑顔とともに遮り、レニーの肩をポンと叩く。
「大丈夫だよ、レニー。ちょっとサイズが大きいかもしれないけど、大丈夫そうなのを選んだし。それに、ほら、僕の胸も詰め物だから!」
「ちょっと! “も”ってどういう意味よ! こっちは自前よ!」
「うーん、詰めた方がいいんじゃない?」
「ねえ、流石にこれは叩いていいわよね? ねえ?」
こめかみに青筋を浮かべて袖まくりを始めるレニーを、ミラベルが慌てて止める。
「落ち着いて、お嬢さん! 相手は雇用主です!」
横で騒ぐレニー達の前で、ダリアンがくいと眼鏡のブリッジを指先で持ち上げ、主に一言物申す。
「坊ちゃま、仮にも女性に真実を申し上げるのはいかがなものかと」
「そうだね、気にしてたら悪かったよ。ごめんね、レニー」
それが火に油を注ぐ結果になったのは、想像に難くないだろう。
*
濃緑色のシンプルなドレスは、白金色の髪をしたレニーにはよく似合っていた。肩までの長さの髪は結い上げるには長さが足りなかったので、リボン飾りのついた花の髪飾りを左の側頭部に付けただけだ。
もちろん、詰め物については拒否した。
問題は、ヒールの高い靴だった。濃緑色の布製の靴で、外を歩いていたらあっという間に汚れそうな、繊細な造りをしている。ダリアンがサイズが合いそうな靴を幾つか持ってきていて、その中で合うのがそれだったのだ。これはエリックの物ではなく、出入りの靴屋から見本品を買ったものらしい。
レニーを見て、迎えに現れたエリックはにっこりと微笑んだ。
「レニー、とっても可愛い。まるで生まれたての子馬が頑張って歩こうとして、壁にぶつかったみたい!」
「……エリック、一応言っておくけど、それは褒め言葉じゃないわ」
生まれて初めて履くヒールの高い靴が慣れなくて、レニーはよたよたと頼りない動きで歩き、ちょっとした段差に引っかかって、工房の扉にべちゃっと激突したところだった。打った鼻を押さえながら、じろっとエリックを睨む。
「いやいや、可愛いのは本当だよ。そういう慣れてない感じも可愛い」
「そうですか」
どう見ても美少女にしか見えない男に言われても嬉しくない。
レニーは口を尖らせた。
「レニーお嬢さん、せっかく可愛くしたんですから、落ち着いて歩いて下さいまし」
憤慨したミラベルが、即座に駆け寄ってきて、レニーに右腕を貸した。
「私が手を貸しますから、頑張りましょうね」
その姿に、エリックは腹を抱えて笑いだす。
「あは、あははは。レニー、老人扱いされてる!」
「うるさいわよ、エリック。さっきのと合わせて、一発叩くわよ?」
レニーが本気で怒りを覚えて凄むと、さしものエリックもぴたりと笑いやんだ。
慣れないコルセットで苦しい上、ヒールのせいで上手く歩けず、レニーの機嫌がどんどん下降しているのは一目瞭然だ。このままエリックの失礼さを言い訳にして、引きこもりそうな勢いである。
「ごめんごめん。ではお嬢様、腕をどうぞ。僕がエスコートしてあげるよ」
「いらないわよ。あなたにエスコートされたら、御令嬢に支えられる無礼な下っ端の出来上がりだわ!」
「それは残念」
エリックは本当に残念そうに肩をすくめた。
その様子を横目に、ダリアンが淡々と注意をする。
「レニー嬢、坊ちゃまはこのような格好をするのが趣味な方ですが、これで女好きなのでお気を付けて」
「大丈夫よ、ダリアンさん。さっきのロマン云々でちゃんと分かってるから」
レニーは真面目に返し、ミラベルの支えを借りながら、先導するダリアンの後ろを、エリックと並んで歩きだす。
そして、ようやく茶会のある温室が見えたところで、エリックはふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。レニー、気を付けてね。母さんは見た目と違って、お腹が真っ黒だから。父さんみたいに単純じゃないからね」
「……わ、分かったわ」
変人家族の母親だ。覚悟はしていたが、不安を煽られる文句である。
(ウォルドさんが単純って、ひどいわ……)
レニーに言わせれば、エリックが複雑怪奇なだけである。
*
「母さん、彼女が僕が雇ってきた細工師のレニー・ソルエン嬢だよ。レニー、僕とディアナの母で、ミリセント・リッドフォードだ」
たおやかな美少女姿には似合わない男然とした喋り方で紹介するエリック。レニーは慌てて頭を下げる。
「ミセス・リッドフォード、お茶会へのお招きありがとうございます。レニー・ソルエンです」
「あらあら、本当にディアナにそっくりね。さあ、もういいからお顔をお上げになって。堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。お茶を楽しみたいわ」
ふんわりと優しい声に誘われるように顔を上げたレニーは、白く塗装されたアイアンワークが美しい椅子に座る婦人を見て、目をぱちくりと瞬いた。
ピンクブロンドの髪を結い上げて、花飾りのついた白のヘッドドレスをつけた女性は、ディアナとよく似た面立ちをしている。赤茶色の目は笑みを描き、レニーを静かに見つめていた。レースをたっぷり使った豪奢な白いドレスと青色のストールは、まるで女性を宗教画の聖女のように見せている。
レニーは混乱した。
どう見ても、“母親”には見えない。十代後半の少女そのものだ。
「……エリック、お姉様ですか?」
「母だよ。最初からそうとしか言ってない」
「従姉妹とか?」
「だから母さんだって」
真面目に問うが、返ってきた言葉もまた真面目なものだった。レニーは狐につままれた気分で、ディアナの姉にしか見えないミリセントを見る。
ミリセントは白い羽で出来た扇子の裏で、くすりと微笑んだ。
「ま、素直で可愛い子。うちの息子とは大違いね。さあさあ、座ってちょうだい、レニーちゃん」
ミリセントは機嫌良くレニーに椅子を示す。呆然としていたレニーは、気付けばミラベルに誘導されて椅子に座っていた。
ミラベルは一礼して後ろに下がり、ミリセント付きのメイドが静かにお茶の用意をし始める。
やがて、香気漂う紅茶と、ラズベリーが乗ったケーキが置かれた。見るからにおいしそうだが、レニーは緊張とコルセットの締め付けのせいで食べたい気分ではない。正直、こんなものを付けなくていいのだから、庶民に生まれて良かったとつくづく神様に感謝していたところだ。
「こんな可愛らしい方が細工師だなんて、面白いわね。エリックが見つけてきたのだから、腕は確かなのでしょうけど、信じられないわ」
ミリセントがずばりと指摘し、レニーはますます緊張で背筋を正す。
「彼女は良い仕事をしてくれるだろうって、僕は信じてますよ、母さん。自作したという見本品は見事な物でした」
澄ました様子で茶器を指先に引っかけて、口元に運ぶエリック。
女装した息子と、少女にしか見えない母親。倒錯的な光景に、レニーは、何でこんな所にいるんだろうと自分の運命の不思議さについて考える。どうしてこんなことになっているのか、答えは出ない。出ないからこそ不思議なのだ。
「でも、仕立屋の助手なのでしょう?」
ミリセントはレニーの腕を疑っているらしく、しきりと尋ねてくる。
「はい。あの、家は兄が継いだので、私は都会に出て働くことに……。店主は私の母の従姉妹なので、その伝手で助手に」
ミリセントは目を丸くする。その目に、称賛の色が浮かぶ。
「まあ、あなた、女の子なのに一人で街に出てきたの?」
彼女の目に哀れみと同情がないことに、レニーはほっとした。
「偉いわ。やはり、女であるからこそ、強くならなくては駄目よ。自立は大事だわ。――まあ、ここには、男の身でありながら女々しい人もいますけど。仕方ないわよね、似合っていて可愛いんだもの」
ミリセントは嘆かわしげに言い、しかし結局は惚れぼれとするような目でエリックを見た。
「見て、違和感無く似合っているでしょう? 流石は私に似ただけはあるわ。我が子ながら本当に綺麗」
ミリセントは胸の前で手を組んで、ややナルシストじみたことをうっとりと呟く。エリックは優雅に微笑む。
「ありがとう、母さん。母さんだって、いつ見ても美人だよ」
「まあ、本当の事を」
うふふ。あはは。ミリセントとエリックはにこやかに笑い合う。
一方、レニーは脱力感にさいなまれていた。
(なるほど、エリックの自分大好きぶりは母親から継いだのね……)
となると、ディアナの天然ぶりはもしかしてウォルドから継いだのか? エリックが父親のことを単純と評していたのを思い出し、レニーは内心で首をひねる。
一人、意識を遠くに飛ばしていると、笑いやんだミリセントがまじまじとレニーの顔を眺め始めた。
「本当にディアナにそっくりね。――そうだわ。良いことを思いついた。ねえ、レニーちゃん、頼みがあるのだけど良かったら聞いてくれる?」
ミリセントは小首を傾げ、やや上目遣いで問う。その威力抜群のお願いの仕方に、同性のレニーですらくらっときた。
「は、はい。私に出来る範囲でしたら……」
深く考えずに頷いたレニーの前で、ミリセントが勝利の笑みを浮かべる。
(ん?)
とても嫌な予感がした。
ちらりとエリックを見ると、エリックは苦笑している。
(え? 何?)
どぎまぎするレニーに、ミリセントは言う。
「なら大丈夫、とっても簡単よ。ちょっと着せ替え人形になってくれればいいの」
「……ハイ?」
どうやらミリセントは、お人形遊びを御所望らしい。それで、その人形はレニーらしい。
なるほど。面白がってレニーを振り回すところも、エリックに似ている。
すでに断れる空気でないことにたじろぎながら、レニーは曖昧に笑みを返した。
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