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第8章 私の一番大切なもの

116 身勝手な男

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「無様だね、坊や」

 アリスたちが飛び出していくのを見送ってから、イヴニングとホーリーは瓦礫に埋もれるロード・デュークスの元へと向かった。
 今は辛うじて命を繋ぎ止めている彼だったが、下半身を拘束されているその身は、残り幾ばくかであった。

「助けてほしいかい?」
「……助けてほしいのは、貴様らの方ではないのか?」

 今にも消え入りそうな声で、しかしデュークスは屈せぬ声を上げる。
 その勝ち誇った態度に、イヴニングは顔をしかめた。

「私はもう、目的を果たした……後は、自然の摂理が如く、流れゆく崩壊に身を任せるのみ。ジャバウォックは、そういうものだ」

 カラカラと掠れた笑い声を上げるデュークスは、全ての破滅を享受していた。
 世界が迎える終焉も、自らの命に限りがくることも、全てあるべき流れだというように。

「そう。あなたの覚悟はわかったけれど。でもそれって、本当にフローレンスのためになるのかしら」
「……何の話だ」
「世界を壊し、全ての法則を崩すことが、フローレンスを救うことになるのかしらって言ってるのよ」

 ホーリーの静かな指摘に、デュークスは顔をしかめた。
 焦点の合わない目を訝しむように揺らし、小さく鼻で笑う。

「……貴様らが、何を知っているというのだ」
「何でも知ってるわ。私たちはずっと、嫌になるくらいずっと、この国とその人々たちを見てきたんだから。それに私、彼女のこと割と好きだったしね」

 苦い顔をするデュークスに、ホーリーは不敵に笑みを向ける。

「魔女狩りでありながら、全てを救おうとした女傑。魔法使いとしての実力が高く、みんなからの信頼も厚かったのに、魔女を憎まず手を差し伸べようとした、聖女のような君主ロード。あなたの前に、魔女狩りを統べる一角を担っていた人。あなたの妻、フローレンス。彼女がどうして、突然姿を眩ませたのか、私たちは知っているわ」
「っ………………」

 勝利に浸り、余裕に構えていたデュークスの表情が曇る。
 その変化を、二人は見逃さなかった。

「十年前くらいか、彼女が急に姿を見せなくなったのは。そして、その婿である君が、代わりとして席についた。多くの仲間から信奉され、いつも先頭を切ってみんなを救おうとしていた彼女がどうしてそうなったのか。答えは簡単だ。彼女は魔女に────」
「黙れ!!!」

 イヴニングの言葉を、デュークスの弱々しい声が遮る。
 渾身の叫びも、もはや力を全く感じさせない。
 しかしイヴニングは口をつぐみ、冷たい視線を下ろした。

「つまらん言葉で、彼女を穢すな……我が、妻は……」
「穢れ、ね。それは、あなたがそう扱ってしまっているだけなんじゃないの? 彼女が彼女であることに変わりはないのに」

 ホーリーは悲しげに眉を下げ、溜息をこぼす。
 魔法使いのその凝り固まった偏見を、嘆くように。

「フローレンスは、魔女狩りでありながら魔女すらも助けようとした彼女は、魔女になってしまった。そうでしょう? 稀とはいえ、魔法使いも『魔女ウィルス』に犯されてしまうことがある。彼女は、その一人だった」
「………………」

 デュークスは答えず、強く瞼を閉じた。
 その事実から目を背けるように、受け入れていないように。

「君なら、自身の妻でも殺してしまうかと思ったけれど。どうやら違ったみたいだね。フローレンスはまだ生きている。君が、生かしている。だからこそ君は、こんなことをしでかそうとしたんだろう?」
「………………私に、彼女を殺すことができるものか。彼女は、フローレンスは、私の希望だったのだ」

 そう、デュークスは小さくこぼす。
 それは観念したというよりは、怒りに満ちた吐露だった。

「清らかで美しかった、フローレンス。私の身に余る、佳い女だった。私は、彼女を失うことなどできなかった……『魔女ウィルス』に蝕まれるのを見ていることも、ましてこの手で最期を与えることも、できはしなかった。できるわけが、なかったのだ……」

 弱々しい拳で、デュークスは瓦礫を殴る。
 非力な自分を嘆くように、後悔を噛み締めるように。

「私の手では、彼女を治すことはできなかった。研究の果てに見つけた侵食の停止の術も、彼女の時ごと止めてしまう不出来なもの。どうして、どうしてだ! 何故、彼女が苦しまなければならない。多くに手を差し伸べようとした彼女が、何故誰の手も取れなくなってしまうのだ……!」
「だから、世界を壊そうとしたの? あなたの愛する妻を苦しめた、復讐のために?」
「そんな下らない理由ではない。私は、この世界の成り立ちが、不条理が許せなかったのだ。正しく生きようとしたものが、正しくない理由で蝕まれるのが、受け入れられなかった。だから、この間違った世界を崩すことで、彼女が彼女らしさを認められる、正しい世の中に作り替えるのだ……!」

 唸るように語るデュークスに、イヴニングとホーリーは顔を見合わせた。
 同情も理解もしない。理由が何であれ、身勝手な行為には変わりない。
 しかしそれでも二人は、哀れだと思ってしまった。

「……何であれ、君は今死に体じゃないか。君がそうしてまで成したかったその先を、見届けられるようには見えないね」
「構わん。新しい未来に私は必要ない。そもそも、彼女の元に私がいることこそが、きっと間違いだったのだ」
「君はなんていうか、勝手な男だね。自らの行為に責任を持たない、ロクでもない男だ。そんな君に、何かを救えるものか」

 自らの在り方を悲観し、勝手に納得し、破滅を享受する。
 これはある種、彼の盛大な自殺のようなものでもある。
 ただの、自己満足に過ぎないということだ。その事実に、イヴニングは歯を剥いた。

「デュークスくん、それが本当に意味があるものとは、とても思えないわ。他に方法はきっとある。ジャバウォックを止めるすべはないの? あなたが構築した術式を教えて」
「無駄なこと。止める方法など、あるわけがない。あれは、顕れた時点で自然の摂理だ。世界の意思だ。私はただそれに、きっかけを与えたに過ぎん。それに、何も間違ってなどいないさ。意味などなくとも、この世界が壊れることこそが全てなのだから」

 デュークスはそう力なく笑って、そして徐々に項垂れた。
 世界に崩壊を与える、ジャバウォックという現象を呼び寄せたことで、彼の力はもう尽きようとしている。
 本来、世界そのものに直接影響を与える魔法など、人の身で起こせるものではない。

 デュークスから何を聞き出しても意味はない。二人はすぐにそれを悟った。
 自らの信念を貫く彼には、これこそが最善という揺るがぬ意思がある。
 それは誰の言葉であろうと移ろうものではなく、そしてもはや、その結果すらも意味を失いつつある。
 彼は結局、この世界を否定できればよかったのだろう。

「フローレンスが正しくなかったと、そう言うつもりはないけれど。でもだからといって、この世界が間違っているわけでもないんだよ、坊や。この世界を愛し、そこに生きる人々を愛し、真正面から絶望に立ち向かっている子がいる。そういう心の持ち主がいるこの世界が、間違っているわけがないんだ」

 そう囁くように語りかけて、イヴニングはデュークスに背を向けた。
 もうこれ以上語ることはないと。語ることはできないと。

「自然の摂理、世界の意思……でもね、デュークスくん。この世界の不条理を唱えたのはあなたよ。このままそうなるとは限らない。あの子の心が、きっと道を切り開く。自らを否定したあなたの願いは、きっと叶わない」

 ホーリーもそれに続く。その姿から目を背けるように。
 怒りはあまりなく、ただ哀れみが、彼の姿を目に写す事を拒んだ。
 どうして、そう愚かな生き方しかできなかったのかと。

 返される言葉はない。返ってくるものはない。
 返答は空白。どちらが正しいのか、あるいは何が正しいのか。その答えを戦わせることは、もうできない。
 いや、この場においては、もはやそれは不毛だった。

 瓦礫に埋もれた男を残し、ホーリーとイヴニングはその場を後にする。
 明日を見ず、明日のない愚か者に別れを告げ、未来を切り開く少女の元へ。



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