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第8章 私の一番大切なもの

10 いてはならない男

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 予想だにしなかった光景に、私は言葉を失ってしまった。
 一歩前にいるレイくんも、理解しがたい現状に身体を強張らせている。
 そんな中で氷室さんだけが、極めて冷静にその警戒心を強め、私を庇うように身を乗り出した。

 ここは、いつもミス・フラワーが咲いていた場所で間違いない。
 訪れるのは五年ぶりだけれど、でもこうしてやって来てみればそれははっきりとわかる。
 それにレイくんの先導で来たのだから、間違いということは考えにくい。

 それなのに、ミス・フラワーは咲いていなかった。
 彼女は飽くまでお花だったから、そこから移動したことなんて私が知る限り一度もなくて。
 だからいつだって、この森の一角で陽気な様子で迎えてくれたんだ。

 だというのに、いない。
 巨大なユリの花の姿は、影も形もない。
 そして、そんな閑散とした広場の中で佇んでいるその後ろ姿は……。

「やぁ、来ると思っていたよ────とか、言ってみてもいいかな?」

 その白い背中を向けたまま、静かに響く低音の声が、軽やかな口調でそう言った。
 壮年の男性を思わせる広い背中と、小洒落た縮毛の頭。そしてそのわざとらしい悪戯っぽい口調。
 魔女狩りのロードたちが揃って身につけている白いローブを見れば、それが誰であるかどうかは明らかだった。
 それは、この場には決しているはずがない、いてはならない人物だ。

「ロード・ケイン…………!」
「この間ぶりだね、姫様」

 私が思わず声を上げると、白い姿がくるりと振り返って、ロード・ケインのニヤケ顔がこちらを見た。
 優しいオジサンのような、人の良さそうな柔らかい表情をしながらも、しかしその目は全く気を抜いていない。
 しかし飽くまで気軽な調子で、彼は私たちに向けて微笑んだ。

 それは紛れもない、ロード・ケインその人。魔女狩りを統べる四人のロードの内の一人だ。
 彼には以前会っているし、それにその身から感じる強い魔法使いの気配が、それをありありと証明している。
 魔法使いを決して寄せつけない結界が張られている『魔女の森』の中に、魔法使いがいる。ましてロードが。
 その結界を張っている、ミス・フラワーがいるはず場所に。

「どうしてあなたがここに!? この森には結界が張っているはずなのに────もしかして彼女に何か……」
「まぁまぁ落ち着いてよ姫様。仲良くお喋りしようぜ。とりあえず、僕がフラワーちゃん────えーっと、ミス・フラワーに危害を加えたとかじゃないから、その辺りは安心してよ」

 ロード・ケインはニコニコ顔を絶やさず、ヘラヘラと私を制した。
 その気の抜けた調子は相変わらずで、こちらの気持ちなんかお構いなしにお気楽だ。
 ただ、どんなに彼が穏やかな雰囲気を作ろうと、状況は全く穏やかなんかじゃない。
 私たちは緊張感を全く解くことができなかった。

 レイくんも氷室さんも、最大級の警戒心を持って彼を見据え、臨戦態勢をとっている。
 そんな私たちを見て、ロード・ケインはやれやれと肩を竦めた。

「僕は彼女の例外なのさ。だからこうしてここにやって来られる。別に、彼女の結界がなくなったとか、彼女の身が危ぶまれているとか、そういうことじゃないからさ」
「全く言っていることがわからないけれど、百歩譲ってそうだったとして、じゃあ彼女はどこへ行ってしまったっていうんだい?」
「彼女は僕が保護している。もうここにはいないけれど、ちゃんと無事だ」

 レイくんが突っかかると、ロード・ケインはサラリとそう言った。
 まるでそれが当たり前のことだというかのように、とても平然と。
 けれど私たちはそれに、混乱を深めることしかできない。

 彼がミス・フラワーにとっての例外? 彼が保護をした?
 何がどうなったらそういうことになるのか、辻褄がまったくわからない。
 ミス・フラワーはドルミーレに通ずる存在らしいし、だから魔女の味方をする存在という話だった。
 そんな彼女が、どうして魔女狩りのロードを招き入れて、剰え身を委ねるようなことをするっていうんだろうか。

「あなたの目的は、一体何なんですか? こんなところまで乗り込んできて、ミス・フラワーをどこかにやって……ここにいる魔女たちを、皆殺しにでもするつもりですか?」
「物騒なことを言うなぁ姫様。僕はそんなことをするつもりはないよ。今更そんなことしても、もう無意味だしねぇ」

 必死に頭を回しながら尋ねると、ロード・ケインは素っ頓狂な顔をした。
 まるで、そんなことは考えてもみなかったというよな、そんなふざけたとぼけ顔だ。

「僕はさ、もうフラワーちゃんが苦しむ姿を見たくなかったわけ。だからもう、彼女を呪縛から解放してあげたくて、取り敢えずここから連れ出したのさ」
「…………? あなたにとって、ミス・フラワーは何だって言うんですか?」
「それはプライベートなことだから、内緒にさせて欲しいなぁ。それとも姫様は、こんなくたびれたオジサンを丸裸にするのが好きなのかな? あんまり可愛らしい趣味とはいえないないなぁ」
「…………」

 真面目に答える気がないのが明白なロード・ケインは、そう茶化してカラカラと笑った。
 どこまで本気で、どこからが嘘なのか、まったく見えてこない。
 けれど少なくとも、彼とミス・フラワーとの間に何かがある、ということだけは確かのように思えた。

「僕がわざわざこの森にやって来た目的としてはそれだけだ。けどまぁ、せっかくだから少しくらい仕事しないとなぁと思ってさ」
「仕事? 魔女が目的じゃないなら、私を殺しに?」
「残念、それも不正解だ。僕は姫様を殺したいだなんて、そんなことを思ったことは一度もないんだから。それにそんな酷いこと、したことだってないだろう?」
「それは見解の相違ですね」

 私が眉をひそめて返すと、ロード・ケインは困ったというふうに眉を上げた。
 確かに彼は、自ら私の命を狙ったことはないし、実際自分にその意思はないと以前言っていた。
 彼は飽くまで、そうなってもいいように人を唆しただけだ。

 けれどそれでも、ロード・ケインが私を殺すという意思を含んでいる一面がある、ということは事実だ。
 彼自身がそれを自ら望んでいなくても、それを手助けしてもいい、という考えを持っている。
 それは、彼が私の命を狙っていることと、そうは変わらない。

「前に言った通り、僕はどちらに転んでもいいようにするだけさ。僕としては、得られる結果にそう大きな変わりはないからね。だから僕がこれからしようとしていることも、つまりはそういうことなのさ」
「………………!」

 ロード・ケインがそう言ってニヤリと笑みを浮かべた、その瞬間。私の周囲の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
 彼による魔法の影響だと、そう認識した瞬間には、その魔法は発動しきっていた。
 自らの存在と、そして会話で私たちの意識を完全にそらして、自分の魔法に対する反応を阻んだんだ。

「こっから先どうなるかはわからないけれど、これもまたどっちにでも転ぶ。取り敢えず、こんな所とはおさばらしようぜ?」

 そう言って笑うロード・ケインの顔が曲がって見える。
 私の周囲の空間が不自然に歪んで、私をこの場所から弾き飛ばそうとする力が働いているんだとわかった。
 けれど、対応が間に合わない。完全に隙を突かれた上に、魔法の展開が早くてついていけない。

 これは能力の差というよりは、完全な経験と技量の差だ。
 ドルミーレの強大な力を持っているとはいえ、未熟な所が多い私と、優秀な魔法使いであるロードとの、極めて個人的な実力の差。
 目の前のことに囚われて、気が回らなかった私の落ち度だ。

「アリスちゃん……!」

 前に乗り出しているレイくんと氷室さん。そんな二人から私を引き剥がすべく、ロード・ケインの魔法が私をこの空間から飛ばそうとしている。
 抵抗する暇のない私は、されるがままに空間の歪みに身を委ねることしかできなかった。
 けれど、その僅かな時間の間に、氷室さんが声を上げ、握っていた私の手を強く握り直した。

 そのままでは簡単に引き剥がされてもおかしくなかった手。
 それを強く、強く握り直して、氷室さんは私を引き寄せようと腕を引いた。
 けれど、私を魔法の範囲外に引き出すにはあまりにも時間が足りなくて。

 私は氷室さんの手の感触を感じたまま、体を強い力で放り投げられた。
 視界は断絶し、瞬間的に重力を見失って。
 私は、魔法の力でその場から強制的に弾き飛ばされたのだった。
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