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第3話 バイオレンス・パイン

3-6 諦められないわけ

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 また数日を間に挟み、週明けの月曜日の放課後、私は職員室の藤咲先生のもとに訪れた。
 私がやって来たことで先生は何か進展があったと思ったのか、期待を込めたふうに見てきたけれど、残念ながら特に報告できることはない。
 なので私が伝えに来たことはお願いだった。これから一緒に武道場に行って欲しいと。

 藤咲先生は少し不思議そうにしていたけれど、私に頼み事をしている手前無下にできないと思ったのか、深く理由を聞くことなく同意してくれた。
 ここで嫌がられたり、理由や現状について何かを追求されたら面倒だと思っていたから、スムーズに事が進んだことに一安心する。
 そして私は、ややキョトンとする藤咲先生を伴って武道場へと足早に向かった。

「それで? 葉月さん、ここで何かするの?」

 まだ誰も来ていなかった武道場の空手部の部屋。
 そこまでやって来たところで、藤咲先生はようやく疑問を口にした。
 私は部屋の入り口の方法をチラチラと気にしながら応える。

「先生、私、鳳梨ほうり先輩と話をしました」
「ホントに? ありがとねー。何とかなりそう?」
「いえ、申し訳ないですが、私だけではどうにもならなくて」
「そっかー……」

 私の実のない報告に、しかし藤咲先生はあまり落胆しているようには見えなかった。
 でもそれは期待していなかったというより、その結果を予想していた、という感じだった。
 仕方ないという風に緩く微笑む先生に、私は続ける。

「ですが私も、関わってしまった以上半端にするつもりもありません。藤咲先生にはここで、鳳梨先輩ときちんと話をしてもらおうと思いまして」
「え……? わ、私が……?」

 藤咲先生は途端に表情を強張らせ、少し引き腰になった。
 まぁ無理はない。相手は断っても断っても告白をしてくるような、厄介な生徒なんだから。
 でも、これ以上逃げていても状況は悪化するだけ。
 先生だって、言うなれば被害者みたいなものかもしれないけれど、でも教師なのだから決めるところは決めてもらわないと。

「は、葉月さぁん。言ったでしょ? 私じゃあもう……」
「────ここで何をしている!!!」

 藤咲先生が弱気な言葉を口にしようとした、その時。
 部屋の入り口からけたたましい怒号が響いてきた。
 注意していた私はすぐに気がついた。鳳梨先輩がやって来た。

柑夏かんな……君は、何を! 余計なことはするなと、言っただろう!!!」

 私と藤咲先生を見て鳳梨先輩が何を思ったのか、私に逡巡する時間はなかった。
 瞬間的に怒りを爆発させた先輩は、まだ制服に靴下という姿にも関わらず、床を強く蹴ってこちらに駆け込んできた。
 先日の強襲を思わせる、いやそれ以上の猛突撃。まさに弾丸の如き脅威のスピードで。

「う、わっ────!」

 本能的な反射で横に転がり込むと、今さっきまで私の頭があったところを鳳梨先輩の力任せの拳が通過した。
 以前見せてもらった空振りとは比にならない、その場の空気ごと破壊しそうな一振り。
 結果的に空振った拳が振り抜かれた後に、やや遅れてゴオンと空気が爆ぜるような音が響いた。

「ほ、鳳梨先輩! ちょっとまっ────」
「ふんッ!!!」

 私が言葉を紡ぐ余裕も与えず、今度は足を思い切り振り上げた鳳梨先輩。
 明確な命の危機を感じ、私は必死でまた体を転がす。
 スレスレで、いや僅かに残った私の髪に、フッドスタンプのように振り下ろされた足が掠めた。
 床の板がメキメキと音を立て、先輩の足が僅かに減り込んで割れる。

 だから一人だけ世界観が違うんだって。
 起こっている現象がバトル漫画のそれなんだって。

 鳳梨先輩が猪突猛進に大振りな攻撃をしてくるお陰で、運動神経ゼロの私でもギリギリ回避ができている。
 でもそれもここまで。二回の回避で私の体力は底を尽きたし、何より怖すぎて体が固まっている。

 私の能力はとてもじゃないけれど戦いになんて使えない。学園異能バトルじゃないんだから。
 とはいえ、森秋さんの能力なら僅かに触れれば沈静化させられるだろうし、児島さんの能力なら体を大きくしてパワーを近づけ対抗できるかもしれない。
 でも私の場合、隙を突いて懐に潜り込んでキスをすれば能力を消せる、なんて非現実的な手法しかない。
 そんなの自ら死にに行くようなものだ。

「柑夏ァ────!」

 次はもうないと、心臓をバクバクとさせて鳳梨先輩に視線を向ける私。
 そこへ先輩の重い拳が再び振るわれようとした、その時。

「もう……もうやめて!!!」

 悲鳴のような叫び声が室内に響き渡って、鳳梨先輩はピタッと動きを止めた。
 声がした方を見れば、藤咲先生が先ほどの場所のままうずくまり、頭を抱えて震えていた。
 そんな姿に驚きつつ、けれど命拾いしたことにホッとする。
 鳳梨先輩の方に視線を戻してみれば、先輩は我に返ったらしく猛る敵意を引っ込めて先生の方を眺めていた。

「やめて! やめてやめてやめて!!! お願い、だから……!」
「せ、先生! すみません、私……!」

 なおも叫び続ける藤咲先生に、鳳梨先輩は駆け寄ろうとして、けれどやめた。
 口をパクパクとさせ、どうしたらいいのかわからないという風に戸惑った顔をしている。

 私は自分の呼吸を整えるのもそこそこに、立ち上がって藤咲先生の元に戻った。
 うずくまり震えているその背中に手を置いて宥めると、先生は少しずつ冷静さを取り戻していく。
 ここまで、何が何だか私にはさっぱりわからなかった。

「先生……いや、柑夏。すまない、取り乱した……」
「い、いえ……」

 少ししてそう素直に頭を下げてきた鳳梨先輩に、私はぎこちなく応える。
 まさかこうも簡単に命の危険に陥るとは全く思っていなかった。
 ただ落ち着いて考えてみると、先輩は私が先生に何か余計なことを言っているのかと、そう勘違いしたのかもしれないと思い至る。
 余計なことをしなくていいと言ったのに、私が鳳梨先輩の心境なんかを藤咲先生に勝手に伝えたりしているんじゃないか、とか。

 勘違いだし思いこみも甚だしいけれど、鳳梨先輩のそそっかしさを見るにきっとそういったことだ。
 先日の強襲だって、私のことを不審者だと早合点して容赦無く攻撃を仕掛けて来たわけだし。
 そそっかしい早とちりで感情を昂らせ、行動に起こしてしまう人なんだ、この人は。

「……。宮条さん、一体何をやってるの?」

 まだやや震えを残した藤咲先生が、立ち上がりながらそう尋ねる。
 それを受けて鳳梨先輩はバツの悪そうに視線を落とした。

「すみません、先生。私は、ただ……柑夏が先生に何か迷惑をかけているんじゃないかと、思って……」
「迷惑って。宮条さんあなたはそれで、こんなことを? 武道をする人間として、空手部の部長として、それがどういうことかわかって────」
「先生、いいです。大丈夫ですから」

 鬼気迫る勢いで叱責を始めた藤咲先生の、その普段との違いに驚きつつも、私は言葉を挟んだ。
 鳳梨先輩の行いを咎めてほしい気持ちはあるけれど、今は話が逸れてしまう。
 私が宥めると、先生は少し冷静さを取り戻して口をもごもごとさせた。

 対する鳳梨先輩は、完全にしゅんとしてしまっている。
 さっきまでの苛烈な勢いが嘘みたいに、叱られた子犬のように大人しく。

「すみません、先生。私はただ、先生のことを守りたくて。私は……」
「ねぇ宮条さん。あなたは生徒で、まだ子供なんだから。そんなことを思わなくたっていいんだよ。先生は、大人なんだから大丈夫」
「でも、でも……先生……」

 藤咲先生は、今度はそう諭すように落ち着いた言葉を向ける。
 鳳梨先輩はといえば、気を落としならも確かな意志を持って先生を見つめていた。
 縋り付くように、どこか切実に。

「私は、先生のことが好きだから……先生が傷付いているところは、見たくないんです……!」
「宮条さん、何度も言うけどさ。あなたの気持ちは嬉しいけど、でも私は────」
「先生は、いつだって傷付いていらっしゃるじゃないですか……!」

 藤咲先生の言葉を遮って、鳳梨先輩は声を張り上げた。
 自分の行動を反省し、後ろめたく思いながらも、けれど曲げられないものがあると言うように。
 弱々しさの中に、けれど明確な強い意志が燃えていた。

「な、何を言って……」
「先生はいつだって傷だらけで。苦しんでいて。私はそんな先生を見ていられないんです。だから、先生を守りたくて……!」

 鳳梨先輩の言葉に、藤咲先生は一歩足を下げた。
 その感情にひるんでいるというよりは、何か別のものにおびえているように。

「先生、私、知っているんです。知っていたんです。先生が、先生が……」

 鳳梨先輩はぐっと拳を握り込み、歯を食いしばりながら搾り出すように言葉を漏らす。
 その瞳には、堪えきれない涙が溢れていた。

「先生がずっと、家庭内暴力を受けていることを……! 私は、ずっと……!!!」
「ッ────!?」

 鳳梨先輩の泣き叫ぶような告白に、藤咲先生は口元を押さえて絶句した。
 ただ見ているしかない私もまた、まさかの事態に言葉を失う。
 それはあまりにも思いもよらない展開だった。

 先輩は言葉にしたことを後悔するように唇を結び、しかし堪えきれない気持ちを吐露し続ける。

「昨年度末、三月くらいに私は、先生がトイレで苦しそうにしているのをたまたま見てしまいました。捲った服の内側に、いくつか痛々しい痣があるのも。それからも注意して見てみれば、先生は時折身体を庇っている時があって。それに服の隙間から痣が見える時がありました。それで私は、先生が家庭で頻繁に暴力を受けているのだろうと知ったんです」

 思わず隣の藤咲先生を見るも、もちろん見てとれるところにそんな痕跡はなかった。
 でもそういうものなのだろう。見えないところを痛めつけられ、他人にはなかなか気付かれない。
 本人もまた、人に気軽に相談なんてできなくて、誰にも知られずに恐ろしい行いが続いていく。

 いきなりのことで俄かには信じられなかったけれど。
 でも反論するでもなく、ただ愕然と顔を引き攣らせる藤咲先生を見れば、多くは違っていなかったとわかる。

「私は、そんな傷付いた先生の姿を見て、とても胸が苦しくなって、未だかつて覚えたことのない怒りを感じました。その時気が付いたんです。私は、先生のことが好きだって。愛しているんだって。だから、守りたかった。救いたかった。先生を、何としてでも、苦しみから解放してあげたかった!!!」

 溢れ出した言葉は止まらず、鳳梨先輩は叫び続ける。
 ずっと胸の中に秘めていた、恋心よりも切実な想いを。

 香葡かほ先輩から聞かされた見立ては、またしても当たっていた。
 流石に家庭内暴力が起きているところまでは推測することはできなかったけれど。
 しかし、鳳梨先輩は藤咲先生を何かから守ろうとしているんじゃないか、と。
 その点には、間違いがなかった。

 そのために、鳳梨先輩は力を求めていた。藤咲先生を、旦那さんから守るために。
 本人から拒絶されようとも、周りから疎まれようとも。
 大切な人を苦しみから守るために。
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