あなたを、愛したかった

やんどら

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第一章 Projective identification

心移り

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 榛原を守らなければならない。だができることは限られている。せめて、やったことにしておこうと、登下校のボディーガードだけすることにした。

 しかしその日の下校中、すぐにそれは起きた。
 学校前の下り坂を下りきったころ、そこに例の少女が立っていた。
 だが、彼女の肩は震えていた。何か恐ろしいものを前にしたかのように。それは僕も同じだった。有栖と三船のことを思い出すと、この少女は言葉だけで人が殺せるかもしれない。ならば気楽に構えられるわけがない。

 僕は恐る恐る、少女に話しかけた。
「今まで何をした」
「……何も」
 それはあの踏切の中に立っていた時のように、恐ろしさに縮こまりながら絞り出した声だった。

 僕は思わず軽いため息をついた。この調子では人を殺せそうにもない。得体のしれないものを前にして、人は怯えるのだろう。僕も怯えている。だがどうしてこの少女は怯えているのだ? 怯えられるのはわかるが、自身が怯える理由はないはずだ。
「僕を苦しめるんじゃなかったのか?」
「そうしてきた」
「じゃあ今までの事件もすべて、三咲がやったのか?」
「……どうだろう」
 曖昧な態度だった。
「はっきりしろ!」
 僕は怒鳴ったが、その声は僕と少女の間で虚しく消えた。
「すべては仕組みを書き換えただけ。そこに私の意思があったかどうかはわからない」
「意味が分からない」
「私は彼女たちと話をしただけ。それ以上でも以下でもない。ただ、勝手に彼女たちが狂っていく。彼女たちと話そうと思ったことは私の意思。だから私が狂わせたというのもあながち間違いではない」
「何か、催眠術のようなものでも使ったのか?」
「私はシャルコーでもなければフロイトでもない。私が何をやっているか、私にもわかっていない。私がここに存在することが運命なら、その運命が彼女たちを狂わせたのでしょう」
 まるで主体性を感じない。自信があったりなかったり、受け身なのか能動的なのかさっぱり理解ができない。
「そんなに僕を苦しめたいか。だいたい助けられたことを根に持つなんて身勝手だ。死にたければもう一度死ねばいい」
 少女は少しばかり落ち着いていった。
「私は今、死ぬ運命にないの。かつては死ぬタイミングがったけれど、それを逃したのはきみのせいよ」
「あんたに意思はないのか。僕を苦しめたいという意思だけははっきりしているようだが」
「どうだろう。わからない。ただ、私は世界に呑まれている。世界が私になってしまった。そんな私は意思をもつことができない。だけど、あなたとはまともに話ができる。とても怖いけど。きっときみがいなくなれば、私は完成される。完成されるのは怖いの。あなたが苦しんでくれれば、私は苦しめる。私は自らを傷つけることも叶わない……」
 少女は、僕の苦しみを引き出すことで、自らの苦しみを引き出しているのだろう。どういう仕組みかはわからないが、少しばかり憐れみの情がわいた。
「榛原先輩も殺すのか?」
 少女は首を振った。
「殺さない。もうわかったから。だけど、桐生さん、あなたと話がしたい」
 唐突な申し入れに、僕は戸惑った。榛原も困惑していた。
「悪いようにはしない。約束する。殺すようなこともしない。そうはならないから」
「い、今更信用できない」
 榛原はかろうじてそういった。
「大丈夫。そういう運命だから。だけど、榛原さん、あなたはその運命にない。下手をすると死ぬことになるかもね」
 僕は解決策など求めていなかった。だが、榛原の手から離れて、この少女に呑まれるような気がした。
「先輩、もういいですよ」
「桐生君……」
 どうしてだろう、先輩を守らなければならないという当為は、それが内実を伴っていないものだったからか、虚しく消え失せた。
 代わりに少女の肩までの綺麗な黒髪に、何か懐かしさのようなものを感じひどく心を惹かれた。
「大丈夫です。じゃあ、」
 少女についていった。榛原は取り残されて、立ちすくんでいた。
 目をそらし、少女を見つめた。彼女の華奢な手はそっと僕の手に触れた。思わず握り返し、そのまま手を引かれていった。
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