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改訂 186章 映画『クラッシュビート・心の神様』大ヒットする
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改訂 186章 映画『クラッシュビート・心の神様』大ヒットする
2022年3月5日、土曜日の 午後1時。
川口 信也(しんや)と マンガ家の 青木 心菜(ここな)、
週刊芸能ファンの 記者の 杉田 美有(みゆ)の 3人は、
4人用の 四角い テーブルの席で、
ランチを 済ませて スイーツを楽しんでいる。
場所は 下北沢駅西口から 歩いて2分の『 カフェ・ゆず 』だ。
2017年の夏に オープンの 店の オーナーは 高田 充希(みつき)で、
3月14日に29歳になる。
充希は、名前も、その顔かたちも、人気の女優・歌手の、
高畑 充希(たかはたみつき)にそっくりで、下北沢では 評判だ。
「このたびは、映画『クラッシュビート』第3作の『心の神様』の 大ヒット、
誠(まこと)に おめでとうございます!」
信也や心菜(ここな)と、 すっかり 仲の良い 杉田 美有(みゆ)が、
気持ちを 切り替えて、満面の笑みで、取材を開始した。
映画は 主題歌の『心の神様』と共に、大ヒットで上映中だ。
今回の物語では、クラッシュビートの歌『心の神様』が 大人気となる。
歌は 世界中に 爆発的に広まって、世界中の人々に 愛されていく。
そして、人々は 何かに 目覚めたかのように、
この 宇宙や 自然を創造した 神様の存在を
人 それぞれが 自由にイメージしたりして 信じていく。
人々は、そんな自由で気軽な 信仰が 幸福な人生への道だと 実感する。
その輪は、世界中に広まる。そして 様々な 宗教者や無神論者や唯物論者たちも、
対立や 争いをやめて、仲良くなっていく。
そして やがて 世界中の 人々は 明るく 平和で 楽しい
人生を 築いていくという 愛と 冒険の 物語だった。
「 クラッシュ ビート 第3作 の タイトルは『心の神様』ですよね!
第1作が『心の宝石』でした。第2作が『心の約束』です。
そして、第3作 は『心の神様』です!
ファンの みなさんや 世間では、これは 心の三部作だと、大評判ですよね!
このあたりから、信也さん、心菜さん、お話しを伺(うかが)えますか? 」
「私は、マンガの『クラッシュビート』を、仲よくさせていただいている、
信也さんをモデルにして、信也さんとのお話しとかを、もとに、
アイデア や イメージをふくらませて、書き始めて、現在に至(いた)っているんですよ」
そういって、微笑(ほほえ)む 青木 心菜(ここな)は、
今も マンガ『クラッシュ ビート』を『ミツバ・コミック』連載中だ。
「心菜ちゃんの マンガは、最高ですよ!おれが モデル というのを
忘れるくらい、おもしろいです。あっははは」
そう言って、信也は 笑った。
信也の手もとには、この取材のために 用意した ノートがある。
「心の三部作のことですけど、これは、考えて こうなったのでは 無(な)いんです。
まあ、心って、大切だなあって、おれは 思い続けてますけど。
ちょっと前に 永井 均(ながい ひとし)さんの『私・今・そして神』を読んだんです。
その中に『たとえば、ロボット工学者は、このロボットに心を与える能力がない。
ロボット工学のいかなる進歩を想定しても、原理的にない。
ロボットがどんな反応をするようになっても、心が付与されたか、
付与されていないかは、いつまでも 謎に とどまるからだ。』とか書かれてます。
まあ、そんなふうに言って、ロボットに心を与える仕事は、
『神だけがなしうる仕事』だと書かれていたんです。おれの誤読もあるかも 知れませんが」
そう言って、信也は 明るく 笑った。
「心って、目には見えませんからね。あるんだか、無(な)いんだか、よくわからないものです。
それは まるで 神様の存在のようなものです。
寝ているときに 見る 夢があるじゃないですか。
あの夢って、心を よく 現(あらわ)してるって、おれは 思うんですよ。
だって 夢に 登場する人物は 何人も いるわけですけど、
その中の誰が、自分自身であるかっていうのは、わかるわけですよね。
それって、心があるから、わかることだと、おれは思うんです!」
「そうですよね。心があるから、自分が 夢の中にいても、
自分だと、迷いもなく、わかるんだと、私も 思います。
夢って、おもしろいですよね!」
信也と 心菜(ここな)に、映画『クラッシュビート』の 取材をする
週刊芸能ファンの 記者の 杉田 美有(みゆ)は そう言った。
「心については『心の中はどうなっているの?』という本で、スリランカ仏教界 長老の
アルボムッレ・スナマサーラさんが、こんなことを 序文で言ってます。
仏教の創始者のお釈迦(しゃか)さまに『唯一(ゆいいつ)絶対の神様は、誰ですか』と
質問があったそうです。それに対して
『お釈迦さまは、次のように答えました。
「この世の支配者は、心です。この世は心に動かされているのです。
この世のすべての生命は、たった1つ、心というものに屈服、服従しているのです」
この答えで、仏教の立場は明確です。神様を否定して、無神論・唯物論に
陥(おちい)って みだらな世界を認めることなく、事実を語っています。
「神様」という、何の証拠もない感情的であいまいな概念を、
具体的な「心」という言葉に入れ替えたのです。
ですから、俗っぽくいえば、一切の生命の神様が心なのです。
世界はどのように現れて消えていくのか。人の運命はどうなるのか、
自分とは何なのか … などを理解したければ、心について学ぶことです。
心について学ぶことは、仏教について学ぶことになります。』
以上が その本の 序文にある言葉です。その本の『結び』には、
『お釈迦さまは、「すべての 悪いことを やめること、
善(ぜん)に 至(いた)ること、心を 清らかにすること。
それが 諸仏(しょぶつ = いろいろの仏)の 教えである」
と 言われました。』と 書かれてます」
そんなことを 信也は 語った。
「ごめんなさいね、お話しが 難しくなって。なんったって『神様』の お話しなので。
アルボムッレ・スナマサーラさんの仏教の本では、
『仏教は、精神的な働きを 徹底的に 科学する「心の科学」です』って
書かれています。
この『科学』とかで連想するが、哲学者 ウィトゲンシュタイン なんですよ。
彼は オーストリア・ウィーン出身で、イギリス・ケンブリッジ大学教授となり、
イギリス国籍を得ました。
彼の 論考の 結論にある 言葉の
『人は 、語りえないものについては、沈黙しなければならない』
は 有名ですよね。
この言葉は、ひとことで言えば、言語や科学の『 限界 』を示していると
おれも思います。
大正大学 文学部 教授の 星川 啓慈(ほしかわ けいじ)さんの
『増補・宗教者 ウィトゲンシュタイン』には、こんなこと 書かれています。
『語ることが 無意味である 倫理や宗教、さらに「神の属性」について 述べることは
「言語の限界について進む」ことであり、「まったく絶対に望みのないこと」である。
だが、神に祈る/神に語りかけることは、許されることであり、
「人間の精神に潜(ひそ)む傾向をしるした証拠」であり、
ウィトゲンシュタイン自身も
「この《 自分にも存在する 》傾向に ふかく 敬意を はらわざるをえない」のである。
神に祈る/神に語りかけることは、決して 無意味な行為ではないのであり、
神との「特別な 関係に入る 行為」なのだ。』
この本に ありますけど、ウィトゲンシュタインは『 哲学 宗教 日記 』に
こんな言葉が書かれています。
『神よ!私を あなたと 次の ような 関係に 入らせてください!
そこでは 私が《 自分の仕事において 楽しくなれる 》という関係に!
… 《 神よ!》私の 理性を 純粋で 穢(けが)れなきように
保(たも)たたせてください!< 1937年 2月 16日 >』
『増補・宗教者 ウィトゲンシュタイン』の『結び』には、こう書かれています。
『ウィトゲンシュタインが いいたかったのは、「科学主義・合理主義・効率主義・
数値化主義で 割り切れないものこそ、人間にとって 本当に 大切なものなのだ」、
そして「それは ちっぽけなもの ではなくて、われわれを 一呑(ひとの)みにする
巨大で 深遠な ものなのだ」ということである。
ウィトゲンシュタインの『人は 、語りえないものについては、沈黙しなければならない』
という言葉こそを 現代人は深く味わうべきではないか。』
難(むずか)しい お話しなんか、聞きたくないですよね。
このへんで、やめときたいです。心菜(ここな)ちゃん、あっははは」
信也は そう言って笑って、温かい カフェオレ を 飲む。
「まあ、神様を信じることには、ウィトゲンシュタインも言うように、
その存在の証明には、科学的にも 言語的にも 限界もありますよね。
人それぞれが、感じて 信じたりするしかないものなんでしょうね。
世の中には、いつまでたっても 戦争や 悪事や 悲劇は 無くならないし、
愚かなことは 繰り返されます。
これは、人の心に問題があるということで、心が 荒廃しているからだと言えると思います。
心の荒廃を止めるためには、やはり神様のような 清い 存在が必要なんでしょうかね。
神様にしても、おれは、人それぞれに、自分の信じる神様を イメージしたり
想像して、信じればいいのだと思います。
その神様を 悪用したり 利用したりしてはいけませんよね。
美しい 生命や 自然や 宇宙を 創造した 神様は、
感謝すべき、愛のある 尊い 存在だと 思います。
インターネットの『フリー百科事典『ウィキペディア』によると、
詩劇『ファウスト』や 小説『若きウェルテルの悩み』で知られる
ドイツの文豪の ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ は、
『各々(おのおの)が 自分の 信じるものを 持つことこそが
真の 信仰であるという 汎神論的な 宗教観を持つに至(いた)った。』そうです。
おれの イメージしたり、信じる『神様』は、ゲーテに とても 近いと思っています。
汎神論(はんしんろん)とは、
『 万物は 神の 現れであり、万物に 神が 宿っており、
一切が 神そのものであるとする宗教・哲学観。』のことです。
ゲーテはこんなことを言ってます。
適菜 収(てきなおさむ)さんの 編集の『ゲーテに学ぶ 賢者の知恵』からですが。
『神をおとしめない。ゲーテにとって神とは、人間の理解を超えた
思考の存在だった。よって、世間の神の解釈にはあきれていた。
「人々は理解することも 想像することもできない 至高の存在を、
まるで 自分たちと同じものであるかのように取り扱っている。
そうでなければ、主なる神、愛する神、善なる神 などと言えないだろう」
神を世俗の次元におとしめてはならない。』
このゲーテの言葉は、なるほどと、感心します。
ただ、どんな神をイメージして 信じたり信仰するのも、個人の自由だと、おれは思います。
星野 慎一さんの著作『ゲーテと鴎外 (おうがい)』によると、
小説家の 芥川 龍之介も 学生時代から 晩年まで
『ゲーテは 偉大だと 傾倒していた』と書かれています。
その 芥川 龍之介は、神を信じることは できなかったと言います。
現代も 新人の 作家に 捧(ささ)げられる 栄誉ある 芥川 賞ですよね。
ドイツ語で書かれた『一冊の本』をあげるとしたら、何をあげるか?
という問いに、エッカーマンの『ゲーテとの対話』と答えたのが、
哲学者 ニーチェ だったそうです。
あの『神は死んだ』とかの言葉も印象的ですが、
そんな ニヒリズムを乗り越えて、健康的に 明るく 楽しく
音楽や 芸術を 愛しながら生きることを 目指す
『超人』を 創造したことでも 有名な ニーチェ です。
ニーチェ は 楽しい『 踊る 神 』なら 信じよう!と『ツァラトゥストラ』で語っています。
その『ゲーテとの対話』で、ゲーテは こんなことを 語っています。
『たとえば 永生の説を 証明するのに、宗教の 威信を 借りる必要はない。
人間は 不滅の 生命を 信じるべきであり、そうする 権利がある。
それは 人間の 本性に かなっており、われわれは 宗教の約束することを
信頼してよいのだ。ところが、哲学者とあろうものが、
霊魂 不滅の 証明を 宗教的 伝説 あたりから 取ってこようとするなら、
これは 非常に 薄弱で、あまり意味がない。
私の場合、永生の信念は 活動の概念 から来ている。
というのは、もし 私が 至(いた)るまで活動し、現在の生存形式が
私の精神にとって、もはや 持ちこたえ られなくなった時には、
自然は 私に 別の 存在 形式を 指示する 義務があるからだ。』
そのように ゲーテはエッカーマンに語ったそうです。
そして、エッカーマンは このゲーテの言葉に こんな感想を言ってます。
『この言葉を 聞いて、私の胸は 讃嘆と 愛のために 高鳴った。
この言葉ほど 高貴な行動へ 人の心を 刺激する 教えは、
かつて 口に されたことは ないではないか、と私は考えた。
なぜなら、それによって、永生の保証が与えられるとしたなら、
誰だって、死ぬまで 倦(う)むことなく 活動し 行動しようと
思わないものが いるだろうか。』
『倦む』とは、『飽(あ)きる』『嫌(いや)になる』『退屈する』とかの意味です。
また ゲーテにおいては、『自然』は『神』と、ほとんど 同義で 同じ意味だそうです。
中野 和朗(なかの かずろう)さん の 本
『史上最高に面白いファウスト』には こう書かれています。
『 詩劇「ファウスト」は、「永遠にして 女性的なるものが
われらを 天国へ 引き上げる」《 原文の中野 訳 》という言葉で 終わってます。
これもまた、十人十色の 解釈がなされてきた、謎に 包まれた 言葉です。
この言葉にこそ、ゲーテの 82年の 全人生と 生涯を 通じて 蓄積された、
叡智の すべてが 結実していると 言えるでしょう。』
おれも、この言葉は、女性を愛し続けた ゲーテ らしい 言葉であるし
美を愛する 崇高な 神への 賛辞 と 信頼にあふれる 素晴らしい 名言だと思います。
銀座まるかん 創設者の 斎藤一人(ひとり)さんは
『変な人の書いた 世の中のしくみ』という 本で、こんなこと言ってます。
『私は 子供のころから 神様がいるって 信じているの。神様がいるから
不可能が 可能になるの。それを 可能にするたびに
「ああ、やっぱり 神様はいるんだ」って確かめているんです。』
つまり、神様って 奇跡的なことを 体験しないと、実感がわかないし、
なかなか 信じられないと、おれも思います。
実は、この第3作の 物語も タイトルの『 心の神様 』も、
神様の力が 働いるような、奇跡の出来事のように、おれは感じているんですよ!」
信也は、そう言って、明るく 笑った。
☆参考文献☆
<1>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
<2>ゲーテとの対話 エッカーマン 秋山英夫・訳 教養文庫
<3>私・今・そして神 永井 均 講談社現代新書
<4>心の中はどうなっているの? アルボムッレ・スナマサーラ サンガ新書
<5>増補・宗教者 ウィトゲンシュタイン 星川 啓慈 法蔵館文庫
<6>変な人の書いた 世の中のしくみ 斎藤一人 サンマーク文庫
<7>ゲーテと鴎外 星野 慎一 潮 選書
<8>ゲーテに学ぶ 賢者の知恵 適菜 収 だいわ 文庫
<9>史上最高に面白いファウスト 中野 和朗 文藝春秋
≪ つづく ≫ --- 186章 おわり ---
2022年3月5日、土曜日の 午後1時。
川口 信也(しんや)と マンガ家の 青木 心菜(ここな)、
週刊芸能ファンの 記者の 杉田 美有(みゆ)の 3人は、
4人用の 四角い テーブルの席で、
ランチを 済ませて スイーツを楽しんでいる。
場所は 下北沢駅西口から 歩いて2分の『 カフェ・ゆず 』だ。
2017年の夏に オープンの 店の オーナーは 高田 充希(みつき)で、
3月14日に29歳になる。
充希は、名前も、その顔かたちも、人気の女優・歌手の、
高畑 充希(たかはたみつき)にそっくりで、下北沢では 評判だ。
「このたびは、映画『クラッシュビート』第3作の『心の神様』の 大ヒット、
誠(まこと)に おめでとうございます!」
信也や心菜(ここな)と、 すっかり 仲の良い 杉田 美有(みゆ)が、
気持ちを 切り替えて、満面の笑みで、取材を開始した。
映画は 主題歌の『心の神様』と共に、大ヒットで上映中だ。
今回の物語では、クラッシュビートの歌『心の神様』が 大人気となる。
歌は 世界中に 爆発的に広まって、世界中の人々に 愛されていく。
そして、人々は 何かに 目覚めたかのように、
この 宇宙や 自然を創造した 神様の存在を
人 それぞれが 自由にイメージしたりして 信じていく。
人々は、そんな自由で気軽な 信仰が 幸福な人生への道だと 実感する。
その輪は、世界中に広まる。そして 様々な 宗教者や無神論者や唯物論者たちも、
対立や 争いをやめて、仲良くなっていく。
そして やがて 世界中の 人々は 明るく 平和で 楽しい
人生を 築いていくという 愛と 冒険の 物語だった。
「 クラッシュ ビート 第3作 の タイトルは『心の神様』ですよね!
第1作が『心の宝石』でした。第2作が『心の約束』です。
そして、第3作 は『心の神様』です!
ファンの みなさんや 世間では、これは 心の三部作だと、大評判ですよね!
このあたりから、信也さん、心菜さん、お話しを伺(うかが)えますか? 」
「私は、マンガの『クラッシュビート』を、仲よくさせていただいている、
信也さんをモデルにして、信也さんとのお話しとかを、もとに、
アイデア や イメージをふくらませて、書き始めて、現在に至(いた)っているんですよ」
そういって、微笑(ほほえ)む 青木 心菜(ここな)は、
今も マンガ『クラッシュ ビート』を『ミツバ・コミック』連載中だ。
「心菜ちゃんの マンガは、最高ですよ!おれが モデル というのを
忘れるくらい、おもしろいです。あっははは」
そう言って、信也は 笑った。
信也の手もとには、この取材のために 用意した ノートがある。
「心の三部作のことですけど、これは、考えて こうなったのでは 無(な)いんです。
まあ、心って、大切だなあって、おれは 思い続けてますけど。
ちょっと前に 永井 均(ながい ひとし)さんの『私・今・そして神』を読んだんです。
その中に『たとえば、ロボット工学者は、このロボットに心を与える能力がない。
ロボット工学のいかなる進歩を想定しても、原理的にない。
ロボットがどんな反応をするようになっても、心が付与されたか、
付与されていないかは、いつまでも 謎に とどまるからだ。』とか書かれてます。
まあ、そんなふうに言って、ロボットに心を与える仕事は、
『神だけがなしうる仕事』だと書かれていたんです。おれの誤読もあるかも 知れませんが」
そう言って、信也は 明るく 笑った。
「心って、目には見えませんからね。あるんだか、無(な)いんだか、よくわからないものです。
それは まるで 神様の存在のようなものです。
寝ているときに 見る 夢があるじゃないですか。
あの夢って、心を よく 現(あらわ)してるって、おれは 思うんですよ。
だって 夢に 登場する人物は 何人も いるわけですけど、
その中の誰が、自分自身であるかっていうのは、わかるわけですよね。
それって、心があるから、わかることだと、おれは思うんです!」
「そうですよね。心があるから、自分が 夢の中にいても、
自分だと、迷いもなく、わかるんだと、私も 思います。
夢って、おもしろいですよね!」
信也と 心菜(ここな)に、映画『クラッシュビート』の 取材をする
週刊芸能ファンの 記者の 杉田 美有(みゆ)は そう言った。
「心については『心の中はどうなっているの?』という本で、スリランカ仏教界 長老の
アルボムッレ・スナマサーラさんが、こんなことを 序文で言ってます。
仏教の創始者のお釈迦(しゃか)さまに『唯一(ゆいいつ)絶対の神様は、誰ですか』と
質問があったそうです。それに対して
『お釈迦さまは、次のように答えました。
「この世の支配者は、心です。この世は心に動かされているのです。
この世のすべての生命は、たった1つ、心というものに屈服、服従しているのです」
この答えで、仏教の立場は明確です。神様を否定して、無神論・唯物論に
陥(おちい)って みだらな世界を認めることなく、事実を語っています。
「神様」という、何の証拠もない感情的であいまいな概念を、
具体的な「心」という言葉に入れ替えたのです。
ですから、俗っぽくいえば、一切の生命の神様が心なのです。
世界はどのように現れて消えていくのか。人の運命はどうなるのか、
自分とは何なのか … などを理解したければ、心について学ぶことです。
心について学ぶことは、仏教について学ぶことになります。』
以上が その本の 序文にある言葉です。その本の『結び』には、
『お釈迦さまは、「すべての 悪いことを やめること、
善(ぜん)に 至(いた)ること、心を 清らかにすること。
それが 諸仏(しょぶつ = いろいろの仏)の 教えである」
と 言われました。』と 書かれてます」
そんなことを 信也は 語った。
「ごめんなさいね、お話しが 難しくなって。なんったって『神様』の お話しなので。
アルボムッレ・スナマサーラさんの仏教の本では、
『仏教は、精神的な働きを 徹底的に 科学する「心の科学」です』って
書かれています。
この『科学』とかで連想するが、哲学者 ウィトゲンシュタイン なんですよ。
彼は オーストリア・ウィーン出身で、イギリス・ケンブリッジ大学教授となり、
イギリス国籍を得ました。
彼の 論考の 結論にある 言葉の
『人は 、語りえないものについては、沈黙しなければならない』
は 有名ですよね。
この言葉は、ひとことで言えば、言語や科学の『 限界 』を示していると
おれも思います。
大正大学 文学部 教授の 星川 啓慈(ほしかわ けいじ)さんの
『増補・宗教者 ウィトゲンシュタイン』には、こんなこと 書かれています。
『語ることが 無意味である 倫理や宗教、さらに「神の属性」について 述べることは
「言語の限界について進む」ことであり、「まったく絶対に望みのないこと」である。
だが、神に祈る/神に語りかけることは、許されることであり、
「人間の精神に潜(ひそ)む傾向をしるした証拠」であり、
ウィトゲンシュタイン自身も
「この《 自分にも存在する 》傾向に ふかく 敬意を はらわざるをえない」のである。
神に祈る/神に語りかけることは、決して 無意味な行為ではないのであり、
神との「特別な 関係に入る 行為」なのだ。』
この本に ありますけど、ウィトゲンシュタインは『 哲学 宗教 日記 』に
こんな言葉が書かれています。
『神よ!私を あなたと 次の ような 関係に 入らせてください!
そこでは 私が《 自分の仕事において 楽しくなれる 》という関係に!
… 《 神よ!》私の 理性を 純粋で 穢(けが)れなきように
保(たも)たたせてください!< 1937年 2月 16日 >』
『増補・宗教者 ウィトゲンシュタイン』の『結び』には、こう書かれています。
『ウィトゲンシュタインが いいたかったのは、「科学主義・合理主義・効率主義・
数値化主義で 割り切れないものこそ、人間にとって 本当に 大切なものなのだ」、
そして「それは ちっぽけなもの ではなくて、われわれを 一呑(ひとの)みにする
巨大で 深遠な ものなのだ」ということである。
ウィトゲンシュタインの『人は 、語りえないものについては、沈黙しなければならない』
という言葉こそを 現代人は深く味わうべきではないか。』
難(むずか)しい お話しなんか、聞きたくないですよね。
このへんで、やめときたいです。心菜(ここな)ちゃん、あっははは」
信也は そう言って笑って、温かい カフェオレ を 飲む。
「まあ、神様を信じることには、ウィトゲンシュタインも言うように、
その存在の証明には、科学的にも 言語的にも 限界もありますよね。
人それぞれが、感じて 信じたりするしかないものなんでしょうね。
世の中には、いつまでたっても 戦争や 悪事や 悲劇は 無くならないし、
愚かなことは 繰り返されます。
これは、人の心に問題があるということで、心が 荒廃しているからだと言えると思います。
心の荒廃を止めるためには、やはり神様のような 清い 存在が必要なんでしょうかね。
神様にしても、おれは、人それぞれに、自分の信じる神様を イメージしたり
想像して、信じればいいのだと思います。
その神様を 悪用したり 利用したりしてはいけませんよね。
美しい 生命や 自然や 宇宙を 創造した 神様は、
感謝すべき、愛のある 尊い 存在だと 思います。
インターネットの『フリー百科事典『ウィキペディア』によると、
詩劇『ファウスト』や 小説『若きウェルテルの悩み』で知られる
ドイツの文豪の ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ は、
『各々(おのおの)が 自分の 信じるものを 持つことこそが
真の 信仰であるという 汎神論的な 宗教観を持つに至(いた)った。』そうです。
おれの イメージしたり、信じる『神様』は、ゲーテに とても 近いと思っています。
汎神論(はんしんろん)とは、
『 万物は 神の 現れであり、万物に 神が 宿っており、
一切が 神そのものであるとする宗教・哲学観。』のことです。
ゲーテはこんなことを言ってます。
適菜 収(てきなおさむ)さんの 編集の『ゲーテに学ぶ 賢者の知恵』からですが。
『神をおとしめない。ゲーテにとって神とは、人間の理解を超えた
思考の存在だった。よって、世間の神の解釈にはあきれていた。
「人々は理解することも 想像することもできない 至高の存在を、
まるで 自分たちと同じものであるかのように取り扱っている。
そうでなければ、主なる神、愛する神、善なる神 などと言えないだろう」
神を世俗の次元におとしめてはならない。』
このゲーテの言葉は、なるほどと、感心します。
ただ、どんな神をイメージして 信じたり信仰するのも、個人の自由だと、おれは思います。
星野 慎一さんの著作『ゲーテと鴎外 (おうがい)』によると、
小説家の 芥川 龍之介も 学生時代から 晩年まで
『ゲーテは 偉大だと 傾倒していた』と書かれています。
その 芥川 龍之介は、神を信じることは できなかったと言います。
現代も 新人の 作家に 捧(ささ)げられる 栄誉ある 芥川 賞ですよね。
ドイツ語で書かれた『一冊の本』をあげるとしたら、何をあげるか?
という問いに、エッカーマンの『ゲーテとの対話』と答えたのが、
哲学者 ニーチェ だったそうです。
あの『神は死んだ』とかの言葉も印象的ですが、
そんな ニヒリズムを乗り越えて、健康的に 明るく 楽しく
音楽や 芸術を 愛しながら生きることを 目指す
『超人』を 創造したことでも 有名な ニーチェ です。
ニーチェ は 楽しい『 踊る 神 』なら 信じよう!と『ツァラトゥストラ』で語っています。
その『ゲーテとの対話』で、ゲーテは こんなことを 語っています。
『たとえば 永生の説を 証明するのに、宗教の 威信を 借りる必要はない。
人間は 不滅の 生命を 信じるべきであり、そうする 権利がある。
それは 人間の 本性に かなっており、われわれは 宗教の約束することを
信頼してよいのだ。ところが、哲学者とあろうものが、
霊魂 不滅の 証明を 宗教的 伝説 あたりから 取ってこようとするなら、
これは 非常に 薄弱で、あまり意味がない。
私の場合、永生の信念は 活動の概念 から来ている。
というのは、もし 私が 至(いた)るまで活動し、現在の生存形式が
私の精神にとって、もはや 持ちこたえ られなくなった時には、
自然は 私に 別の 存在 形式を 指示する 義務があるからだ。』
そのように ゲーテはエッカーマンに語ったそうです。
そして、エッカーマンは このゲーテの言葉に こんな感想を言ってます。
『この言葉を 聞いて、私の胸は 讃嘆と 愛のために 高鳴った。
この言葉ほど 高貴な行動へ 人の心を 刺激する 教えは、
かつて 口に されたことは ないではないか、と私は考えた。
なぜなら、それによって、永生の保証が与えられるとしたなら、
誰だって、死ぬまで 倦(う)むことなく 活動し 行動しようと
思わないものが いるだろうか。』
『倦む』とは、『飽(あ)きる』『嫌(いや)になる』『退屈する』とかの意味です。
また ゲーテにおいては、『自然』は『神』と、ほとんど 同義で 同じ意味だそうです。
中野 和朗(なかの かずろう)さん の 本
『史上最高に面白いファウスト』には こう書かれています。
『 詩劇「ファウスト」は、「永遠にして 女性的なるものが
われらを 天国へ 引き上げる」《 原文の中野 訳 》という言葉で 終わってます。
これもまた、十人十色の 解釈がなされてきた、謎に 包まれた 言葉です。
この言葉にこそ、ゲーテの 82年の 全人生と 生涯を 通じて 蓄積された、
叡智の すべてが 結実していると 言えるでしょう。』
おれも、この言葉は、女性を愛し続けた ゲーテ らしい 言葉であるし
美を愛する 崇高な 神への 賛辞 と 信頼にあふれる 素晴らしい 名言だと思います。
銀座まるかん 創設者の 斎藤一人(ひとり)さんは
『変な人の書いた 世の中のしくみ』という 本で、こんなこと言ってます。
『私は 子供のころから 神様がいるって 信じているの。神様がいるから
不可能が 可能になるの。それを 可能にするたびに
「ああ、やっぱり 神様はいるんだ」って確かめているんです。』
つまり、神様って 奇跡的なことを 体験しないと、実感がわかないし、
なかなか 信じられないと、おれも思います。
実は、この第3作の 物語も タイトルの『 心の神様 』も、
神様の力が 働いるような、奇跡の出来事のように、おれは感じているんですよ!」
信也は、そう言って、明るく 笑った。
☆参考文献☆
<1>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
<2>ゲーテとの対話 エッカーマン 秋山英夫・訳 教養文庫
<3>私・今・そして神 永井 均 講談社現代新書
<4>心の中はどうなっているの? アルボムッレ・スナマサーラ サンガ新書
<5>増補・宗教者 ウィトゲンシュタイン 星川 啓慈 法蔵館文庫
<6>変な人の書いた 世の中のしくみ 斎藤一人 サンマーク文庫
<7>ゲーテと鴎外 星野 慎一 潮 選書
<8>ゲーテに学ぶ 賢者の知恵 適菜 収 だいわ 文庫
<9>史上最高に面白いファウスト 中野 和朗 文藝春秋
≪ つづく ≫ --- 186章 おわり ---
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