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182章 Dear ボブ・ディラン

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182章 Dear  ボブ・ディラン( Dear Bob Dylan )

2021年3月28日、日曜日。灰色の雲と 時々 雨という 空は模様だ。

 川口信也は、朝の8時ころ ベッドから 起き上がると、カフェオレ をいれた。

  信也は 約1日分のコーヒーを、ペーパー ドリップで、ポットに淹(い)れておく。
カップに、そのコーヒーと牛乳と、湯(ゆ)か 水を 入れて、カフェオレの できあがり。
ちなみに、カフェオレは フランス語で、泡だてたミルクを入れた カプチーノはイタリア語だ。

 信也は MTR(マルチ トラック レコーダー・多重録音機器)で、
「 Dear  ボブ・ディラン 」という タイトルの 歌作りをしている。

 ディランは、 1941年5月24日 の 現在79歳だ。
グラミー賞や アカデミー賞など 数々の賞を受賞して、
2016年には 歌手としては 初めての ノーベル 文学賞も 受賞して、
「ローリング・ストーンの選ぶ 歴史上 最も 偉大な100人のソングライター」
では 堂々の 第1位を 獲得している ボブ・ディランに、信也は 関心が 尽(つ)きない。

 最近 信也が 見た DVD の『ノー・ディレクション・ホーム』は、ボブ・ディランの故郷の
アメリカ・ミネソタ州での少年時代から、ニューヨークnグリニッジ・ビレッジの
コーヒー・ハウスで歌っていた 初期の日々、そして1966年の25歳のころ
ポップスターに登りつめるまでにいたった、
ディランの人生を 記録や 証言や 歌などで 構成した ドキュメント 作品だ。

 《 この DVD で 当時のミュージシャンとかのディランと身近だった人々の 証言や 
記録を 見ていても、ディランは、ごく 普通の 音楽好きの 若者だよなぁ。

ただ、ディランが ほかの人たちと 大きく違っているのは、目のつけどころ、
というか 視点 のようなもの、感性とか 考え方とかの 内面なんだろうな。

ディランは、世間から 忘れ去られているような フォーク シンガーの
ウディ・ガスリーの歌に 心酔して、
療養中の ウディ・ガスリーのいる病院に 何度も 見舞いに行っている 。

そういうところ、自分が本当に欲しているものに、真剣に取り組んで、
その 意欲 や 情熱 や 持続 が、中途半端ではなかったんだろうな。

詩人としての 素質や資質についても、「恋愛したら 芽生えた」って、
ディラン自身が語っている。
人は みんな、恋愛から、詩を書くようになったりするんだろうな。
おれも、詩を書いて、贈ったほうだから、このプロセスは、よく理解できる。》

 ディランは、こんなことを 語っていて、信也も 感心している。

『 「 言いたいこと 」だって?
「 電球のように ひらめく 冴(さ)えた 頭を持て 」かな。』
(1965年、マンチャスター)(ディラン 23歳から24歳)

『天才。天才? 紙一重の 言葉だね。天才 なのか、頭が おかしいのか。』
(1992年。ロサンゼルス)

『ぼくは もともと ロックンロールが 好きだから、
無意識のうちに 演奏する音楽も ロックンロールのようになっていたね。
ほかの フォーク シンガー と違っていた。』
(1985年、ニューヨーク)

『 姿勢。大事なのは 何をするか より、取り組む 姿勢なんだ。』
(1985年、ニューヨーク)

『名声の 罠(わな)に かからないように 気をつけ なくては ならない。』
(1985年、ニューヨーク)

『神。神は 女なんだ・・・。まず、そこから、話を始めないと。』
(1965年、テキサス州オースティン)(ディラン 23歳から24歳)

『流行歌。ポピュラー ソングは、数ある芸術の中でも唯一、
その時代の 気分 のようなものを 表現できる。だからこそ 人気があるんだよ。』
(1965年、ニューヨーク)(ディラン 23歳から24歳)

『人が 言うことを いちいち 気にするな。心が 死んで しまうから。』
(1969年、ウッド ストック)

『たとえば 夕日の 美しさ。これは 神に 与えられたものだ。
ぼくは 長い間、人の作った 美しさに 関わってきたが、
神の世界の 美しさが 何度も ぼくを 救ってくれたよ。』
(1981年。ニューヨーク)

『ぼくは懐疑的な人間ではない。ただ。他人が信じるように勧めてくれるものの中に
信じられるものが見つからないだけだ。』
(1965年、ニューカッスルアポンタイン)(ディラン 23歳から24歳)

『異性。人は本当は男や女を探し求めているわけじゃなくて、
自分の内面に潜んでいるものを目覚めさせてくれる人を探しているんだ。』
(1989年、ロサンゼルス)

『そこらじゅうに、詩を書く人が うじゃ うじゃ います。そういう人たちみんなを、
詩人と呼べますか。ある種のリズムがあって、ある種の方法に従えば、
詩になるんです。詩人になるために詩を書く必要などないでしょう。
ある人はガソリン・スタンドで 働いていて、なおかつ 立派な詩人です。
ぼくは自分を立派な詩人だなどと言いません。なぜって、その言葉がきらいだからです。
しいていえば、ぼくのことを 曲芸師とでも呼んでください。』
(1965年、ロサンゼルス)

『どういう言葉を使うのか。言葉をどういうふうに はたらかせるのか。
歌でも詩でも大事なのはそれだ。』(1989年、 ニューヨーク)

『リズム、メロディ、すべてをなくしたとしても、ぼくは歌詞を暗唱できる。
重要なのはメロディじゃない。歌詞だ。』(1963年、ニューヨーク)

『今はほとんどの音楽が機械で作られて、どの曲も音が全部同じだ。
だが、そういう音楽を 気に入っていない若者も 大勢いるんだ。』
(1978年、トロント)

『ロックの死。ロックがなんであるか。どう利用すればいいかを企業が理解したときに、
息の根を止められてしまった。』(1986年、トロント)

『音楽ビジネス。最初のうちは食べて行ければ十分だった。
今は音楽で稼げるとわかったから、この世界に入る人間がいる。悲しいことだと思うね。』
(1986年、トロント)

『ロック。昔は、ロックをやるなら 犠牲を 払わなければならなかった。
町から追い出されるかもしれないし、崖(がけ)から突き落とされるかもしれなかった。』
(1985年、ニューヨーク)

『今やロックは一大産業であり、大きな体制になっている。
最高のロックは、スポットライトを 浴びる前に 出尽くした。』
(1985年、ニューヨーク)

『メディアはいつも栄養を欲しがる肉挽き機のようだ。
決して、満足しないから 常に 栄養を 与え続けなければ いけない。』
(1985年、ニューヨーク)

『たくさん レコードを作っていると、何年も ずーっと それをやっていると、
ときどき わからなくなる。自分が 作りたいから 作っているのか、
それとも 他人に 期待されている からなのか。』
(1991年、ロサンゼルス)

『働けるなら、それ以上望むものはない。こういう時代で、この歳で、
あたりまえと言えない。働けることこそ人が求めるべきものだ。』
(1986年、トロント)(ディラン 44歳から45歳)

『ノスタルジア (郷愁) 。自分の歌が 古くなるということは ぼくには ありえない。
ディケンズの「二都 物語」は もう 百年も前に 書かれた本だけど、
懐かしい なんていうだろうか。懐かしいなんて 言われるようになると、
扱いが 変わって、みんな、歌を わかったようになるんだ。
ただ、懐かしいという 言葉に 変わったに 過ぎないのに。』
(1984年、ハンブルグ)


 信也は、1分11秒の『Dear ボブ・ディラン 』という歌を
MTRで完成させて、Youtubeにアップした。

Dear ボブ・ディラン  全歌詞

1941年に アメリカの 
ミネソタ州で 生まれた ボブ・ディランは
14歳で ギターを弾いた という
「 ロックン ロール を 歌う 気持ちで
フォーク ソング も 歌っていた 」と
ディランは 語っているよ

ディラン は 19歳のときの ギターと
スーツ ケース だけで 
初めて ニューヨークに 着いて
グリニッジ ビレッジ の コーヒー ショップ に
飛びこみ ぶっつけで 歌った という
「 やりたいことは 熱心に やるんだ 」
と語っている ディラン

『 ナッシュヴィル・スカイライン 』
( NASHVILLE SKYLINE )の アルバム の
『 アイ・スリュウ・イット・オール・アウェイ 』
( I THREW IT ALL AWAY )という
イカした ラヴ ソング( LOVE SONG ) の中で
「 Love is all there is it makes the world go 'round 」
「 愛しかない それが 世界を 動かしている 」って歌っているんだよ

☆参考文献☆
<1>自由に生きる言葉 ボブ・ディラン イーストプレス 
<2>ボブ・ディラン サイ&バーバラ・リバコフ 音楽之友社
<3> Dear ボブ・ディラン  乙黒 一平
    https://youtu.be/Pb2ZZqXzTL4

≪ つづく ≫ --- 182章 おわり ---
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