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EPILOGUE たった6文字の希☆望

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 冷房が絶えず、冷えた空気を吐き出している。
 少し肌寒いくらいの空気が、小さな教室を回流していた。
 もう右肩に痛みはない。打撲の方はほとんど治っていた。
 前期試験開始を来週に控え、学内の雰囲気は落ち着きを欠いていた。
 嫌がらせ事件の解決から10日あまり、今ひとつのトピックが十波学園大学構内を席巻している。
 ミス十波学園大・水島玲奈の交際発覚。
 ……というよりも、交際宣言。
 先週の初め、玲奈は高屋一紘に「守る会」の解散を要請した。そして、それだけでなく、その場で秋彦との交際をもはっきりと宣言したのだ。
 あっという間だった。それが「高屋建設の御曹司様撃沈!」というオマケつきで、学内中に広まったのだ。
 おまけにその翌日、もう一人の御曹司、一ノ瀬雅也が警察に任意同行という形で呼び出され、そのまま本人の自白によりひき逃げ犯として逮捕されてしまった。
 さすが、街の実力者の御曹司というべきか。一ノ瀬雅也逮捕の報は、たちまち十波市中の人間に知れ渡ることとなった。
 すぐに高屋一紘のフェラーリのことも、どこからか情報が流れた。そして、被害者が秋彦だったことも……。
 そうなれば、自然とある種の噂が飛び交うのは避けられない。
 高屋一紘が川崎秋彦を……。
 完全に冤罪であるのだが、いま学内での高屋の地位は地に落ちている。
 さらに追い打ちを掛けるように、守る会が行なった襲撃のことも情報が漏れ始めた。どうやら、あの朝、涼介たちが襲われるのを見ていた人間がいたらしいのだ。
 そうなっては、どうしようもない……。
 疑惑は否定しようもなく、真実になりそうな勢いで膨らんでいく。
 けれど、同情する気持ちは少しもなかった。
 ……自業自得である。却って、あの馬鹿御曹司には良い薬になるだろう。
 高屋に対しては、涼介の感情はやはりどこまでも厳しかった。
 まあ、あんな奴のことなんてどうでもいい。
 それよりも、玲奈のことを思う。
 7月最初の日、あれ以来、涼介は彼女とは顔を合わせていない。
 あの時の別れ際の言葉どおり、玲奈は頑張っているようだ。
 ――交際宣言。それはトラウマを持つ彼女にとっては、大きな仕事だったはずだ。それを彼女はやり遂げた。
 まずは最初の一歩。自分を変えるための道を玲奈は歩き始めたようだ。
 早く、多恵子とも仲直りができればいいと思う。玲奈を応援する気持ちで、涼介の心の中はいっぱいだった。
 もうすぐ講義が始まる。試験前最後の日本教育史の講義だ。
 しかし、多恵子は現われない。
 先週の講義にも、彼女は姿を見せなかった。
 正直、まだ多恵子と顔を合わせるのはかなり辛い。先週、彼女が講義に現われなかったことに、涼介はホッとしたものだ。
 けれど、それではいけない。
 一度、多恵子とは話をする必要があるだろう。そうじゃないと……自分がダメになってしまいそうな気がした。
 本当は試験が始まるまでは、大学には来たくはなかった。残り2週間程度の講義など受けなくても、単位を取れる自信はあったから。
 でも、それだと美咲に余計な心配を掛けてしまう。苦しんでいるのは、自分だけではないのだ。
(あの時みたいに……自分のせいで、美咲を哀しませるわけにはいかない)
 その思いが、涼介の足を大学に運ばせていた。
 ……自分のために、美咲をもう泣かせてはいけない。
 それに、涼介は美咲の笑顔が好きだった。
 彼女には笑っていて欲しい。
 後ろから前へ、足音がすぐ横を通り過ぎる。
 見覚えのあるパンツルック。
 ノースリーブシャツの背中が、涼介の前の席に着いた。
 ……多恵子だった。
 びくり、思わず肩が震えた。身体がこわばり、緊張していくのが分かる。
 我ながらなんとも情けない、涼介は微かに苦く笑う。
 担当講師が現われ、講義が開始された。
 試験前の最終講義だというのに、まだ若い講師は普段どおりの講義を淡々と行なう。
 涼介は多恵子のことを気にしつつ、ルーズリーフの上を文字で埋めていく。
 ……ん!?
 突然、シャープペンシルを持つ右手に何かの圧力が掛かった。
 いや……違う。手ではなく、シャープペンシルの方が、涼介の手の動きに逆らっているのだ。
(なんだ、これ?)
 と思ったが、すぐに思い当たる。
 ……念動力。多恵子の仕業ということか。
 涼介はペンを持つ手の力を緩めた。
 すると、シャープペンシルが勝手に動き出す。一応ペンに手は添えているものの、それは自動書記というやつだった。
 シャープペンシルが、ルーズリーフの上を左から右へと移動する。
 ――ご。
 1文字目が記される。
 ――め。
 2文字目。
 ――ん。
 3文字目。
 ――な。
 ――さ。
 ――い。
 あと3文字、シャープペンシルのダンスは続いた。
 ……少し癖のある字。それは、以前渡された講義ノートのコピーにあった筆跡と、同じ特徴と癖を含んでいた。
 ご・め・ん・な・さ・い。
 ……たった6文字の単語。
 ルーズリーフの罫線を無視し、少し右上がりに謝罪を示す文字が並んでいる。
(……松井さん)
 涼介は顔を上げた。
 視線を感じたのか、目の前の多恵子のうなじや耳が赤く染まった。
 右手から、シャープペンシルがするりと抜ける。念動力は解けていた。
 止まっている涼介の右手。対し、多恵子の右手は必要以上に忙しく動いている。
 照れ隠しだろうか。涼介は、思わず吹き出しそうになってしまった。
 多恵子の耳がさらに赤みを増した。
 それを見て、涼介は思った。
 もしかしたら、あれは……正位置だったのかもしれない。
 法王のカード……あれは今のことを表していたのかも。
 鍵というのは、事件の鍵ではなく、それぞれの心の扉を開ける鍵……。
 多恵子にとって……。
 玲奈にとって……。
 美咲にとって……。
 そして、涼介にとっても。
 それぞれの関係の中で、お互いに……誰かが誰かの心の扉にとっての鍵だった。
 法王の正位置……。お互いが誰かにとっての法王だったのかもしれない。
 誰もが今回の件では、自分の持つ悩みや傷と向かい合わされた。
 心の奥の古傷をざっくりと抉(えぐ)られ、新たな傷もいろいろと負った。
 けれど、その傷は〈塔〉の示す破滅へと向かうものではなかったらしい。
 それは、法王の深い慈悲だったのかもしれない。
(なんともまた……凄いこじつけだよな)
 あまりにもご都合主義的な自分のド素人解釈に、涼介は呆れる。
 でも、これでいいのかもしれない。
 正位置か、逆位置か。どちらか分からないものを、わざわざ悪く解釈する必要はない。
 ごめんなさい……ルーズリーフの上のたった6文字の言葉。その中に、涼介は何か小さな希望を見つけたような気がした。
 自分の心の中で、法王の逆位置を正位置へと引っ繰り返す。
 その瞬間、涼介の運命は良い方向に向かった……のかもしれない。
 それは、これからの涼介の努力次第だろう。
 ……玲奈も頑張っている。
 ……多恵子も、何かを始めようとしているようだ。
 ……美咲は昔から一生懸命だった。
 そして、涼介は……。

 ゆっくりと瞼を閉じる。
 闇の中に、美咲の明るい笑顔が浮かんだ。
〝だいじょうぶ……〟
(そうだよな、美咲)
 涼介は瞼を開けた。
 少しだけ、自分を包む世界が変わっているような気がした……。
 目の前を長い簾髪が覆っている。
 今はまだ、その覆いの外に出ることは出来そうにない。
 でも、いつか……きっと。
 今までにない感情が、涼介の中で芽生え始めていた。
 窓の外、空は高く、すっきりと晴れ渡っていた。
 今年の梅雨開けも、もう近そうだ。
 涼介は我知らず呟いていた。
「いつか、きっと……」
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