『たった6文字のHOPE ~神谷探偵事務所はぐれ事件簿~』

水由岐水礼

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FILE・#5 喜怒哀楽のセカンドデー

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 向かいのゼミ室の中から、男性の張りのある声が聞こえていた。
 姿は見えずとも、その堂々たる声の調子から、声の主の自信と自負のほどが窺える。
 廊下のベンチに座る涼介は、聞くともなしに自然とその声に耳を傾けさせられていた。
 ゼミ室の分厚い扉を突き抜けてくるバリトンボイスが、室内で行われている講義テーマを教えてくれる。
 何度か、「業平」という単語が耳に届いていた。
 昔、男ありけり……というお馴染みのフレーズも一度だけ聞こえた。
「伊勢物語か……」
 読んでいる風を装っている文庫本から視線を上げると、涼介はぽつりと呟いた。
 現在、2号館3階の廊下には、西側の端でお喋りをしている三人組の女性以外、人の姿は見当たらない。
(あの三人は、関係ないよな……)
 6月28日、午前10時20分過ぎ。
 1講目の講義が始まってから、既に80分が過ぎている。講義の終了まで、残り時間はあと10分もない。
 今のところ、別にこれといって異常はなかった。
 嫌がらせ犯Xの影は感じられない。
 まあ……いくらなんでも、Xも講義中に仕掛けてきたりはしないだろうが。
 涼介は再び視線を文庫本に落とした。
 けれど、簾髪の下の目で活字の列を辿ることはせず。適当なペースで本のページを捲りながら、涼介は虚構の事件ではなく、現実の事件について考えを巡らせる。
 いま検討しているのは、昨日の多恵子の考えとは逆のケースだった。
(もしXが水島さんじゃなく、先輩の方に関係する人物だったら……)
 狙われているのが、玲奈ではなく秋彦だったとしたら……どうだろう。
 秋彦に何らかの悪意を持つ人間。そんな誰かが玲奈に嫌がらせをしているとは、考えられないだろうか。
 玲奈が秋彦の恋人だと知った誰かが、彼女に攻撃を加えているとしたら……?
 玲奈の周りで不穏なことが起こっていることは、そのうち嫌でも秋彦の耳に入るだろう。
 そうなれば、彼が心穏やかでいられるわけがない。立派な嫌がらせだ。
 それに……今回のひき逃げが、もし端から秋彦を狙ったものだとすれば……フェラーリ、これがなかなかに凄味を持ってくる。
 はねられる寸前、秋彦は赤いイタリア製の車体を目にするはずだ。
 それを見て、彼はどう思うだろう?
 そんなもの……推して知るべし、だろう。
 今回はたまたま命が助かり、秋彦は大怪我と(幸か不幸か)逆行性健忘という部分的な記憶喪失で済んだ。
 が、場合によっては、彼は大きなショックと絶望の中で、命を落としていったかもしれないのだ……。
(Xの狙いが先輩だとしたら……)
 事態はかなり陰険なことになってくる。
 そして、犯人Xは、秋彦に怖ろしく恨みを抱いている人物……ということになるはずだ。「恨み」ではなく「怨み」と表記した方がいいくらいに。
 この方が無理があるなりに、多恵子の考えよりもまだ多少上手くいくんじゃないだろうか。もちろん、ひき逃げがただの事故じゃなかった場合だけれど。
 ちょっとした思いつきだった。
(でも……悪くないかもしれない)
 涼介は思い、もう少しきちんと考えを掘り下げてみようとした。
 けれど、すぐに止めてしまう。
 涼介はパタンと文庫本を閉じた。
 まるで、ミステリーを読んでいる時のような感覚だった。
(先輩が事故に遭って、水島さんは誰かに狙われているっていうのに……)
 自分の中に、本当に僅かだか、推理ゲームを楽しんでいる感覚を見つけてしまう。
 涼介は自己嫌悪に陥った。
 ちょうど、その時。
 タイミング良くか悪くか、1講目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
 お蔭で、涼介は反省することも、落ち込むこともできなかった。
 ゼミ室の扉が開く。
 涼介はベンチから立ち上がった。
 講義後に質問をぶつけてくるような、熱心な学生はいなかったらしい。
 最初にゼミ室から出てきたのは、ロマンスグレーの文学部教授殿だった。
 続き、学生たちも続々と溢れ出してくる。
 中には、廊下に立つ涼介の姿に、ギョッとしたように身を退く者もいた。
 待ち人の水島玲奈が現われたのは、一番最後だった。
 気障な感じで、いかにも「自分は金持ちの放蕩息子です」といった印象の、ブレザー姿の男性と連れ立っている。
「……ごめんなさい。今日は駄目なんです」
 男性は何かに玲奈を誘っていたらしい。しかし、見事に玉砕……というのが目の前のシーンのようだ。
「……そ、そうですか。それは残念ですね」
 玉砕男は、余裕を湛えたように見える笑顔で言った。
 けれど、表情とは裏腹に、このプレイボーイ殿の内心は全然穏やかではなさそうだ。
「では、またの機会に。じゃあ」
 その証拠になるかどうか、去りぎわの言葉は少し震えていた。心の動揺を上手く隠しきれていない声は、ゼミ室の扉を突き抜けていた、あのバリトンボイスだった。
 一方、こちらは本当に本物の余裕の笑みでフラレ男を見送ると、
「お待たせしました、涼介さん。それでは、行きましょうか」
 と、玲奈は涼介の方を向いた。
「あ、はい」
 この後、二人は学生食堂で多恵子と落ち合うことになっている。
 ベンチに置いたリュックを取り上げ、涼介は玲奈の隣に並んだ。
 玲奈は昨日と同じく、スカートタイプのスーツルック。ただ、デザインは同じでも、カラーは淡いグリーンに変わっている。
 涼介の方も草臥れたジーンズルックは変わらずで、いつもの「妖怪のお兄ちゃん」の風体だった。
 そんな二人が並ぶと、どうにも様にならない。
 さながら美女と野獣のようだ、と言っても言い過ぎにはならないだろう。
 どころか、まさにピッタリだと涼介自身も思う。
 ……っ!!
 背後から突き刺すような視線を感じ、涼介はさっと後ろを振り返った。
(誰だ――!?)
 長い廊下には、さっきまでとは違い二、三十人の人間がいる。
 視線だけを巡らせて、急いで確認する。
 針の視線の持ち主は、誰なのか?
 けれど、該当しそうな人物はいなかった。
 ……気のせいじゃない。
 あの尖った視線には、明らかに何かしらの悪意が込められていた。
(……逃げられたか)
 涼介は軽く唇を噛んだ。
 そんな彼の様子を、玲奈は口を出さず、隣で黙って見守っていた。
 不安げな瞳だけを涼介の方に向けている。
(だめか……)
 涼介は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
 そのタイミングを見計らって、
「どうかしたんですか?」
 玲奈が涼介に声を掛ける。
「いや、ちょっと……でも、気のせいだったみたいです。すみません」
 玲奈の心配そうな眼差しに、涼介は曖昧な答え方をした。実際、涼介は視線の意味を捉えかねていた。
 ……どうしてだ?
 悪意の視線は、玲奈に向けられたものではなかった。
 視線の照準は、なぜか涼介の方に合わされていたのである。
 いつも感じているような、自分への好奇や嫌悪の視線程度のものではない。そんなものよりも遥かに強いものを含んだ、敵意のある視線だった。
(……なぜ、オレに?)
 それとも、気づけなかっただけで、玲奈にも同様のものが向けられていたのだろうか。
 何にしろ……もう少し気を引き締めていかないと。
「涼介さん……?」
 玲奈の声で、我に返る。
「ああ、すみません……」
 正体が見えなさすぎる。視線のことは、まだ黙っていた方がいいだろう。
 とりあえず、この場では流すことにする。
 ぽんと手を軽く打ち鳴らし、涼介は仕切りなおす。
「さあ、行きましょうか。松井さんを待たせると怖そうですからね」
 涼介は言った。
「うふふ……そうですね」
 どういう意味でなのか、玲奈は苦笑しつつ頷いた。
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