『たった6文字のHOPE ~神谷探偵事務所はぐれ事件簿~』

水由岐水礼

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FILE・#1 神谷探偵事務所の諸事情

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「うん、今日のも上出来だね! とっても美味しいよ、雪乃ちゃん!」
 美咲のご機嫌な声が、事務所内に響く。
「ああ、ホントに美味いよ。甘さの加減もいい感じだし。イケるよ、これ」
 チョコレートケーキをパクパクとやりながら、涼介も美咲の感想に同意する。
 ケーキを美味しそうに食べている二人の姿に、製作者の雪乃はにこにこと嬉しそうに微笑んでいた。
「よかったら、もう一つどうぞ」
 雪乃はケーキのお代わりを勧めた。
 応接セットのテーブルの上には、大皿に載った半円形のケーキ(要は半分)がまだ残っている。
 涼介に雪乃の声は届かない。
 美咲は、雪乃の言葉を皿を空にした涼介に伝えた。
 雪乃は美咲と同年代の少女だった。髪はおかっぱ風のショートで、朝顔をあしらった空色の浴衣姿が清楚で初々しく、華奢で可愛らしい。
 そんな雪乃の姿が、美咲の目にははっきりと映っている。
 けれど、彼女はいわゆる幽霊というやつだった。霊感の強い美咲はともかく、霊感ゼロの涼介には雪乃の声を聞くどころか、その姿を見ることさえもできない。
 という訳で、美咲はこの事務所では通訳的な役割を負っている。
「ありがとう、雪乃さん。それじゃあ遠慮なくいただきます」
 涼介は、大皿から一切れ、ケーキを自分の皿に移した。
 再びケーキにパクつき始めた涼介を横目に見、「あたしは遠慮しとく」と美咲はフォークを皿に置いた。
 どうやら、多くの女性が気にする、カロリーというものを計算してのことらしい。その証拠に、その視線は大皿のケーキにちらちらと未練ぽく向けられている。
(女の子というのも、大変だなぁ……)
 などと思いながら、慎也は誰にも遠慮なく、「んじゃ、あとは全部、俺が貰うな」と大皿ごと残りのケーキを自分の方へ引き寄せる。
 ぱくり、慎也は新しいケーキをフォークで切り、口に放り込んだ。
 と、自分を見つめる視線に気づき、フォークを咥えたまま、彼はそちらへ顔を向けた。
 雪乃が期待いっぱいの瞳に不安をほんの少しだけ混ぜて、慎也を見ている。
 慎也も雪乃の姿を見ることができる。
 美咲ほどではないが、彼も霊感を持っていた。ただ、涼介と同様、雪乃の声を聞くことまではできない。
 感想を待つ雪乃に、慎也はコーヒーをひと口飲んでにっこりと微笑む。
「GOOD! とっても美味しいよ」
 右手の親指と人差し指で輪を作り、慎也はウインクをしてみせた。
「上に振るったココアパウダーがちょっとだけ多いかな……って気もするけど、これなら十分に合格だね」
 ケーキ作りの師匠、慎也に太鼓判を貰い、雪乃は一際嬉しそうに相好を崩した。
 慎也は甘いものが好きなだけでなく、ケーキやタルトなどの洋菓子を自分でも作れる人だったりもする。その腕前は趣味レベルには止まっておらず、手作りケーキを売りにしている喫茶店のマスターに、「うちで働かないか」と誘われたこともあるくらいだった。
 大学生の時、慎也は姉(涼介の母)夫婦の家に下宿させてもらい、そこから大学に通っていた。その四年間だけのこととはいえ、天野家のおやつや食後のデザートには、慎也作のケーキが登場することが少なくはなかった。
 自分自身が食べたかったのが一番の動機ではあったものの、世話になっているお礼の気持ちも込めて、慎也はいろんな洋菓子を天野家のキッチンでよく作っていた。
 そのおかげで、洋菓子──特にケーキに関しては、涼介と美咲の舌はかなり肥えてしまっている。幼い頃から慎也の作ったケーキを食べ慣れている二人の舌は、その辺でお手軽に買えるような量産品の類では満足しない。
 そんな涼介と美咲、加えて二人の舌を豊かにした慎也、この三人みんなが口を揃えて美味しいというのだ。それは、雪乃の作ったケーキがかなりの美味であることを示している。
 雪乃は幽霊で、ものを食べられない。だから、調理をする上での基本、味見というものができない。
 それで、これだけのものを作ってしまうのだ。
 自分では、味見なしでこうはいかないだろう。内心、慎也は雪乃に感服していた。
 それにしても……と、フォークと口を動かしながら慎也は思う。
(こんなはずじゃ、なかったのにな……)
 刑事を辞めて探偵事務所を開こうと決心した時、確かハードボイルドな探偵を目指していたはずなのに……。
 テーブルの上には、チョコレートケーキ&ティーセットがあり。それを囲んでの、若者たちとのちょっと遅めの夕方のティータイム。
 ああ、なんてアットホーム感のある光景なんだろう……。
 ハードボイルド……。その響きとは、似ても似つかない。あまりにも掛け離れすぎている。
 ハードボイルドは、どこへ行った?
 やはり、煙草も吸えないような超甘党童顔男には、端からハードボイルドなど無理だったんだろうか。
(でも、まあ……これはこれでいいか)
 結構楽しいし……。本当のところ、今ではもう、慎也の中にハードボイルドへの拘りはあまりなかったりする。
 それどころか、幽霊の女の子までいる、一風変わったこの事務所の温かな家族的(アットホーム)な雰囲気を慎也はとても気に入っていた。
 刑事だった頃にはなかった安らぎが、今の生活にはあった。
 ハードボイルドの夢は破れたが、ユーモアミステリーの世界も悪くないものである。
 ソファーに背をあずけ瞼を閉じると、半年前の出来事が脳裏に甦ってきた。
(あの日は、そう……雪が降っていたんだよなぁ……)
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