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序章:帝都の夜
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――何としても全面戦争だけは避けなくては
世界の覇権国に登極しつつある大国、エクレナダ帝国。
その首都、エクレミスの中心部に構える豪邸の一つに、深夜になっても明かりが消えることはない一室があった。
帝国の大物政治家、ハンス=リクトル枢機卿の屋敷である。
「ハンス様、もうお休みにならないとお体に障ります」
入口の銘板には書斎と記されているが、舞踏会でも開けそうな広々とした部屋の奥。
山積する羊皮紙の上に羽ペンを走らせる老人に向かって、燕尾服の秘書が気遣う。
帝国の外交で数々の実績を残してきた大御所、ハンス=リクトルは今年で齢七十歳。
髪も口髭も白く染まり、落ち窪んだ眼窪は徐々に光を失いつつある。
この頃は体調を鑑みて帝国議会を欠席することも多くなったが、この時ばかりは同輩の議員に手紙を宛てるために寝食の時間さえも惜しむほどに切迫していた。
「まだ床につけぬ。次の帝国会議に先立って、中立派の議員を味方につけねば」
執務机にかじりつくようにしてハンス卿が書き続けるのは、同僚の議員に対する自らの主張の訴え。
帝国議会はとにかく根回しが肝要であり、会議の場はその成果の確認の場に過ぎない。
非公式な対談を重ねて地歩を固めなければ、いかに円卓の上で理に訴えたとしても大局を覆すのは至難の業だった。
「強硬派の奴等は日に日に勢いを増しつつある。このままでは愚かな指導者に臣民が扇動されてしまう」
「強硬派? あのヘンリマン枢機卿と、その取り巻きですか?」
秘書が問うと、ハンス卿の羽ペンが音を立てて折れる。
「奴らは近く、ベルニア王国への宣戦布告を皇帝陛下に進言するかもしれぬ。それだけは絶対に避けなければ」
声に力を込めて、ハンス卿は新しい羽ペンを引き出しから取る。
「ベルニア王国ですか。小国とはいえ、国力は我が国の半分。征服は可能にしても、多大な犠牲を覚悟せねばなりませぬ」
「しかもベルニア王国はダクライア公国と堅固な同盟関係にある。ベルニア王国に宣戦布告をすれば、必ず援軍を差し向けるだろう」
「益々厄介なことになりそうです・・・・・・」
「今日の帝国は慎重な外交の駆け引きがあってこそというのに、奴はなぜそのことがわからんのだ!」
勢いよく机に拳を叩きつけるハンス卿。
優れた外交手腕を発揮する彼だからこそ、今までの対外関係を無造作に塗り替えるやり方は許せなかった。
その震える拳を、秘書は黙って見つめていた。
「インクが切れそうですな」
「お前はもう、休んでいてもよいのだぞ。インクくらい、侍女にでも買って来させよう」
「いえ、このような時に秘書の私がお暇するわけにはいきません」
「すまんな」
「当然の務めです」
秘書はインクをすぐに買ってくると申し出て、執務室の扉を出た。
長年傍に仕えてきた秘書は、ハンス卿にとって最も信頼のおける人物だった。
どんな事務でさえ疎漏なくこなす彼ならば、小さな買い出しなどすぐに済ませてくるだろう。
そう考えているうちに、時は過ぎていく。
「まだ戻らないのか?」
インクを切らしたハンス卿の手は完全に止まっていた。
ここは世界の名だたる交易品が集められる帝都の中心だ。
インクの一つが手に入らないはずなどない。業を煮やしたハンス卿は呼び鈴を鳴らす。
「誰か!」
いくら呼び鈴を鳴らしても扉の奥から人が出て来る気配はない。
この屋敷には最低でも二人の侍女が不寝番を務めている。こんな事は今まで一度もなかった。
世界の覇権国に登極しつつある大国、エクレナダ帝国。
その首都、エクレミスの中心部に構える豪邸の一つに、深夜になっても明かりが消えることはない一室があった。
帝国の大物政治家、ハンス=リクトル枢機卿の屋敷である。
「ハンス様、もうお休みにならないとお体に障ります」
入口の銘板には書斎と記されているが、舞踏会でも開けそうな広々とした部屋の奥。
山積する羊皮紙の上に羽ペンを走らせる老人に向かって、燕尾服の秘書が気遣う。
帝国の外交で数々の実績を残してきた大御所、ハンス=リクトルは今年で齢七十歳。
髪も口髭も白く染まり、落ち窪んだ眼窪は徐々に光を失いつつある。
この頃は体調を鑑みて帝国議会を欠席することも多くなったが、この時ばかりは同輩の議員に手紙を宛てるために寝食の時間さえも惜しむほどに切迫していた。
「まだ床につけぬ。次の帝国会議に先立って、中立派の議員を味方につけねば」
執務机にかじりつくようにしてハンス卿が書き続けるのは、同僚の議員に対する自らの主張の訴え。
帝国議会はとにかく根回しが肝要であり、会議の場はその成果の確認の場に過ぎない。
非公式な対談を重ねて地歩を固めなければ、いかに円卓の上で理に訴えたとしても大局を覆すのは至難の業だった。
「強硬派の奴等は日に日に勢いを増しつつある。このままでは愚かな指導者に臣民が扇動されてしまう」
「強硬派? あのヘンリマン枢機卿と、その取り巻きですか?」
秘書が問うと、ハンス卿の羽ペンが音を立てて折れる。
「奴らは近く、ベルニア王国への宣戦布告を皇帝陛下に進言するかもしれぬ。それだけは絶対に避けなければ」
声に力を込めて、ハンス卿は新しい羽ペンを引き出しから取る。
「ベルニア王国ですか。小国とはいえ、国力は我が国の半分。征服は可能にしても、多大な犠牲を覚悟せねばなりませぬ」
「しかもベルニア王国はダクライア公国と堅固な同盟関係にある。ベルニア王国に宣戦布告をすれば、必ず援軍を差し向けるだろう」
「益々厄介なことになりそうです・・・・・・」
「今日の帝国は慎重な外交の駆け引きがあってこそというのに、奴はなぜそのことがわからんのだ!」
勢いよく机に拳を叩きつけるハンス卿。
優れた外交手腕を発揮する彼だからこそ、今までの対外関係を無造作に塗り替えるやり方は許せなかった。
その震える拳を、秘書は黙って見つめていた。
「インクが切れそうですな」
「お前はもう、休んでいてもよいのだぞ。インクくらい、侍女にでも買って来させよう」
「いえ、このような時に秘書の私がお暇するわけにはいきません」
「すまんな」
「当然の務めです」
秘書はインクをすぐに買ってくると申し出て、執務室の扉を出た。
長年傍に仕えてきた秘書は、ハンス卿にとって最も信頼のおける人物だった。
どんな事務でさえ疎漏なくこなす彼ならば、小さな買い出しなどすぐに済ませてくるだろう。
そう考えているうちに、時は過ぎていく。
「まだ戻らないのか?」
インクを切らしたハンス卿の手は完全に止まっていた。
ここは世界の名だたる交易品が集められる帝都の中心だ。
インクの一つが手に入らないはずなどない。業を煮やしたハンス卿は呼び鈴を鳴らす。
「誰か!」
いくら呼び鈴を鳴らしても扉の奥から人が出て来る気配はない。
この屋敷には最低でも二人の侍女が不寝番を務めている。こんな事は今まで一度もなかった。
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