アンリ千紀

源燕め

文字の大きさ
上 下
12 / 16
第11章

軍師の横顔

しおりを挟む
 クラン・クレイターヴ奪還の意思が固まるとその後の動きは素早いものだった。サラン候はすでに挙兵の備を進めたいたようで、数日後には兵を率いてサラン候領を出立することに決定した。
 アンリは自領の騎士を率いていなかったため、騎士候のひとりとして軍を率いることはできなかった。
 セルシーヴはもともと小さな領地で、多くの兵を擁する土地ではなかった。兄の時代も、わずかな手勢をリュシオンの親衛隊として率いていたに過ぎず、主な役割は将としてのリュシオンの参謀という位置づけだった。
 兄が率いていたセルシーヴの者たちは、ノルドからの帰還の際、そのほとんどを失っていた。わずかに残ったものたちは新しく編成されたリュシオンの親衛隊に組み込まれていたが、一軍として扱えるほどの兵力ではなかった。
 リュシオンは挙兵に際して、アンリを新たなセルシーヴ候として、兄のいた参謀の地位をそのまま譲り渡す旨を明言した。
 皆、若すぎる参謀に驚きを隠せないようだったが、セルシーヴ候として形だけの参謀職だと納得している者も多かった。
 ただ、リュシオンとアンリだけが、その地位は名前だけのものにするつもりはないとわかっていた。
 サラン候は相変わらずアンリが従軍することを厭っていたようだったが、口に出して反対するようなことはなかった。また、アンリが女だと他に漏らすこともなかった。

 サラン地方は豊かな土地で、擁する兵の数も多い。それに加え、サラン候がノルド遠征軍の残兵を率いて自領へ帰還している。その数を合わせると約八千。
 リュシオンが挙兵の声を上げると同時に、諸騎士候も呼応し、一万二千。クレイターヴとしては、これまでにない兵の数になった。
「ローザニア軍はおそらく二万はくだらないでしょう」
 サラン候の言葉にリュシオンは思わず息を飲んだ。
「二万!」
 二万という兵の数はこれまでのクレイターヴとローザニアの戦乱の中では想像できない数だ。十年まえのクレイターヴ独立戦争のときでもせいぜい一万五千程度だったはずだった。
「地方の守備兵までかき集めたということか?」
「それもありますが、各地の騎士候をどれだけ抑えているかということでしょうね。十年前とは比較にならないほど、諸騎士候の信頼が厚いのですよ。皇女将軍殿は」
 十年前には、クレイターヴに賛同して独立を目指すとまではいかなった騎士候たちは、積極的には参戦はしなかった。騎士候の鑑のような存在であったクレイターヴ候が叛旗を翻してもおかしくないような状況であることを皆が理解していたからである。そんなクレイターヴに同情する余地も大いにあったのだろう。
 そのときには兵を出し渋っていた騎士候たちも、いまでは皇女ロゼ・ヒルデガルドに恭順している。騎士候として仕えるに値する主君なのだ。
 サレイ・ド・サランですら、皇女ロゼ・ヒルデガルドにならば、恭順しても良いという選択肢を残していたほどだったのだ。

「二万という兵をそのまま戦場に投入することはできないのではないでしょうか」
 アンリはすでに軍師の横顔を覗かせていた。
「ローザニアはクラン・クレイターヴを押さえています。それが裏目にでることもあるはずです」
 クラン・クレイターヴを護るために兵を据え置く必要があるのだ。しかも落城させたばかりのため占領下にある領民たちも自分たちに協力的とはいえないだろう。そんななかではクラン・クレイターヴに残さねばならない兵力もばかにはならない。
 アンリにはこれまで知らなかったはずの記憶が湧き上がってくるのがわかった。それはセルシーヴのものがもつ記憶の一部なのかもしれなかった。歴代のアンリの中にいるときの感覚のようにはっきりしたものではないが、兄ならばこう考えたはずだという思考の流れが、湧き水のように溢れてくる。
 きっと兄も独立戦争から十年の間、こうやってアンリの記憶を引き継ぎながら戦いを続けてきたに違いないのだ。
「東部のリフランにおびきだすことはできないでしょうか」
「いや、できるだけクラン・クレイターヴから引き離し、このサランまで引きつけたほうがいい」
「そうなると、ローザニア兵がここにくるまでにいくつかの騎士候領を通らねばなりません」
「ローザニアでは略奪は厳しく禁じられているさ」
「それでも食料が足りなくなれば接収せざるを得ないでしょう。リフランであれば、彼らはローザニアから兵站を伸ばして自国から兵糧を調達しようとするでしょう」
 戦は避けられないとしても、クレイターヴの民への影響をできるだけ抑えたい。それがアンリの考えだった。
「そんな甘い考えだと、勝利はおぼつかない」
 サラン候の言葉は冷ややかだった。それでも、リフランでの戦いについて検討を進めている。
「いえ、リフランには地の利があります」
 アンリはリュシオンとサラン候に戦術の詳細を話し始めた。

 二日後、リフランにクレイターヴ軍の姿があった。
 アンリはリュシオンに進言して、東のローザニアと西のクレイターヴを結ぶ最短の経路であるログラム街道を封鎖した。サラン候領から一万二千の兵を急行させ、一息にその街道の警備にあたっていた兵たちを屈服させたのである。
 これに慌てたのはクラン・クレイターヴの城を占拠していてローザニア帝国軍である。ローザブルグへ繋がる大動脈を押さえられたということは、一息に喉もとに刃をつきつけられたも同然だからである。
 また、クレイターヴの軍はサランで決起するだろうと考えていたことも油断につながった。
 実際決起そのものはサランだったが、その後の行軍の速さが尋常ではなかった。クラン・クレイターヴを大きく東に迂回しログラム街道を封じたのである。その軍をそのままじわじわとクレイターヴ側に攻め上がり、陣を置いた場所がリフランだった。
 この作戦にはひとつの賭けがあった。ローザブルグから援軍があった場合、クラン・クレイターヴを占領している軍と挟み撃ちになる危険性が高いのである。
 しかしアンリは、二万という兵を率いてきたことからして、これ以上の援軍を送る余地はいかにローザニア帝国といえど持ってはいまいと判断し、この作戦に打って出た。
 ローザニア帝国軍は、一万五千の兵をリフランに振り向けた。やはりクラン・クレイターヴの守備のために、いくばくかの兵を残留させる必要があったのだ。
 これに対して、リフランに投入したクレイターヴ軍は、ほぼ全数である。サランに残留したのは百人ほどの老兵と少年兵のみ。敗戦の場合には戦わず、降伏する旨をきつく申し渡して出陣してきた。
 クレイターヴ軍が総力であたったとしてもその数一万二千、余力を残して陣を展開するローザニア軍は一万五千。それでもクレイターヴの不利はかわらない。
「もう少し、クラン・クレイターヴに残してくれるとありがたかったんだがな」
「五千を残留させただけでも大きいと思いますよ」
 リュシオンの軽口に答えながら、アンリは敵の布陣を確かめた。

 一方、ローザニア軍には計算外のことばかりが起こっていた。クラン・クレイターヴで小規模な暴動が繰り返されるようになったからである。
 ひとつひとつの騒ぎは決して大きいものではなかった。そのほとんどが食料庫の襲撃であることからして、民衆の憤懣が溜りきったことによる暴発だと思われた。問題は、その実行犯をまったくとらえることができないということだ。警備が手薄になっている地域に限って、暴動が発生する。実に手際よく襲撃が実行され、兵が差し向けられたころには、もぬけの殻と言った具合だ。
 城から情報が漏れているは間違いないが、城からクレイターヴの人間をすべて追放したら、すぐに立ち行かなくなるのは目に見えている。
 食料が足りなくなるから、領民からの接収が厳しくなり、また領民への配給は減らされる。それに憤った領民が食料庫を襲うと言った悪循環が際限なく繰り返されるようになったのだ。
 そこへ持ってきてログラム街道の封鎖である。
 皇女はここが雌雄を決するときと判断し、出陣を命じたが、クラン・クレイターヴをこのままにしておくべきではないとの進言もあり、五千の兵に残留を命じ、秩序の回復を任せ、リフランへ出撃したのである。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

健太と美咲

廣瀬純一
ファンタジー
小学生の健太と美咲の体が入れ替わる話

絶対に間違えないから

mahiro
恋愛
あれは事故だった。 けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。 だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。 何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。 どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。 私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。

処理中です...