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第1章
アンリ・ド・セルシーヴ
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「アンリ…」
その声でアンリは目を覚ました。冷たくなった兄の手を握りしめたまま、眠ってしまったようだった。
背後から聞こえたその声は、振り絞るように響いた。
「おまえは、俺とともに闘うと言ったんじゃないのか! 俺の盟約者だと」
それは自分にではなく、亡くなった兄にむけられた言葉だった。
振り返るとそこには、一人の若者の姿があった。拳を堅く握りしめ、わずかに肩を震わせていた。
「あなたは?」
「なんだ、おまえは? 人に名を尋ねるときには、まず自分から名乗るものだろう」
アンリは無断で兄の寝室へ入り込みながら、横柄な態度のこの若者に少し腹を立てた。
「アンリ・ド・セルシーヴです」
「それは、こいつの名前だ」
そう言って、彼は、亡くなった兄に視線を移した。その瞳には悼みの気持ちが込められているのが見て取れた。
「兄が息を引き取った今、弟の私が、アンリを名乗っています。以後、お見知りおきを」
「リュシオン・ド・クレイターヴだ」
「クレイターヴ? それでは…」
アンリは、続きの言葉を飲み込んだ。兄はこの若者の盾となって毒矢を受けたのだ。
「そうだ、そいつは俺をかばって死んだ」
アンリはこの若者の騎士らしからぬ言葉使いが気になったが、それよりも兄の死を目の当たりにして、その若者が悲しみよりも怒りに震えていることのほうが気になった。
「俺とともにクレイターヴを守ると言ったおまえが、先に逝ってどうする…」
リュシオンは、寝台の脇にたたずみ、ただじっと亡骸を見つめていた。その横顔に涙はなく、ぐっと歯をくいしばっているだけであった。
「ノルドからの帰途に何があったのですか?」
アンリはその横顔に話かけた。
「襲ってきたのはノルドの者ではない、帝国の奴らだ」
「帝国? ローザニア帝国ですか?」
「ああ」
「クレイターヴの軍と知って?」
「そうだ。俺を狙ってのことだ」
クレイターヴは大陸の西端の小国ながら、海路・陸路両方の貿易の要所である。クレイターヴの領主はもともとローザニア帝国の一諸侯にすぎなかった。
しかし十年前、リュシオンの父であるクレイターヴ候が、独立戦争を起こした。クレイターヴ候はこの独立戦争において命を落とし、その翌年、初代の王としてリュシオンの兄であるジョルジュが即位し、新たに国を興した。
独立してわずか十年、しかもこの独立はいまだかつての君主であったローザニアには認められてはおらず、周辺地域との小競り合いも絶えることがなかった。
そして、代々アンリと名乗る者が治めるセルシーヴ領は、クレイターヴの北東の深い森の中にあり、小さいながらもどの国にも属してはいない。
セルシーヴのアンリは、代々盟約を結ぶ者を己で決める。あるときは軍師として、あるときは宰相として様々な国の君主に仕えてきた。
アンリの父は亡き前クレイターヴ候と、兄は王弟リュシオンと盟約者として結ばれていた。
「なぜ、リュシオン卿を?」
「俺を王都に戻らせないようにだ。毒矢を使ってきたのも確実に息の根を止めるためだろうからな」
「でも、それだけで刺客がローザニアのものとはわからないのでは?」
「いや、わかった」
「どうして」
「アンリが、おまえの兄がそう言ったからだ」
「兄上が?」
「あいつの考えは俺たちの想像にも及ばない。これまでその実力にどれだけ助けられてきたことか。おまえは知らないのかあいつの力を」
「…」
アンリは答えられなかった。アンリの知っている兄は、クレイターヴの静寂の塔で見せる穏やかな表情だけだった。クレイターヴの誇る常勝の軍師の姿ではなかった。
呆然としているアンリを見て脱力したリュシオンは、小さな溜息をひとつつくと、アンリの肩を軽くたたいた。
リュシオンの手がアンリの肩に触れたそのときだった。
アンリの頭の中に一瞬靄がかかった。そのあと五月の森に吹き渡るような清涼な風がよぎった。
風が吹きやむと、そこは森の中をいく街道だった。ごくかすかにだが遠くに馬の蹄の音が聞こえた。おそらく蹄鉄に綿入りの布を巻いている。その音が背筋に冷たい汗をにじませた。
アンリは自分の視点にふと違和感を覚えた。騎乗しているときの目線がいつもと違って、かなり高かったのだ。
「おい、アンリ、どうした」
それは、同じく騎乗したリュシオンだった。戦の後も生々しい甲冑姿だ。まわりに目をやると、親衛隊らしき一団、そしてノルドへ遠征したクレイターヴ軍の雄姿が見えた。
「いえ、なんでもありません」
その自分の発した声に息をのんだ。深みのある低い声。
これは兄の声だ。
それは不思議な感覚だった。兄の記憶も感覚もすべて持っている。なのに、意識はやはり自分自身だ。
くっきりと自分のおかれた状況を理解できた。
ここは、クレイターヴの北、ノルド側へ少し国境を外れたあたりだ。ノルド軍と戦いに勝利し、王都へ帰還する途中。兵たちは疲れ果てており、どうしても行軍の速度はでない。今日は野営になるだろう。このままでは国境越えは夜が明けてからになる。
そうこう考えているうちに、あの耳障りな蹄の音が、少しづつ近づいてくるのがわかった。
野営するにしてもこの森は抜けておきたい。その相談をと声をかけようとしたときだった。
矢が風を切る音が聞こえた。耳のいい自分にも弓鳴りの音は聞こえなかったから、相当遠くから放ったのだろう。
「リュシオン卿!」
アンリの体は自然に動いた。大きな広い背でリュシオンの盾となったのだ。
矢は一本、その鏃は不運にも鎧の肩の継ぎ目にめり込んでいた。
「アンリ!!」
駆け寄ったリュシオンは落馬しかけたアンリを抱き留めて地上に下ろした。その間に親衛隊の半数が回りを取り囲み、残りの半数が刺客を追った。
兄の感覚を通して、アンリ自身にも火のついたような痛みが伝わってきた。そしてじんわりと広がる鈍い重み。
これは毒矢だ。
リュシオンは王弟とは思えない手際の良さでアンリの甲冑を脱がせると、傷口を小刀で切り開き鏃を抜き去った。
しかしすでに傷口は青黒く変色し始めていた。リュシオンにも毒矢だったとわかったのだろう。すぐに傷口を酒で洗い流したが、すでにいくらかは体内に吸収されている。
「ノルドの残党め」
リュシオンが鋭い声で言い放った。
「違います」
そう、兄にはわかっていた。それがローザニアの刺客だと。それは、自分を射た遠矢が証拠だ。そして毒矢のような卑怯な手段をとってでもリュシオンを葬らねばならないのもローザニア帝国以外にはない。
「あの刺客はローザニア帝国のものです」
「ローザニア? なぜ奴らが?」
「ここで、詳しい話をしている暇はありません。刺客を追った親衛隊をすぐに呼び戻してください。そして軍をまとめるのです。すぐに出立します」
兄の感覚が伝わってきた。
ローザニアはノルド遠征でリュシオンが王都クラン・クレイターヴを空けるのを待っていた。そしてその帰途での暗殺を狙っていたのだ。
そして、いまここで刺客を放ったということは、クラン・クレイターヴにローザニアの本隊が攻め込んでいる可能性がある。
アンリには兄がどのように考えを組み立てているかが手に取るようにわかった。しかしどこか透明な殻の中から見ているように、兄の意識に割り込むことはできなかった。
「リュシオン卿、本隊をサラン公に任せ、王都に向かわせてください。夜通し駆けて今夜中に国境を越えさせるのです」
「ちょっと待て、」
「あなたは親衛隊とともにわたしと来てもらいます。狙われているのはあなたです」
「俺も王都に行く」
「刺客も引き連れていくのですか?」
リュシオンは言葉に詰まった。
「あなたは、わたしとともにセルシーヴへ。あそこへはローザニアの刺客とはいえ踏み込むことはできないでしょう」
そうして兄とリュシオンは、数十騎の親衛隊を引き連れセルシーヴへ向かった。何度か奇襲に会い、そのたびに親衛隊は数を減らすことになった。
セルシーヴ領の直前でその親衛隊とも行く手を分けることとなった。セルシーヴに入ったのはリュシオンとアンリのふたりきりだった。
肩に受けた傷は熱く、鈍い痛みが続き、薄闇に包まれるように兄の意識が混濁していく。
それとともにアンリ自身の意識も闇の中に落ちていった。
その声でアンリは目を覚ました。冷たくなった兄の手を握りしめたまま、眠ってしまったようだった。
背後から聞こえたその声は、振り絞るように響いた。
「おまえは、俺とともに闘うと言ったんじゃないのか! 俺の盟約者だと」
それは自分にではなく、亡くなった兄にむけられた言葉だった。
振り返るとそこには、一人の若者の姿があった。拳を堅く握りしめ、わずかに肩を震わせていた。
「あなたは?」
「なんだ、おまえは? 人に名を尋ねるときには、まず自分から名乗るものだろう」
アンリは無断で兄の寝室へ入り込みながら、横柄な態度のこの若者に少し腹を立てた。
「アンリ・ド・セルシーヴです」
「それは、こいつの名前だ」
そう言って、彼は、亡くなった兄に視線を移した。その瞳には悼みの気持ちが込められているのが見て取れた。
「兄が息を引き取った今、弟の私が、アンリを名乗っています。以後、お見知りおきを」
「リュシオン・ド・クレイターヴだ」
「クレイターヴ? それでは…」
アンリは、続きの言葉を飲み込んだ。兄はこの若者の盾となって毒矢を受けたのだ。
「そうだ、そいつは俺をかばって死んだ」
アンリはこの若者の騎士らしからぬ言葉使いが気になったが、それよりも兄の死を目の当たりにして、その若者が悲しみよりも怒りに震えていることのほうが気になった。
「俺とともにクレイターヴを守ると言ったおまえが、先に逝ってどうする…」
リュシオンは、寝台の脇にたたずみ、ただじっと亡骸を見つめていた。その横顔に涙はなく、ぐっと歯をくいしばっているだけであった。
「ノルドからの帰途に何があったのですか?」
アンリはその横顔に話かけた。
「襲ってきたのはノルドの者ではない、帝国の奴らだ」
「帝国? ローザニア帝国ですか?」
「ああ」
「クレイターヴの軍と知って?」
「そうだ。俺を狙ってのことだ」
クレイターヴは大陸の西端の小国ながら、海路・陸路両方の貿易の要所である。クレイターヴの領主はもともとローザニア帝国の一諸侯にすぎなかった。
しかし十年前、リュシオンの父であるクレイターヴ候が、独立戦争を起こした。クレイターヴ候はこの独立戦争において命を落とし、その翌年、初代の王としてリュシオンの兄であるジョルジュが即位し、新たに国を興した。
独立してわずか十年、しかもこの独立はいまだかつての君主であったローザニアには認められてはおらず、周辺地域との小競り合いも絶えることがなかった。
そして、代々アンリと名乗る者が治めるセルシーヴ領は、クレイターヴの北東の深い森の中にあり、小さいながらもどの国にも属してはいない。
セルシーヴのアンリは、代々盟約を結ぶ者を己で決める。あるときは軍師として、あるときは宰相として様々な国の君主に仕えてきた。
アンリの父は亡き前クレイターヴ候と、兄は王弟リュシオンと盟約者として結ばれていた。
「なぜ、リュシオン卿を?」
「俺を王都に戻らせないようにだ。毒矢を使ってきたのも確実に息の根を止めるためだろうからな」
「でも、それだけで刺客がローザニアのものとはわからないのでは?」
「いや、わかった」
「どうして」
「アンリが、おまえの兄がそう言ったからだ」
「兄上が?」
「あいつの考えは俺たちの想像にも及ばない。これまでその実力にどれだけ助けられてきたことか。おまえは知らないのかあいつの力を」
「…」
アンリは答えられなかった。アンリの知っている兄は、クレイターヴの静寂の塔で見せる穏やかな表情だけだった。クレイターヴの誇る常勝の軍師の姿ではなかった。
呆然としているアンリを見て脱力したリュシオンは、小さな溜息をひとつつくと、アンリの肩を軽くたたいた。
リュシオンの手がアンリの肩に触れたそのときだった。
アンリの頭の中に一瞬靄がかかった。そのあと五月の森に吹き渡るような清涼な風がよぎった。
風が吹きやむと、そこは森の中をいく街道だった。ごくかすかにだが遠くに馬の蹄の音が聞こえた。おそらく蹄鉄に綿入りの布を巻いている。その音が背筋に冷たい汗をにじませた。
アンリは自分の視点にふと違和感を覚えた。騎乗しているときの目線がいつもと違って、かなり高かったのだ。
「おい、アンリ、どうした」
それは、同じく騎乗したリュシオンだった。戦の後も生々しい甲冑姿だ。まわりに目をやると、親衛隊らしき一団、そしてノルドへ遠征したクレイターヴ軍の雄姿が見えた。
「いえ、なんでもありません」
その自分の発した声に息をのんだ。深みのある低い声。
これは兄の声だ。
それは不思議な感覚だった。兄の記憶も感覚もすべて持っている。なのに、意識はやはり自分自身だ。
くっきりと自分のおかれた状況を理解できた。
ここは、クレイターヴの北、ノルド側へ少し国境を外れたあたりだ。ノルド軍と戦いに勝利し、王都へ帰還する途中。兵たちは疲れ果てており、どうしても行軍の速度はでない。今日は野営になるだろう。このままでは国境越えは夜が明けてからになる。
そうこう考えているうちに、あの耳障りな蹄の音が、少しづつ近づいてくるのがわかった。
野営するにしてもこの森は抜けておきたい。その相談をと声をかけようとしたときだった。
矢が風を切る音が聞こえた。耳のいい自分にも弓鳴りの音は聞こえなかったから、相当遠くから放ったのだろう。
「リュシオン卿!」
アンリの体は自然に動いた。大きな広い背でリュシオンの盾となったのだ。
矢は一本、その鏃は不運にも鎧の肩の継ぎ目にめり込んでいた。
「アンリ!!」
駆け寄ったリュシオンは落馬しかけたアンリを抱き留めて地上に下ろした。その間に親衛隊の半数が回りを取り囲み、残りの半数が刺客を追った。
兄の感覚を通して、アンリ自身にも火のついたような痛みが伝わってきた。そしてじんわりと広がる鈍い重み。
これは毒矢だ。
リュシオンは王弟とは思えない手際の良さでアンリの甲冑を脱がせると、傷口を小刀で切り開き鏃を抜き去った。
しかしすでに傷口は青黒く変色し始めていた。リュシオンにも毒矢だったとわかったのだろう。すぐに傷口を酒で洗い流したが、すでにいくらかは体内に吸収されている。
「ノルドの残党め」
リュシオンが鋭い声で言い放った。
「違います」
そう、兄にはわかっていた。それがローザニアの刺客だと。それは、自分を射た遠矢が証拠だ。そして毒矢のような卑怯な手段をとってでもリュシオンを葬らねばならないのもローザニア帝国以外にはない。
「あの刺客はローザニア帝国のものです」
「ローザニア? なぜ奴らが?」
「ここで、詳しい話をしている暇はありません。刺客を追った親衛隊をすぐに呼び戻してください。そして軍をまとめるのです。すぐに出立します」
兄の感覚が伝わってきた。
ローザニアはノルド遠征でリュシオンが王都クラン・クレイターヴを空けるのを待っていた。そしてその帰途での暗殺を狙っていたのだ。
そして、いまここで刺客を放ったということは、クラン・クレイターヴにローザニアの本隊が攻め込んでいる可能性がある。
アンリには兄がどのように考えを組み立てているかが手に取るようにわかった。しかしどこか透明な殻の中から見ているように、兄の意識に割り込むことはできなかった。
「リュシオン卿、本隊をサラン公に任せ、王都に向かわせてください。夜通し駆けて今夜中に国境を越えさせるのです」
「ちょっと待て、」
「あなたは親衛隊とともにわたしと来てもらいます。狙われているのはあなたです」
「俺も王都に行く」
「刺客も引き連れていくのですか?」
リュシオンは言葉に詰まった。
「あなたは、わたしとともにセルシーヴへ。あそこへはローザニアの刺客とはいえ踏み込むことはできないでしょう」
そうして兄とリュシオンは、数十騎の親衛隊を引き連れセルシーヴへ向かった。何度か奇襲に会い、そのたびに親衛隊は数を減らすことになった。
セルシーヴ領の直前でその親衛隊とも行く手を分けることとなった。セルシーヴに入ったのはリュシオンとアンリのふたりきりだった。
肩に受けた傷は熱く、鈍い痛みが続き、薄闇に包まれるように兄の意識が混濁していく。
それとともにアンリ自身の意識も闇の中に落ちていった。
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