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序章
プティ・アンリ
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小アンリが、セルシーヴの深い森の中にある静寂の塔を出たのは、これが初めてだった。
兄が危篤との急使を受け、領内一の駿馬で夜も昼もなく駆け続けた。
次の春でようやく十五になるという少年は、明るい栗色の髪を風に梳かれながら、ただ一心に馬を走らせていた。両親亡き今、兄は、自分にとってたったひとりの肉親だ。セルシーヴ家のアンリの名を継ぐものとして、これまで領地の奥深い森から一歩も出たことはなかったが、なんとしても兄にひと目会いたかった。
十年前、独立戦争の最中、父が亡くなったとき、同じように兄はひとりで森を出て行った。父の後を継ぐために王都へ向かって。そのときの兄も今の自分のように不安な気持ちにさいなまれながら駆け通したのだろうか。
クレイターヴは、大陸の西端に位置する小国である。近隣の諸侯領を傘下におさめながら、十年前ようやくローザニア帝国から独立をもぎとった。その後も、併呑した諸侯とのいざこざが耐えないものの、近年ようやく落ち着きをみせてきた。
とくに、この二年間は、ローザニアとの小競り合いにことごとく勝利し、近隣諸侯との戦にも、ときには和睦で、ときには剣で勝利を納めてきた。
それは、王弟で、将軍でもあるリュシオンの雄と、軍師であったセルシーヴ候アンリの智がもたらしたものだ。
このときも、北のノルド候との戦に勝利し、凱旋の帰途にあった。クレイターヴ領に入る直前で王弟リュシオンは刺客に襲われ、それを身を挺して守ったセルシーヴ候アンリが毒矢に倒れたのである。
「小アンリ! 早くとも明日の夜になると思っておりました」
セルシーヴの領主の館では年老いた執事が、驚いた顔で迎えてくれた。小と呼ばれるのもこれが最後かもしれない。セルシーヴ侯家の当主の名は必ずアンリである。次代のアンリの名を継ぐ者は、小アンリと呼ばれる。今は当主である兄がアンリで、自分が小である。本来ならば直系の男児が継ぐのであるが、兄はまだ妻を迎えておらず子供はいなかった。そのため弟である自分が小アンリを名のっていた。
「ようやく意識が戻ったところでございます。あなたさまと話をしたがっておいでで」
小アンリは執事の後について、長い廊下を歩いた。屋敷の内はどこかひっそりとして、来るべき悲しみを知っているかのようだった。
一番奥の部屋の扉を静かに開けると部屋の中の明かりはかすかで、奥に寝台があるとようやくわかるくらいだった。小(プティ)アンリはゆっくりと寝台に横たわる兄に近づき、その傍らにひざまずいて小さな声で語りかけた。
「兄上、小アンリです。お側に参りました」
眠っているように見えた兄は、ゆっくりとまぶたをあけ、そっとかたわらにいる彼のほうを見た。
「間にあって良かった。おまえが来るのを待っていたよ」
それは、以前とかわらぬ静かでやさしい兄の声だった。小アンリは思わず兄の手を取って握りしめた。
「兄上、大丈夫です。静寂の塔から、たくさん薬草を持って参りました。滋養のつくものもいろいろと揃えてきたのですよ。ですから、」
兄はその言葉をさえぎるように、身を起こした。そしてその右手を小アンリの額に当てた。
「緑の剣もて、世界を治めし、遠き我がセルシーヴの祖の魂よ。次代の君へ、その叡智と光と盟約の鍵を」
ゆっくりとつむぎだされる言葉に耳を傾けていると、急に額に緑色の光がはじけたように感じた。兄はゆっくりと手をはなし、小アンリの目を見つめた。
「今、このときから、おまえがセルシーヴのアンリだ」
「兄上!」
「セルシーヴの森と、セルシーヴの民のことを頼んだよ」
小アンリは、兄の目を見つめ返して、深くうなずいた。
「良き盟約者と出会えることを願っているよ。誰と盟約を結ぶのかは、自分の目で確かめなさい。盟約の鍵はおまえが持っているのだからね。これからはおまえがセルシーヴの当主だ。何事も自分自身で良く考え決めなさい。それから、」
兄は後ろに控えていた執事に目線を向けると、彼はそれを察したように、古ぼけた封筒を兄に渡した。
兄はその封筒を少し見つめていたが、おもむろに小アンリに差し出した。
「これを」
小アンリはそれが何かわかっていた。その中には、両親が記したであろう、自分のもうひとつの名前が書かれている。アンリの名を継がなかったときに名のるための名が。もし、兄夫婦に男児が生まれれば、その子が小アンリとなり、自分はその中に書かれた名で生きるはずだった。しかし、たった今、自分は兄からアンリの名を継いだのだ。二度とここに記されている名をなのることはないだろう。
兄から封筒を受け取ると、封を切ることもなく懐深くしまいこんだ。
「すまない。おまえにアンリを継がせることになってしまって」
「何をおっしゃるのです。この名を継ぐのは名誉なことです。歴代のアンリの名を汚さぬよう、兄上のように立派なセルシーヴの当主として生きていきます」
「アンリの名を継いでもおまえはおまえなのだからね。それだけは忘れてはいけないよ」
兄はもう一度、手を握り返した。
そして、その手は力なくするりと抜け落ちた。
兄が危篤との急使を受け、領内一の駿馬で夜も昼もなく駆け続けた。
次の春でようやく十五になるという少年は、明るい栗色の髪を風に梳かれながら、ただ一心に馬を走らせていた。両親亡き今、兄は、自分にとってたったひとりの肉親だ。セルシーヴ家のアンリの名を継ぐものとして、これまで領地の奥深い森から一歩も出たことはなかったが、なんとしても兄にひと目会いたかった。
十年前、独立戦争の最中、父が亡くなったとき、同じように兄はひとりで森を出て行った。父の後を継ぐために王都へ向かって。そのときの兄も今の自分のように不安な気持ちにさいなまれながら駆け通したのだろうか。
クレイターヴは、大陸の西端に位置する小国である。近隣の諸侯領を傘下におさめながら、十年前ようやくローザニア帝国から独立をもぎとった。その後も、併呑した諸侯とのいざこざが耐えないものの、近年ようやく落ち着きをみせてきた。
とくに、この二年間は、ローザニアとの小競り合いにことごとく勝利し、近隣諸侯との戦にも、ときには和睦で、ときには剣で勝利を納めてきた。
それは、王弟で、将軍でもあるリュシオンの雄と、軍師であったセルシーヴ候アンリの智がもたらしたものだ。
このときも、北のノルド候との戦に勝利し、凱旋の帰途にあった。クレイターヴ領に入る直前で王弟リュシオンは刺客に襲われ、それを身を挺して守ったセルシーヴ候アンリが毒矢に倒れたのである。
「小アンリ! 早くとも明日の夜になると思っておりました」
セルシーヴの領主の館では年老いた執事が、驚いた顔で迎えてくれた。小と呼ばれるのもこれが最後かもしれない。セルシーヴ侯家の当主の名は必ずアンリである。次代のアンリの名を継ぐ者は、小アンリと呼ばれる。今は当主である兄がアンリで、自分が小である。本来ならば直系の男児が継ぐのであるが、兄はまだ妻を迎えておらず子供はいなかった。そのため弟である自分が小アンリを名のっていた。
「ようやく意識が戻ったところでございます。あなたさまと話をしたがっておいでで」
小アンリは執事の後について、長い廊下を歩いた。屋敷の内はどこかひっそりとして、来るべき悲しみを知っているかのようだった。
一番奥の部屋の扉を静かに開けると部屋の中の明かりはかすかで、奥に寝台があるとようやくわかるくらいだった。小(プティ)アンリはゆっくりと寝台に横たわる兄に近づき、その傍らにひざまずいて小さな声で語りかけた。
「兄上、小アンリです。お側に参りました」
眠っているように見えた兄は、ゆっくりとまぶたをあけ、そっとかたわらにいる彼のほうを見た。
「間にあって良かった。おまえが来るのを待っていたよ」
それは、以前とかわらぬ静かでやさしい兄の声だった。小アンリは思わず兄の手を取って握りしめた。
「兄上、大丈夫です。静寂の塔から、たくさん薬草を持って参りました。滋養のつくものもいろいろと揃えてきたのですよ。ですから、」
兄はその言葉をさえぎるように、身を起こした。そしてその右手を小アンリの額に当てた。
「緑の剣もて、世界を治めし、遠き我がセルシーヴの祖の魂よ。次代の君へ、その叡智と光と盟約の鍵を」
ゆっくりとつむぎだされる言葉に耳を傾けていると、急に額に緑色の光がはじけたように感じた。兄はゆっくりと手をはなし、小アンリの目を見つめた。
「今、このときから、おまえがセルシーヴのアンリだ」
「兄上!」
「セルシーヴの森と、セルシーヴの民のことを頼んだよ」
小アンリは、兄の目を見つめ返して、深くうなずいた。
「良き盟約者と出会えることを願っているよ。誰と盟約を結ぶのかは、自分の目で確かめなさい。盟約の鍵はおまえが持っているのだからね。これからはおまえがセルシーヴの当主だ。何事も自分自身で良く考え決めなさい。それから、」
兄は後ろに控えていた執事に目線を向けると、彼はそれを察したように、古ぼけた封筒を兄に渡した。
兄はその封筒を少し見つめていたが、おもむろに小アンリに差し出した。
「これを」
小アンリはそれが何かわかっていた。その中には、両親が記したであろう、自分のもうひとつの名前が書かれている。アンリの名を継がなかったときに名のるための名が。もし、兄夫婦に男児が生まれれば、その子が小アンリとなり、自分はその中に書かれた名で生きるはずだった。しかし、たった今、自分は兄からアンリの名を継いだのだ。二度とここに記されている名をなのることはないだろう。
兄から封筒を受け取ると、封を切ることもなく懐深くしまいこんだ。
「すまない。おまえにアンリを継がせることになってしまって」
「何をおっしゃるのです。この名を継ぐのは名誉なことです。歴代のアンリの名を汚さぬよう、兄上のように立派なセルシーヴの当主として生きていきます」
「アンリの名を継いでもおまえはおまえなのだからね。それだけは忘れてはいけないよ」
兄はもう一度、手を握り返した。
そして、その手は力なくするりと抜け落ちた。
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