アンリ千紀

源燕め

文字の大きさ
上 下
1 / 16
序章

プティ・アンリ

しおりを挟む
プティアンリが、セルシーヴの深い森の中にある静寂の塔を出たのは、これが初めてだった。
 兄が危篤との急使を受け、領内一の駿馬で夜も昼もなく駆け続けた。
 次の春でようやく十五になるという少年は、明るい栗色の髪を風に梳かれながら、ただ一心に馬を走らせていた。両親亡き今、兄は、自分にとってたったひとりの肉親だ。セルシーヴ家のアンリの名を継ぐものとして、これまで領地の奥深い森から一歩も出たことはなかったが、なんとしても兄にひと目会いたかった。
 十年前、独立戦争の最中、父が亡くなったとき、同じように兄はひとりで森を出て行った。父の後を継ぐために王都へ向かって。そのときの兄も今の自分のように不安な気持ちにさいなまれながら駆け通したのだろうか。

 クレイターヴは、大陸の西端に位置する小国である。近隣の諸侯領を傘下におさめながら、十年前ようやくローザニア帝国から独立をもぎとった。その後も、併呑した諸侯とのいざこざが耐えないものの、近年ようやく落ち着きをみせてきた。
とくに、この二年間は、ローザニアとの小競り合いにことごとく勝利し、近隣諸侯との戦にも、ときには和睦で、ときには剣で勝利を納めてきた。
 それは、王弟で、将軍でもあるリュシオンの雄と、軍師であったセルシーヴ候アンリの智がもたらしたものだ。
 このときも、北のノルド候との戦に勝利し、凱旋の帰途にあった。クレイターヴ領に入る直前で王弟リュシオンは刺客に襲われ、それを身を挺して守ったセルシーヴ候アンリが毒矢に倒れたのである。

プティアンリ! 早くとも明日の夜になると思っておりました」
 セルシーヴの領主の館では年老いた執事が、驚いた顔で迎えてくれた。プティと呼ばれるのもこれが最後かもしれない。セルシーヴ侯家の当主の名は必ずアンリである。次代のアンリの名を継ぐ者は、プティアンリと呼ばれる。今は当主である兄がアンリで、自分がプティである。本来ならば直系の男児が継ぐのであるが、兄はまだ妻を迎えておらず子供はいなかった。そのため弟である自分がプティアンリを名のっていた。
「ようやく意識が戻ったところでございます。あなたさまと話をしたがっておいでで」
 プティアンリは執事の後について、長い廊下を歩いた。屋敷の内はどこかひっそりとして、来るべき悲しみを知っているかのようだった。
 一番奥の部屋の扉を静かに開けると部屋の中の明かりはかすかで、奥に寝台があるとようやくわかるくらいだった。小(プティ)アンリはゆっくりと寝台に横たわる兄に近づき、その傍らにひざまずいて小さな声で語りかけた。
「兄上、プティアンリです。お側に参りました」
 眠っているように見えた兄は、ゆっくりとまぶたをあけ、そっとかたわらにいる彼のほうを見た。
「間にあって良かった。おまえが来るのを待っていたよ」
 それは、以前とかわらぬ静かでやさしい兄の声だった。プティアンリは思わず兄の手を取って握りしめた。
「兄上、大丈夫です。静寂の塔から、たくさん薬草を持って参りました。滋養のつくものもいろいろと揃えてきたのですよ。ですから、」
 兄はその言葉をさえぎるように、身を起こした。そしてその右手をプティアンリの額に当てた。
「緑の剣もて、世界を治めし、遠き我がセルシーヴの祖の魂よ。次代の君へ、その叡智と光と盟約の鍵を」
 ゆっくりとつむぎだされる言葉に耳を傾けていると、急に額に緑色の光がはじけたように感じた。兄はゆっくりと手をはなし、プティアンリの目を見つめた。
「今、このときから、おまえがセルシーヴのアンリだ」
「兄上!」
「セルシーヴの森と、セルシーヴの民のことを頼んだよ」
 プティアンリは、兄の目を見つめ返して、深くうなずいた。
「良き盟約者と出会えることを願っているよ。誰と盟約を結ぶのかは、自分の目で確かめなさい。盟約の鍵はおまえが持っているのだからね。これからはおまえがセルシーヴの当主だ。何事も自分自身で良く考え決めなさい。それから、」
 兄は後ろに控えていた執事に目線を向けると、彼はそれを察したように、古ぼけた封筒を兄に渡した。
 兄はその封筒を少し見つめていたが、おもむろにプティアンリに差し出した。
「これを」
 プティアンリはそれが何かわかっていた。その中には、両親が記したであろう、自分のもうひとつの名前が書かれている。アンリの名を継がなかったときに名のるための名が。もし、兄夫婦に男児が生まれれば、その子がプティアンリとなり、自分はその中に書かれた名で生きるはずだった。しかし、たった今、自分は兄からアンリの名を継いだのだ。二度とここに記されている名をなのることはないだろう。
 兄から封筒を受け取ると、封を切ることもなく懐深くしまいこんだ。
「すまない。おまえにアンリを継がせることになってしまって」
「何をおっしゃるのです。この名を継ぐのは名誉なことです。歴代のアンリの名を汚さぬよう、兄上のように立派なセルシーヴの当主として生きていきます」
「アンリの名を継いでもおまえはおまえなのだからね。それだけは忘れてはいけないよ」
 兄はもう一度、手を握り返した。
 そして、その手は力なくするりと抜け落ちた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方

ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。 注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。

絶対に間違えないから

mahiro
恋愛
あれは事故だった。 けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。 だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。 何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。 どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。 私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。

処理中です...