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序章

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「ザルツハイム二飛にひ、応答せよ!」
 雑音に紛れながら、自分を呼ぶ声がする。しかし、敵機に追われているこの状況では、応答している余裕などない。これだから空戦をわかっていない通信兵にはつきあいきれない。
 ユリウス・ザルツハイム二等飛曹は、操縦桿を握りしめていた手に力をこめて、慎重に左へ旋回した。目の前にあるはずのプロペラが霞むほど濃い雲だけだ。こうなると、お互いが発するかすかなエンジン音だけが頼りになる。自分以外は皆敵機と考えて、できるだけ距離を取るのが雲中の鉄則だ。
 小隊編成での爆撃作戦であったが、ユリウスの操る爆撃機の護衛にあたっていた友軍機とは、雲に突入する際にはぐれた。
「ザルツハイム!」
 濃い雲に入ってしまったため、音が悪い。無線のむこうにいる通信兵は、繰り返し自分を呼んでいるが、かまってなどいられない。
 戦闘に入ったら、無線の声など、邪魔でしかない。一瞬の気の緩みで散っていった仲間は数えきれないほどいるのだ。
 機体の腹に抱えた、爆弾が重い。加重に耐えながら旋回を続けていると、敵機の機銃が背面から、機体の左側面をかすめた。
 この重い機体で背面を取られたら終わりだ。しかもこの爆撃機の腹にあるのは、戦艦すら破壊可能な量ときている。この小さな機体など、欠片も残りはしないだろう。
「ザルツハイム二飛、よけろ!」
 さっきとは異なり、無線の音が近い。友軍機だ。
 意を決して、操縦桿を前に倒す。急降下だ。額に冷たい汗が伝う。風防が唸りをあげている。
 エンジンはまだ、耐えられる。
 背面で、爆発音がした。
 爆破の光が風防に反射し、一瞬、視界を奪われたが、一方、その熱風で、雲が薄くなった。
 ユリウスの目に、海面と、そこに浮かぶ敵艦の姿が映った。
「作戦中止! 全機、帰還する」
 上官であるオスカー・ティーゲルハイト少尉の声がした。敵を撃墜したのは、少尉だったのだろう。帰還の判断は正しい。想定外の空戦を繰り広げることになったため、無駄な燃料をくった。無事帰還することも小隊長の使命だ。
 しかし、ユリウスの機体は、腹に爆弾を抱えたままだ。この状態では、帰還するための燃料が足りない。基地まで燃料をもたせるためには、爆弾を海に捨てるしかない。今の戦況では、限りなく貴重なこの爆弾をだ。
「敵艦発見。爆撃に向かいます」
 ユリウスは、操縦桿を引き起こすことなく、さらに敵艦に向かい、下降を続けた。
「ザルツハイム! 命令だ!」
「二時の方向、敵艦、一」
「艦影は確認できない、戻れ!」
「小型駆逐艦、確認。これより、爆撃行動に移ります」
 誰の眼に見えなくても、ユリウスの眼には、敵艦が見えていた。飛行学校でも、爆撃成績だけは群を抜いていた。それは、この眼のおかげだ。
『おまえの眼は、まるで猛禽類のようだな。鷹の生まれ変わりか、何かか?』
 それは、ユリウスにとっては、褒め言葉だった。
 ユリウスの機体は、急降下を続け、切れかかっていた雲を完全に抜けた。目の前に真っ青な海面が広がる。この瞬間が一番危険なのだ。目の前が一面海になると平衡感覚が奪われる。
 ユリウスは、小さく息をはいた。
 もう、ユリウスの眼には、海面を往く駆逐艦の姿しか見えていなかった。敵も接近してくる爆撃機に勘付いたのだろう、駆逐艦の砲塔が一斉にこちらを向いた。
「ザルツハイム! 命令だ!」
 いくら命令されても、すでに爆撃体勢に入ったこの機体を止めることはできない。爆撃だけに特化された小型で細身の特別機だ。
 艦砲射撃をくぐり抜け、爆風を避けられるぎりぎりの高度で、爆弾を投下した。
 ゆっくりと黒い塊が落下していく、それはまるで駆逐艦に吸い寄せられているように見えた。

 数瞬の後、敵艦が火を噴き、爆発した。
 
 爆風を背に受けながら、海面すれすれを滑空し、戦闘空域からの離脱をはかる。振り返ることはできないが、あの轟音では、おそらく沈没は免れないだろう。
 作戦は成功したのだ。
「ザルツハイム二飛。帰還したら、命令違反で独房だ」
 無線から聞こえてきたのは、オスカー・ティーゲルハイトの冷たい声だった。
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