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第五章・きっとこの手の中に戻ってきてくれるはずの、今はまだ遠いお前と。
5-15・それから
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絹のように白い裸身を無造作に布団に投げ出して、佐薙は微かな寝息を立てている。隣から身を起こすついでに、喉元あたりをそっと指でなぞった。途端に佐薙の目がぱちりと開く。胡乱にさまよった視線が、やがて俺の顔に焦点を結ぶ。
「……蜘藤」
「起こしてしまったな。ごめん」
「どこ、行くの……?」
「水を汲みに行くだけだ。すぐに戻るよ」
こめかみに軽く口づけると、佐薙は安心したようにまぶたを閉じた。ほどなくまた安らかな寝息が聞こえてくる。髪のひと房をするりと撫でたあと、枕元の眼鏡をかけ、水差しを手にして部屋を出る。
いくつもの別棟が細い廊下で繋がったこの屋敷は、さながらいびつに捩れた蜘蛛の巣だ。自分が生まれ育ったこの家を、俺はずっと忌々しいものだとしか思えなかった。だから佐薙の言葉だけを支えにしてきた。いつかここから飛び立つ日だけを夢見て、歯を食いしばって生きてきた。
でも、今は違う。
手中に納めてみればこの屋敷ほど、佐薙を守るのに適した城はない。
『蜘藤俊さん。あなたには、死ぬ前に一度だけ、セックスしたい人はいますか?』
あの日。
黒スーツの男からそんなことを問いかけられたとき、俺の頭に浮かんだ相手は当然佐薙丈太郎だった。まずもって問い詰めたのは彼らの目的と、俺が後悔を覚えたというその未来。彼らの語るところによると、このまま行けば佐薙はいずれ失意のうちに死ぬ。都会で出会った悪い奴らに騙されて、骨までしゃぶられつくした挙句に捨てられる。そして俺はそのことを一生、いや、死んだ後までも永遠に悔やみ続けるらしい。馬鹿な、と一蹴するには、あまりにも説得力のある行く末だった。佐薙は、そういう人間だから。
聞き終える頃には、俺の心はとっくに固まっていた。問題は、やり方だ。佐薙の意に反して強制的に仕掛けるわけにはいかない。彼らの役割はセックスのお膳立てをすることであって、それから先の関係を確約してくれるわけではないのだ。だからなんとしてでも佐薙自身に選んでもらわなければならなかった。俺とともに、俺の手の中で、永遠の安寧を受け入れる道を。
やり遂げる自信はあった。
軋む廊下を渡って勝手口に着いた。ポンプ式の井戸から新鮮な水を汲み、佐薙の元へ戻る前に、ふと思い立って自室へと足を運ぶ。屋敷内で唯一の洋室だ。縁側の突き当たりを不似合いなドアで区切ったこの部屋は、障子戸とは違って中を伺うすべはない。ほんの数年前までは、邸内でも唯一この部屋だけが俺だけの居場所だった。俺の安らぎはこの部屋の中にしかなかった。けれど今は、この広い邸宅の隅々までもが、手足を伸ばせば簡単に操れる俺の巣だ。そしてそこにはもちろんこの部屋と同じく、愛おしい佐薙の気配がいっぱいに詰まっている。
鍵を開けてドアノブを回した。扉が軽い音を立てて僅かに開く。室内にか細い月光が差し込んで、壁一面に貼られた写真を照らした。
クラスメイトと笑い合う佐薙。卒業式で涙を見せる佐薙。大教室の隅で居眠りをする佐薙。悪友に連れられて行った盛り場で、ぎこちない笑顔を見せる佐薙。佐薙。佐薙。佐薙。
世界から隔絶された俺だけの空間は、今もあの日と変わらず佐薙で満ちている。
寝室の障子を開くと、佐薙はすぐに目を覚ました。ひと月ほど前のあのゲーム以来、佐薙は明らかに外的刺激に過敏になっている。見ていて可哀想だが、彼の性質を考えるとこれくらいの疑心は必要かもしれない。哀れな佐薙。無垢な佐薙。生涯俺だけの手の中で、俺だけに守られて生きるべき佐薙。
水差しと眼鏡を文机に置いて、佐薙の隣に潜り込む。滑らかな裸身が軽く身じろいで、俺の胸元にひたりと寄り添う。
「愛しているよ、佐薙」
羽根のない背中を幾度も撫でながら、再び眠りにつこうとする佐薙に囁いた。
「……オレも」
すべからく返ってきた呟きに、心の底から満たされながら、オレもまた静かにまぶたを閉じた。
「……蜘藤」
「起こしてしまったな。ごめん」
「どこ、行くの……?」
「水を汲みに行くだけだ。すぐに戻るよ」
こめかみに軽く口づけると、佐薙は安心したようにまぶたを閉じた。ほどなくまた安らかな寝息が聞こえてくる。髪のひと房をするりと撫でたあと、枕元の眼鏡をかけ、水差しを手にして部屋を出る。
いくつもの別棟が細い廊下で繋がったこの屋敷は、さながらいびつに捩れた蜘蛛の巣だ。自分が生まれ育ったこの家を、俺はずっと忌々しいものだとしか思えなかった。だから佐薙の言葉だけを支えにしてきた。いつかここから飛び立つ日だけを夢見て、歯を食いしばって生きてきた。
でも、今は違う。
手中に納めてみればこの屋敷ほど、佐薙を守るのに適した城はない。
『蜘藤俊さん。あなたには、死ぬ前に一度だけ、セックスしたい人はいますか?』
あの日。
黒スーツの男からそんなことを問いかけられたとき、俺の頭に浮かんだ相手は当然佐薙丈太郎だった。まずもって問い詰めたのは彼らの目的と、俺が後悔を覚えたというその未来。彼らの語るところによると、このまま行けば佐薙はいずれ失意のうちに死ぬ。都会で出会った悪い奴らに騙されて、骨までしゃぶられつくした挙句に捨てられる。そして俺はそのことを一生、いや、死んだ後までも永遠に悔やみ続けるらしい。馬鹿な、と一蹴するには、あまりにも説得力のある行く末だった。佐薙は、そういう人間だから。
聞き終える頃には、俺の心はとっくに固まっていた。問題は、やり方だ。佐薙の意に反して強制的に仕掛けるわけにはいかない。彼らの役割はセックスのお膳立てをすることであって、それから先の関係を確約してくれるわけではないのだ。だからなんとしてでも佐薙自身に選んでもらわなければならなかった。俺とともに、俺の手の中で、永遠の安寧を受け入れる道を。
やり遂げる自信はあった。
軋む廊下を渡って勝手口に着いた。ポンプ式の井戸から新鮮な水を汲み、佐薙の元へ戻る前に、ふと思い立って自室へと足を運ぶ。屋敷内で唯一の洋室だ。縁側の突き当たりを不似合いなドアで区切ったこの部屋は、障子戸とは違って中を伺うすべはない。ほんの数年前までは、邸内でも唯一この部屋だけが俺だけの居場所だった。俺の安らぎはこの部屋の中にしかなかった。けれど今は、この広い邸宅の隅々までもが、手足を伸ばせば簡単に操れる俺の巣だ。そしてそこにはもちろんこの部屋と同じく、愛おしい佐薙の気配がいっぱいに詰まっている。
鍵を開けてドアノブを回した。扉が軽い音を立てて僅かに開く。室内にか細い月光が差し込んで、壁一面に貼られた写真を照らした。
クラスメイトと笑い合う佐薙。卒業式で涙を見せる佐薙。大教室の隅で居眠りをする佐薙。悪友に連れられて行った盛り場で、ぎこちない笑顔を見せる佐薙。佐薙。佐薙。佐薙。
世界から隔絶された俺だけの空間は、今もあの日と変わらず佐薙で満ちている。
寝室の障子を開くと、佐薙はすぐに目を覚ました。ひと月ほど前のあのゲーム以来、佐薙は明らかに外的刺激に過敏になっている。見ていて可哀想だが、彼の性質を考えるとこれくらいの疑心は必要かもしれない。哀れな佐薙。無垢な佐薙。生涯俺だけの手の中で、俺だけに守られて生きるべき佐薙。
水差しと眼鏡を文机に置いて、佐薙の隣に潜り込む。滑らかな裸身が軽く身じろいで、俺の胸元にひたりと寄り添う。
「愛しているよ、佐薙」
羽根のない背中を幾度も撫でながら、再び眠りにつこうとする佐薙に囁いた。
「……オレも」
すべからく返ってきた呟きに、心の底から満たされながら、オレもまた静かにまぶたを閉じた。
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