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第五章・きっとこの手の中に戻ってきてくれるはずの、今はまだ遠いお前と。
5-11・まぼろし
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反射的に、声が聞こえた方を向いた。漂う霞の中に、ぼんやりと人影が浮かんでいる。波打つ水のように定まらない、蜘藤と同じ背格好をしたその影は、蜘藤と全く同じ、低くて穏やかな声でオレに呼びかける。
『好きなんだよ、佐薙。ずっと好きだったんだ、お前のこと』
「聞くな、佐薙。妄言だ」
『本当だ。あの、渡り廊下での一件以来、ずっとお前のことだけを考えて生きてきた。いつかもしまたお前と会える日が来たら、そのときは胸を張って隣に立てる俺であろうと』
「聞くな!」
蜘藤の叫びを嘲笑うかのように、影の声は反響を繰り返しながら膨らんでいく。足を止めたままのオレは動けない。これがただの戯言でないことは、もうオレにはわかってしまった。蜘藤の顔がいつになく色を失っているからだ。眼鏡の奥の瞳はオレを遠ざけて、ただ暗闇の一点だけを虚ろに見つめていた。
裏腹に蜘藤に似た幻の視線は、ただひたすらにまっすぐオレだけを刺している。出し抜けに、気が付いた。虚像を映したこの白い濃淡は、形のない霧やモヤの類ではない。蜘蛛の巣だ。細い糸が絡まりもつれ合って、繭のように織り上げられた霞の牙城。偽物の蜘藤の姿は、そのスクリーン上に投射されている。
『佐薙。佐薙。お前はどう思ってる? お前だってきっと、いや、決して俺を嫌ってはいないだろう?』
「答えなくていい。あいつが、ミゴーが、俺たちを惑わすために差し向けた幻覚だ」
『なあ、佐薙。お前は、わかってるんだろう? お前は今、どうするべきか。俺たちは、どうなるべきか』
わんわんと響く影の声が、蜘藤の声を霧間にかき消した。立ち尽くした蜘藤はきっともう動けない。オレに向かって手を差し伸べることすらしない。片手で押さえた耳の奥、影の声はいまだ鼓膜を震わせている。どうするべきか。どうなるべきか。
少なくとも現時点では、選択すべき道はひとつしかない。
震える足で、かろうじて一歩を踏み出した。動かない蜘藤の手を上から掴むと、蜘藤ははっと顔を上げてオレを見つめる。その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえながら、重ねた手を強く握った。
「オ……オレは。お前がいなくちゃ、歩けねんだよ」
「……!」
共鳴が止んだ。蜘藤が息を呑む音が聞こえた。
我ながら、よくも情けない泣き言を言えたものだと思う。でも事実だ。今のオレはこいつに手を引いてもらわなくちゃ歩けない。促すようにもう一度、握った手に力を込める。
蜘藤がオレの手を握り返した。くるりとオレに背を向けて、再び歩を進め始める。強張っていた体からほっと力が抜けた。
幻は、いつの間にか見えなくなっていた。
道は終わることなく続いている。闇に張り詰められた細い糸は、ところどころで寄り集まって、乳白色のコントラストを作り上げている。まるで宇宙望遠鏡で見る星雲みたいだ。
「佐薙は」
まるで何事もなかったかのような声で、蜘藤が再びオレに話しかけ始めた。
「東京で、どうなんだ」
「どうなんだ、って?」
「うまくやってるのか。その、楽しいか、とか」
「母親みたいなこと聞くじゃん。まあそりゃ、それなりに? 少なくとも地元よりはな」
「本当に?」
「は?」
質問の意味がよくわからない。足を止めてじっくり考えたくても、オレの手を引いた蜘藤は脇目も振らずに進んでいく。
「佐薙は、田舎が嫌いだったのか」
「嫌いって……いや、好きとか嫌いとかじゃなくて、現実問題ずっとは暮らせねーだろ、あんなとこ」
「……そうか」
「んだよ。お前だって嫌いだったんじゃねーの。その……家のこととか」
「……どうかな、わからない。今は、わからなくなった。佐薙はどう思ってる?」
「どう、って……」
答えようのない問いかけだ。あの影が模した口調によく似ている。困惑するオレをよそに、蜘藤は一度も振り返らずに歩みゆく。その背をひたすらに見つめながら、オレは頭の中で蜘藤の声を響かせた。どう思ってる。どう、と言われても。
そもそもオレは本当に田舎が嫌いだったんだろうか。だとしたらその理由はなんだ。周囲の風潮と自分の頭の出来に流されて、ただなんとなくこの道を選んだだけだったんじゃないのか。違うとしたら、その根拠は?
前方から、ほのかな光が射し始めた。蜘藤の背に隠れて見えないが、もしかしたらゴールが近いのかもしれない。黙りこくるオレを引きずっていた蜘藤が、唐突に足を止めた。釣られてオレも立ち止まる。
「……? なんだよ」
「佐薙、見てみろ」
蜘藤が指差した先に目を向ける。糸の濃淡はいくつもの点に寄り集まって、極端に明暗の対比を強めていた。糸が集約した点はより白く、虚空を透かした部分はより黒く。そして闇の中に散らばる無数の白点は、道の先から漏れ出す光を浴びて、まるで朝露を受けたかのように輝いている。
「……星だ」
無心のまま呟くと、蜘藤もこくりと頷いた。都会では決して見られない星空だ。田舎に住んでいた頃には、夜が来るごとに当たり前のように受け取っていたのに。
「綺麗だな」
今度は蜘藤が呟いて、オレが頷く。繋いだ手の指は知らないうちに、どちらからともなく絡めていた。
蜘藤とこんなふうに過ごしたことなんて、地元に住んでいた頃だって一度もない。けれどなぜかオレの胸には、存在しないはずの記憶がリアルに浮かび上がってきていた。遠い昔、こんなふうに蜘藤と二人並んで、満天の星を眺めた思い出が。
『好きなんだよ、佐薙。ずっと好きだったんだ、お前のこと』
「聞くな、佐薙。妄言だ」
『本当だ。あの、渡り廊下での一件以来、ずっとお前のことだけを考えて生きてきた。いつかもしまたお前と会える日が来たら、そのときは胸を張って隣に立てる俺であろうと』
「聞くな!」
蜘藤の叫びを嘲笑うかのように、影の声は反響を繰り返しながら膨らんでいく。足を止めたままのオレは動けない。これがただの戯言でないことは、もうオレにはわかってしまった。蜘藤の顔がいつになく色を失っているからだ。眼鏡の奥の瞳はオレを遠ざけて、ただ暗闇の一点だけを虚ろに見つめていた。
裏腹に蜘藤に似た幻の視線は、ただひたすらにまっすぐオレだけを刺している。出し抜けに、気が付いた。虚像を映したこの白い濃淡は、形のない霧やモヤの類ではない。蜘蛛の巣だ。細い糸が絡まりもつれ合って、繭のように織り上げられた霞の牙城。偽物の蜘藤の姿は、そのスクリーン上に投射されている。
『佐薙。佐薙。お前はどう思ってる? お前だってきっと、いや、決して俺を嫌ってはいないだろう?』
「答えなくていい。あいつが、ミゴーが、俺たちを惑わすために差し向けた幻覚だ」
『なあ、佐薙。お前は、わかってるんだろう? お前は今、どうするべきか。俺たちは、どうなるべきか』
わんわんと響く影の声が、蜘藤の声を霧間にかき消した。立ち尽くした蜘藤はきっともう動けない。オレに向かって手を差し伸べることすらしない。片手で押さえた耳の奥、影の声はいまだ鼓膜を震わせている。どうするべきか。どうなるべきか。
少なくとも現時点では、選択すべき道はひとつしかない。
震える足で、かろうじて一歩を踏み出した。動かない蜘藤の手を上から掴むと、蜘藤ははっと顔を上げてオレを見つめる。その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえながら、重ねた手を強く握った。
「オ……オレは。お前がいなくちゃ、歩けねんだよ」
「……!」
共鳴が止んだ。蜘藤が息を呑む音が聞こえた。
我ながら、よくも情けない泣き言を言えたものだと思う。でも事実だ。今のオレはこいつに手を引いてもらわなくちゃ歩けない。促すようにもう一度、握った手に力を込める。
蜘藤がオレの手を握り返した。くるりとオレに背を向けて、再び歩を進め始める。強張っていた体からほっと力が抜けた。
幻は、いつの間にか見えなくなっていた。
道は終わることなく続いている。闇に張り詰められた細い糸は、ところどころで寄り集まって、乳白色のコントラストを作り上げている。まるで宇宙望遠鏡で見る星雲みたいだ。
「佐薙は」
まるで何事もなかったかのような声で、蜘藤が再びオレに話しかけ始めた。
「東京で、どうなんだ」
「どうなんだ、って?」
「うまくやってるのか。その、楽しいか、とか」
「母親みたいなこと聞くじゃん。まあそりゃ、それなりに? 少なくとも地元よりはな」
「本当に?」
「は?」
質問の意味がよくわからない。足を止めてじっくり考えたくても、オレの手を引いた蜘藤は脇目も振らずに進んでいく。
「佐薙は、田舎が嫌いだったのか」
「嫌いって……いや、好きとか嫌いとかじゃなくて、現実問題ずっとは暮らせねーだろ、あんなとこ」
「……そうか」
「んだよ。お前だって嫌いだったんじゃねーの。その……家のこととか」
「……どうかな、わからない。今は、わからなくなった。佐薙はどう思ってる?」
「どう、って……」
答えようのない問いかけだ。あの影が模した口調によく似ている。困惑するオレをよそに、蜘藤は一度も振り返らずに歩みゆく。その背をひたすらに見つめながら、オレは頭の中で蜘藤の声を響かせた。どう思ってる。どう、と言われても。
そもそもオレは本当に田舎が嫌いだったんだろうか。だとしたらその理由はなんだ。周囲の風潮と自分の頭の出来に流されて、ただなんとなくこの道を選んだだけだったんじゃないのか。違うとしたら、その根拠は?
前方から、ほのかな光が射し始めた。蜘藤の背に隠れて見えないが、もしかしたらゴールが近いのかもしれない。黙りこくるオレを引きずっていた蜘藤が、唐突に足を止めた。釣られてオレも立ち止まる。
「……? なんだよ」
「佐薙、見てみろ」
蜘藤が指差した先に目を向ける。糸の濃淡はいくつもの点に寄り集まって、極端に明暗の対比を強めていた。糸が集約した点はより白く、虚空を透かした部分はより黒く。そして闇の中に散らばる無数の白点は、道の先から漏れ出す光を浴びて、まるで朝露を受けたかのように輝いている。
「……星だ」
無心のまま呟くと、蜘藤もこくりと頷いた。都会では決して見られない星空だ。田舎に住んでいた頃には、夜が来るごとに当たり前のように受け取っていたのに。
「綺麗だな」
今度は蜘藤が呟いて、オレが頷く。繋いだ手の指は知らないうちに、どちらからともなく絡めていた。
蜘藤とこんなふうに過ごしたことなんて、地元に住んでいた頃だって一度もない。けれどなぜかオレの胸には、存在しないはずの記憶がリアルに浮かび上がってきていた。遠い昔、こんなふうに蜘藤と二人並んで、満天の星を眺めた思い出が。
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