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第五章・きっとこの手の中に戻ってきてくれるはずの、今はまだ遠いお前と。
5-9・吊り橋
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今度の部屋は、今までの二つとはかなり違う様相を呈していた。扉をくぐった先の足元はコンクリート打ちっぱなしの床、隅に転がる砂嵐のモニター、そこまでは大差ない。ただオレたちの立っている場所から三メートルほど行ったところで、まるで上から包丁で切り分けたみたいに、忽然と部屋が消失しているのだ。そこから先に広がっているのは、うっすらと霞がかった暗闇。そして中央に一本、手すりも柵もない細いつり橋が、永遠にも思えるほどの遥か彼方まで伸びている。
「こ……これを渡れ、ってか」
『そういうことになりますね』
モニターから聞こえたミゴーの声に、振り向く気力もなく立ち尽くす。代わりに蜘藤が問いかけた。
「ただここを渡るだけでいいのか?」
『はい。特段身体能力を要求される場面はありませんので、その点はご安心ください』
「なんだ。簡単じゃないか」
息を吐く蜘藤とは裏腹に、オレの足は竦んだままぴくりとも動かない。自慢じゃないがオレは高いところが怖い。特にこんな、見るからに揺れそうな吊り橋を徒手空拳で渡るなんて、およそ正気の沙汰とは思えない。強張る顔に気がついたのか、蜘藤が気づかわしげに首を傾げる。
「もしかして、佐薙、苦手か」
「に……苦手じゃわりーか」
「……悪いか悪くないかで言えば、今回に限ってはあまりよろしくはないな」
嫌味な言い方をする奴だ。はっきり責めてくれた方がまだマシなのに。目を背けて黙り込むオレに、蜘藤はひとつため息をついてから片手を差し出した。
「……あ?」
「嫌か」
「い、嫌、とか、そんなんじゃ……」
「そうか。なら行くぞ」
「ちょっ……!」
垂れ下がったまま上がらないオレの手を、蜘藤は強引に掴んで引いていく。蜘藤の一歩目が踏み板に乗った瞬間、橋全体が拒絶の表明みたいに高く軋んだ。本能的に身がすくむ。力の入らない体を蜘藤に導かれながら、オレもまた吊り橋に一歩を踏み入れる。
「ひっ……!」
「下を見るな、佐薙。前だけ見てろ」
「……っなこと、言った、って……っ!」
「佐薙」
オレの手を握る蜘藤の手に、ぐっと力が入った。痛いくらいのその力強さに、自然と視線が上がる。目の前に、蜘藤の背中があった。広い背だ。周囲の果てしない暗闇を、全て押し隠してくれるような蜘藤の背。
ごくりと唾を飲み込んだ。深呼吸をして息を整えてから、蜘藤の手をしっかりと握り返す。背中の中央に焦点を合わせ、無心で一歩、二歩。
「そうだ。それでいい」
蜘藤の低い声が、過敏になった聴覚にじわりと染み込んだ。足元が揺れる。踏み板がギシギシと音を立てている。ああ、駄目だ、考えるな。考えるな、何も、何も。
「佐薙」
「……なに」
「少し、話でもしようか」
「は?」
「ずっと黙りこくったままだと、ろくなことにならない。余計なことばかり考えてしまうし」
「……へえ。お前の口からそんな言葉が出るとはな」
昔の蜘藤を思い返して、反射的に軽口を叩く。蜘藤はちらりとこちらを振り返って、僅かに苦笑した。どうやら高校を卒業して以来、こいつもそれなりに変わったようだ。どんな心境の変化があったのか、どういうふうに変わったのかなんてことはもちろん知らない。だが少なくとも今の蜘藤は、オレにとっては昔よりも好もしい奴だと思えた。
「こ……これを渡れ、ってか」
『そういうことになりますね』
モニターから聞こえたミゴーの声に、振り向く気力もなく立ち尽くす。代わりに蜘藤が問いかけた。
「ただここを渡るだけでいいのか?」
『はい。特段身体能力を要求される場面はありませんので、その点はご安心ください』
「なんだ。簡単じゃないか」
息を吐く蜘藤とは裏腹に、オレの足は竦んだままぴくりとも動かない。自慢じゃないがオレは高いところが怖い。特にこんな、見るからに揺れそうな吊り橋を徒手空拳で渡るなんて、およそ正気の沙汰とは思えない。強張る顔に気がついたのか、蜘藤が気づかわしげに首を傾げる。
「もしかして、佐薙、苦手か」
「に……苦手じゃわりーか」
「……悪いか悪くないかで言えば、今回に限ってはあまりよろしくはないな」
嫌味な言い方をする奴だ。はっきり責めてくれた方がまだマシなのに。目を背けて黙り込むオレに、蜘藤はひとつため息をついてから片手を差し出した。
「……あ?」
「嫌か」
「い、嫌、とか、そんなんじゃ……」
「そうか。なら行くぞ」
「ちょっ……!」
垂れ下がったまま上がらないオレの手を、蜘藤は強引に掴んで引いていく。蜘藤の一歩目が踏み板に乗った瞬間、橋全体が拒絶の表明みたいに高く軋んだ。本能的に身がすくむ。力の入らない体を蜘藤に導かれながら、オレもまた吊り橋に一歩を踏み入れる。
「ひっ……!」
「下を見るな、佐薙。前だけ見てろ」
「……っなこと、言った、って……っ!」
「佐薙」
オレの手を握る蜘藤の手に、ぐっと力が入った。痛いくらいのその力強さに、自然と視線が上がる。目の前に、蜘藤の背中があった。広い背だ。周囲の果てしない暗闇を、全て押し隠してくれるような蜘藤の背。
ごくりと唾を飲み込んだ。深呼吸をして息を整えてから、蜘藤の手をしっかりと握り返す。背中の中央に焦点を合わせ、無心で一歩、二歩。
「そうだ。それでいい」
蜘藤の低い声が、過敏になった聴覚にじわりと染み込んだ。足元が揺れる。踏み板がギシギシと音を立てている。ああ、駄目だ、考えるな。考えるな、何も、何も。
「佐薙」
「……なに」
「少し、話でもしようか」
「は?」
「ずっと黙りこくったままだと、ろくなことにならない。余計なことばかり考えてしまうし」
「……へえ。お前の口からそんな言葉が出るとはな」
昔の蜘藤を思い返して、反射的に軽口を叩く。蜘藤はちらりとこちらを振り返って、僅かに苦笑した。どうやら高校を卒業して以来、こいつもそれなりに変わったようだ。どんな心境の変化があったのか、どういうふうに変わったのかなんてことはもちろん知らない。だが少なくとも今の蜘藤は、オレにとっては昔よりも好もしい奴だと思えた。
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