死ぬ前に一度だけ、セックスしたい人はいますか?──自称ノンケな欲望担当天使のつがわせお仕事日記

スイセイ

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第四章・生涯で唯一一度もお相手願えなかった、気位の高い猫みたいな男と。

4-1・盛り場の夜

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 ネオン・サインのきらめく光が、店の奥まで雪崩れ込む眩しいカフェーだ。
 女給たちのさざめきと甲高い笑い声。橙色にもえるシャンデリヤ。古びた蓄音機が奏でるノイジーな弦楽。全てがうるさく、どぎつく、そして輝かしい。
 その中でも最も絢爛にして人目を惹くは、もちろんこの俺、犬飼直登だ。旅役者崩れのチンピラから、今や銀幕のスタアと成り果てたいっぱしの有名人は、今夜も居並ぶボックスの一等席で、蝶のような女給たちとお喋りに興じている。

「直登さぁん。今夜はこのあと、どうなさるおつもり」

 和服にフリルのエプロンを重ねた女給が、俺の肩口に軽くしなだれかかる。着崩した襟元から、白い肌が艶めかしく覗いている。

「そうだな。ここしばらくまともに家にも帰ってなかったからな。たまには大人しくお暇を貰って、衣装の埃でも払ってやるとするかな」
「まあ、うふふ。なんならその埃、私に払わせてくださってもいいのよ?」
「ははは、君のような淑女レディーにそんな真似をさせるわけにはいかないさ」
「うん、もう、直登さんったら」

 洋装の胸元に寄りかかろうとする女給を笑ってあしらいながら、グラスの酒を傾けた。誘いに乗ってやってもよかったが、どうも今夜は気分じゃない。主役を演じた新作キネマの公開を控え、期待と不安で武者震いしたくなるような夜だ。こんな日は従順な女より、美しい男を抱く方がいい。それもできれば高慢で誇り高く、容易には他人に屈服しない、そんな男を自らの手の内で啼かせられれば、これほど素晴らしい夜はないだろう。
 心当たりは、ないこともなかった。だがその心当たりは現在のところ、容易に俺の手に堕ちてきてくれそうもないのが残念だ。

 斜め奥のボックス席に目を向ける。数人の見知った顔の中心に、一人だけ飛び抜けて華のある青年が座している。上等の大島紬をまるで浴衣のごとく軽やかに着こなすは、中性的な美貌が売りの役者仲間。銀幕の貴公子、猫塚観月だ。常と同じく今夜もこの店に訪れている彼は、相変わらず俺の方など一目もくれず、同席の女給と談笑している。
 思わず軽い舌打ちがこぼれた。グラスを卓の上に置き、紙巻きの煙草に火をつける。くゆる煙が視界を隠し、シャンデリヤの灯を薄もやにぼやかした。
 そのとき。騒々しかった店内が、ほんの一瞬、しんと黙った。

「……ん?」

 ふと、違和感を覚えた。対面の席に向かって目を細める。さっきまで空だったはずのその席に、いつの間にか黒い人影が座っている。程なく煙が漂って空に溶け、そいつの全貌が露わになった。

「こんにちは、犬飼直登さん」

 癖のない綺麗な発声でそう告げたのは、黒い背広をまとった長身の男だった。整った容貌からして役者の誰かかと思ったが、それにしては見覚えがない。キネマの役どころで言えば怜悧な悪役風のその男は、盛り場の爛れた空気を姿勢よく跳ね除けて、向かいのソファからこちらをまっすぐに見つめている。

「なんだ、あんたは」
「犬飼さんに大事な用件がありまして。少しお話よろしいですか」
「おいおい、ずいぶん不躾な真似をするんだな。模特児モデルの依頼ならお断りだぜ」
「あいにくですが、違います。もっと重要なお願いではありますが」
「お願い?」

 煙草を中断しようとして、隣にいたはずの女給が消えていることに気づいた。仕方なく自ら机の端から、ガラス製の重い灰皿を引き寄せる。くぼみに煙草を置くのを待って、男はやけに神妙な顔で切り出した。

「犬飼直登さん。あなたには──死ぬ前に一度だけ、セックスしたい人はいますか?」
「……は?」

 思わず眉をひそめた。男は事務的な笑みを浮かべたまま、相変わらずしゃんとした佇まいで深く腰を掛けている。誘い文句だとすれば悪くない趣向だが、どうもそういう気配は感じられなかった。
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