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王太子の密約

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 はらり、と。赤く染まった葉が落ちる。風に舞うそれを手にとって、リディスは空を見上げた。秋が北からやって来る。そんな言葉が頭をかすめる。きりりと澄んだ鮮やかな青が、目に沁みた。

 シュレンヌを発って三日。そろそろ、王都の尖塔が見えてくるころだ。

「随分と早い帰還だな」

 馬上に揺られながら、彼女は呟く。
 シュレンヌにはひと月、滞在していた。本来であれば、もう少し。あの街にいるはずだった。少なくとも冬を越して、春が来るころまで。商人のもとで経済を学び、その成果を持ち帰るよう課題を出されていたのだ。

「おやまあ。至極まっとうな、普通の『遊学』だったわけですか」

 以来、リディスのもとにあったエリクが、彼女のシュレンヌ滞在目的を聞くと、心底驚いたように声を上げた。彼は、リディスが王太子の密命を帯びて、シュレンヌを探っていたと思い込んでいたのである。

「オレは、そんなことしてねぇよ」

 リディスは、ぽりぽりと鼻の頭を掻いた。まだ、そこまでの成長は遂げてはいない。だがしかし、リディスの付添としてサシャの屋敷に滞在していた使用人の中には、それなりの任務を帯びたものが存在しているだろう。現に何人か、サシャのもとに残った者たちもいる。彼らは何食わぬ顔で商会の使用人に紛れ込み、王太子の密偵として暗躍することだろう。そういった者たちの隠れ蓑となるのも、重要な役目のひとつだ、と。リディスは思っている。

「それでも、収穫はありましたからね」

 馬首を並べて、エリクがにやりと口元を歪める。
 王都を離れていたおかげで、リディスを狙う輩を簡単に釣り上げることができた。ネストルやリズナのようなものが、リディスの動向について知り得るということは、王宮に彼らの黒幕がいるという証拠でもある。それを炙り出すために、王太子がリディスをシュレンヌに送ったといわれても、否定はできない。

「それでも、あのアルバン伯爵夫人が、ねえ……いやいや、本当になんの因果ですかね」
「エリク?」
「ああ、姫様はご存じなかったでしょうが、十四年前、姫様をランジュに移送していたのが、件の夫人の連れ合いでして。当時、リュクリス宰相の腹心だったので、その役目を仰せつかったのでしょうけど」

 まだ乳飲み子であったリディスを母から引き離し、属国に送りつけようとした宰相。その手先として動いたのが、アルバン伯爵。彼はランジュに向かう道中で、王太子にリディスを奪われた。そのあと行方知れずとなったと言われているが、数年前にリュクリスとランジュの国境の森にて、崖下に馬車ごと転落しているところを発見されたという。
 王太子はリディスを強奪した後は、アルバン伯爵らには手を出していないというのだから。一行を始末したのは、別のものだ。この期に及んで、王太子が偽りを言うとは思えない。その点、あの男は正直であり、真摯である。

 だが。
 ふと、思うのだ。寡婦となったアルバン伯爵夫人は、どうだろうか。
 リディスを奪うために、王太子が夫を殺害したのだと、そのように考えるのが普通である。

(……)

 会ったことのない伯爵夫人の姿を描こうとして、やめた。リディスは、ふと、南に目を向ける。南……リュクリスの方角へ。自分を捨てた国へ。

「王宮に、アルバン伯爵夫人と繋がっている奴がいる、ってことだよな?」
「左様にございますよ、姫様。伯爵夫人ですからね、相応の人脈もあるでしょう。彼女のご実家についても色々、調査しておりますよ」

 片目を閉じるエリク。リディスは苦笑を浮かべた。この男も、やることが早い。さすが、あの養父が気に入るだけのことはある。

「それで。ちょっと、わかったことがあるんですけど。姫様、知りたいですか?」

 ことさら馬を寄せるようにして、エリクが近づいてくる。ぎょろりとした目が、なにか含みを持ってリディスに向けられた。知りたいか、ではなく。話していいか、の間違いであろう。リディスは「別に」とそっぽを向いた。

「どっちにしろ、後で養父ちち上が教えてくれるんだろうし」
「あー。可愛くない! 可愛くないですよ、顔と違って!!」
「オレは可愛くないの。美人なの」
「もっと可愛くない」

 大人気なく剥れるエリクを置いて、リディスは愛馬に鞭をくれた。軽快に走り出す青鹿毛の馬に揺られて、彼女は再度空を見上げた。
 王宮に潜む黒幕。それは、ジュリアスタの兄なのだろうか。それとも、まだ他に、存在するのだろうか。
 今回の『事件』は、まだ、序章に過ぎない。何者かからの『予告』似すぎない。そんな予感が胸をよぎる。
 いずれ答えは出るだろうが。いまは、取り急ぎ養父のもとに戻らねばならない。



「殿下」

 呼ばれて、彼は足を止めた。振り返らずともわかる。声の主は

「ジュリアスタ」

 バシュレ公爵令嬢ジュリアスタ。彼の婚約者である。侍女を伴い、回廊をしずしずと進んでくる彼女は、彼の傍までたどり着くと、淑女の礼を取り彼の言葉を待つ。挨拶以外の言葉を発して良い、との許可を得るまでこの姿勢を続けるのは、さぞ難儀であろうと彼は苦笑した。リディスに負けず劣らず活発で、お転婆と名高い彼女が何処まで堪えられるものなのか。少し試してやろうかと悪戯心が頭を擡げたが。

「……」

 僅かに上目遣いとなった婚約者の瞳。若草色の双眸に静かな怒りが燃えているのを見て、

「急ぎの用か?」

 負けてしまう。どうも、この目には弱い。傍に控える侍従武官に気づかれぬよう、軽く咳払いをして
「手短にしてくれ」
 素っ気なく言葉を投げる。ジュリアスタは顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「殿下には、ご機嫌麗しゅう。お見かけしたので、ご挨拶に伺ったまでですわ」
「嘘をつけ。お前がそれだけでやってくるわけはないだろう」
「あら。随分と買いかぶられたものですわね。わたくしも、たまには未来の夫君のお声が聞きたいと思うことがございますのよ」
 ほほ、という笑いを扇で隠す。王太子は胡乱な目で婚約者を見つめた。婚約者を……彼女の口元を隠す扇を。

「……」

 王太子の瞳が僅かに揺らめいたことを確認したのか、ジュリアスタは扇を閉じ、再び淑女の礼を取る。
「では、ごきげんよう」
 優雅に踵を返し、公爵令嬢はその場を去った。

 傍から見れば、単なる挨拶。公爵令嬢の王太子に対する機嫌伺いとしか、見えぬであろう。しかし、王太子はジュリアスタの言わんとしていることを汲み取り、軽く唇を噛んだ。

「なるほどな」

 さすが、あの公爵の娘。そう言いたくなる。
 味方であるうちは頼もしいが、ひとたび敵に回れば非常に厄介な存在だった。ジュリアスタに言わせれば、

「それは、お互い様」

 なのであろうが。
 けれども。彼は、危うい均衡の上に立つ関係が、嫌いではなかった。
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