聖女散華

東沢さゆる

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 クラウディアの私室、その寝台に横たえられていた巫女姫は、入室してきた女帝を起き上がることなく一瞥した。
「無茶をなさいますね、あなたも」
 とても十四の少女の言葉とは思えぬ、大人びた台詞。クラウディアは軽く肩をすくめただけである。巫女姫は更に何かを言おうとしたのだが、クラウディアに続いて入室してきた人物を見て、更に渋い顔をした。
「シェラ」
 愛称で呼ばれた少女武官は、ばつが悪そうに顔をしかめる。
「あなたもあなたです。玉命とはいえ、我が意志を踏みにじるなどもってのほか」
「ご無礼致しました」
 シェルダは――シェラはその場に跪く。その態度は、まるで悪びれていないところが、いっそ小気味がよい。このふたりは、旧知の間柄なのだろうかと、クラウディアが推測した通り。後に判明したことではあるが、フィラとシェラはかつて机を並べて学んだ幼馴染であったのだ。
「何事があっても、私はあなたを守りますよ。フィラ。カルノリア大公になど渡さない。無論、ミアルシァにもです。幸いにも私は古代紫むらさきの瞳は持っておりませんので、かの国もわたくしのことは捨て置くでしょう。ですが、巫女の証であるその瞳を持つあなたのことは、生かしておきますまい。カルノリアが来る前にあなたを連れ出して処刑する――かの国は、そう考えているはずです」
 クラウディアの瞳は、青だった。典型的な、アルメニアやミアルシァの瞳である。巫女の瞳とはまた違う、はっきりとした色彩を持つ『青』である。国は温暖な地域にあるというのに、瞳の色は凍てつく北の海の色だと誰かが言った。それは、エルメイヤ三世だったか。もう、随分昔のことになるような、不思議な感覚を覚える。嫁いで八年。三つ年下の夫たる人物とは特に心を通わせたこともなかったが。なぜか今は、無性にあの淡い緑の瞳が懐かしい。くすんだ、亜麻色の髪にもう一度触れたいと思う。
 神聖帝国皇帝候補として生まれながら、初代の瞳の色、髪の色さえ受け継ぐことのなかった最後の皇帝。彼の寂しげな微笑は、今も胸のうちに深く刻まれているのだろうか。
 皇帝に仕えた愛妾のうち、何人が彼を心から想っていただろう。シーラやフィラのごとく、大切に想ってくれたものは、いないのではないだろうか。
 沈み行く船、神聖帝国。輝ける乙女ルディンナーザの名も、虚しく過去の栄光と成り果てた今。その皇帝に花嫁にと望まれることが慶びとは思えない。
 海といえば、凍てつく北の海しか知らぬ皇帝は、クラウディアの瞳を寂しい色だといった。赤味がほんの少し混ざった、覇者の瞳、暁の瞳と呼ばれる双眸を持つ、シェルダ・ルダ――シーラを彼はことのほか寵愛した。二十四歳で生涯を終えた皇帝、その想い出を抱えて、シーラは和子とともに無事逃げ延びることが出来たであろうか。
「陛下。そろそろお支度を」
 侍女がクラウディアを促した。彼女は頷き、もう一度巫女姫の説得にかかる。
「あなたは、生き残らねばなりません、フィラ。私とともに、アルメニアに行くのです。それから身の振り方を考えなさい」
「――強情な方ですね」
 フィオレーンは溜息をついた。クラウディアの熱意に、負けたといったところであろうか。
「ミアルシァにも、カルノリアにも、あなたは渡しません。わたくしが、最後まで守りきります」
 クラウディアは、侍女に申し付けて長剣を一振り、持たせた。エルシュアードに護身術程度の武術の手ほどきは受けている。訓練された兵士相手にどこまで粘れるか。不安はあるが、それでも進まねばならない。アルメニアに帰り、弟夫妻の手に巫女姫を委ねるまで。引くことも負けることも許されはしないのだ。
「衣裳が、邪魔ですね」
 クラウディアは言い、簡素な騎士服を用意させた。自身はそれを纏い、巫女姫には侍女の姿をさせる。付き従うエルシュアード――シェルダ=リ・アーサは、女性騎士団の正装である、独特の衣裳を身につけたままであった。が。ふと、気付いたように。
「巫女姫。あなたの衣裳を貸していただけませんか?」
 フィオレーンに懇願する。訝しがる巫女姫に、彼女は。
「人形にこの服を着せて、神殿においておけば少しは目くらましになるでしょう」
 悪戯めいた笑みを返す。そんな子供だましにカルノリアもミアルシァもかかるものかとフィオレーンは一笑に付したが、シェラは譲らない。
「時間稼ぎは必要です。それに、この混乱だ。何がどう見えるか、解かったものではありません。やつらも巫女姫はか弱い少女で、軍勢や炎が怖くて一足たりとも動けないと思うでしょう。そちらに気を取られているうちに、さっさと逃げればいいのです」
 それから、と。シェラはクラウディアを見上げる。
「密偵との連絡は、既に済ませております。城下への抜け道にて待機するようにと伝えてありますので、そちらに向かわれるようお願い申し上げます」
「あなたは、来ないのですか?」
 クラウディアの問いに、シェラは「はい」と頷いた。
「後から参ります。大人数では、怪しまれましょう。陛下と巫女姫、それから侍女殿お二人。それだけでもかなり目立ちますから」
 アルメニアからの輿入れの際に同行したクラウディアの侍女は、十人に上る。うち、二人は婚姻のために宿下がりをし、三人は国に帰っている。後の五人のうち二人がいま、側にいた。他三人が見当たらない。混乱にまぎれて、既に城下へと逃れているのだろうか。そうであれば、問題はないのだが。
「ですが、用心のためエルシュアードを他に二人、つけるように致します」
 シェラはそういい、先に抜け道へと行くようにクラウディアとフィラを促した。同時に、彼女は産屋の中においてあった道具の中から包帯を取り出し、
「ご無礼致します」
 フィラの目に、それを巻いたのである。
「目の不自由な侍女、とすればよいでしょう。目を見なければ、巫女姫だとはわからない。尤も、巫女姫にお会いしたことのあるのは大公夫妻のみです。一般の兵士は解かるはずがないのですが」
 念のため、と。彼女は言う。クラウディアは、フィラの手をとって歩き出した。フィラはシェラの脇を通り抜けるとき。一瞬、足を止める。
「愚か者」
 短い叱責だった。と、同時に。それが別れの言葉であったのかもしれない。シェラは苦笑し、
「お元気で」
 やはり短く呟いた。彼女は思いだしたように自身の耳に手を触れると、そこからひとつ、耳飾ピアスを外す。フィラの手をとりそれをそっと握らせてから、その指先に口付けた。
「我は、女騎士エルシュアードなり」
 何かの宣告のような言葉だった。その言葉を聞いたフィラは、自身の指から抜き取った指輪を手探りでシェラの指にはめる。
「汝、永遠に我がしもべとして仕えるべし」
「御意」
 シェラはその場に膝を付き、フィラの手に額を触れる。

 これが、二人の別れであった。

 抜け道として利用する通路に、クラウディアとフィラを初めとする総勢六名が到着したのは、それから間もなくのことである。彼女らは先に脱出したシーラの後を追うようにして、暗い通路を一心に歩いた。フィラの手を引きながら進むクラウディアは、侍女が先導し、先頭を行くエルシュアードは高く燭台を掲げて前方を見据えている。今一人の侍女がクラウディアたちの足元を照らすべく洋燈を低く下げていたが、時折足元近くを走るネズミに驚いて、小さな悲鳴を上げていた。
「ネズミごときで、大仰な」
「ですが、陛下。気味悪いものは気味悪いのです」
 クラウディアと同い年のこの侍女は、すこぶる臆病であった。そのことを思い出し、このような状況にも拘らず、思わず笑いがこぼれた。このまま進めば、城下への出口にアルメニア軍が待機していてくれる。彼らが自国の王女であり、現国王の実姉であるクラウディアを見捨てるはずはない。半月ほど前に弟宛てに送った書状への返事は届いてはいないが。彼は自分を裏切ることはないだろう。
 例え、ミアルシァの属国から后を迎えていたとしても。
「もうすぐ出口です」
 の声に、クラウディアはフィラの腕を強く掴んだ。自身にとっては、アルメニアは故郷。しかし、フィラには見知らぬ異国なのだ。フィラの気持ちを考えると、いたたまれなくなる。彼女だけではない、付き従ってくれる二人のエルシュアードもだ。それぞれ、宰相の娘と皇帝の侍従武官の息女であるが、彼女らもまた。縁なき土地へと足を向けることになる。女帝と、巫女姫を守るために。
「アルメニアは、良い国です。小国なれど、物資は豊か。香料を主産物としていますが、セルニダは中継貿易の要として発展してきた街です。アンディルエほどの美しさはありませんが、きっと気に入ると思いますよ」
 耳元に囁くと、フィラはこくりと頷いた。彼女も覚悟は出来ているのだろう。尤も、一度は自害を覚悟した身である。この先どうなろうと、動じないのかもしれない。
 やがて、出口の辺りに人影が佇んでいるのが見えるようになった。あれが、密偵が呼び寄せたアルメニアの兵であろうか。クラウディアはほっと肩の力を抜き、足を速める。が。
「うっ?」
 石畳の上に転がる物体に、足を取られかけて思わず声を上げた。侍女が慌ててそこを照らし、
「……っ!」
 絹を裂くような悲鳴を上げる。彼女らの足元に転がるもの。それは、人の骸であった。それも、見覚えのあるものを抱えている。
「これは」
 かの骸が死してなお、大切に抱えているもの。旗である。二頭の獅子が剣を中心に向かい合う紋章が描かれた旗。アルメニアの、旗である。そして、そのものの腕には、アルメニアの密偵の印である蝶の半印が刻まれていた。彼の側にも、数人。兵士と思しき者たちの遺体が転がっている。
「陛下、お下がりください」
 先頭のエルシュアードが、剣を抜き放った。彼女が対峙しているのは、数人の兵士。侍女が掲げた洋燈に映し出されるのは、数人の人影と交錯する二本の槍の上に大きく羽を広げた鴉の紋章。
「――カルノリアか」
 カルノリア公国の旗を擁する一団であった。



「クラウディア皇后とお見受けする」
 隊長らしき男性が、一歩踏み出した。カルノリアは決してクラウディアを女帝と認めない。あくまでも、なき皇帝の后として扱おうとする。クラウディアはしっかりとフィラの手を握り締め、こくりと頷いた。
「その通り。しからば、如何する? 我を捕らえて、処刑するか?」
 処刑、の言葉に侍女の間に緊張が走る。けれども、カルノリア兵は彼女らがすべて女性であることに気付き、余裕を得たのか。非常にゆったりとした反応を見せた。
「大公の命により、皇后陛下をカルノリアへとお連れすることとなっております」
 そこで一方的な裁判を受けさせ、公式に処刑をするつもりなのだ。カルノリア大公は。クラウディアは奥歯を噛み締める。
「巫女姫は。いずこにおられますかな?」
 隊長が、クラウディアの背後を探るように見る。
「まさか、巫女姫を置いて、ご自身だけが逃亡を図られるようなことはございますまい」
 幸いなことに、クラウディアの傍らに佇む少女こそが、巫女姫・フィオレーンとは気付かれてはいない。それならばそれでよい。彼らは、巫女姫の行方がわかるまでは、クラウディアを殺害しない。当然、周囲のものも彼女に対する人質として、ともに連行するにとどめるであろう。
「――そちらの侍女殿。怯えておられるのか? 皇后陛下に寄り添っておられるが」
 隊長の目が、フィラに注がれる。皇后自ら侍女を庇うなど、彼の眼には奇妙に映ったのであろう。
「もしや、そのお方が」
「彼女は、私の乳母の娘です。目が不自由であるにも拘らず、嫁ぐときに同行してくれました。それを庇って何が悪いというのですか」
 クラウディアは隊長の言葉を遮った。隊長はそれでも納得しかねたのだろう。一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。
「陛下、お逃げください」
 最後尾を守っていたエルシュアードも抜刀してクラウディアの側に駆け寄る。クラウディアも、剣の柄に手をかけた。もはやこれまで、と。心を決めて剣をぬこうとしたそのとき。

「愚かものどもが」

 凛とした声が、周囲に響き渡った。
「あれは」
 クラウディアは聞き覚えのある声に、目を見張る。彼女が動くより早く、フィラがクラウディアの手を振り払うようにして、足を踏み出した。が、前が見えないために倒れこみそうになる。それをクラウディアが支えたとき、もう一度同じ声が響いた。
「神聖なる帝国に足を踏み入れし愚か者どもよ」
 よく通る声であった。隊長とその一団はざわめき、空を見上げる。その視線の先にあるのは、神殿の尖塔。声は、そこから聞こえてくるのであった。
「見るがよい、神聖帝国最後の巫女の末路を」
 それは、他でもない。シェラの――シェルダ=リ・アーサの声であった。
 悪寒が背筋を駆け抜ける。クラウディアは、フィラを抱えたまま隊長を、カルノリア兵を押しのけるようにして外へと踏み出した。夜空を焦がす赤々とした炎、その向こうに垣間見える白亜の尖塔。神殿の中にあったそれは、蛇の如く駆け上がる炎に包まれて今まさに燃え尽きんとしている。
 そんな尖塔の最上部、巫女の祈りの部屋とされるところに人影がひとつ。純白の巫女の装束に身を包んだ、小柄な少女だ。結うことなく垂らされた髪が、熱風により夜空に吹き上げられる。顔は、よくわからない。だが、その声からして、かのひとがエルシュアードの一人シェルダ=リ・アーサであることはクラウディアを初めとする女性たちにはわかっていた。
「ああ」
 侍女の一人が口元を覆う。
 エルシュアードが、唇を噛み締める。
 クラウディアは、しっかりとフィラを、真実の巫女姫を抱き締める。
 その、一団の見ている前で。

 シェルダは宙に舞った。

 長い髪と白い装束は、炎の腕に絡め取られ。一瞬にして視界から消える。
 一体どれだけの人々が、彼女の最期を見届けたのだろうか。一体どれだけの人々が、彼女の――少女武官の最期を悼んだのであろうか。
「……」
 フィラが強くクラウディアの腕を掴んだ。おそらく、フィラは解かっていたに違いない。幼馴染が何を考えていたのかを。まつりごとの一柱、神聖帝国においては皇帝と同等、いな、それ以上に重要な存在である巫女姫。彼女がいなくなれば、カルノリアもミアルシァも他の人物には目もくれないであろう。――シェルダ=リ・アーサは、そう考えたのだ。
「愚か者」
 今一度。先ほどと同じ言葉を、フィラが呟く。手が震えているのは、泣いているからなのか。彼女の目に包帯を巻いたのは、偽るためではなく。彼女の涙を人に見せないようにするための、シェラの最後の配慮なのかもしれない。
「巫女は、自害しました」
 クラウディアが重い声で告げると、隊長は呻き声を発した。彼は上司より、巫女姫の奪還を命ぜられていたのだろう。任務を遂行することにできなかった彼は、手負いの獣のごとき形相でクラウディアを睨みつける。
「貴殿の差し金か。セルニダの淫売が」
 貴婦人に対する、この上ない侮辱の言葉であった。クラウディアは眉を潜めたが、それ以上に侍女やエルシュアードが反応する。
「大公の兵ごときが、陛下を侮辱するなど」
「不敬罪にて、この場で処罰する」
 宰相の息女である女騎士が、隊長に切りかかる。彼は女の剣と侮っていたのだろう。剣も抜かず、薄笑いすら浮かべて彼女の凶刃を交わそうとした。が。その醜い笑い顔のまま、彼の首は胴を離れることとなる。地面に転がる上司の、無様な姿に兵士たちは一様に目を剥いた。
「道を開けよ。他に、冥府に降りたいものはあるか?」
 彼女の一喝で、大の男は揃って首をすくめる。
「参りましょう」
 クラウディアは、彼女に声をかける。彼女――宰相の姫であるエルシュアードは、剣を収めぬままにクラウディアに従う。闇の中へと踏み出した、神聖帝国最後の女帝と巫女姫の、長き旅路はまだ始まったばかりである。
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