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26.ただそれだけの行為が難しい
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南国の日差しは、思ったよりも厳しかった。少し表に出ただけでも、白蝋の肌が赤く腫れあがってしまう。これではまるで深窓の令嬢のようだ、と。肌を冷ましながら、アデルは息をついた。
「ミアルシァ王族の奥方ともなれば、歴とした貴婦人だと思いますけどねえ」
彼女の腕に水に浸した布を押し当て、にやりと笑うのは。
「エーディト様」
エーディト――エッダ。この期に及んで、似合わぬ女装を止めぬ”青年”である。十数年ぶりの再会だというのに、昨日別れたばかりのような、そんな不思議な近しさを感じるのは、彼の人柄のせいでもあるのだろうか。時折にやりと満足げに笑う仕草が、亡き夫に似ているからか。後者の理由は考えないことにして、アデルは
「おやめ下さい、エーディト様。私は、一介の侍女に過ぎません」
幾分、朱に染まった頬を膨らませる。そんなところも昔と変わらない、そう言ってエッダは笑った。
神聖帝国に到着したアデルが身を寄せているのは、帝都セルニダではなく、ここアシャンティの離宮であった。アシャンティは郊外の穏やかな田舎町だと聞いていたが、聞くと見るのとは大違いで、離宮の周囲には貴族の別邸から始まり、職人街、職人街、市場などが同心円状に広がっていた。途中、迎えに現れたエッダが馬車の車窓越しに、
――ほら、あれが離宮の尖塔ですよ。
そう指差しても、神殿の尖塔と区別のつかぬアデルは
――はあ、なるほど。
曖昧な答えを返し、激しく目を瞬かせるだけだった。
アシャンティは、市国として神聖帝国の中でも独立を果たしている街だ、とのエッダの説明にも、アデルは「まあ」としか答えようがなく。そもそも、国というものの在り方について筋道だった教育を受けていないアデルにとっては、エッダの言う”簡単な説明”も酷く難しいものに思えるのだ。国の中に、別の国が存在する。そのことだけでも奇異に思うのに、しかもそのアシャンティ市国が君主として戴いているのは、神聖帝国皇太后リディアなのだから。表向きには皇太后の隠居地、けれども実質上は彼女の支配下にある土地。皇太后たる人は、いったい此処で何をしているのかと、アデルではなくとも疑いたくなるだろう。
――皇太后陛下は、皇帝陛下と、その、仲違いをされていらっしゃるのでしょうか。
皇帝派と皇太后派、帝国が二つに分かれて争っているのではないか。そのように勘繰る者がいても不思議ではない。親子といえども、そこにあるのは愛情だけではないことを、アデルは知っている。フィラティノア国王グレイシス二世とその王太子ディグル、エルナとその母后――間近に争いを見て来た。どちらも、”愛するが故に”などという綺麗事では済まされぬものだ。そんな陳腐な言い訳で片付けられぬ、根深い恨みが横たわっている。
この国にも同じような事態が起こっているのか、と、不安に曇るアデルの横顔を見て、エッダは高らかに笑ったのだ。そんなことはない、と。
――皇太后陛下は、それはそれは皇帝陛下を尊敬し奉っていらっしゃいますよ。なにせ、皇帝陛下は……。
そのあとに続いたエッダの言葉、それは聞き取ることが出来なかった。故意に彼が語尾を濁したか、それとも、徐々に大きくなる周囲の雑踏にかき消されたか。オリアに勝るとも劣らぬ巨大な街に呑みこまれる感覚に、アデルが圧倒されたせいなのか。
今となっては、思い出すことはできなかった。
あれから、三月ほど経っている。
異郷の地での暮らしも、少しずつ慣れ始めた。ディルクもこの街に馴染んで来たらしい。アシャンティに滞在するようになってから、発作らしい発作もなく、寝込むことも無くなった。皇太后が優れた医師を手配してくれたせいもあるが、やはり一番の理由は温暖な気候だろう。北国生まれのアデルにとっては、若干日差しも体感温度もきついように思えるが。同じ条件のディルクには、ちょうどいいという。彼は、両親ともが南方の生まれだからなのかもしれぬと考えると、今更ながら血のなせる業に薄ら寒さを覚える。
「今日も、散策は日没後になさいますかね?」
日差しに弱いアデルに、エッダはそう提案してくれる。
アシャンティは頗る治安のよい街で、夜間――夕暮れ時から、表の大門が閉まるまでの間ではあるが――女性だけで出歩いても大丈夫であるという。人種の坩堝と言われるセルニダや、カルノリアのユリシエル程ではないが、アシャンティにも相応に各国から毛色肌色の異なる人物が流入してくるものの、やはり、アデルの銀髪は目立つ。黒髪や茶髪の鬘を被ることも考えたが、この暑さではそれも難しい。ならば、と息抜きの市街散策は夜間が良いとエッダが勧めてくれたのだ。
アシャンティを訪れてからも、ディルクの食事はアデルが用意している。彼の口に合う食材を揃えるために市場に足を運ぶのも、アデルの大切な役目なのだ。そんなこと、他の従者や女中に頼めばいい、なんなら自分が行ってやるとエッダが言うが、これは譲れない。ディルクの守役として、それことディークハルト一世ではなく、”ディルク”の一番傍にいる者として、欠かしてはならぬことだとアデルは思っている。
「そんなものですかねえ」
エッダの苦笑も、気にはならない。
ただ。
「陛下は……皇太后陛下は、どう思われていらっしゃるのでしょうか?」
そこが気になる。
皇太后リディアにとって、ディルクは孫だ。リディアはディルクをなるべく自分の傍に置いておくよう、指示を出している。それは、孫可愛さゆえかと、庶民のアデルは考えるのだが、
「別に? 気にすることないですよ。あの方は、まあ、ビシビシ鍛えるのがお好きなだけですから」
くくく、と含み笑いを漏らすエッダ。彼が言うには、リディアはディルクに自身の思う通りの教育を施しているのだそうだ。
教養は大宰相エルハルトより、武術に関してはセレスティンより、礼法及び帝王学は自らが、という念の入れようだと。また、ディルクの実の妹たるロザヴィーン。彼女とも机を並べている模様である。
「各国の情勢は、シェラ様が教えてくださいますからね。シェラ様も、エランヴィアに出向いてソフィア姫――おっと違った、ツィスカ女大公のご機嫌窺いをしたり、巫女姫のお守りをしたり、真実のソフィア姫のお見舞いをしたり、忙しいお方ですが。ええ、相変わらず皇帝陛下の剣のお相手もされていますし、皇太后陛下の護衛もユリア様と交替でされておりますよ。そろそろお歳を考えてもいい頃だと思うのですが、ホント元気でお若くていらっしゃる」
万全の態勢で、孫を教育するのがリディア皇太后の方針、との説明の合間にも、シェラの近況を伝えることを忘れない。エッダの妙に気が回る部分は、やはり夫に似ているかもしれない。アデルは目を細めた。
「なんですか?」
「いえ、なんでも」
何気ない会話。心穏やかに過ごす日々。これが何よりも大切なものだと実感する。
アデルの人生の前半は、劇的すぎた。このように穏やかな日々を送っていてよいものか、と、ふと不安に思うときもある。一介の村娘として、村で幼馴染の誰かと縁付いて、もしくは、奉公先のある程度家格のある家の使用人に見染められて嫁いでいれば。自分もセシルも、”幸せ”だったに違いない。
「あ」
同じような言葉を、聞いたことがある。
エリシア――フィラティノア前妃。
当り前に、平穏な人生を歩むこと。ただ、それだけのことがこれほどまでに難しいものだとは。
それでも。後悔はしていない。エルナと出会ったこと、彼と結ばれたこと。彼の子を為したこと。全て、後悔はしていない。
ただ、渦中に放り込まれた我が子が、不憫でならなかった。
「ミアルシァ王族の奥方ともなれば、歴とした貴婦人だと思いますけどねえ」
彼女の腕に水に浸した布を押し当て、にやりと笑うのは。
「エーディト様」
エーディト――エッダ。この期に及んで、似合わぬ女装を止めぬ”青年”である。十数年ぶりの再会だというのに、昨日別れたばかりのような、そんな不思議な近しさを感じるのは、彼の人柄のせいでもあるのだろうか。時折にやりと満足げに笑う仕草が、亡き夫に似ているからか。後者の理由は考えないことにして、アデルは
「おやめ下さい、エーディト様。私は、一介の侍女に過ぎません」
幾分、朱に染まった頬を膨らませる。そんなところも昔と変わらない、そう言ってエッダは笑った。
神聖帝国に到着したアデルが身を寄せているのは、帝都セルニダではなく、ここアシャンティの離宮であった。アシャンティは郊外の穏やかな田舎町だと聞いていたが、聞くと見るのとは大違いで、離宮の周囲には貴族の別邸から始まり、職人街、職人街、市場などが同心円状に広がっていた。途中、迎えに現れたエッダが馬車の車窓越しに、
――ほら、あれが離宮の尖塔ですよ。
そう指差しても、神殿の尖塔と区別のつかぬアデルは
――はあ、なるほど。
曖昧な答えを返し、激しく目を瞬かせるだけだった。
アシャンティは、市国として神聖帝国の中でも独立を果たしている街だ、とのエッダの説明にも、アデルは「まあ」としか答えようがなく。そもそも、国というものの在り方について筋道だった教育を受けていないアデルにとっては、エッダの言う”簡単な説明”も酷く難しいものに思えるのだ。国の中に、別の国が存在する。そのことだけでも奇異に思うのに、しかもそのアシャンティ市国が君主として戴いているのは、神聖帝国皇太后リディアなのだから。表向きには皇太后の隠居地、けれども実質上は彼女の支配下にある土地。皇太后たる人は、いったい此処で何をしているのかと、アデルではなくとも疑いたくなるだろう。
――皇太后陛下は、皇帝陛下と、その、仲違いをされていらっしゃるのでしょうか。
皇帝派と皇太后派、帝国が二つに分かれて争っているのではないか。そのように勘繰る者がいても不思議ではない。親子といえども、そこにあるのは愛情だけではないことを、アデルは知っている。フィラティノア国王グレイシス二世とその王太子ディグル、エルナとその母后――間近に争いを見て来た。どちらも、”愛するが故に”などという綺麗事では済まされぬものだ。そんな陳腐な言い訳で片付けられぬ、根深い恨みが横たわっている。
この国にも同じような事態が起こっているのか、と、不安に曇るアデルの横顔を見て、エッダは高らかに笑ったのだ。そんなことはない、と。
――皇太后陛下は、それはそれは皇帝陛下を尊敬し奉っていらっしゃいますよ。なにせ、皇帝陛下は……。
そのあとに続いたエッダの言葉、それは聞き取ることが出来なかった。故意に彼が語尾を濁したか、それとも、徐々に大きくなる周囲の雑踏にかき消されたか。オリアに勝るとも劣らぬ巨大な街に呑みこまれる感覚に、アデルが圧倒されたせいなのか。
今となっては、思い出すことはできなかった。
あれから、三月ほど経っている。
異郷の地での暮らしも、少しずつ慣れ始めた。ディルクもこの街に馴染んで来たらしい。アシャンティに滞在するようになってから、発作らしい発作もなく、寝込むことも無くなった。皇太后が優れた医師を手配してくれたせいもあるが、やはり一番の理由は温暖な気候だろう。北国生まれのアデルにとっては、若干日差しも体感温度もきついように思えるが。同じ条件のディルクには、ちょうどいいという。彼は、両親ともが南方の生まれだからなのかもしれぬと考えると、今更ながら血のなせる業に薄ら寒さを覚える。
「今日も、散策は日没後になさいますかね?」
日差しに弱いアデルに、エッダはそう提案してくれる。
アシャンティは頗る治安のよい街で、夜間――夕暮れ時から、表の大門が閉まるまでの間ではあるが――女性だけで出歩いても大丈夫であるという。人種の坩堝と言われるセルニダや、カルノリアのユリシエル程ではないが、アシャンティにも相応に各国から毛色肌色の異なる人物が流入してくるものの、やはり、アデルの銀髪は目立つ。黒髪や茶髪の鬘を被ることも考えたが、この暑さではそれも難しい。ならば、と息抜きの市街散策は夜間が良いとエッダが勧めてくれたのだ。
アシャンティを訪れてからも、ディルクの食事はアデルが用意している。彼の口に合う食材を揃えるために市場に足を運ぶのも、アデルの大切な役目なのだ。そんなこと、他の従者や女中に頼めばいい、なんなら自分が行ってやるとエッダが言うが、これは譲れない。ディルクの守役として、それことディークハルト一世ではなく、”ディルク”の一番傍にいる者として、欠かしてはならぬことだとアデルは思っている。
「そんなものですかねえ」
エッダの苦笑も、気にはならない。
ただ。
「陛下は……皇太后陛下は、どう思われていらっしゃるのでしょうか?」
そこが気になる。
皇太后リディアにとって、ディルクは孫だ。リディアはディルクをなるべく自分の傍に置いておくよう、指示を出している。それは、孫可愛さゆえかと、庶民のアデルは考えるのだが、
「別に? 気にすることないですよ。あの方は、まあ、ビシビシ鍛えるのがお好きなだけですから」
くくく、と含み笑いを漏らすエッダ。彼が言うには、リディアはディルクに自身の思う通りの教育を施しているのだそうだ。
教養は大宰相エルハルトより、武術に関してはセレスティンより、礼法及び帝王学は自らが、という念の入れようだと。また、ディルクの実の妹たるロザヴィーン。彼女とも机を並べている模様である。
「各国の情勢は、シェラ様が教えてくださいますからね。シェラ様も、エランヴィアに出向いてソフィア姫――おっと違った、ツィスカ女大公のご機嫌窺いをしたり、巫女姫のお守りをしたり、真実のソフィア姫のお見舞いをしたり、忙しいお方ですが。ええ、相変わらず皇帝陛下の剣のお相手もされていますし、皇太后陛下の護衛もユリア様と交替でされておりますよ。そろそろお歳を考えてもいい頃だと思うのですが、ホント元気でお若くていらっしゃる」
万全の態勢で、孫を教育するのがリディア皇太后の方針、との説明の合間にも、シェラの近況を伝えることを忘れない。エッダの妙に気が回る部分は、やはり夫に似ているかもしれない。アデルは目を細めた。
「なんですか?」
「いえ、なんでも」
何気ない会話。心穏やかに過ごす日々。これが何よりも大切なものだと実感する。
アデルの人生の前半は、劇的すぎた。このように穏やかな日々を送っていてよいものか、と、ふと不安に思うときもある。一介の村娘として、村で幼馴染の誰かと縁付いて、もしくは、奉公先のある程度家格のある家の使用人に見染められて嫁いでいれば。自分もセシルも、”幸せ”だったに違いない。
「あ」
同じような言葉を、聞いたことがある。
エリシア――フィラティノア前妃。
当り前に、平穏な人生を歩むこと。ただ、それだけのことがこれほどまでに難しいものだとは。
それでも。後悔はしていない。エルナと出会ったこと、彼と結ばれたこと。彼の子を為したこと。全て、後悔はしていない。
ただ、渦中に放り込まれた我が子が、不憫でならなかった。
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