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19.笑ってください

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 セシル様――と、呼ばれることには、未だに慣れない。
 大体自分が様付で呼ばれるなど、こそばゆい感じがする。生まれてこの方、下町の庶民として暮らして来たのだ、急に歴史ある王国の国王――となる資格を持った人物の落胤だ、殿下だと言われても、ピンと来るものではない。とりあえず、出自は隠しているものの、去る高貴な血筋の姫君ということで、侍女たちからは厚い世話を受けている。唯一、セシルの秘密を知るのはダニエラの腹心であるティアナだけだ。彼女がいるからこそ、セシルは危うい綱渡りのような生活を続けられるのかもしれない。
「フィラティノアに生まれて、ようございましたね」
 ティアナの言葉に、セシルが首を傾げれば、
「ミアルシァも神聖帝国も、南方の国は日々湯浴みをするそうです。女王陛下も頻繁に湯を使われるとか」
 にっこり笑いながら答える。
 セシルは「そうだね」と頷いた。
 フィラティノアをはじめとする北方では、湿度がなくさらりとしているせいか、あまり湯浴み沐浴の習慣がないのだ。時々思い出したように湯を使うことはあっても、庶民は月に数えるほどしか湯浴みをしない。貴族もまた同様であることを、セシルはティアナの言葉から知った。温泉、というものがあるそうだが、そのような処に行くのは保養と健康維持目的の貴族のみである。庶民には、ほぼ縁がない。
 毎日湯を使うような国であれば、たちまち性別など発覚してしまう。
 保護されているのがフィラティノアでよかった、と。セシルは改めて思った。
「今日は、湯浴みをなさいますか?」
 前回、湯を使ったのは、ヘルムート伯爵の館を訪れた日である。旅の疲れを癒すため、ということで、少しだけ長く湯を使わせてもらった。
「そうだね」
 此処に来て半月、ティアナの介助で入浴するのであればよかろう。
「お願いするよ」
 依頼を受けて、ティアナはセシルの寝室に盥を運ばせた。たっぷりの湯と着替えと、それから香油を用意して、ティアナは手際よく他の侍女と小間使い、下男を下がらせる。セシルの世話は全て自分がすると嫌みなく笑顔で言い、それに対して他の者たちは何も疑問を覚えることなく、ではお願いしますと下がっていった。
 その彼女の人あしらいは、素晴らしいと思う。
(見習わないと)
 どちらかと言えば、不器用な部類に入るセシルは、まじまじとティアナの一挙一動を観察した。
 エドアルドの話によれば、セシルの両親も、人のあしらいは上手かったという。それなのに、何故このように不器用な息子が生まれたのか。謎である。

 ――そういうところも、陛下に似ていらっしゃいます。

 エドアルドはそう言って苦笑していた。陛下とは、女王ルクレツィアのことである。
 顔だけではなく、性格まで微妙に似ているのか。セシルは女王に会いたいような会いたくないような、複雑な気分になったことを覚えている。
「あ」
「どうされました? セシル姫」
 湯浴みの最中に声を上げたセシル、その顔を覗きこむようにしてティアナが屈みこんできた。
「お湯が、熱すぎましたか?」
「違う、そうじゃなくて」
 セシルはかぶりを振り、
「湯浴みをさせたってことは、あれでしょう、誰かと会わせるつもりでしょう?」
 窺うように視線を上げる。ティアナは「あう」と淑女らしからぬ声を上げ、
「判りましたか」
 軽い笑みを喉から溢した。セシルの直感は当たっていた。今夜、訪問者があるという。訪問者――セシルへの、客。それは他ならぬ、
「女王陛下が、当家の晩餐にいらっしゃいます」
 ティアナの齎した答えに、セシルは嘆息した。ついに、会うのだ。自分にそっくりな、父の従妹に。一体どのような顔をして――表情をして会えばよいのだろう。黙り込んでしまったセシルの髪を梳りながら、ティアナは「大丈夫ですよ」安心させるような言葉を繰り返す。女王の来訪は非公式なものであるし、そもそも女王自体、そう格式ばった人物ではない。礼儀に煩いわけでもなく、気難しいわけでもない。普通に接すればよいのだ。
「――と、閣下より聞き及んでおります」
「え?」
 セシルは幾許か不安を覚えた。
「ティアナは、陛下との対面は……」
「ありませんよ、もちろん」
 胸を張って即答されてしまう。セシルは、さして量のない湯の中に沈み込みたい衝動に駆られた。他人事だと思って、と。叫びたかった。この侍女は、主人ダニエラに似て、楽天的すぎる。
「ただ」
 つけたされた呟きが耳に届き、セシルは目だけを侍女に向けた。
「ただ?」
「笑わない、そうです。陛下は」
 笑顔は見せる。ただ、笑わない。心よりの笑いを浮かべたことはないのだ。
 それも、エドアルドが言っていたらしい。
「笑わない」
 セシルの表情も強張る。

 ――笑わない、のだな。

 兄が自分を見て口にした言葉。
 自分も笑わない。

 ――似ているな。

 あのときは、誰のことか判らなかった。
 また、誰に、とも問うことはなかった。
 兄は、女王に似ていると、そう言っていたのだ。
「自分も、笑わない癖に」
 表情に乏しい兄。笑うどころか、怒ったところも泣いたところも、見たことはない。あの綺麗な顔は仮面で、彼には心がないのではないか、と。時折思うこともあった。
 知らず、口に出してしまい、セシルは慌てて咳払いで誤魔化す。ティアナは心得ているのか、何が、とは尋ねて来なかった。それが何よりも、嬉しい。ティアナは気遣いのできる女性なのだ。彼女はこういうところも、ダニエラに似ている。気まじめなエドアルドと、おっとりとしたお姫様育ちのダニエラ。ヘルムート伯爵夫妻は、良き釣り合いを保っているのかもしれない。ただ、かたや一国の侯爵――の、跡取り。かたや一国の君主の姪。身分的にはダニエラの方が上となる。婦人の方が地位が高い婚姻というのは不幸の元だと、遠い昔、何かの折に母が呟いていたのを思い出す。
「閣下の記憶にある陛下は、あまり笑わない方らしいです」
 先程の話がまだ続いていたのか、ティアナがぽつりと漏らした。
「けれども、以前はよく笑う方だったと。控えめながらも、明るい方であったと。そう、聞き及んでおります」
「そう?」
 女王ルクレツィアから笑みが消えた原因。それをセシルが知るには、まだほんの少し、時間が必要であった。
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