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09.こんな手では何もつかめないのに

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 レーネと共に白亜宮の地下へと移ってから、どれくらいの月日が流れたろうか。いつしか季節は移ろい、北方に位置するオリアには、雪がちらつき始める時期となった。それも、半地下の自身に与えられた部屋から見上げて漸く分ったのだ。そのまえに、今日はやけに冷えると思っていたのだが。
「雪、か」
 細く開く窓を開け、手を伸ばす。広げた掌に、音もなく雪の花が止まる。程なくしてそれは溶け、水となり、掌から零れてしまう。掴んだと思えばすぐに消える。まるで、希望のようだと思った。詮無く漏れる溜息と共に、アデルは手を引っ込める。部屋の中は、窓さえ開けなければそれなりに暖かい。火の気も用意されており、生活するには然程困ることはなかった。
 これも、ツィスカの配慮だ。
 捕らわれの身であるレーネは、今日も格子の向こうで寒さに震えている。そんな彼女を、衛兵が慰めているのだろう。だから、レーネは寒さを嘆かない。嘆くときは、人肌が恋しい時だ。
 自分もいつしかそうやって、異性を求めるときが来るのだろうか――考えて、アデルは緩くかぶりを振った。まだ、そんなことは先であって欲しい。あのような光景を垣間見た今は、異性が少しだけ、怖い。

「アデル」

 扉が叩かれ、名を呼ばれた。どうぞと答えるより早く、ツィスカの姿が現れる。彼女は素早く室内に入ると後ろ手に扉を閉め、ご丁寧に施錠までしてくれた。いったい何事なのかと訝るアデルに向かい、
「お願いがあるの」
 いつぞや聞いたのと同じ台詞が投げられる。
「なんでしょう?」
 もしや、レーネを手にかけよというのか。ぶる、と身を震わせた。
 だが、ツィスカは思いもかけぬことを口にする。
「わたしは、フィラティノアを去ります」
「ツィスカ、様?」
 一瞬、耳を疑った。ツィスカがこの国を出る。それは真か。真ならば、なぜ?
 首を傾げるアデル。ツィスカは静かに笑った。
「国王陛下の御下命により、異国へと出向くことになりました」
「国王、陛下の?」
 思わず訊き返せば、ツィスカは唇の前に指を立てた。しっ、とアデルを窘めてから、背後を窺う。その様子は、いつものツィスカとはまるで違って見えた。もともと、どこかしら危うい、刃物のような印象の女性ではあったが、このときは、その視線を向けられただけでざっくりと皮膚も肉も切られるような、そんな恐怖を覚えたのである。
 唾を呑みこむアデルに、
「このことは、内密に。そして、貴方には明日から東の離宮に移ってもらいます」
 今度は優しく諭すように告げる。
「わたしの代わりに、王太子妃殿下の侍女を務めてちょうだい」
 続いた言葉に、アデルは今度こそ言葉を失った。
 王太子妃の、侍女。小間使いとなるだけでも、大変な抜擢であるというのに、侍女とは。アデルは暫しぽかんと口を開けていたが、やがて言葉の意味を解すると同時に、
「駄目です」
 悲鳴に近い声を上げ、ツィスカに縋りついた。
「駄目です駄目です駄目です、侍女様なんて。王太子妃様の侍女様なんて、絶対に無理です」
「アデル?」
「だって、あたし、貴族様のお姫様じゃないです。妃殿下の侍女なんて、無理に決まってます」
 小刻みに首を振る。めっそうもない、という年寄りじみた言葉を吐きだし、アデルはひたすら恐縮していた。だいたい、一介の平民に過ぎぬ自分が、王太子妃の傍に侍るということだけでも畏れ多いのだ。それが侍女ともなれば、当然、他に何人もいるであろう侍女たちと共に働かねばならない。そんな、大貴族の姫君と対等に会話など出来るわけがないのだ。馬鹿にされるに決まっている。そもそも、そのまえに王太子妃とまともに会話もできるか判らない。以前、エルナに声を掛けられたときは舞い上がってしまったが、現実を知ってしまった今は、ただ漠然とした恐怖に締め付けられるだけである。
「字は、書けるようになったでしょう?」
 何の慰めか。ツィスカに言われ、頷いたものの。
「でも、そんなにたくさん、言葉を知っているわけじゃないです」
 アデルは泣きそうな顔になる。確かに、レーネの世話の合間に看守や衛兵から読み書きを教わっていた。今ではそれなりに不自由なく手紙のやり取りもできるようにはなってきたが、まだまだ詩的な表現や複雑な語彙を使いこなすまでには達していない。
「大丈夫」
 ツィスカはアデルの前に立ち、その肩をゆっくりと包み込んだ。
「あなたは、妃殿下に可愛がられるわ、そして多分、エルナ殿にも」
「エルナ……エリィ様」
 懐かしい名を聞いた気がした。エルナ、確かに彼女であれば、アデルを馬鹿にしたりはしないだろう。エルナの他にも東の離宮には侍女が大勢詰めているとツィスカは言っていたが、
「あなたのことは、とある子爵の妾腹の令嬢としておいたから」
 それなりの身分を用意したので気にするなと付け加えてきた。
「子爵様の、ご令嬢、ですか?」
 これにはまた、アデルも仰天する。よりによって子爵令嬢など。妾腹とはいえ、貴族の令嬢を名乗るには、自分はあまりにも品がなさすぎる。王族の侍女なればてっきり伯爵家以上の姫君がなるものだとばかり思っていたが、そうとは限らないらしい。嘗ては男爵令嬢が王太子妃の傍にいたという。それも、名門中の名門と言われる家の遠縁にあたり、男爵夫人は現王妃の腹心というから、かなりの例外ではあろうが。
「嫁入りまでの行儀見習いとして、ということで、侍女頭には話をしておいたわ。女官長は身元がしっかりしている娘ならば何も言わないと仰っていたけど。そこは、エルナ殿が保証して下さるでしょう」
「……」
 ツィスカはエルナに何か含む処があるのか、エルナの名を口にするたび何処かしら苦いものを口にしたように顔を顰めるのだ。ツィスカとエルナは、仲が悪いのかもしれない。アデルはそんな風に感じた。確かに、あれだけあけすけにものを言うエルナは、貴族らしくなく。ツィスカのような”お姫様”然とした令嬢にとっては、煙たい存在なのだろう。
「わたしの代わりに、妃殿下をお願い致します」
 ツィスカが静かに頭を下げる。衣裳を摘み、片足を引く、貴婦人の正式な礼である。アデルは慌ててツィスカの前に跪き、
「いけません、ツィスカ様。あたし、あたしなんかに、そんなこと……」
 深く床に額ずいた。



 妃殿下をお願いします、その、ツィスカの一言が、のちのアデルの生きる指針となった。
 捕らわれの娘・レーネがその後どのような運命を辿ったのか。アデルが知るのは、だいぶ先のこととなる。
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