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06.騒音、雑音、不快音

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 翌日。厨房を訪れた珍客に、責任者は目を白黒させて応対していた。
「では、アデルなる娘は戻っていない、と。そういうことですわね?」
 念を押され、責任者は「左様でございます」と歯切れ悪く答える。
 彼女は、目の前に佇む侍女のお仕着せを纏った長身の女性に対し、これ以上はないというほど低く頭を下げていた。厨房に貴人の侍女が訪れることなど、まず無い。侍女が小間使いに用を言いつけ、その者がやって来ることは稀にあるのだが、侍女自身がここまで足を運ぶことは稀有だった。そもそも上流貴族の侍女はほぼ下級貴族の令嬢である。侍女といえど、貴族なのだ。しかも、この女性は王太子妃の侍女だという。ならば、少なくとも伯爵以上の地位にある人の夫人か令嬢か。そんな、天上にある人物が自ら問い合わせに来るなど、余程のことである。
 かのひとは、アデルを探していると言った。
 アデルなる娘を、東の離宮にて貰い受けたい、と。
 だが、肝心のアデルはいなかった。昨日、広間の給仕として出向いたまま、戻っていないのである。初めは、そこで何か粗相をしてしまったのか、それで帰れぬのではないかと心配した。次には、貴族の息子に目を付けられ、何処かに連れ去られてしまったのかもしれない、と。それならまだよい、真面目なアデルのこと、断り切れずに舌を噛むようなことをしてしまったのではないか――そこまで考えて、責任者たる女性は、件の侍女の言葉を待った。
「隠していると、ためになりませんわよ?」
 金褐色の髪の侍女は、くすりと笑う。
「そんな、隠すなど」
 責任者は、ますます身を強張らせた。
 王太子妃の侍女直々のお声がかりである。ここは喜んで送り出してやりたいところだ。本人さえ、居れば。しかし、アデルはいない。責任者の心に、更なる不安が生まれる。
「それでは、アデルが戻り次第、離宮に出仕するよう言いつけておきなさい。判りまして?」
 侍女の命令に、一段と低く頭を下げる。
 侍女はアデルの手付金と言い置いて、傍らの卓子に革袋を置いた。侍女が帰ってから暫くして、責任者がそれを開けてみると、
「まあ……?」
 そこには、アンディルエ金貨がこれでもかというほどに詰まっていたのだ。これほどの大金は、今までに見たことがない。彼女はぱくぱくと口を動かし、それからごくりと唾を呑みこんだ。これはアデルの支度金、そう思ってはみるものの、黄金の放つ誘惑には勝てなかった。彼女はそれを徐に懐へと押し込み、周囲を確かめてからそっと厨房を出る。

 その後、厨房の責任者であったその女性を王宮内で――王都で、見た者はいなかった。



「あら? じゃあ、その子はいなかったのね?」
 エルナが部屋に戻ると、朝駆けを終えて帰還した王太子妃が、ちょうど湯浴みをしていたところだった。寝室に運ばせた盥の中で身を清め、今一人の侍女ツィスカが差し出す布で軽く水けを拭き取って、
「――毒蜘蛛に、食べられてしまったのかしらね?」
 湯気を吸い、若干重くなった前髪越しにエルナを見る。エルナは、「かもね?」と肩をすくめ、
「あたしとしたことが、ぬかったよ」
 とりあえず、探せるだけ探してみると答えた。
「そう」
 対して、王太子妃はそれほど興味をそそられなかったようだ。ツィスカに対して飲み物を運ぶように命ずると、朝食の席に着くべく自ら身支度を整え始める。こういうとき、自分で何でもやってくれる姫君は楽だ、等と思いながら、エルナは彼女の着替えを手伝った。
 本当に、この王太子妃は理想の主人だと思う。人を使う術に長けており、命令されても動きやすい。それを本人は意識して行っているのか、それとも無意識なのかは不明だが、後者なのだとしたら、これこそ帝王の器なのだろう。一介の”妃”としておくには勿体なさすぎる。
 そもそも、器からして夫たる王太子とも異なるのだ。あの若くして隠棲してしまっているような青年に、この姫君は御せない。
「どうしたの、エルナ?」
 王太子妃が鏡越しにこちらを見る。エルナは笑って誤魔化した。誤魔化した、つもりだった。
「ひとを、値踏みするような目で見ないで頂戴」
 言って、王太子妃はつんと顎を持ちあげる。理性的である上に、勘も鋭いと来た。
「楽なのか、面倒臭いのか。判らない人だよ、まったく」
 聞こえぬように小声で溢せば、
「言ってらっしゃい。別に、今更何を言われても気にしないから」
 先程のエルナ同様、王太子妃が肩をすくめた。
「はいはい。けどさ、ほんとに気を付けてよ、妃殿下。これから本格的に毒蜘蛛があんたを狙ってくるからね」
 ひそり、とエルナは王太子の耳元で囁く。
 先程の宴のさなかの毒殺未遂事件。その主犯を探りに行った先で、エルナは予想通りの人物に出くわしていたのだ。
 現王妃ラウヴィーヌ。
 その腹心、オルウィス男爵夫人。
 おそらくアデルなる厨房の娘に林檎酒を運ばせたのは、オルウィス夫人か、男爵家の侍女であろう。男爵家の侍女は、あの宴の催された広間に入ることはできないが、王宮の使用人に化けるか、もしくは使用人を買収するか――否、オルウィス夫妻に限って、そのような不確定なことはしないだろう。自身の娘を王太子妃の暗殺に差し向けたことがあるくらいである。他人を頼るような愚を、あの人々は絶対に犯さない。
「わたしを始末した処で、どうなるわけでもないでしょうにね」
 王太子妃の言葉は、半分正しく、半分間違っている、とエルナは思う。
 隣国アルメニア、今は神聖帝国となったかの国から嫁いできた王太子妃は、同盟の絆でもあり、両国の懸け橋でもある。フィラティノアにとっては、神聖帝国の帝冠を得るために必要不可欠な人材。王太子妃が産んだ子供を養子としてかの国に出せば、遠からず神聖帝国を手中に収めることが出来るのだ。
 嫁ぐ際に継承権を剥奪されたとはいえ、王太子妃クラウディアは、神聖帝国皇帝の唯一の姉妹である。血を盾にすることは可能だった。
 けれども、その反面、旧き血を持つレンティルグ、かの侯爵家の血を引く現王妃ラウヴィーヌ及びその実家は、神聖帝国との縁が深まることを快く思ってはいない。寧ろ、レンティルグの勢力をフィラティノア内で拡大させたいと思っているのだ。昔日の栄光を取り戻すため、フィラティノアを足掛かりにするつもりでいる。そのためには、王太子妃が邪魔だった。
 かつてラウヴィーヌは王太子ディグルを誘惑していたようだが、彼がそれに乗らぬと判ると途端に疎んじ始めたというから、王太子夫妻両人の命を奪おうと考えているかもしれない。
 先にクラウディアを抹殺したのち、レンティルグの息のかかった姫君をディグルに嫁がせる。そののちに、ディグルも闇に葬って――というのが、毒蜘蛛たちの筋書きだろう。
「それもあるけど、ラウヴィーヌは単に私のことが嫌いなだけじゃないの?」
 家の事情云々は、ついでに過ぎぬ。そう、クラウディアは主張していた。
「まあ、……女の嫉妬、みたいなものかもしれないけどね」
 日々容色衰えて行く我が身と、ますます美しさを増す妃。比べるほどに腹が立つのも、女のさがというものか。
「とりあえず、ここは相手の出方を見るしかないんじゃない?」
 エルナの提案に、王太子妃は素っ気なく頷いた。
 王太子妃の、こういう処は嫌いではない。
 朝食の準備が整ったことを知らせに来たツィスカに王太子妃を託すと、エルナは部屋を後にした。行先は、自身に与えられた私室である。特にどれほどの荷物があるわけではない。衣裳棚には侍女のお仕着せの着替えが数着、私的な服が幾つか、それに正装たる衣裳が何点か収まっているだけである。その他にも衣裳に合わせた装飾品と靴などが別の棚に置かれており、典型的な女性の部屋だった。
 見かけだけは。
 エルナ自身、着飾ることは嫌いではない。寧ろ、好きだった。際立った容姿を持って生まれて来たこと、これだけは両親に感謝すべきことである。エルナは、故国では忌まれるこの自身の双眸の色も気に入っていた。鏡に映る青緑の瞳、蝋燭の炎を受けると赤紫へと変化する様が、殊の外美しい。
「見惚れちゃうよねぇ」
 鏡の前で、顎に人差し指を当て、それなりに気取って見せる。媚びの視線も他人を射抜く目つきも、どちらも様になる。
「……」
 が。角度によって瞳が青く見えたとき、エルナの表情が強張った。
 青い瞳。ミアルシァの、青。
 王太子妃の要請により、今は金褐色に染めた髪。それを元の黒髪に戻してしまえば、鏡の中によく見知った人物の顔が現れる。同じ髪の色、同じ声、寸分違わぬ同じ姿の――青年。ただ、瞳の色だけが違うのが奇異だった。陽のもとで見ていれば、どちらがどちらであるのか、全く判らない。それほどによく似通った二人なのに。
 灯りがともったとき、蝋燭の炎が揺らめいたとき、決定的な違いが暴きだされる。

 ――王太子を、いえ、もう王太子ではない。『あれ』を始末なさい。

 古の罪の証が現れたとき、母后は自分を指してそう言ったそうだ。直接聞いたわけではない。そこまでひどい言葉であったわけではないかもしれない。だが、それに近しいことは口にしたのだろう。それは、判る。事あるごとに、貴方は王太子なのだ、未来の国王なのだと責任を押し付け、強くあることを望み、厳しいしつけを施し、孤高の位置に立たせておいて。双子の『弟』をその分手元に置いて溺愛していた母后。
 肝心の王太子が、穢れた『聖女の瞳』を持っていたと判明したとき、彼女は何を思ったのか。そんな子を産んでしまった自分を恥じたのか、それとも、そんな風に生まれた世継ぎを呪ったのか。
 名家と言われる由緒正しき伯爵家の令嬢で、生まれたときから国母となることを定められていた、母后。その矜持を、いたく傷つけたことは間違いない。
 双子とは、どちらが上でどちらが下ということもない、ただ、後継の問題として兄か弟か、第一王位継承者か、第二王位継承者か、それを決定づけるためだけに便宜的に兄弟の名を与えただけだ。結果、先に生まれた自分が兄と呼ばれ、王太子となった。弟は気楽な第二王位継承者で、王弟だった。
 王太子であるというだけで、どれだけ自由を奪われたか、どれだけ我慢を強いられたか。
 それを全て、あの一言で否定された。
 思い出させるのが、この一瞬。角度によって、青味が増した己の瞳である。
「やなこと、思いだすじゃないのさ」
 エルナは掌で両目を覆う。鏡の中に、もう一人の自分――『半身』が現れたときは、酷く心が痛むのだ。ミアルシァの青は、過去の傷口を広げる尖った細い爪となる。
 子供染みた恨みつらみが生きる支えになっていた、それは否定出来ない。おそらく幾つになっても、その気持ちは消えないだろう。
 ただ、わかってほしいだけなのだ。
 自分がいることを。
 やめて欲しいだけなのだ。
 自分を、はじめから存在しなかったものとして扱うことを。
 それでも、『弟』は、――自分の代わりに王太子となった『弟』は、自分を疎んじてはいなかったと思う。だが、それからすらも目を背けた。ミアルシァ正妃の産んだ子は、双子ではなく、男子一人。男子、レオカディオのみ――第一継承権も、自身の名も、存在そのものすら奪われてしまった自分には、彼を恨むことしか残されていなかったのだから。

 だから。
 弟も本来の名を奪われていたのだという事実から、エルナは目を背けていた。
 背け続けていたのだ。
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