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05.平等という名の愚かしさ
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くれぐれも粗相のないように――いつもより格段に仕立ての良い服装に着替えたアデルは、緊張した面持ちで宴の席へと足を向けた。広間には、所狭しと人が佇んでいる。壁際に控えるのは、王宮の使用人たち、貴族に従ってやって来た者たちは別室に控えさせられているから、ここに足を踏み入れることは適わない。貴族の従者さえもが訪れることが出来ない場所に入ることが出来た、それだけでアデルは舞い上がっていた。
意地の悪い厨房の先達に、この時ばかりは感謝したい気がした。これこそが、乙女の憧れる煌びやかな世界。オルガであれば、黄色い声を発しながら、あちらこちらの貴公子に熱い視線を送ることだろう。
王侯貴族が自分を見ることなどないと思いつつも、もしも声をかけられたら、と。アデルは小さな胸を抑えながら、そっと自分の持ち場に付く。
「この飲み物を、皆様にお持ちするのが仕事だ」
葡萄酒や林檎酒、その他珍しい果実酒が注がれた杯を示し、その場の責任者が説明する。アデルは小さく頷いた。そうして、言われるがままに盆を手にし、慣れぬ足取りで人々の間を歩き回る。途中幾つか手が伸び、盆の上の杯が消えて行った。都度、アデルは小さく頭を下げる。貴族は当然ながら、アデルを見てはいない。使用人は居ても居ない扱いを受ける存在なのだ。
同じ人間なのに、と思うことはない。
ここに居るのは、自分とは違う存在なのだ。神話に出てくる神々や精霊、そういった存在に近しい人々である。平等、などという概念はない。ありえない。
アデルは、ただひたすら杯を運び続けた。
「お疲れ様」
持ち場へと帰って来たアデルを、見知らぬ女が迎えた。この人も部屋付きの使用人だろう、そう思ってアデルは会釈を返す。と、件の女性は手にしていた盆をアデルに渡し、
「これを、王太子殿下のところに運んでちょうだいな」
優雅な手つきで広間の奥を示す。
そこには、黒髪の美少女の姿があった。
「黒い髪?」
銀髪碧眼のティノア人が多く住むこの国に、黒髪は珍しい。それも、あれほど見事な、鴉の濡れ羽を思わせる髪は見たことがない。アデルは暫しぽかんとその少女を見つめていた。黒髪も珍しいが、その瞳もまた稀有だった。暁の色、というのだろうか。赤みの強い紫の瞳、命そのものの輝きを宿す眩いばかりの瞳に、アデルは惹かれた。
「さあ、早く」
耳元で囁かれ、アデルは頷いた。人形のように。
アデルは暗闇のなか、ただ一筋の光明を見出すかのように、かの姫君の元へと足を運ぶ。一歩、また一歩と近づくにつれ、その人の放つ精気というか、香気というか、身に纏う雰囲気に圧倒された。美しいだけではない、気高いのだ――アデルは彼女に見惚れながら、盆を差し出す。
「あら、ありがとう」
暁の美少女は、にこりと笑って杯を取る。初めてだ。初めて、礼を言われた。ここに、自分が居ることを判ってくれた。嬉しさのあまり、アデルの頬が上気する。
その時すかさずもう一つの杯が、消えた。そちらを見上れば、長髪の、これまたこの世のものとも思えぬ端麗な顔立ちの青年が其処に座っており、アデルは息が止まりそうだった。
精霊がいる。否、オリアが、白銀の貴婦人たるオリアそのものがここに居る。
このひとが、王太子。未来の国王陛下。そして、あの暁の美少女が、王太子妃クラウディアなのだ。
自分は、いま、とんでもなく高貴な人の前に居る。
唖然とする彼女の前で、王太子は徐に自分の指輪を抜き取り、それを杯の中に落としたのだ。
「……?」
何故、そのようなことを? 不審に思ったアデルの目の前で、林檎酒が淡い音を立てた。芳香を放つ液体の中で、銀の指輪が黒く染まる。
「あ……」
と。
王太子妃が何かを呟くのが聞こえた。
いつまでも眺めていては申し訳がない、不躾過ぎたと反省したアデルは、その場を去ろうとしたのだが。
「ちょっと、あんた」
蓮っ葉な言葉に呼びとめられる。
「あたし?」
足を止めると、金褐色の髪をした長身の女性に腕を掴まれた。
「これ、何処から持って来た?」
問われて、一瞬何のことか判らなかった。自分がとんでもない粗相をしてしまったのか、と。驚きの目で彼女を見上げる。蝋燭の炎の瞬きを受けた彼女の瞳も、王太子妃と同じ赤紫に見えた。アデルは大きく目を見開き、目の前の女性と王太子妃を見比べる。
「その娘を、捕らえておけ」
アデルの耳に、そんな言葉が聞こえた。王太子が言ったのだ。
捕らえておけ――穏やかならぬ台詞である。アデルは震えあがった。
「ちょっと、こっちに来な」
金褐色の髪の女性が、強引にアデルを広間から連れ出す。人々の視線が痛かった。王族に粗相をした愚かな娘、そんな風に思われているのだろう、自分は。しかし、その視線の中に嘲りと呆れはあったが、憐れみは一つとして感じられなかった。アデルは唇を強く噛みしめ、引きずられるままに別室へと軟禁されたのである。
そうして、夜は更けて行った。
賓客をもてなすための部屋だろうか、豪奢な設えのその部屋にひとりぽつんと取り残されたアデルは、衣裳が皺になるほどそれを強く掴んでいた。これから自分はどうなってしまうのだろう。考えると、不安で息が止まりそうになる。
――その娘を、捕らえておけ。
王太子は、確かにそう言った。
自分はこのまま、首になるのだろうか。それとも、処刑されてしまうのか。嫌な想像しか浮かばない。厨房の厭味な女たちは、いい気味だとせせら笑うだろう。アデルがいなくなって、さっぱりしたと言いだすに違いない。
とはいえ、このまま職を解かれたら、どうすればいいのだ。
両親も兄夫婦も、弟や妹、姪に甥。彼らをどうやって養えばよい?
ベルタの言っていたように、身を売らなければいけなくなるのだろうか。村の男たちの快楽を満たす道具として扱われることになるのだと思うと、いたたまれなかった。それならばいっそのこと、王都の娼婦館に売られた方が良い。知らない相手の方が、いい。
アデルが悲壮な覚悟を固めていたとき、
「お待たせ。野暮用こなしてたら遅くなっちゃった。寒かったよね、ごめんねー」
場違いなまでに明るい声が響いて来た。扉が開くと同時に、灯りがともされる。揺らめく蝋燭の炎の向こうにあるのは、赤紫の瞳。猫のように吊りあがったその目が、こちらを見つめていた。
「あっ、あのっ」
なんと言おうか。アデルは身を乗り出し、女性を凝視する。
あたしはどうなるのでしょうか――その言葉が、出てこない。
「あたし、エルナ」
徐に女性が名乗る。
「エリィって呼んでもいいよ」
「え……エリィ、様?」
そうではなく。
アデルはかぶりを振り、自身の処遇を聞きだそうとしたのだが、
「あんたは?」
名を訊かれ
「あ、アデル、です」
思わず名乗ってしまう。アデルねー、とエルナは笑う。
「いい名前だね」
綺麗な笑顔だった。知らず、アデルは身惚れてしまう。王太子夫妻も美しかったが、このエルナも劣らず美しい。ただ、その美しさの質がだいぶ異なるが。エルナにはどこかしら、影がある。それが更に彼女の美しさを引き立たせていいるのだろうが。
「で、さ。あんた、あの杯。殿下に渡した杯、何処から持って来た?」
杯、と言われてアデルは我に返った。
「そこ、大事なとこなんだけど」
「杯、ですか? あれは……」
厨房から運ばれたものだ。答えようとして、違うことに気づく。あれは、渡されたのだ。見知らぬ女性に。
――王太子殿下が見えたから、これを運んでちょうだい。
そう言われて。
見たことのない女性だった。厨房の誰でもない。厨房には、あのように品の好い女性は一人として存在しなかった。
覚えていない、そう答えると
「覚えてないの?」
エルナが訊き返してくる。
アデルは頷いた。申し訳ないとは思うが、思い出せないものは仕方がない。
「そうかー」
エルナは暫しのあいだ、腕を組んで考えに耽っていたようであったが。仕方がない、と、呟いて。
「アデル。あんたの所属は? 厨房? 広間? どの管轄に勤めているの?」
尋ねてきたのだ。いきなりなんなのだ、とアデルは大仰に引いたが、
「厨房です」
小声で答える。エルナは「厨房か」とまた繰り返し、
「じゃ、あんたの上司に伝えときな。あんた、明日から配置換えだって」
「配置換え?」
何処に配置換えなのだ。
アデルはごくりと唾を呑みこんだ。まさか、地下牢に送り込まれるというのではないだろうか。それとも、夜伽として誰かの寝所に侍ることになるのか。身をちぢこめるアデルに
「東の離宮に勤めてもらうことになるから。ああ、正式な通達は、明日行くと思うから、今日は先に上司に一報入れときな。いいね?」
「あっ、はっ、はいっ」
東の離宮。返事をしたものの、アデルは今一つ実感がわかなかった。東の離宮と言えば、先頃正式に婚礼を上げた王太子夫妻の住まう場所である。王宮を出てそこに行けというのか、このエルナという女性は。暫し思考を纏めていたアデルは、止めていた息を吐き出すと、
「あっ、あの、エリィ様」
がっ、とエルナの前に身を乗り出し
「お給金は! お給金は、どうなるのでしょうか?」
思わず尋ねてしまう。
罰としてただ働き、ということもあり得るのだ。それだけは受けかねる。自分は家族を養わねばならぬのだ。と、その時は必死であったが、後から考えると貴人に粗相をして命だけでも助けてもらえるというのはごくごく稀だということを知ってから、なんと図々しい問いを投げてしまったのだと悔いたものである。
「へ?」
案の定、エルナは不思議そうにアデルを見つめた。が、彼女の言わんとしていることを理解すると、
「やっだー、この娘、おもしろーい」
ぎゃははと声を立てて笑い、ご丁寧に涙まで流し始めたではないか。それから、ばしばしと派手にアデルの背を叩き、
「今までより倍以上、ううん、十倍以上は払えると思うよ? 侍女まではいかないけど、王太子妃殿下の小間使いになるんだからさ」
息を整えながら説明したのだ。
「王太子妃殿下の、小間使い……ですか?」
誰が?
自分が?
一瞬、ぽかんとした。
アデルのその顔がおかしかったのか、エルナはまた笑いだす。けれども、今度は全く気にはならなかった。というよりも、アデルは自身の思考の中に沈みこんでしまったのだ。
王太子妃、その侍女。否、小間使いでもいい。将来のこの国の国母となる人の傍に仕える。それがどれほど名誉なことなのか。
「妃殿下の……」
あの、暁の瞳の美少女の笑顔が思い出される。
真の貴人とはこのような人なのだと思わせる、気高き美貌。あの人の傍で働くことが出来るのだと思うと、天にも昇る気持だった。オルガが聞いたら、それこそ転げ回って悔しがるだろう。本当は自分が王宮に上がるはずだったのだ、と、乗り込んでくるかもしれない。
しかし、これは本当なのだろうか。からかわれているのではないか。
確認をすると、エルナは
「何言っちゃってるの、嘘ついてどうすんのよ?」
アデルを離宮に配置してくれることを確約したのだ。
「今夜は送ってあげられないけどね、また、明日会うことになると思うから。荷物はちゃんと纏めときなよ?」
いいね、と逆に念を押され、アデルは幾度も頷いた。
こんなことがあり得るのだ――ひとり部屋を出たアデルは、まだ夢の続きを歩いていた。この自分が、王太子妃の傍付きになるなど、少し前までは考えることもなかった。王族どころか貴族など、目にしたこともない。今日初めて、貴族なるものを目の当たりにして、そして、王太子夫妻にも遭遇したのだ。
王太子妃の小間使いとなったら、ベルタの言ったように貴族の御曹司には気をつけねばならない。彼らにとって、下賎の娘は玩具でしかないのだ。王太子妃付きとはいえ、一介の庶民に過ぎぬアデルを弄んだ末に捨てたとしても、何の咎を受けることもない。
そういった一抹の不安を抱えながらも、アデルはふわふわと雲の上を歩くような感覚で回廊を進んでいた。明日からは、夢のような日々が始まる。厨房の厭味な女たちと会うこともなくなる。
なにより、給金も増える。
いいことづくめだ。
鼻歌でも歌いたい気持ちで、幾つ目かの角を曲がったとき。不意に、背後に人の気配を感じた。
「誰?」
そう尋ねた、つもりだった。
だが、それは声にはならず。強く腕を掴まれ、物影へと引きずり込まれる。無論、悲鳴を上げることもできなかった。恐怖が、喉を潰していたのだ。
「いや……」
弱々しくかぶりを振るのが精一杯のアデルは、次の瞬間、鳩尾に強い衝撃を覚え、あっさりと意識を手放した。
意地の悪い厨房の先達に、この時ばかりは感謝したい気がした。これこそが、乙女の憧れる煌びやかな世界。オルガであれば、黄色い声を発しながら、あちらこちらの貴公子に熱い視線を送ることだろう。
王侯貴族が自分を見ることなどないと思いつつも、もしも声をかけられたら、と。アデルは小さな胸を抑えながら、そっと自分の持ち場に付く。
「この飲み物を、皆様にお持ちするのが仕事だ」
葡萄酒や林檎酒、その他珍しい果実酒が注がれた杯を示し、その場の責任者が説明する。アデルは小さく頷いた。そうして、言われるがままに盆を手にし、慣れぬ足取りで人々の間を歩き回る。途中幾つか手が伸び、盆の上の杯が消えて行った。都度、アデルは小さく頭を下げる。貴族は当然ながら、アデルを見てはいない。使用人は居ても居ない扱いを受ける存在なのだ。
同じ人間なのに、と思うことはない。
ここに居るのは、自分とは違う存在なのだ。神話に出てくる神々や精霊、そういった存在に近しい人々である。平等、などという概念はない。ありえない。
アデルは、ただひたすら杯を運び続けた。
「お疲れ様」
持ち場へと帰って来たアデルを、見知らぬ女が迎えた。この人も部屋付きの使用人だろう、そう思ってアデルは会釈を返す。と、件の女性は手にしていた盆をアデルに渡し、
「これを、王太子殿下のところに運んでちょうだいな」
優雅な手つきで広間の奥を示す。
そこには、黒髪の美少女の姿があった。
「黒い髪?」
銀髪碧眼のティノア人が多く住むこの国に、黒髪は珍しい。それも、あれほど見事な、鴉の濡れ羽を思わせる髪は見たことがない。アデルは暫しぽかんとその少女を見つめていた。黒髪も珍しいが、その瞳もまた稀有だった。暁の色、というのだろうか。赤みの強い紫の瞳、命そのものの輝きを宿す眩いばかりの瞳に、アデルは惹かれた。
「さあ、早く」
耳元で囁かれ、アデルは頷いた。人形のように。
アデルは暗闇のなか、ただ一筋の光明を見出すかのように、かの姫君の元へと足を運ぶ。一歩、また一歩と近づくにつれ、その人の放つ精気というか、香気というか、身に纏う雰囲気に圧倒された。美しいだけではない、気高いのだ――アデルは彼女に見惚れながら、盆を差し出す。
「あら、ありがとう」
暁の美少女は、にこりと笑って杯を取る。初めてだ。初めて、礼を言われた。ここに、自分が居ることを判ってくれた。嬉しさのあまり、アデルの頬が上気する。
その時すかさずもう一つの杯が、消えた。そちらを見上れば、長髪の、これまたこの世のものとも思えぬ端麗な顔立ちの青年が其処に座っており、アデルは息が止まりそうだった。
精霊がいる。否、オリアが、白銀の貴婦人たるオリアそのものがここに居る。
このひとが、王太子。未来の国王陛下。そして、あの暁の美少女が、王太子妃クラウディアなのだ。
自分は、いま、とんでもなく高貴な人の前に居る。
唖然とする彼女の前で、王太子は徐に自分の指輪を抜き取り、それを杯の中に落としたのだ。
「……?」
何故、そのようなことを? 不審に思ったアデルの目の前で、林檎酒が淡い音を立てた。芳香を放つ液体の中で、銀の指輪が黒く染まる。
「あ……」
と。
王太子妃が何かを呟くのが聞こえた。
いつまでも眺めていては申し訳がない、不躾過ぎたと反省したアデルは、その場を去ろうとしたのだが。
「ちょっと、あんた」
蓮っ葉な言葉に呼びとめられる。
「あたし?」
足を止めると、金褐色の髪をした長身の女性に腕を掴まれた。
「これ、何処から持って来た?」
問われて、一瞬何のことか判らなかった。自分がとんでもない粗相をしてしまったのか、と。驚きの目で彼女を見上げる。蝋燭の炎の瞬きを受けた彼女の瞳も、王太子妃と同じ赤紫に見えた。アデルは大きく目を見開き、目の前の女性と王太子妃を見比べる。
「その娘を、捕らえておけ」
アデルの耳に、そんな言葉が聞こえた。王太子が言ったのだ。
捕らえておけ――穏やかならぬ台詞である。アデルは震えあがった。
「ちょっと、こっちに来な」
金褐色の髪の女性が、強引にアデルを広間から連れ出す。人々の視線が痛かった。王族に粗相をした愚かな娘、そんな風に思われているのだろう、自分は。しかし、その視線の中に嘲りと呆れはあったが、憐れみは一つとして感じられなかった。アデルは唇を強く噛みしめ、引きずられるままに別室へと軟禁されたのである。
そうして、夜は更けて行った。
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――その娘を、捕らえておけ。
王太子は、確かにそう言った。
自分はこのまま、首になるのだろうか。それとも、処刑されてしまうのか。嫌な想像しか浮かばない。厨房の厭味な女たちは、いい気味だとせせら笑うだろう。アデルがいなくなって、さっぱりしたと言いだすに違いない。
とはいえ、このまま職を解かれたら、どうすればいいのだ。
両親も兄夫婦も、弟や妹、姪に甥。彼らをどうやって養えばよい?
ベルタの言っていたように、身を売らなければいけなくなるのだろうか。村の男たちの快楽を満たす道具として扱われることになるのだと思うと、いたたまれなかった。それならばいっそのこと、王都の娼婦館に売られた方が良い。知らない相手の方が、いい。
アデルが悲壮な覚悟を固めていたとき、
「お待たせ。野暮用こなしてたら遅くなっちゃった。寒かったよね、ごめんねー」
場違いなまでに明るい声が響いて来た。扉が開くと同時に、灯りがともされる。揺らめく蝋燭の炎の向こうにあるのは、赤紫の瞳。猫のように吊りあがったその目が、こちらを見つめていた。
「あっ、あのっ」
なんと言おうか。アデルは身を乗り出し、女性を凝視する。
あたしはどうなるのでしょうか――その言葉が、出てこない。
「あたし、エルナ」
徐に女性が名乗る。
「エリィって呼んでもいいよ」
「え……エリィ、様?」
そうではなく。
アデルはかぶりを振り、自身の処遇を聞きだそうとしたのだが、
「あんたは?」
名を訊かれ
「あ、アデル、です」
思わず名乗ってしまう。アデルねー、とエルナは笑う。
「いい名前だね」
綺麗な笑顔だった。知らず、アデルは身惚れてしまう。王太子夫妻も美しかったが、このエルナも劣らず美しい。ただ、その美しさの質がだいぶ異なるが。エルナにはどこかしら、影がある。それが更に彼女の美しさを引き立たせていいるのだろうが。
「で、さ。あんた、あの杯。殿下に渡した杯、何処から持って来た?」
杯、と言われてアデルは我に返った。
「そこ、大事なとこなんだけど」
「杯、ですか? あれは……」
厨房から運ばれたものだ。答えようとして、違うことに気づく。あれは、渡されたのだ。見知らぬ女性に。
――王太子殿下が見えたから、これを運んでちょうだい。
そう言われて。
見たことのない女性だった。厨房の誰でもない。厨房には、あのように品の好い女性は一人として存在しなかった。
覚えていない、そう答えると
「覚えてないの?」
エルナが訊き返してくる。
アデルは頷いた。申し訳ないとは思うが、思い出せないものは仕方がない。
「そうかー」
エルナは暫しのあいだ、腕を組んで考えに耽っていたようであったが。仕方がない、と、呟いて。
「アデル。あんたの所属は? 厨房? 広間? どの管轄に勤めているの?」
尋ねてきたのだ。いきなりなんなのだ、とアデルは大仰に引いたが、
「厨房です」
小声で答える。エルナは「厨房か」とまた繰り返し、
「じゃ、あんたの上司に伝えときな。あんた、明日から配置換えだって」
「配置換え?」
何処に配置換えなのだ。
アデルはごくりと唾を呑みこんだ。まさか、地下牢に送り込まれるというのではないだろうか。それとも、夜伽として誰かの寝所に侍ることになるのか。身をちぢこめるアデルに
「東の離宮に勤めてもらうことになるから。ああ、正式な通達は、明日行くと思うから、今日は先に上司に一報入れときな。いいね?」
「あっ、はっ、はいっ」
東の離宮。返事をしたものの、アデルは今一つ実感がわかなかった。東の離宮と言えば、先頃正式に婚礼を上げた王太子夫妻の住まう場所である。王宮を出てそこに行けというのか、このエルナという女性は。暫し思考を纏めていたアデルは、止めていた息を吐き出すと、
「あっ、あの、エリィ様」
がっ、とエルナの前に身を乗り出し
「お給金は! お給金は、どうなるのでしょうか?」
思わず尋ねてしまう。
罰としてただ働き、ということもあり得るのだ。それだけは受けかねる。自分は家族を養わねばならぬのだ。と、その時は必死であったが、後から考えると貴人に粗相をして命だけでも助けてもらえるというのはごくごく稀だということを知ってから、なんと図々しい問いを投げてしまったのだと悔いたものである。
「へ?」
案の定、エルナは不思議そうにアデルを見つめた。が、彼女の言わんとしていることを理解すると、
「やっだー、この娘、おもしろーい」
ぎゃははと声を立てて笑い、ご丁寧に涙まで流し始めたではないか。それから、ばしばしと派手にアデルの背を叩き、
「今までより倍以上、ううん、十倍以上は払えると思うよ? 侍女まではいかないけど、王太子妃殿下の小間使いになるんだからさ」
息を整えながら説明したのだ。
「王太子妃殿下の、小間使い……ですか?」
誰が?
自分が?
一瞬、ぽかんとした。
アデルのその顔がおかしかったのか、エルナはまた笑いだす。けれども、今度は全く気にはならなかった。というよりも、アデルは自身の思考の中に沈みこんでしまったのだ。
王太子妃、その侍女。否、小間使いでもいい。将来のこの国の国母となる人の傍に仕える。それがどれほど名誉なことなのか。
「妃殿下の……」
あの、暁の瞳の美少女の笑顔が思い出される。
真の貴人とはこのような人なのだと思わせる、気高き美貌。あの人の傍で働くことが出来るのだと思うと、天にも昇る気持だった。オルガが聞いたら、それこそ転げ回って悔しがるだろう。本当は自分が王宮に上がるはずだったのだ、と、乗り込んでくるかもしれない。
しかし、これは本当なのだろうか。からかわれているのではないか。
確認をすると、エルナは
「何言っちゃってるの、嘘ついてどうすんのよ?」
アデルを離宮に配置してくれることを確約したのだ。
「今夜は送ってあげられないけどね、また、明日会うことになると思うから。荷物はちゃんと纏めときなよ?」
いいね、と逆に念を押され、アデルは幾度も頷いた。
こんなことがあり得るのだ――ひとり部屋を出たアデルは、まだ夢の続きを歩いていた。この自分が、王太子妃の傍付きになるなど、少し前までは考えることもなかった。王族どころか貴族など、目にしたこともない。今日初めて、貴族なるものを目の当たりにして、そして、王太子夫妻にも遭遇したのだ。
王太子妃の小間使いとなったら、ベルタの言ったように貴族の御曹司には気をつけねばならない。彼らにとって、下賎の娘は玩具でしかないのだ。王太子妃付きとはいえ、一介の庶民に過ぎぬアデルを弄んだ末に捨てたとしても、何の咎を受けることもない。
そういった一抹の不安を抱えながらも、アデルはふわふわと雲の上を歩くような感覚で回廊を進んでいた。明日からは、夢のような日々が始まる。厨房の厭味な女たちと会うこともなくなる。
なにより、給金も増える。
いいことづくめだ。
鼻歌でも歌いたい気持ちで、幾つ目かの角を曲がったとき。不意に、背後に人の気配を感じた。
「誰?」
そう尋ねた、つもりだった。
だが、それは声にはならず。強く腕を掴まれ、物影へと引きずり込まれる。無論、悲鳴を上げることもできなかった。恐怖が、喉を潰していたのだ。
「いや……」
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✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
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