アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第三章 深淵の鴉

出奔4

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 神聖皇帝アグネイヤ四世。
 まがりなりにも夫であるかのひとに対面したことは、数えるほどしかない。皇宮へと潜入したカルノリアの密偵たちが、巫女姫をかどわかすという暴挙に出た折に遭遇したのが、初対面で。その後は式典の折に傍に座ることは座るが、別段言葉を交わすことはなかった。ことに、アグネイヤ四世が離宮へと身柄を移され、政治の実権を皇太后及び宰相が握ってしまったのちは、シェラは巫女姫付の武官のごとく、イリアの元にとどまっていたのだ。

 ゆえに。皇帝からの呼び出しには驚いた。

 カルノリアの大事に関わること、直ちにアシャンティまで来るようにとの報せを得たシェラは、半信半疑でかの土地まで馬を飛ばした。そこで聞かされたのは、従姉でもある皇女ソフィアの悲運と、彼女の侍女シェリルの不本意な末路。そして、大陸の闇に蠢く陰謀の一端であった。

 ――ルカンド伯の暗殺も、この件に関わっていると見たが?

 皇帝の古代紫むらさきの瞳に正面から見据えられ、シェラは言葉を失った。ルカンド伯爵暗殺に関して、シェラが知ることは何もない。けれども、大方の予想はついている。彼の殺害を示唆したのは、父だ。そして、その手引きをしたのは、シェルニアータ――ルカンド伯爵の義理の娘にして、シェラの姉。ルカンド伯爵はカルノリアへの利権のためにシェルニアータを迎えたが、その実、身の内に密偵という名の毒蛇を招き入れてしまったのである。おそらく、シェルニアータは父である第一将軍に事細かに情報を流していたのだろう。
 彼の動きに危機を覚えた第一将軍は、刺客を放ち伯爵を暗殺した。

(まさか、ルカンドの裏に、セグまで関わっているとはね)

 シェラは苦笑した。流石の父も、そこまでは気付いてはいないだろう。否、気付いたところで王族相手に手を出すことは難しい。一介の伯爵であるルカンドであればまだしも、セグの公子を暗殺するとなると、相応の準備も人手も必要となる。あるいは、大陸の狼エルディン・ロウを雇えば良いのかもしれぬが。そういった外部の者に機密を漏らすことをカルノリアの重臣たちは何よりも嫌った。人種の坩堝であるから、おおらかであると見られがちであるが、その実カルノリアは保守的であった。だからこそ、異国の魔術師、錬金術師、及び占い師等を平然と身辺に侍らせている皇妃が、胡乱な眼で見られるのだ。
(そういえば)
 伯母――皇后ハルゲイザの傍に侍る、神官アロイス。彼は今も伯母の気に入りなのだろうか。目にも鮮やかな金髪と、若草を思わせる澄んだ緑の瞳。女性と見まごうほどに整った容貌を持つあのよそ者に、伯母が心を許してからどれだけの年月が経ったであろう。考えてみれば、アロイスも異邦人である。歴とした出自は解ってはいない。ただ、西方で医学の基礎を学んできたという触れ込みで、皇宮へといつの間にか入り込んでいたという。シェラが物心ついたころには既に伯母の傍らにあったのだから、かれこれ二十年近くはいるのではないか。『よそ者』を厭う重臣たちも、皇后の彼に対する入れ込みように眉をひそめることはあっても、表だって抗議することはできないでいた。だからこそ、異質の存在でありながらも、あの男は長らく宮廷に仕えていられるのだろうが。
 もしや、彼も陰謀に加担しているのではないか。
 ふと、不吉な思いが胸をかすめる。
 これは一度、帰国をした方がよいのかもしれない。思ったのだが。
(ねえさま)
 シェラは寝台に横たわる皇女を見下ろし、密かに息をついた。彼女を置いて、ここを出るわけにはいかない。

 塔に食事を運ぶ係は、下級貴族の娘に与えられる仕事であった。彼女らは日々交替して、ソフィアの世話に当たっているという。囚われの皇女に食事を与え、情交の後の始末をし、部屋の掃除をする。湯浴みの手伝いをする。それくらいしか仕事はなく、寧ろ楽なものだと思うのだが、どの侍女も、口をそろえて言うのだ。

 ――塔には、行きたくありません。

 華やかな宮廷の陰湿な部分を目の当たりにして、喜ぶ娘はいない。貴族階級にあったとしても、下級のそれに位置する家の娘は、両親の期待を一身に背負い、宮廷において少しでも上の階級の令息との縁を結ぼうと躍起になっている。そのためには、大公なり公子なり、その妃たちなりの侍女となることが望ましい。が、概ね王族の傍に侍るのは、家格は低くとも名家の娘と決まっている。そうでない場合は、宮廷内における雑務を担当することとなるのだが。宴や式典、その他諸々の表舞台に携わることを彼女たちは求めるのだ。間違っても、捕らわれ人の世話などという地味な役目には付きたがらない。しかも、情事の後始末をさせられるなど――若い娘には耐えがたい仕事だろう。
 はじめは、うまく公子の目にとまれば、お手付きとして愛妾の一人に加えてもらえるかもしれない、と喜んでいたであろう娘たちも、公子の性格を知るにつれ、彼を敬遠するようになってくる。
 自然、塔に関わる仕事は、誰もが嫌がるものとなっていた。が、それがシェラにとっては好都合であった。うまくセグディアに潜入し、公宮に娘が上がっているという貴族と接触することができたのだ。彼女が宿下がりをしたことをきっかけに、その貴族の妾腹の娘という触れ込みで、塔の仕事を得たのである。初の夜勤となった今夜が、ソフィア皇女に対面するまたとない機会であった。できることであれば、そのまま彼女を連れて逃亡するか。それとも、自身が身代わりとなり、皇女を逃がすか。思案しては、いた。
 しかし。ソフィアと対面して、その考えは大きく揺らいだ。
「……」
 眠る従姉の髪を優しく梳いて、シェラは今一度息をつく。カルノリアの至宝、ユリシエルの白薔薇と謳われた美しき皇女、ルフィーナ・イルザ・ソフィア・イリーナ。彼女は見る影もなくやつれていた。やつれ果てていた。
 婚礼の折に送られた指輪、それが今では親指すら受け付けない。それほどに、彼女はやせ細っていたのだ。食事もろくに取らない、とは、塔付の侍女たちがこぼしていた。ソフィアが健康を損なえば、叱責されるのは彼女らである。自分の身可愛さに、彼女らは初めは必死に食事を勧めていたが。

 ――もう、好きにしてください、と申し上げるよりほかございませんわ。

 最年長の侍女がこぼした言葉に、他の侍女たちも揃って頷いていた。
 ソフィアが彼女たちにとって荷物であることは間違いない。
(せめて、少しは体力を回復してもらわねば)
 それが最優先だった。ふっくらとしていた頬は肉が削げ落ち、これがあのソフィア姫か、と嘗ての彼女を知る者は驚くだろう。おそらく、暗殺されたソフィアの夫も、冥府で嘆いているに違いない。なにより、この姿を皇帝シェルキス二世に見せることはできない。汚辱にまみれ、生気を失った皇女の姿を見たら、彼はどれほど悲しむか。
 心優しき伯父の悲痛な心の叫びを想像するだけで、シェラの胸も痛んだ。

 今宵は、ソフィアも少しは安心して眠ることができるだろうか。せめて、自分が傍にいるときだけでも、心安らげれば良いのだが。
(わたしは、シェリルの代わりにも、夫君の代わりにもなれませんが)
 ここにいる間は、従姉の拠所でありたい。



「エリシュ」
 呼ばれて、それが自身のことであると認識するまでに、しばしの時を要した。塔を出て、侍女の詰所へと戻ったシェラを迎えたのは、侍女頭である。彼女は呆れたような、驚いたような。複雑な表情をシェラに向けて。
「あなた、よく朝まで塔にいられましたね」
 表情と同じ呆れが混ざった声でそう述べた。詰所に待機していた侍女も、同様の目でシェラを見つめている。初めてシェラがここを訪れた日に、

 ――こんな仕事をするくらいなら、お城を辞したいですわ。

 そう嘆いていた娘だ。彼女は塔の仕事に不平を言わぬどころか、辱められたソフィアの身体を清め、朝まで彼女についていたのであろうシェラに、珍獣でも見るような眼を向ける。同情だけでそこまでできてしまうシェラに、ある意味感動を覚えているのかもしれないが。その眼は決して温かいものではなかった。
「その、第二公子夫人は、……落ち着かれていましたか?」
 侍女頭の問いに、シェラは頷く。
「ああ、あなたの亜麻色の髪、それに安心されたのでしょうね。カルノリアにも、そんな髪の方は多いのでしょう? 夫人は、ずっと傍にいらしたお気に入りの侍女が出奔してから、それは寂しそうにしていらっしゃいましたし。――まあ、ねえ、いくら夫人の覚えめでたい侍女とはいっても、第二公子様が亡くなられてからは、その、……」
 少し言いにくそうに言葉を切ってから、侍女頭は辺りを憚るように声を落とす。
「第一公子様のお妃になられるとか、そんなお話も出ていたようですけど。お断りになられたそうで」
 だから、塔に閉じ込められてしまったのだ、と。噂好きの雀さながらに彼女は語った。
「あの侍女殿もご一緒に閉じ込められるところでしたのよ。それを恐れて、先に逃げ出してしまったのでしょうね。ええ、若い娘さんですもの、恐ろしかったことでしょうね」
 もともと、ソフィアの婿は第一公子であった。が、第二公子とソフィアが恋に落ちたため、彼女は第二公子と縁付いたのだ。そこまでは、シェラも知っていた。

 第一公子としては、是が非でもソフィアを手元にとどめておきたいことだろう。大国の皇女であり、陰謀の一端を垣間見てしまった生き証人である彼女は、公子にとって離しがたい存在である。無論、ソフィアの心を奪ってしまえば、彼女は想い人の不利になるようなことは決して漏らさぬと考えるであろうが。仇を愛するほど、ソフィアは気楽な娘ではない。寧ろ、彼女は古風な考えの持ち主である。二夫にまみえられるほど、尻も軽くはない。
(切り替えの早い利己的な女性であれば、このような思いはせずとも済んだものを)
 シェラは内心嘆息する。けれども、そこが従姉の良いところなのだ。何物にも屈しない、意志の強さ。たおやかな見かけとはまるで違うその性格に、見る目のない者たちはどれだけ驚かされてきたことだろう。ソフィアは決して大人しくはない。従順でもない。四姉妹の中では最も気丈で芯が強い。それゆえ、シェルキス二世も彼女を異国へと嫁がせる気になったのだ。
「第一公子様は、皇女殿下を妃に迎えられるおつもりですか?」
 シェラの問いに、侍女頭は眉をひそめる。奥で繕いものをしていた若い侍女も、ソフィアの朝餉の支度をしている娘も、それぞれ密やかに視線を交わしていた。
「その、おつもりではあるようですけど……」
 侍女頭の歯切れが悪い。
「あのような扱いをされては、皇女殿下も公子様には心を開かれないでしょう」
 あれではまるで、抱き人形だ。公子の嗜虐心を満たすために飼われている獣――それでしかない。
「大公様は、どうお思いなのですか? ご嫡男のなされることには、口をはさまぬ主義なのでしょうか?」
 大公――その言葉がシェラの口から零れた刹那、侍女頭の顔色が変わる。さっと血の気が引いたその顔を見て、シェラは何かしらこの国の暗部に触れたような気がした。
「君主様は……」
 奥の侍女が言いかけるのを、侍女頭が視線で制す。彼女はシェラに向き直ると、
「それに関しては、いずれわかります」
 そっと耳打ちした。以降、侍女頭がシェラの問いに答えることはなく。彼女は宮廷へと戻って行ったのである。

 ソフィアに朝餉を運ぶために、侍女の一人が去った後。シェラは、残った侍女に声をかけた。侍女は繕いものをしていた手を止め、恐る恐る顔を上げる。一人この詰所に残された時点で、シェラの質問を受けることになるだろうことは、察していたのだろう。針を使う彼女の手はひどく覚束なくて。それが哀れに思えて、シェラは彼女を早く苦しみから解放すべく、先程と同じ問いを投げかけたのだ。
「大公様は、御子息のされることには無関心なのですか?」
 びくり、と。侍女の肩が揺れる。彼女は震える手でおくれ毛をかきあげると、周囲を見回す。そこに、自身とシェラのほかに誰もいないことを確かめると、彼女はか細い声で告げたのだ。
 私が言ったことは、内緒にしてください――前置いた彼女の唇から洩れた言葉は。
「多分、多分ですけど。君主様は、亡くなられているのではないか……皆、そう申しているのです」
「――まさか?」
 これにはシェラも驚いた。セグ大公が既に亡き者となっている――そんなはずはない。だとしたら、第一公子が黙っているはずがない。彼は父の葬儀もそこそこに、急ぎ大公の名を継承しそうなものであるが。

 セグの中にも、闇がある。
 闇なき場所など、この世にあるはずもないが。

 シェラは僅かに目を細め、ソフィアの囚われた塔を窓越しに仰ぎ見た。
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