166 / 181
第三章 深淵の鴉
出奔1
しおりを挟む
「おや、またいらしたんですか?」
離宮の地下、ティルデの工房を訪れたジェリオに浴びせられたのは、からかいまじりの声だった。声の主は、確かめるまでもなく。エーディト――女装の少年である。自ら暗殺者集団エルディン・ロウの一員だと名乗り、ジェリオも同じ組織に属していると告げた少年。彼は相変わらず侍女のお仕着せを纏い、おさげにした髪を揺らしながら、跳ねるようにこちらに近づいてくる。近づくだけならばまだしも。
「あぁん、わたしも会いたかったですぅ」
恋人との逢瀬にやってきた小娘のごとく、ジェリオの腕にしがみついてい来るのだ。
「気色悪いから離れろっての」
乱暴に振り払えば
「もうっ。陛下には髪にも接吻してたのにぃ」
拗ねるふりをして唇を尖らせる。それをそのまま押し付けられてはかなわない。ジェリオは顔を背けつつ彼から離れる。
「ぶざけんのはよせ。話がある」
まじめな話だ、と、付け加えると。
「おや、祝言の日取りですか? じゃあ、師匠の許可を取らなきゃ、ね」
頬に手を当て、きゃっと恥じらいながら身をよじらせる。
「てめ……」
エーディトは本気で話をする気がないらしい。どこまでも話を逸らす気だ。それは、ジェリオが何を問おうとしているか気づいているからであろうが。
ジェリオは口元を歪め、エーディトを見下ろした。彼が答えないのであれば、答えずともよい。一方的に話を投げかけて、彼の反応を見ればよいのだ。ジェリオは傍らの椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。エーディトが膝に乗ってこられぬよう、椅子に馬乗りになり、背もたれに顎を乗せる。その位置から小癪な少年を見上げれば、彼もまたどこかしら探るようにジェリオの双眸に視線を向けた。
「俺は、近いうちにここを出る――昨夜言った通り、ユリシエルに向かう」
エーディトのいらえを待たずに、ジェリオは言葉を続ける。
「その間、皇女さんを頼む」
ほぉ、という風に、エーディトの視線が動く。青灰色の瞳が、興味深げに細められた。
「お前の腕を信用したわけじゃない。勿論、お前自身を信頼しているわけでもない」
「ただ、他に頼る人がいないから、ってことですよねえ? 剣士さん」
にんまり笑うエーディトに、ジェリオは頷きを返した。
「で、話はそれだけじゃないでしょう? 何が聞きたいんですか? わたしの正体は、教えられません、秘密です」
「知りたくもねぇ、そんなもん」
「あら、冷たい。じゃあ、あれですか? ドゥランディアの呪いの解き方、ですかね?」
ふっと彼の顔が近づく。白目が極端に少ない獣じみた瞳が、間近にジェリオを見つめる。
「わたしを抱いてみれば、わか……」
「断る!」
間髪入れずに怒鳴ったジェリオに、
「もう、そんなはっきり言わなくたってぇ」
いじけた風を装い、エーディトがしなだれかかってくる。押しつけられる節ばった身体を押しのけて、ジェリオは片頬を上げた。
「ユリシエルの、セシリアって女を知ってるか?」
本来ならば、彼に問いたくはなかった。だが、闇に精通していると豪語する彼であれば。『セシリア』について何か知っていてもおかしくはない。とはいえ、セシリアはありふれた名である。タティアンにもカルノリアにも、掃いて捨てるほどある名だ。ユリシエルに場所を絞ったとしても、砂に埋もれた一粒の真珠を探し出すほど途方もないことだろう。
「銀髪で、青い目で。ティノアの女――。ってだけしか手がかりはないけどな」
断片的に蘇る記憶、そのなかで一際鮮やかに異彩を放つ存在。それが、セシリア。透きとおる声で子守歌を歌い、ジェリオの髪を優しく梳くそのひとは、この世でたった一人の肉親だった。
そう、彼女のほかに身寄りはいない。
徐々に形をとる『セシリア』の輪郭、その向こうに潜む真実が、少しずつ語りかけてくるのだ。
「セシリア、ねえ?」
どのセシリアだか――案の定、エーディトは大袈裟に首を傾げる。やはり、彼に聞いたのがまずかったか。ジェリオは内心舌を打った。
「ユリシエルでセシリアといえば、その名も高い『オリガ一座』の筆頭舞姫か、はたまた可憐にして凛々しい姫君で知られる、エルシュアードの一番隊長か。それとも、第一将軍令嬢シェルファエナ姫が贔屓にしている、宮廷菓子職人か。大貴族エルセイン公が寵愛する美姫か、もしくは……」
「――もう、いい」
放っておけば次々と上がってくるであろう『セシリア』に、ジェリオが辟易したときだった。
「詩人に歌われる、亡国の気高き姫君か、はたまたユリシエル随一の娼婦館『冬薔薇』の女主人、セシリアか」
「……!」
冬薔薇。その名に、ジェリオは目を見開く。冬薔薇、と、エーディトの口が紡いだ刹那、雷に打たれたかの如き衝撃が全身を貫いたのだ。
「ふゆ、そうび」
口の中で繰り返す。耳にも、舌にも馴染んだ名前。なにより、とても懐かしい。ジェリオは記憶を辿るように目を細める。
エーディトはそんな彼を無言で見つめていたが。
「へえ?」
なにか悪戯を思いついた子供のように、きらりと目を輝かせた。
『セシリア』が、ジェリオにとっていかなる意味を持つ存在なのか。幸いにもエーディトは問うては来なかった。抜け目のない彼のこと、ジェリオの弱点と思われるものに関しては、たとえ小指の先ほどの情報でも手に入れたがると思ったのだが。こと、女性問題に関しては、興味がないのか。あれほど、サリカとの件に関しては、執拗に絡んでくるというのに。
――おやおや、馴染みの女ですかぁ? 陛下にばらしちゃおうかなあ。
にんまり笑うエーディトを想像していただけに、あっさりとした彼の対応には拍子抜けした。しかも、意外に簡単に『セシリア』について知ることができたことは、大きな収穫である。
向かう先はユリシエル。
その、娼婦館『冬薔薇』。
そこでセシリアに会えば、必然的に過去の自分を取り戻すことができる。何よりも先に蘇った、根源的な記憶――いかにドゥランディアの呪術であろうとも、肉親の絆を断つことはできなかったのだ。この世でただ一人、自分を産んでくれた女性。何よりも誰よりも愛おしいはずのその存在であれば、正式なる解呪を行わずとも彼を呪縛から救ってくれるだろう。それは、期待よりも確信に近かった。セシリアの手掛かりを得られれば、あとは、かの土地へ向かうのみである。荷物と言えるものは、皆無に等しい。この身体と、剣と、食糧。日常品があれば、それでよい。
(剣、か)
彼は自身の腰に下げたそれに視線を向ける。長年手元にあった愛剣ではない。先日、神聖帝国皇太后より下賜された剣だ。それも、前皇帝の遺品という、たいそうな代物である。果たしてこれをこのまま持ち続けて良いものか。
自身から『鴉』の匂いがする、と、エーディトは言った。もしかしたら、自分は――。
(俺は、カルノリアの血を引いているのか?)
心に生まれた不安。それが拭えない。もしも、カルノリアの血を引いているものだとしたら。それが、確定したら。彼がサリカを抱いた時点で、彼の血を彼女が受けた時点で、あの心優しき皇帝は、エーディトの復讐対象となる。そんな危うい状況にあるのに、なぜ自分はエーディトにサリカのことを託してしまったのか。
苦笑がこみ上げてきた。
「なんですかねえ。自分の世界に入り込んじゃって。ああ、陛下の感触でも思い出していたんですか? もっとああしたりこうしたり、可愛がってやれば良かった、とか」
下品な台詞に我にかえれば、そこはまだ、ティルデの工房だった。ジェリオは椅子の背に顎を乗せたまま、ぼんやりとエーディトを見やる。腰に手を当て、胸を逸らした少年は、勝ち誇ったように高笑いをこぼした。
「処女を落とすのは難しいですからねえ。お手並み拝見、だったのですけど。いや、簡単に陛下もなびいちゃって。ほんと女泣かせですよねえ……ってのも、あの、色気全開の殺し屋に仕込まれたせいですかね?」
「色気全開の殺し屋……」
カイラのことを言っているのだ。ジェリオは眉をひそめる。あの女のことは、あまり思い出したくない。彼女と、それから何といったか――彼女の兄だという巨漢。ほとんど姿を見せることはなかったあの鈍重な男のことは、それこそ記憶から消し去りたかった。
「そういえば、あの殺し屋さん、どうしたもんですかねえ。若様は色香に迷ってあっさり逃がしてしまったようですが。また、陛下を狙ってきますかねえ」
くくっ、と鳩のごとき笑い声をあげたエーディトは、ジェリオを一瞥する。
「あなたの留守にひょろっと現れて、身体も命も奪っていきそうですからね。彼女、異性だけではなく同性もイケるみたいですから」
「は?」
女性同士で睦み合う。サリカとカイラの濡れ場を想像し、ジェリオは顔を顰めた。カイラならば、やる。彼女ならば、サリカを犯しながら――貪りながら、殺すだろう。
「ま、そうならないように主人を守るのが、侍女の務めです」
「誰が侍女だ」
「わたしですが……あらやだ、先程仰ったじゃないですか、陛下を頼むと。お任せくださいな、復讐の片手間ではありますが、麗しの姫君はきちんと守りますよ。まだ、あの方はあなたと完全には繋がっていないようですし。やはりお守りする姫君は、処女の方がいいですからねえ。人妻は好きですが、火遊びした瑕ものには興味無いんです、わたし」
「……」
エーディトには、付き合いきれない。ジェリオは肩を竦めた。
「前の男と比べられるとか、そんなケツの小さいことは言いませんけどねえ。まあ、他人の歯形のついた果物を食べる気になるかどうか、ってことですよね。わたしこう見えても潔癖症なんです」
「ほう? だったら、ヒゲくらい剃っとくもんだな。無精髭がまた伸びてるぜ」
親指で彼の顎を指せば
「いやぁんっ、剣士様の意地悪ぅ」
頬に手を当て、いやいやをするように身を捩るエーディト。最早、相手にする方が馬鹿らしい。もうここには用はないとばかりに立ちあがったジェリオの視界に、鮮やかな赤毛が映った。
「あんた」
来てたのかい、と、声を上げるのは他でもない、この工房の主・オルトルートことティルデである。頭の高い位置で一つに束ねられたアダルバード人特有の燃える赤毛が、馬の尻尾の如く彼女の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。彼女の肉食獣を思わせる琥珀の瞳を見つめ、ジェリオは目を細めた。
気配がない。
それは、弟子のエーディトにも言えることだったが。師である彼女も、足音一つ立てずにこちらに近づいてくる。絨毯のない剥き出しの石畳の上を、靴音を響かせずに歩くとは。今更ながらジェリオはこの師弟の不気味さに背筋が寒くなった。大陸随一の金細工師オルトルート。それはあくまでも表の顔であり。裏は実は――。
「なんかさぁ、結構ヤバいことになっているみたいだよ?」
ジェリオの夢想を遮るように、ティルデが口を切る。眉間にしわを寄せ、不機嫌を露わにした彼女、二人の男の間をすり抜けると、窓辺に歩み寄る。半地下の中途半端な明り取りの窓、その前に佇んで
「こりゃ、四の五の言わずにさっさと逃げた方がいいかもしれないね」
誰に言うともなく呟いた。
「どういうことだ?」
ジェリオの問いには答えず、ティルデは弟子を振り返り、
「細工道具をまとめて。ああ、作った品物はいいよ。掠奪者にくれてやるから。とにかく、逃げることが先決だね」
早口に告げる。エーディトは慣れた様子で、師の言葉に一つの疑問も向けず、「承知」とだけ答えると、踵を返して工房の奥へと姿を消した。その後ろ姿を見送っていたジェリオは
「どういうことだよ?」
ティルデ以上に不快を露わにして、彼女に尋ねた。彼女は一瞬鋭く窓の外を睨んでから、
「ああ、あんたも消えた方がいいよ。じきにここは、ミアルシァの支配下になる」
思わぬことを告げる。ジェリオは予想外の彼女の言葉に、軽く眼を見開いた。
ここがミアルシァの支配下になる――それは、神聖帝国及びアヤルカスが、ミアルシァに下るということか。併合させるということか。戦の起こった気配もなければ、元首が暗殺されたわけでもない。いかにして、他国がこの国を奪うことができるのか。
いや、それよりも。
「なんで、あんたがそんなことを知っている?」
おそらく、上階にいるアグネイヤ四世さえ――皇帝でさえ、知らぬであろうことを。
「なんで、だって?」
ティルデの唇が僅かに歪む。それは自嘲にも冷笑にも見える、彫刻の如き稚拙な笑みだった。
「知らせてくれる人間がいるからじゃないか」
「知らせてくれる人間?」
――わたしは、エルディン・ロウの一員ですよ。あなたと同じくね。
エーディトの台詞が蘇る。彼がエルディン・ロウということは、師であるティルデもまた、そうだというのか。だが、ジェリオの問いにティルデは緩くかぶりを振った。違うよ、と、素っ気なく答えて。
「リナレス――あんたも知ってるだろ? 陛下の、元従者だった若様だよ」
今頃彼は、皇帝の部屋に行っているだろう。
その一言を受けて、ジェリオは弾かれたように工房を飛び出した。
(なんで、あいつが)
ジェリオは唇を噛んだ。
なぜ、よりによって、いま。今、あの少年がやってくるのだ。しかも、皇帝の私室に直接向かっているとは――間が、悪すぎる。火急の用件を告げに来たのは間違いない、ならば、それは当然の行為とも言えるだろう。だが。
今、はまずいのだ。
前戯の余韻に浸るサリカは、まだ、寝台にいるはずである。よもやいきなり私室に入り込むようなことはしないであろうが、それでも。
「ああっ、くそっ」
波立つ心は抑えられない。最上階の皇帝の私室、そこまで一気に駆け抜けた彼の眼に映ったのは、案内の侍女とともに部屋の前に佇むリナレス、その人であった。
「貴様」
リナレスもまた。肩で息をつきながら自身を見つめる存在に気づき、瞠目する。褐色と黒の視線が、絡み合い――そこで静かな火花を散らした。
離宮の地下、ティルデの工房を訪れたジェリオに浴びせられたのは、からかいまじりの声だった。声の主は、確かめるまでもなく。エーディト――女装の少年である。自ら暗殺者集団エルディン・ロウの一員だと名乗り、ジェリオも同じ組織に属していると告げた少年。彼は相変わらず侍女のお仕着せを纏い、おさげにした髪を揺らしながら、跳ねるようにこちらに近づいてくる。近づくだけならばまだしも。
「あぁん、わたしも会いたかったですぅ」
恋人との逢瀬にやってきた小娘のごとく、ジェリオの腕にしがみついてい来るのだ。
「気色悪いから離れろっての」
乱暴に振り払えば
「もうっ。陛下には髪にも接吻してたのにぃ」
拗ねるふりをして唇を尖らせる。それをそのまま押し付けられてはかなわない。ジェリオは顔を背けつつ彼から離れる。
「ぶざけんのはよせ。話がある」
まじめな話だ、と、付け加えると。
「おや、祝言の日取りですか? じゃあ、師匠の許可を取らなきゃ、ね」
頬に手を当て、きゃっと恥じらいながら身をよじらせる。
「てめ……」
エーディトは本気で話をする気がないらしい。どこまでも話を逸らす気だ。それは、ジェリオが何を問おうとしているか気づいているからであろうが。
ジェリオは口元を歪め、エーディトを見下ろした。彼が答えないのであれば、答えずともよい。一方的に話を投げかけて、彼の反応を見ればよいのだ。ジェリオは傍らの椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。エーディトが膝に乗ってこられぬよう、椅子に馬乗りになり、背もたれに顎を乗せる。その位置から小癪な少年を見上げれば、彼もまたどこかしら探るようにジェリオの双眸に視線を向けた。
「俺は、近いうちにここを出る――昨夜言った通り、ユリシエルに向かう」
エーディトのいらえを待たずに、ジェリオは言葉を続ける。
「その間、皇女さんを頼む」
ほぉ、という風に、エーディトの視線が動く。青灰色の瞳が、興味深げに細められた。
「お前の腕を信用したわけじゃない。勿論、お前自身を信頼しているわけでもない」
「ただ、他に頼る人がいないから、ってことですよねえ? 剣士さん」
にんまり笑うエーディトに、ジェリオは頷きを返した。
「で、話はそれだけじゃないでしょう? 何が聞きたいんですか? わたしの正体は、教えられません、秘密です」
「知りたくもねぇ、そんなもん」
「あら、冷たい。じゃあ、あれですか? ドゥランディアの呪いの解き方、ですかね?」
ふっと彼の顔が近づく。白目が極端に少ない獣じみた瞳が、間近にジェリオを見つめる。
「わたしを抱いてみれば、わか……」
「断る!」
間髪入れずに怒鳴ったジェリオに、
「もう、そんなはっきり言わなくたってぇ」
いじけた風を装い、エーディトがしなだれかかってくる。押しつけられる節ばった身体を押しのけて、ジェリオは片頬を上げた。
「ユリシエルの、セシリアって女を知ってるか?」
本来ならば、彼に問いたくはなかった。だが、闇に精通していると豪語する彼であれば。『セシリア』について何か知っていてもおかしくはない。とはいえ、セシリアはありふれた名である。タティアンにもカルノリアにも、掃いて捨てるほどある名だ。ユリシエルに場所を絞ったとしても、砂に埋もれた一粒の真珠を探し出すほど途方もないことだろう。
「銀髪で、青い目で。ティノアの女――。ってだけしか手がかりはないけどな」
断片的に蘇る記憶、そのなかで一際鮮やかに異彩を放つ存在。それが、セシリア。透きとおる声で子守歌を歌い、ジェリオの髪を優しく梳くそのひとは、この世でたった一人の肉親だった。
そう、彼女のほかに身寄りはいない。
徐々に形をとる『セシリア』の輪郭、その向こうに潜む真実が、少しずつ語りかけてくるのだ。
「セシリア、ねえ?」
どのセシリアだか――案の定、エーディトは大袈裟に首を傾げる。やはり、彼に聞いたのがまずかったか。ジェリオは内心舌を打った。
「ユリシエルでセシリアといえば、その名も高い『オリガ一座』の筆頭舞姫か、はたまた可憐にして凛々しい姫君で知られる、エルシュアードの一番隊長か。それとも、第一将軍令嬢シェルファエナ姫が贔屓にしている、宮廷菓子職人か。大貴族エルセイン公が寵愛する美姫か、もしくは……」
「――もう、いい」
放っておけば次々と上がってくるであろう『セシリア』に、ジェリオが辟易したときだった。
「詩人に歌われる、亡国の気高き姫君か、はたまたユリシエル随一の娼婦館『冬薔薇』の女主人、セシリアか」
「……!」
冬薔薇。その名に、ジェリオは目を見開く。冬薔薇、と、エーディトの口が紡いだ刹那、雷に打たれたかの如き衝撃が全身を貫いたのだ。
「ふゆ、そうび」
口の中で繰り返す。耳にも、舌にも馴染んだ名前。なにより、とても懐かしい。ジェリオは記憶を辿るように目を細める。
エーディトはそんな彼を無言で見つめていたが。
「へえ?」
なにか悪戯を思いついた子供のように、きらりと目を輝かせた。
『セシリア』が、ジェリオにとっていかなる意味を持つ存在なのか。幸いにもエーディトは問うては来なかった。抜け目のない彼のこと、ジェリオの弱点と思われるものに関しては、たとえ小指の先ほどの情報でも手に入れたがると思ったのだが。こと、女性問題に関しては、興味がないのか。あれほど、サリカとの件に関しては、執拗に絡んでくるというのに。
――おやおや、馴染みの女ですかぁ? 陛下にばらしちゃおうかなあ。
にんまり笑うエーディトを想像していただけに、あっさりとした彼の対応には拍子抜けした。しかも、意外に簡単に『セシリア』について知ることができたことは、大きな収穫である。
向かう先はユリシエル。
その、娼婦館『冬薔薇』。
そこでセシリアに会えば、必然的に過去の自分を取り戻すことができる。何よりも先に蘇った、根源的な記憶――いかにドゥランディアの呪術であろうとも、肉親の絆を断つことはできなかったのだ。この世でただ一人、自分を産んでくれた女性。何よりも誰よりも愛おしいはずのその存在であれば、正式なる解呪を行わずとも彼を呪縛から救ってくれるだろう。それは、期待よりも確信に近かった。セシリアの手掛かりを得られれば、あとは、かの土地へ向かうのみである。荷物と言えるものは、皆無に等しい。この身体と、剣と、食糧。日常品があれば、それでよい。
(剣、か)
彼は自身の腰に下げたそれに視線を向ける。長年手元にあった愛剣ではない。先日、神聖帝国皇太后より下賜された剣だ。それも、前皇帝の遺品という、たいそうな代物である。果たしてこれをこのまま持ち続けて良いものか。
自身から『鴉』の匂いがする、と、エーディトは言った。もしかしたら、自分は――。
(俺は、カルノリアの血を引いているのか?)
心に生まれた不安。それが拭えない。もしも、カルノリアの血を引いているものだとしたら。それが、確定したら。彼がサリカを抱いた時点で、彼の血を彼女が受けた時点で、あの心優しき皇帝は、エーディトの復讐対象となる。そんな危うい状況にあるのに、なぜ自分はエーディトにサリカのことを託してしまったのか。
苦笑がこみ上げてきた。
「なんですかねえ。自分の世界に入り込んじゃって。ああ、陛下の感触でも思い出していたんですか? もっとああしたりこうしたり、可愛がってやれば良かった、とか」
下品な台詞に我にかえれば、そこはまだ、ティルデの工房だった。ジェリオは椅子の背に顎を乗せたまま、ぼんやりとエーディトを見やる。腰に手を当て、胸を逸らした少年は、勝ち誇ったように高笑いをこぼした。
「処女を落とすのは難しいですからねえ。お手並み拝見、だったのですけど。いや、簡単に陛下もなびいちゃって。ほんと女泣かせですよねえ……ってのも、あの、色気全開の殺し屋に仕込まれたせいですかね?」
「色気全開の殺し屋……」
カイラのことを言っているのだ。ジェリオは眉をひそめる。あの女のことは、あまり思い出したくない。彼女と、それから何といったか――彼女の兄だという巨漢。ほとんど姿を見せることはなかったあの鈍重な男のことは、それこそ記憶から消し去りたかった。
「そういえば、あの殺し屋さん、どうしたもんですかねえ。若様は色香に迷ってあっさり逃がしてしまったようですが。また、陛下を狙ってきますかねえ」
くくっ、と鳩のごとき笑い声をあげたエーディトは、ジェリオを一瞥する。
「あなたの留守にひょろっと現れて、身体も命も奪っていきそうですからね。彼女、異性だけではなく同性もイケるみたいですから」
「は?」
女性同士で睦み合う。サリカとカイラの濡れ場を想像し、ジェリオは顔を顰めた。カイラならば、やる。彼女ならば、サリカを犯しながら――貪りながら、殺すだろう。
「ま、そうならないように主人を守るのが、侍女の務めです」
「誰が侍女だ」
「わたしですが……あらやだ、先程仰ったじゃないですか、陛下を頼むと。お任せくださいな、復讐の片手間ではありますが、麗しの姫君はきちんと守りますよ。まだ、あの方はあなたと完全には繋がっていないようですし。やはりお守りする姫君は、処女の方がいいですからねえ。人妻は好きですが、火遊びした瑕ものには興味無いんです、わたし」
「……」
エーディトには、付き合いきれない。ジェリオは肩を竦めた。
「前の男と比べられるとか、そんなケツの小さいことは言いませんけどねえ。まあ、他人の歯形のついた果物を食べる気になるかどうか、ってことですよね。わたしこう見えても潔癖症なんです」
「ほう? だったら、ヒゲくらい剃っとくもんだな。無精髭がまた伸びてるぜ」
親指で彼の顎を指せば
「いやぁんっ、剣士様の意地悪ぅ」
頬に手を当て、いやいやをするように身を捩るエーディト。最早、相手にする方が馬鹿らしい。もうここには用はないとばかりに立ちあがったジェリオの視界に、鮮やかな赤毛が映った。
「あんた」
来てたのかい、と、声を上げるのは他でもない、この工房の主・オルトルートことティルデである。頭の高い位置で一つに束ねられたアダルバード人特有の燃える赤毛が、馬の尻尾の如く彼女の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。彼女の肉食獣を思わせる琥珀の瞳を見つめ、ジェリオは目を細めた。
気配がない。
それは、弟子のエーディトにも言えることだったが。師である彼女も、足音一つ立てずにこちらに近づいてくる。絨毯のない剥き出しの石畳の上を、靴音を響かせずに歩くとは。今更ながらジェリオはこの師弟の不気味さに背筋が寒くなった。大陸随一の金細工師オルトルート。それはあくまでも表の顔であり。裏は実は――。
「なんかさぁ、結構ヤバいことになっているみたいだよ?」
ジェリオの夢想を遮るように、ティルデが口を切る。眉間にしわを寄せ、不機嫌を露わにした彼女、二人の男の間をすり抜けると、窓辺に歩み寄る。半地下の中途半端な明り取りの窓、その前に佇んで
「こりゃ、四の五の言わずにさっさと逃げた方がいいかもしれないね」
誰に言うともなく呟いた。
「どういうことだ?」
ジェリオの問いには答えず、ティルデは弟子を振り返り、
「細工道具をまとめて。ああ、作った品物はいいよ。掠奪者にくれてやるから。とにかく、逃げることが先決だね」
早口に告げる。エーディトは慣れた様子で、師の言葉に一つの疑問も向けず、「承知」とだけ答えると、踵を返して工房の奥へと姿を消した。その後ろ姿を見送っていたジェリオは
「どういうことだよ?」
ティルデ以上に不快を露わにして、彼女に尋ねた。彼女は一瞬鋭く窓の外を睨んでから、
「ああ、あんたも消えた方がいいよ。じきにここは、ミアルシァの支配下になる」
思わぬことを告げる。ジェリオは予想外の彼女の言葉に、軽く眼を見開いた。
ここがミアルシァの支配下になる――それは、神聖帝国及びアヤルカスが、ミアルシァに下るということか。併合させるということか。戦の起こった気配もなければ、元首が暗殺されたわけでもない。いかにして、他国がこの国を奪うことができるのか。
いや、それよりも。
「なんで、あんたがそんなことを知っている?」
おそらく、上階にいるアグネイヤ四世さえ――皇帝でさえ、知らぬであろうことを。
「なんで、だって?」
ティルデの唇が僅かに歪む。それは自嘲にも冷笑にも見える、彫刻の如き稚拙な笑みだった。
「知らせてくれる人間がいるからじゃないか」
「知らせてくれる人間?」
――わたしは、エルディン・ロウの一員ですよ。あなたと同じくね。
エーディトの台詞が蘇る。彼がエルディン・ロウということは、師であるティルデもまた、そうだというのか。だが、ジェリオの問いにティルデは緩くかぶりを振った。違うよ、と、素っ気なく答えて。
「リナレス――あんたも知ってるだろ? 陛下の、元従者だった若様だよ」
今頃彼は、皇帝の部屋に行っているだろう。
その一言を受けて、ジェリオは弾かれたように工房を飛び出した。
(なんで、あいつが)
ジェリオは唇を噛んだ。
なぜ、よりによって、いま。今、あの少年がやってくるのだ。しかも、皇帝の私室に直接向かっているとは――間が、悪すぎる。火急の用件を告げに来たのは間違いない、ならば、それは当然の行為とも言えるだろう。だが。
今、はまずいのだ。
前戯の余韻に浸るサリカは、まだ、寝台にいるはずである。よもやいきなり私室に入り込むようなことはしないであろうが、それでも。
「ああっ、くそっ」
波立つ心は抑えられない。最上階の皇帝の私室、そこまで一気に駆け抜けた彼の眼に映ったのは、案内の侍女とともに部屋の前に佇むリナレス、その人であった。
「貴様」
リナレスもまた。肩で息をつきながら自身を見つめる存在に気づき、瞠目する。褐色と黒の視線が、絡み合い――そこで静かな火花を散らした。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説

俺だけ皆の能力が見えているのか!?特別な魔法の眼を持つ俺は、その力で魔法もスキルも効率よく覚えていき、周りよりもどんどん強くなる!!
クマクマG
ファンタジー
勝手に才能無しの烙印を押されたシェイド・シュヴァイスであったが、落ち込むのも束の間、彼はあることに気が付いた。『俺が見えているのって、人の能力なのか?』
自分の特別な能力に気が付いたシェイドは、どうやれば魔法を覚えやすいのか、どんな練習をすればスキルを覚えやすいのか、彼だけには魔法とスキルの経験値が見えていた。そのため、彼は効率よく魔法もスキルも覚えていき、どんどん周りよりも強くなっていく。
最初は才能無しということで見下されていたシェイドは、そういう奴らを実力で黙らせていく。魔法が大好きなシェイドは魔法を極めんとするも、様々な困難が彼に立ちはだかる。時には挫け、時には悲しみに暮れながらも周囲の助けもあり、魔法を極める道を進んで行く。これはそんなシェイド・シュヴァイスの物語である。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。


冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。
「では開廷いたします」
家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。

私のお父様とパパ様
棗
ファンタジー
非常に過保護で愛情深い二人の父親から愛される娘メアリー。
婚約者の皇太子と毎月あるお茶会で顔を合わせるも、彼の隣には幼馴染の女性がいて。
大好きなお父様とパパ様がいれば、皇太子との婚約は白紙になっても何も問題はない。
※箱入り娘な主人公と娘溺愛過保護な父親コンビのとある日のお話。
追記(2021/10/7)
お茶会の後を追加します。
更に追記(2022/3/9)
連載として再開します。

1人生活なので自由な生き方を謳歌する
さっちさん
ファンタジー
大商会の娘。
出来損ないと家族から追い出された。
唯一の救いは祖父母が家族に内緒で譲ってくれた小さな町のお店だけ。
これからはひとりで生きていかなくては。
そんな少女も実は、、、
1人の方が気楽に出来るしラッキー
これ幸いと実家と絶縁。1人生活を満喫する。

【完結】聖女ディアの処刑
大盛★無料
ファンタジー
平民のディアは、聖女の力を持っていた。
枯れた草木を蘇らせ、結界を張って魔獣を防ぎ、人々の病や傷を癒し、教会で朝から晩まで働いていた。
「怪我をしても、鍛錬しなくても、きちんと作物を育てなくても大丈夫。あの平民の聖女がなんとかしてくれる」
聖女に助けてもらうのが当たり前になり、みんな感謝を忘れていく。「ありがとう」の一言さえもらえないのに、無垢で心優しいディアは奇跡を起こし続ける。
そんななか、イルミテラという公爵令嬢に、聖女の印が現れた。
ディアは偽物と糾弾され、国民の前で処刑されることになるのだが――
※ざまあちょっぴり!←ちょっぴりじゃなくなってきました(;´・ω・)
※サクッとかる~くお楽しみくださいませ!(*´ω`*)←ちょっと重くなってきました(;´・ω・)
★追記
※残酷なシーンがちょっぴりありますが、週刊少年ジャンプレベルなので特に年齢制限は設けておりません。
※乳児が地面に落っこちる、運河の氾濫など災害の描写が数行あります。ご留意くださいませ。
※ちょこちょこ書き直しています。セリフをカッコ良くしたり、状況を補足したりする程度なので、本筋には大きく影響なくお楽しみ頂けると思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる