アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第三章 深淵の鴉

出奔1

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「おや、またいらしたんですか?」
 離宮の地下、ティルデの工房を訪れたジェリオに浴びせられたのは、からかいまじりの声だった。声の主は、確かめるまでもなく。エーディト――女装の少年である。自ら暗殺者集団エルディン・ロウの一員だと名乗り、ジェリオも同じ組織に属していると告げた少年。彼は相変わらず侍女のお仕着せを纏い、おさげにした髪を揺らしながら、跳ねるようにこちらに近づいてくる。近づくだけならばまだしも。
「あぁん、わたしも会いたかったですぅ」
 恋人との逢瀬にやってきた小娘のごとく、ジェリオの腕にしがみついてい来るのだ。
「気色悪いから離れろっての」
 乱暴に振り払えば
「もうっ。陛下には髪にも接吻キスしてたのにぃ」
 拗ねるふりをして唇を尖らせる。それをそのまま押し付けられてはかなわない。ジェリオは顔を背けつつ彼から離れる。
「ぶざけんのはよせ。話がある」
 まじめな話だ、と、付け加えると。
「おや、祝言の日取りですか? じゃあ、師匠の許可を取らなきゃ、ね」
 頬に手を当て、きゃっと恥じらいながら身をよじらせる。
「てめ……」
 エーディトは本気で話をする気がないらしい。どこまでも話を逸らす気だ。それは、ジェリオが何を問おうとしているか気づいているからであろうが。
 ジェリオは口元を歪め、エーディトを見下ろした。彼が答えないのであれば、答えずともよい。一方的に話を投げかけて、彼の反応を見ればよいのだ。ジェリオは傍らの椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。エーディトが膝に乗ってこられぬよう、椅子に馬乗りになり、背もたれに顎を乗せる。その位置から小癪な少年を見上げれば、彼もまたどこかしら探るようにジェリオの双眸に視線を向けた。
「俺は、近いうちにここを出る――昨夜言った通り、ユリシエルに向かう」
 エーディトのいらえを待たずに、ジェリオは言葉を続ける。
「その間、皇女さんを頼む」
 ほぉ、という風に、エーディトの視線が動く。青灰色の瞳が、興味深げに細められた。
「お前の腕を信用したわけじゃない。勿論、お前自身を信頼しているわけでもない」
「ただ、他に頼る人がいないから、ってことですよねえ? 剣士さん」
 にんまり笑うエーディトに、ジェリオは頷きを返した。
「で、話はそれだけじゃないでしょう? 何が聞きたいんですか? わたしの正体は、教えられません、秘密です」
「知りたくもねぇ、そんなもん」
「あら、冷たい。じゃあ、あれですか? ドゥランディアの呪いの解き方、ですかね?」
 ふっと彼の顔が近づく。白目が極端に少ない獣じみた瞳が、間近にジェリオを見つめる。
「わたしを抱いてみれば、わか……」
「断る!」
 間髪入れずに怒鳴ったジェリオに、
「もう、そんなはっきり言わなくたってぇ」
 いじけた風を装い、エーディトがしなだれかかってくる。押しつけられる節ばった身体を押しのけて、ジェリオは片頬を上げた。
「ユリシエルの、セシリアって女を知ってるか?」
 本来ならば、彼に問いたくはなかった。だが、闇に精通していると豪語する彼であれば。『セシリア』について何か知っていてもおかしくはない。とはいえ、セシリアはありふれた名である。タティアンにもカルノリアにも、掃いて捨てるほどある名だ。ユリシエルに場所を絞ったとしても、砂に埋もれた一粒の真珠を探し出すほど途方もないことだろう。
「銀髪で、青い目で。ティノアの女――。ってだけしか手がかりはないけどな」
 断片的に蘇る記憶、そのなかで一際鮮やかに異彩を放つ存在。それが、セシリア。透きとおる声で子守歌を歌い、ジェリオの髪を優しく梳くそのひとは、この世でたった一人の肉親だった。
 そう、彼女のほかに身寄りはいない。
 徐々に形をとる『セシリア』の輪郭アウトライン、その向こうに潜む真実が、少しずつ語りかけてくるのだ。
「セシリア、ねえ?」
 どのセシリアだか――案の定、エーディトは大袈裟に首を傾げる。やはり、彼に聞いたのがまずかったか。ジェリオは内心舌を打った。
「ユリシエルでセシリアといえば、その名も高い『オリガ一座』の筆頭舞姫か、はたまた可憐にして凛々しい姫君で知られる、エルシュアードの一番隊長か。それとも、第一将軍令嬢シェルファエナ姫が贔屓にしている、宮廷菓子職人か。大貴族エルセイン公が寵愛する美姫か、もしくは……」
「――もう、いい」
 放っておけば次々と上がってくるであろう『セシリア』に、ジェリオが辟易したときだった。

「詩人に歌われる、亡国の気高き姫君か、はたまたユリシエル随一の娼婦館『冬薔薇ふゆそうび』の女主人、セシリアか」

「……!」
 冬薔薇。その名に、ジェリオは目を見開く。冬薔薇、と、エーディトの口が紡いだ刹那、雷に打たれたかの如き衝撃が全身を貫いたのだ。
「ふゆ、そうび」
 口の中で繰り返す。耳にも、舌にも馴染んだ名前。なにより、とても懐かしい。ジェリオは記憶を辿るように目を細める。
 エーディトはそんな彼を無言で見つめていたが。
「へえ?」
 なにか悪戯を思いついた子供のように、きらりと目を輝かせた。
 『セシリア』が、ジェリオにとっていかなる意味を持つ存在なのか。幸いにもエーディトは問うては来なかった。抜け目のない彼のこと、ジェリオの弱点と思われるものに関しては、たとえ小指の先ほどの情報でも手に入れたがると思ったのだが。こと、女性問題に関しては、興味がないのか。あれほど、サリカとの件に関しては、執拗に絡んでくるというのに。

 ――おやおや、馴染みの女ですかぁ? 陛下にばらしちゃおうかなあ。

 にんまり笑うエーディトを想像していただけに、あっさりとした彼の対応には拍子抜けした。しかも、意外に簡単に『セシリア』について知ることができたことは、大きな収穫である。
 向かう先はユリシエル。
 その、娼婦館『冬薔薇』。
 そこでセシリアに会えば、必然的に過去の自分を取り戻すことができる。何よりも先に蘇った、根源的な記憶――いかにドゥランディアの呪術であろうとも、肉親の絆を断つことはできなかったのだ。この世でただ一人、自分を産んでくれた女性。何よりも誰よりも愛おしいはずのその存在であれば、正式なる解呪を行わずとも彼を呪縛から救ってくれるだろう。それは、期待よりも確信に近かった。セシリアの手掛かりを得られれば、あとは、かの土地へ向かうのみである。荷物と言えるものは、皆無に等しい。この身体と、剣と、食糧。日常品があれば、それでよい。
(剣、か)
 彼は自身の腰に下げたそれに視線を向ける。長年手元にあった愛剣ではない。先日、神聖帝国皇太后より下賜された剣だ。それも、前皇帝の遺品という、たいそうな代物である。果たしてこれをこのまま持ち続けて良いものか。
 自身から『鴉』の匂いがする、と、エーディトは言った。もしかしたら、自分は――。
(俺は、カルノリアの血を引いているのか?)
 心に生まれた不安。それが拭えない。もしも、カルノリアの血を引いているものだとしたら。それが、確定したら。彼がサリカを抱いた時点で、彼の血を彼女が受けた時点で、あの心優しき皇帝は、エーディトの復讐対象となる。そんな危うい状況にあるのに、なぜ自分はエーディトにサリカのことを託してしまったのか。
 苦笑がこみ上げてきた。

「なんですかねえ。自分の世界に入り込んじゃって。ああ、陛下の感触でも思い出していたんですか? もっとああしたりこうしたり、可愛がってやれば良かった、とか」

 下品な台詞に我にかえれば、そこはまだ、ティルデの工房だった。ジェリオは椅子の背に顎を乗せたまま、ぼんやりとエーディトを見やる。腰に手を当て、胸を逸らした少年は、勝ち誇ったように高笑いをこぼした。
「処女を落とすのは難しいですからねえ。お手並み拝見、だったのですけど。いや、簡単に陛下もなびいちゃって。ほんと女泣かせですよねえ……ってのも、あの、色気全開の殺し屋に仕込まれたせいですかね?」
「色気全開の殺し屋……」
 カイラのことを言っているのだ。ジェリオは眉をひそめる。あの女のことは、あまり思い出したくない。彼女と、それから何といったか――彼女の兄だという巨漢。ほとんど姿を見せることはなかったあの鈍重な男のことは、それこそ記憶から消し去りたかった。
「そういえば、あの殺し屋さん、どうしたもんですかねえ。若様は色香に迷ってあっさり逃がしてしまったようですが。また、陛下を狙ってきますかねえ」
 くくっ、と鳩のごとき笑い声をあげたエーディトは、ジェリオを一瞥する。
「あなたの留守にひょろっと現れて、身体も命も奪っていきそうですからね。彼女、異性だけではなく同性もイケるみたいですから」
「は?」
 女性同士で睦み合う。サリカとカイラの濡れ場を想像し、ジェリオは顔を顰めた。カイラならば、やる。彼女ならば、サリカを犯しながら――貪りながら、殺すだろう。
「ま、そうならないように主人を守るのが、侍女の務めです」
「誰が侍女だ」
「わたしですが……あらやだ、先程仰ったじゃないですか、陛下を頼むと。お任せくださいな、復讐の片手間ではありますが、麗しの姫君はきちんと守りますよ。まだ、あの方はあなたと完全には繋がっていないようですし。やはりお守りする姫君は、処女の方がいいですからねえ。人妻は好きですが、火遊びした瑕ものには興味無いんです、わたし」
「……」
 エーディトには、付き合いきれない。ジェリオは肩を竦めた。
「前の男と比べられるとか、そんなケツの小さいことは言いませんけどねえ。まあ、他人の歯形のついた果物を食べる気になるかどうか、ってことですよね。わたしこう見えても潔癖症なんです」
「ほう? だったら、ヒゲくらい剃っとくもんだな。無精髭がまた伸びてるぜ」
 親指で彼の顎を指せば
「いやぁんっ、剣士様の意地悪ぅ」
 頬に手を当て、いやいやをするように身を捩るエーディト。最早、相手にする方が馬鹿らしい。もうここには用はないとばかりに立ちあがったジェリオの視界に、鮮やかな赤毛が映った。
「あんた」
 来てたのかい、と、声を上げるのは他でもない、この工房の主・オルトルートことティルデである。頭の高い位置で一つに束ねられたアダルバード人特有の燃える赤毛が、馬の尻尾の如く彼女の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。彼女の肉食獣を思わせる琥珀の瞳を見つめ、ジェリオは目を細めた。
 気配がない。
 それは、弟子のエーディトにも言えることだったが。師である彼女も、足音一つ立てずにこちらに近づいてくる。絨毯のない剥き出しの石畳の上を、靴音を響かせずに歩くとは。今更ながらジェリオはこの師弟の不気味さに背筋が寒くなった。大陸随一の金細工師オルトルート。それはあくまでも表の顔であり。裏は実は――。
「なんかさぁ、結構ヤバいことになっているみたいだよ?」
 ジェリオの夢想を遮るように、ティルデが口を切る。眉間にしわを寄せ、不機嫌を露わにした彼女、二人の男の間をすり抜けると、窓辺に歩み寄る。半地下の中途半端な明り取りの窓、その前に佇んで
「こりゃ、四の五の言わずにさっさと逃げた方がいいかもしれないね」
 誰に言うともなく呟いた。
「どういうことだ?」
 ジェリオの問いには答えず、ティルデは弟子を振り返り、
「細工道具をまとめて。ああ、作った品物はいいよ。掠奪者にくれてやるから。とにかく、逃げることが先決だね」
 早口に告げる。エーディトは慣れた様子で、師の言葉に一つの疑問も向けず、「承知」とだけ答えると、踵を返して工房の奥へと姿を消した。その後ろ姿を見送っていたジェリオは
「どういうことだよ?」
 ティルデ以上に不快を露わにして、彼女に尋ねた。彼女は一瞬鋭く窓の外を睨んでから、
「ああ、あんたも消えた方がいいよ。じきにここは、ミアルシァの支配下になる」
 思わぬことを告げる。ジェリオは予想外の彼女の言葉に、軽く眼を見開いた。
 ここがミアルシァの支配下になる――それは、神聖帝国及びアヤルカスが、ミアルシァに下るということか。併合させるということか。戦の起こった気配もなければ、元首が暗殺されたわけでもない。いかにして、他国がこの国を奪うことができるのか。
 いや、それよりも。
「なんで、あんたがそんなことを知っている?」
 おそらく、上階にいるアグネイヤ四世さえ――皇帝でさえ、知らぬであろうことを。
「なんで、だって?」
 ティルデの唇が僅かに歪む。それは自嘲にも冷笑にも見える、彫刻の如き稚拙な笑みだった。
「知らせてくれる人間がいるからじゃないか」
「知らせてくれる人間?」

 ――わたしは、エルディン・ロウの一員ですよ。あなたと同じくね。

 エーディトの台詞が蘇る。彼がエルディン・ロウということは、師であるティルデもまた、そうだというのか。だが、ジェリオの問いにティルデは緩くかぶりを振った。違うよ、と、素っ気なく答えて。
「リナレス――あんたも知ってるだろ? 陛下の、元従者だった若様だよ」
 今頃彼は、皇帝の部屋に行っているだろう。
 その一言を受けて、ジェリオは弾かれたように工房を飛び出した。

(なんで、あいつが)

 ジェリオは唇を噛んだ。
 なぜ、よりによって、いま。今、あの少年がやってくるのだ。しかも、皇帝の私室に直接向かっているとは――間が、悪すぎる。火急の用件を告げに来たのは間違いない、ならば、それは当然の行為とも言えるだろう。だが。
 今、はまずいのだ。
 前戯の余韻に浸るサリカは、まだ、寝台にいるはずである。よもやいきなり私室に入り込むようなことはしないであろうが、それでも。
「ああっ、くそっ」
 波立つ心は抑えられない。最上階の皇帝の私室、そこまで一気に駆け抜けた彼の眼に映ったのは、案内の侍女とともに部屋の前に佇むリナレス、その人であった。
「貴様」
 リナレスもまた。肩で息をつきながら自身を見つめる存在に気づき、瞠目する。褐色と黒の視線が、絡み合い――そこで静かな火花を散らした。
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