アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第三章 深淵の鴉

予言7

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 まさか、ここで彼に会おうとは。ルーラは、暫し、己が幸運を噛み締めていた。
 単に同名の人物なのかもしれぬ、そんな疑いが頭をもたげたが。それは一瞬にして霧散した。彼の持つただならぬ雰囲気――決して平凡な一市民ではないだろう雰囲気が、想像を確信に変える。彼こそが、仲介者・テオバルト。エリシアを賊に売り渡した張本人。ルーラはさりげなく、質問を重ねた。
「テオバルト殿、以前どちらかでお会いしたことはなかったか?」
 人に言わせれば、ルーラはディグルに顔立ちが似ているという。ディグルに似ている、ということは、当然であるがエリシアにも似ているはずだった。で、あれば。テオバルトがルーラの面影の中に、エリシアを見る可能性も高い。もしや、テオバルトもルーラの素性を確かめたくて、彼女の差し向かいに席を取ったのではないか。そんな彼女の勘は、半ば当たっていた。
「いや、気のせいだろう」
 素っ気なく言い放ったものの、テオバルトは青い瞳を僅かに細め、
「貴殿、歳は幾つになる?」
 逆に尋ねてきた。ルーラは元の席に戻り、椅子に浅く腰かけてから
「二十二になるが」
 それが? と、問いの理由を視線で探る。
「御両親は健在か」
 二十二……そう、口の中で繰り返した彼の、次の問いかけがこれであった。ルーラはしてやったり、と心の中で手を打った。やはり、彼こそ求めていた人物。ここで逃しては、今までの苦労も水泡に帰す。御両親、というものの。彼が尋ねたいのは、母ではないか。ルーラによく似た面差を持つ女性。その所在を確かめたいのではないか。
 ルーラは頷いた。
「二人とも健在だ」
 彼女の両親は、既にこの世にいない。けれども、テオバルトがルーラをエリシアの縁者だと思っているのであれば。ルーラの応えに、どのような反応を見せるのか。それが知りたかった。
 なれど。
 ここで彼女に、エリシアの存命を確認するようなことを尋ねてくるとは。もしや、テオバルト自身、エリシアの消息を知らないのではないか。それとも、彼もまた、エリシアの行方を追っているのではないか。何者かの命を受けて。
(ラウヴィーヌ)
 何者か――ルーラの脳裏に、王妃の艶やかな笑みが蘇る。扇の下で僅かに歪められた朱唇、それがテオバルトに命ずるのだ。

 ――エリシアを始末なさい。

 自身の想像に、視界が揺れる。脳裏に描かれたラウヴィーヌと、目の前に座るテオバルトの姿が重なった。
「母君の名は?」
 テオバルトの声にラウヴィーヌの声が重なる。幻聴か。ルーラは軽い眩暈を覚えながら、
「エリ……いや、エルナ」
 わざと名を言い間違った風を装った。同輩には悪いが『エルナ』は北方には多い名前、エリシアに似た名をこれしか思いつかなかっただけである。ルーラの予想通り、テオバルトの視線が動いた。彼は先程よりもじっくりと、彼女の顔を見つめている。その面影の中から、エリシアに繋がるものを探しているのか。それとも。
「母を知っているのか?」
 鎌をかけてみたが、テオバルトは答えなかった。ルーラの瞳の向こうに、何を見るのか――深い青の瞳に幾許かの憂いをたたえ、彼は小さく笑う。
「母君に、『御健勝で何より。そして、御身更に大切に』と。伝えてくれ」
 何よりも、優しい笑顔だった。冬の星座を思わせる、美しくも冷ややかな容貌とはまるで違う。穏やかな春の日だまりを思わせる笑み。ルーラは、息を止めた。彼は徐に手を伸ばし、そんな彼女の頭を大きな手で撫でる。
「……?」
 動けなかった。温かい、大きな手。怜悧な美貌からは想像もつかぬ、節ばった剣士の手。父の温もりとは、このようなものなのか。瞠目するルーラに、テオバルトは笑顔のまま声をかける。
「達者で暮らせよ。母御は、良い倅を持って幸せだな」
 呆気にとられたルーラを残し、テオバルトは立ち上がった。毒気を抜かれた――否、
「わたしは」
 男子ではない、そう言おうとしたルーラは。彼を呼びとめることも、後を追うこともできなかった。目の前には、彼の残した大陸公用通貨と、いつの間にか添えられたものか、指輪が一つ転がっている。惹かれるように彼女はそれを手に取った。銀の台に沿って青石サファイアを散りばめた逸品である。オルトルートの手であろうか、地の細工も見事であった。値段など、想像もできない。
(いったい)
 どういうことなのだ。ルーラは唇を噛みしめた。このようなものを忘れていくはずがない、故意に置いていったのだ。テオバルトから、ルーラへの伝言メッセージ。含まれる意味は、当然。

 これを、エリシアに渡してほしい。

 そういうことなのだろう。しかし、ラウヴィーヌと結託してエリシアを陥れたはずの彼が、なぜ。何故、このような態度に出るのか。更に彼はエリシアの健康を願い、幸福を願った。果ては、ルーラを男性と見破っている。ルーラは無言のまま、指輪を見つめていた。

 糸が、ぷつりと切れた今、どこに向かって歩き出せばよい?



 ハリトーン――カルノリア西部に於いて、最も栄えている商業都市である。西方諸国よりカルノリアを訪れた者たちは、必ずこの街を経由して、首都・ユリシエルへと入るのだ。古来より中継貿易地として名高いハリトーン、当然雑多な人種が多く、どれほど珍しい容姿でも周囲より浮くことはない。
 けれども。

「その、お帽子。お顔を隠すことには最適でしょうけれども。少し目立ちすぎはしませんこと?」

 つばの広い南方風の帽子を見つめ、オルウィス伯爵夫人は鼻白んだ。
 繁華街の外れ、高級で知られる宿の地下に設けられた食事処。その片隅にある個室に席を取った夫人は、目的の人物が登場した早々嘆息する。変った男だとは聞いていたが、よもや、ここまでとは。夫人は件の男――テオバルトなる人物を、頭から足先まで詳らかに眺めた。不躾な行為だとは思う。思うのだが、好奇心と嫌悪には勝てぬ。
 仔細の程は不明だが、彼は常に帽子で顔を隠している、と夫人の主君である王妃は言っていた。その言にたがわず、今もテオバルトは、派手な飾りのついた帽子を目深にかぶり、室内だというのに上着を脱ごうともしない。どうぞ、と席を勧める前にちゃっかりと椅子に座り込み、目の前に置かれた葡萄酒を旨そうに嗜んでいる。帽子についた鈴が彼が動くたびに軽い音を立て、それが更に夫人の癇に障った。

 ――テオバルトは、闇商人の中でも別格。丁重に扱うように。

 主人・ラウヴィーヌの言葉を思い出す。思い出して、気を静める。
 一見、無頼者のようなこの男。実は、タティアン大公を含むかの国の上層部とも繋がりがあるという。粗相があってはならない、そう王妃からも言い含められての今回の対面であるが。
(このような男に)
 大事を任せようとする王妃の気がしれない。
 ラウヴィーヌが夫人に下した命令は、テオバルトと接触し、彼から前妃エリシアの行方を聞き出すこと。以前、王妃は直々にテオバルトにエリシアの探索を依頼したのだが、その後まるで彼からの音沙汰がなかった。痺れを切らしたラウヴィーヌが、ついに腹心であるオルウィス伯爵を使者として立てたわけだが。伯爵はその役目を、妻に回した。
(なぜ、わたくしが、このような男のもとに)
 夫人は大いに不満であった。使い走りのようなことを押しつけられただけではない。相手は貴族でもない、闇の商人。いくら貴族に重用されているとはいえ、一介の庶民である。下級貴族の出ではあるが、今回の任務は夫人の誇りをいたく傷つけるものであった。そして、対面した相手のこの態度。
 夫人の堪忍袋の緒が切れるのは、時間の問題である。
「テオバルト殿」
 呼びかけを、闇商人はあからさまに無視した。この、下賤の民め――夫人は、扇で隠した口元に嘲りの苦笑を浮かべつつ、
「室内では、帽子をとるものですわ。婦人の前での礼儀くらい、ご存じでしょう?」
 言葉を継ぐ。だが、テオバルトは一向に気にせぬ様子で、
「王妃は、なんと言っている?」
 挨拶もなく話を切り出したのだ。
「あなた」
 夫人は呆れて声も出なかった。これが、貴族の夫人に対する態度なのだろうか。ギリ、と、奥歯を噛みしめ、一喝しようとした彼女の言葉を遮るように
「俺は忙しい。エリシアの件ならば、わかり次第報告すると伝えておけ」
 乱暴に言い放つと、さっさと席を立つ。

 なんと、無礼な。

 夫人の眉が吊り上った。王妃が彼を丁重に扱えと言った意味がわからない。このような礼儀知らずの違法商人、彼に頼るまでもない。自分が、自分がこの手で探し出してみせる――前妃エリシアを。夫人は怒りに燃える目で、テオバルトの背を睨み付ける。
「そんなことで、わざわざカルノリアくんだりまでご登場とは。余程フィラティノアの伯爵夫人というのは、暇と見える」
 くっ、と、テオバルトの喉が鳴る。それが、夫人の怒りの炎に油を注いだ。彼女は手元のグラスを引き寄せ、
「無礼者」
 罵声とともに中身をテオバルトに浴びせた。紅い、鮮血を思わせる液体が、テオバルトの衣装に無残なシミを作る、と思えたが。紙一重で彼はそれを避けた。代わりに、彼がいましがたまで居た場所に葡萄酒が広がった。床と壁に散る赤は芳醇な香りを辺りに立ちのぼらせ、夫人の感情をいやが上にも煽り立てる。彼女は肩で息をつきながら、憎悪に染まった眼差しを彼に向けた。貴婦人らしからぬ醜態に彼は呆れたのか、軽く肩をすくめる。
 夫人は強く唇を噛みしめ、彼に掴みかかった。怒りで我を忘れる――婦人としてあるまじき行為に自身でも嫌悪を覚えたが。テオバルトに対する憤怒が、彼女の理性をすべて奪っていた。
 彼女は細い指を伸ばし、乱暴に彼の帽子を叩き落とす。
 と、鈴の儚げな音とともに、それは床に落ちた。
「あっ」
 ぱさり、と、広い肩に落ちるのは金髪。陽光をそのまま写し取ったかのような、豪奢な色合いを持つ黄金の糸。こちらを振り返る顔は、その髪に引けを取らぬ――髪に相応しい、美貌。
 ただし、右半分を除いては。
「無礼な」
 低く唸ったのは、テオバルトだった。
 奇妙な紋章が刻まれた仮面、それが彼の右顔面を覆っている。彼が見せたくなかったのは、この仮面なのか。それとも、さらされた左顔面の素顔なのか。そういえば、王妃もオルウィス伯爵も、彼の顔を見たことがないと言っていた。
「あ……あ……」
 夫人は、口元を押さえる。見てはならぬものを見た、禁忌に触れた。畏怖に近い衝撃が、彼女を襲った。
 ずる、と、後退した彼女の首筋に、いつ抜刀したものか鋭い刃が押し付けられている。悲鳴すら上げることができず、ただ震えるだけの夫人をどう思っているのか――テオバルトは深く青い瞳に底知れぬ闇を宿し、間近から彼女の顔を覗きこんでいた。
(殺される)
 本能的に夫人は思った。
「おまえは、見てはならぬものを見た」
 生かしてはおけない。そう、彼の整った唇が動く。
「わ、わたくしを殺すのですか。わたくしは、貴族……」
 言いかけた言葉は最後まで紡がれることはなかった。気づいたのだ、夫人は。遅まきながら。
 この男は、闇商人テオバルト。大陸暗部の支配者。一国の王妃でさえ、闇に葬った人物なのだ。一介の伯爵夫人である自分をどうしようと、彼に捕縛の手が伸びることはない。
 否、エリシアのときは、レンティルグ及びタティアンが後ろ盾となっていた。ゆえに、彼の罪は不問に付されたのだ。今は違う。今は、単なる私怨から彼は夫人を葬ろうとしている。これは、立派な罪だ。
 そこに考えが至った刹那、夫人は哄笑を上げた。勝った――だが、そう思ったのは、一瞬だった。
「俺が何故、この店を指定したか。わかっているだろう」
 彼の声は、真冬のオリアの風よりも冷たかった。
 ああ、そうだ。この店を指定したのは、テオバルト。そこに、数人の供しか連れずに現れたのは、自分。この店は、テオバルトの息がかかっているのだ。
 夫人は再び、絶望の淵に落とされた。そして、今度こそ。逃げられぬと痛感する。
「俺を辱めた罪。どうやって償ってもらうか」
 感情宿らぬ声が耳朶を打つ。もはや彼を睨むことすらできないでいる夫人の前に、この店の店主と思しき人物の姿が映った。静かに扉を開閉し、優雅な仕草で入室してきた彼は、
「旦那さま。あとの始末は、私どもに」
 お任せください、と言わんばかりに丁重な礼をする。テオバルトは剣をおさめ、夫人から手を放した。くたりと床に座り込みそうになる彼女の体を支えたのは、店主である。彼は柔和な面差に似合う優しい笑みを浮かべ
「ああ、大切な商品に傷が付いてしまいます。もう少し、丁寧に」
 表情からは予想もできぬ、非情な台詞を口にした。



 別室へと移ったテオバルトは、旅装を解き、鏡の前に佇んだ。常に帽子の下に隠していた目立ちすぎる金髪。いい加減、切ってしまおうかと何度思ったことか。だが、

 ――切るの? 勿体ない。
 ――とても綺麗なのに。

 屈託なく褒めてくれた少女の声が蘇り、なぜか手が止まってしまうのだ。
(……)
 長く、あの少女にも会っていない。元気に過ごしているだろうか。
 ふと、彼女の面影を思い出し、彼は口元を緩めた。優し過ぎるほど優しい、否、脆い心を持つ少女。今頃彼女はどうしているのだろう。
「旦那さま」
 そんな彼の思考は、部下の声に遮られた。振り返れば、先程と同じく静かかつ優雅な仕草で、この店の店主たる男性が背後に立っている。彼は一礼すると
「先程の商品。如何いたしましょうや?」
 オルウィス伯爵夫人、彼女のことを尋ねてきた。
「好きにしろ」
 テオバルトは一度命じてから、
「いや、ゲルダ街の娼婦館にでも売り払え。喉を潰し、顔を焼いてからな」
 言葉を加える。店主は「承知」とだけ答えると、入室時同様、音もなく部屋を出ていった。
(これでひとり)
 レンティルグの毒蜘蛛、その手先を潰した。あと、どれだけあるのだろう、蜘蛛の脚は。すべての脚を潰しても、残る頭が毒を蓄えていたのでは、厄介だ。
 早々に頭を潰しておくか。
 彼は、小さく息をつく。
 それよりも。
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「エリシア」
 悲運の王妃、そのものだった。
 偶然街で見かけたとき、時間ときが遡ったのかと思った。けれども、記憶の中のエリシアは、あのルーラと名乗った青年よりももっと幼く、まだ少女と言っていいほどの年齢だった。確か、十五になるかならないか、そんな年齢だったと思う。美しさのなかにもどこかあどけなさが残り、それがより一層彼女の魅力を引き立てたのだろう。だからこそ、狙われた。多くの男に。歌姫、という卑しい出自から、好奇の視線にさらされていたのだ。
(エリシア)
 今度こそ、幸せに。
 彼は、心の中で祈る。彼女とその夫に、天の祝福があることを。
 そして。彼の手で取り上げたエリシアの愛息が、復讐という名の闇に心を蝕まれぬことを。
 ――密かに、願った。
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