アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

暗雲2

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「退屈だわ」
 マリサは、姫君らしからぬ伸びをして、ぽん、と長椅子ソファに腰を下ろした。ルーラがいなくなってからこちら、剣の相手をしてくれるものがなく。まさに退屈極まりない生活を送っている。ツィスカが相手になろうとは言うものの、どうにも彼女と打ち合う気にはなれず。それならば、素振りをしていたほうがましだと思う。
 だからといって、朝から酒浸りというのも、健康である。
「あ……」
 そういえば。

 ディグル。彼は、どうしているのだろうか。

 ルーラのいないその部屋で、彼は何をしているのだろう。少し夫の行動に興味を持ったマリサは、
「ディグルの部屋に、行きます」
 立ち上がると、ツィスカに声をかけた。
「かしこまりました」
 先触れを、と、廊下に佇む衛兵に声をかけようとした彼女を、マリサは手で制する。
「いいわ。夫と妻の間柄です。先に断る必要もないでしょう」
「ですが、妃殿下」
 ツィスカは難色を示した。これが、一介の庶民であればいざ知らず、マリサもディグルも、貴族、しかも王族である。気軽に互いのもとを訪れて良い身ではない。それはマリサも重々承知はしている。
 だが、同じ屋敷に居を置いておきながら、今更そんな他人行儀なことをする必要もないだろう。王宮であれば、しきたり云々にも渋々だが従うが、ここは、離宮。王太子夫妻のために設けられた住居である。自身はそこの女主人。なにを気遣うことがあろうか。
「あなたは、一緒に来なくても宜しくてよ?」
 暗に『邪魔だ』と伝えて、マリサは廊下に出る。しかし、毛足の長い絨毯を踏みしめて、静々と夫の部屋に向かう彼女の背後から、ツィスカも確かな足取りで追ってきた。主人の命に背くか、この侍女は――と思ったが。マリサは、あえて何も言わなかった。
 ここでピシリと叱りつけておけば、ツィスカの態度も改まるだろう。マリサも正式に王太子妃となった身、いつまでも侍女に大きな顔はさせてはいけない。それでも。
(なんか、扱いにくいのよね、この
 金髪に、翠の瞳。アダルバードの生まれと主張してはいるが、実際はアインザクトの残党だろうか――そうであれば、もう少し暁の瞳をもつ自分に対して敬意を払ってもよさそうだが。あっさりとミアルシァ・カルノリア連合軍の前に白旗を掲げた神聖帝国が憎いのか、それとも、当時ミアルシァに与していたアヤルカスの末裔と白眼視しているのか。ツィスカの心は、今一つ読みきることはできない。
 ディグルの部屋の前にたどり着いたとき、扉を守る衛兵に向かい、
「王太子妃殿下の、お越しにあらせられます」
 マリサの来訪を告げたツィスカは、そのまま音もなく一歩下がる。代わりにマリサが進み出ると、衛兵たちの顔に緊張が走った。
「只今、殿下にお取次ぎいたします。妃殿下には、しばしお待ちを」
 衛兵は深々と頭を下げ、マリサを次の間へと通した。そこで待つことしばし、王太子付の侍女の運んだ香茶が冷めぬうちに、
「お待たせいたしました」
 別の侍女が現れる。
 随分と勿体ぶるものだ――マリサは肩をすくめると、椅子から立ち上がる。
「あなたは、ここにいて頂戴」
 振り返ることなくツィスカに声をかける。そのままマリサは案内の侍女とともにディグルの私室――執務室へと足を踏み入れた。




「どういう風の吹きまわしだ?」

 豪奢な椅子に身を預け、高く足を組んだまま、ディグルはこちらを見上げた。
 背後で扉の閉まる音がする。侍女が気を利かせたのだろう。室内には、他に誰の姿もない。マリサとディグル、ここにいるのは、二人きりである。
「まさか、朝から伽をしに来たわけではあるまい?」
 マリサにその気がないことを承知しているくせに、わざと彼女を怒らせるようなことを言う。ディグルにもそんな一面があったのか。マリサはおかしくなって、笑い出した。
「何がおかしい?」
「いえ。あなたにも冗談が言えるのか、と思いまして」
 それに対して、ディグルは不機嫌そうに眉をひそめるだけだった。マリサは、すすめられる前に自ら彼の向かいに腰を下ろす。夫同様、長椅子に深く身を沈め、やはり高く足を組んだ。ついでに腕も組み、彼女はつんと顎を上げる。

「暇、なのでしょう?」
「それは、お互い様だ」

 ともに、ルーラの不在を言っている。
 このかりそめの夫婦の絆は、皮肉なことに王太子寵姫であるルーラが担っているのだ。
「よく、ルーラを手放しましたわね」
 マリサは、構わず続ける。
「それは、ご自身の体調が芳しくないから? だから、ルーラを意図的に遠ざけている、と?」
 巡察の名目で、長いことルーラをディグルの手から奪っていた。そのことに負い目を感じたマリサは、帰京早々、彼女をディグルの元に戻した。毎晩行っていた剣の稽古も、遠慮した。しかし、ルーラとディグルがとこをともにした形跡はなかった。
 それは、ディグルの病と関連があるのではないか。
 先日、礼拝堂にて聞いた重い咳。喉に何かが絡んだかのような、じっとりと粘ついた咳の正体を、彼自身知っているに違いない。そして、侍医が適切な治療をしていないことも。寧ろ、病の進行を早めるかのように、薬を飲ませたり飲ませなかったりを、意図的に行っていることも。
 マリサは、件の侍医を罷免した。
 神聖帝国から新たな医師が到着するまで、まだ、間がある。その間にも、彼の病は進行しているのではないか――どころか、彼自ら、病を進んで受け入れているような気がする。
「この病とは、昔からの付き合いだ」
 今更、離れようとも思わない、と。ディグルは嘯く。
 完全に発病したのは最近、おそらくルーラがマリサとともにオリアを離れた頃だろう。
 それまでは、保菌はしていても発病はしていない――気遣うものが傍にいなくなったせいで、ディグルの生活が乱れた。そのためか。
「別に、助かろうとは思わない。病に殺されるか、刺客に殺されるか。どちらにしろ、平穏な最期は迎えられないだろう」
 淡々と語るディグルを、マリサは劣らぬほど冷ややかな目で見つめる。
「レンティルグの貴婦人の刺客の手にかかるのも、由とされるのですか?」
「……」
 問いかけに、ディグルの視線が揺れた。
「エリシア后を姦計により失脚させ、王妃の座についたラウヴィーヌ后。彼女は、あなたの失脚も狙っているのでしょう。尤も、あなたが、彼女の思い通りに動く愚鈍な駒であれば、その限りではありませんけどね」
 瞬間、空気が凍りつく。ディグルは低い声で尋ねた。
「――どこまで、知っている?」
 アーシェルで、何を見た? 彼の眼は、そこまで追及している。
「さあ? わたしは、詳細は存じません」
「嘘は、ためにならない」
 ディグルの視線が、マリサを射抜く。氷の貴公子――白銀の貴公子と彼が呼ばれる所以を、彼女は身を以て知った。この青い瞳に射抜かれたら最後、身も心も瞬時に凍てついてしまうだろう。恐怖のために。しかし、マリサは違った。彼の眼は、確かに鋭い。けれども、恐れるほどではない。自身には、怖いものなどない。ただひとつ、ただ一つのことを除いては。
「わたしが足元を固める前に、あなたに亡くなられては困るのですよ、殿下」
 ため息とともに漏らしたその一言、その言葉の意味を悟って、ディグルは僅かに目を見開いた。
「恐ろしい女だな」
 ディグルの呟きは、おそらく厭味でも皮肉でもないだろう。彼は素直に、思ったままを口にしただけである。
 確かに。ある意味、ディグルの所見は当たっている。マリサは、フィラティノアにとってレンティルグの毒蜘蛛よりもはるかに恐ろしい存在であった。
 人質として送り込まれた、『破壊者』。旧アヤルカスの思惑はどうあれ、滅びの娘クラウディアの考えは、ただ一つ。
「この国が、欲しいのか?」
 問いというよりも、確認。ディグルに対して、マリサは視線で応じた。『是』と。己の心を隠さず打ち明けてしまったことに、クラウディア自身驚いたが。今更伏せることもないだろう。ディグルは王位には興味を示さない。王太子であることすら、厭うているきらいもある。マリサの勘からしても、彼に王冠が渡ることはない――そんな気がしてならないのだ。
(ああ)
 似ているのかもしれない。
 マリサは、微笑した。
 ディグルは、似ているのだ。サリカに。性格は、無論異なる。けれども、根本的な考えが、同じなのだ。
(……)
 世の中とは皮肉なもので、本来、受け継ぐべきものの手には冠は与えられず。拒むものにばかり、継承権は転がっていく。追えば逃げ、逃げれば追うの摂理に従っているというのだろうか。
「わたくしに統治権を渡した方が、この国のためにもなりましてよ」
 薄く微笑んだまま、マリサはディグルに声をかける。
「おまえが、この国を導くというのか? 神聖帝国領として、併合するのではなく」
「当然ですわ」
 即答する自分が、可笑しかった。
 と、同時に高揚感に体が震えているのが分かる。マリサの暁の瞳に、いつになく強い光が宿った。野心、そう呼ばれるものか。それが、表に出てきている。フィラティノアを手中に収める、これは、嫁ぐことが決まって以来マリサの胸にあった決意であった。自身がフィラティノアの国王として君臨する。たとえ、気の遠くなるほどの年月を要したとしても、いつかはこの頭上に王冠を頂く。一国の主となれるのなら、アヤルカス皇帝でなくともよい。どこの国でもよかった。国の頂点に立ち、そして。
 そして――。
 マリサは、一度ゆっくりと瞬きをした。
「一度はあなたに即位していただかなければ、話になりませんけどね。わたしは、簒奪者にはなりたくありませんもの」
「共同統治者となるつもりか?」
「ええ。あなたが即位したときに、わたしも女王として戴冠させていただきます」
 陛下と呼ばれようと、『后』の地位に甘んじていられるほど、自身は卑小ではない。必要なのは、后の地位ではなく、国王としての立場なのだ。
「あなたは、それまで儚くなってはなりませんわよ?」
 マリサは足を組み替え、婉然と微笑む。
 あくまでも、自分の野望のために生きろと、そう妻に言われた夫の立場はいかなるものであろうか。ディグルはしかし怒りもせず、終始表情を変えずに妻を見つめていた。青い瞳に感情の色が宿ることもない。
「俺に、お前のために生きろというのか」
 面白い――ディグルは他人事のように独りごちる。
 一瞬、遠くを見つめた彼の脳裏には、どのような光景が写っていたのだろうか。

 婚礼の式典において、国民の心を一度に掴んだ『創始の皇后ルキア』顔負けの晴れやかな妻の笑顔か。
 それとも、自身が没したのちに王位を得ることになる、いとこウィルフリートの面影か。

「今現在、第二継承者はウィルフリート殿になっているはず。彼は、ラウヴィーヌ后の傘下に組み込まれていらっしゃいますわよね? オルウィス伯爵とともに。伯爵は取るに足らぬ存在だとしても、ウィルフリート殿は宮廷内で人気が高い。国民にも、相応に慕われていることでしょう」
 あなたよりも、という言葉を暗に示しながら、マリサは言葉を続ける。
「ウィルフリート殿に王位を渡すということは、あなたがラウヴィーヌ后に屈服したということ。そうではありませんの?」
「……」
 ディグルは答えない。
 否定も肯定もせず、マリサを見つめている。
「わたしは野望を成就させる。あなたは、復讐を成し遂げる。利害は一致しましてよ?」
 ここまで来てしまえば、あとは取引しかない。クラウディアの野心を満たすためには、ディグルの協力が不可欠である。ディグル、もしくは現国王グレイシス二世。できれば彼とも交流を持っていたほうが、マリサにとっては有利なのだ。
「――おまえは、どこまで知っている?」
 徐に紡がれた言葉は、先程と同じ問いかけ。だが、今回は先程とは意味合いが違う。ディグルが肝心の答えを先延ばしにするための、言葉の堀。
「先程から聞いていれば、わが生母の失脚の裏に現王妃があることを知っている、と。そういった口ぶりだな」
「その通りですもの」
 これにも、素直に答える。アーシェルにおいて、ラトウィスがすべてを告白した。ラウヴィーヌ――レンティルグ辺境候の野望のもと、エリシア前后は不義の罪を着せられ、失脚したのだと。ディグルは、ルーラを用いて密かにエリシア前后の行方を追っているが、それと同時にラウヴィーヌもまた、彼女の消息を訪ねているらしいことを耳にした。無論、ラウヴィーヌにとっては、エリシアは邪魔ものでしかない。今度遭遇すれば、確実に命を奪うことだろう。その前に。こちらでなんとか、エリシアを保護しなければならない。
(神聖帝国から気心の知れた侍女を呼んだ方が、楽にことが運ぶのだけど)
 白亜宮において、ディグルの駒となり得る人物は、ルーラしかいないだろう。それはマリサに関しても同じだった。信用のおけるものが、ここにはいない。多少頼りなくはあるが、せめてバディールでもいてくれれば――いまは、あの下手糞なアルードの音色すら懐かしく感じられる。
(最悪、リナレスでも良かったかもね)
 当のリナレスが聞いたら、それこそ憤慨しかねないことを、内心考えるマリサである。
「わたしに王位を約束してくださるのであれば、前王后陛下の件は全面的に協力させていただきますわ。良い条件でしょう?」
 マリサの申し出に、ディグルは僅かに視線を揺らした。
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