アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

混沌4

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 部屋に戻ると、珍しいことにサリカがそこにいた。
「ジェリオ」
 彼女はこれから夕餉だという。一緒にどうかと尋ねる彼女に、ジェリオは小さく頷いた。
 皇帝の食事は、想像以上に質素であった。皇帝たるもの、贅を尽くした食事を三度三度とっているものだと思っていたが、まるで違う。全ての王侯貴族が贅沢を好むわけではないのか、それとも彼女は皇帝の地位そのままに、離宮へと追いやられてしまった幽閉同然の身であるからか。理由はわからない。
「……」
 食卓に並ぶのは、麺麭パンを器にした汁物スープ、季節の野菜、素朴に焼き上げた淡水魚、蒸した鴨に蜂蜜を練りこんだこの地方独特の肉料理、そして砂糖菓子。これだけである。決して少ないとはいえぬ量であるが、もう少し増やしても良いのではないか。ジェリオが言うと。
「足りないのか?」
 そう取ったのか。
 サリカは器用に鴨肉を切り分けて、ジェリオの皿へと乗せた。傍らに控えていた侍女が、
「申し訳ありません」
 もう一皿持参しようと、小間使いに声をかけるところを
「いや、いらないから」
 ジェリオは慌てて呼び止めた。彼とて、それほど食べるわけではない。ここにもう一皿増えようものなら、それこそ持て余してしまう。
「もともと、僕は少食なんだ」
 サリカは、言い訳のように呟いた。双子であるから、隣国に嫁いだという姉妹も少食なのかと思ったが。彼女は違うらしい。大食漢の上に酒豪。とても妙齢の姫君とは思えないと、サリカは苦笑した。
「僕が残すと、マリサが『勿体無い』って食べるんだ。だから、自然多く食べるようになったのかもしれないけど」
「ふうん」
 共に旅をしたときも、そうだったのだろうか。
「ジェリオには、よく肉料理を取られたよ」
「……」
 冗談めかして言うサリカを、信じても良いものか。
 こうして彼女と二人、食事をするのは楽しい。忘れていたなにかを、――安らぎを、思い出すような気がして。
 食卓を囲んでの会話は、他愛のないものだった。
 好きな食べ物は何か、から始まり、

「ジェリオはよく鳥肉を食べていたな」
「意外に、甘いものも苦手じゃないみたいだった」

 失われた記憶の欠片を、サリカがそれとなしに語ってくれる。ジェリオの記憶を呼び覚まそうとしているのか、それとも単に、当たり障りのない話題のほうが良いと思ったからなのか。食後の砂糖菓子をつまむ頃には、ジェリオは『以前』の記憶を取り戻すことはないまでも、自身の一部を少しだけ取り戻した――奇妙な充足感を覚えていた。
 カイラに囁かれた偽りの記憶、それを耳にするときは幾許かの嫌悪を伴ったが、サリカの語るそれは違う。それが真実であるからなのか、それとも語る相手が素朴で純真な少女だからか。なぜか素直に信じられる気がするのだ。
「今夜も、書庫に行くのか?」
 小間使いたちが食器を全て下げ終えたとき、ジェリオは何気なく尋ねた。ここ数日、皇帝は書庫で夜明かしをしている。当然、身体に良いはずはない。昼間も眠っている姿を見ないから、おそらく読書の合間に仮眠を取る程度なのだろう。
「一日くらい、ちゃんと寝とけよ」
 保護者のような口調で窘めるジェリオを、サリカは驚いたように見上げたが。
「そうだな」
 ふわりと笑った。そんな笑顔がふいに愛しく感じられて。ジェリオは思わず彼女に手を伸ばしかけたが。
「あ」
 ふと、思い出した。
「これを、あんたに」
 昼間、オルトルートより貰った耳飾ピアスを差し出すと、サリカは先程よりもさらに目を見開いた。花を模した、小ぶりな耳飾。決して派手ではないが品のある意匠に、彼女の顔が自然綻ぶ。こういうところは、完全に普通の少女だった。
(なんだよ)
 まるで、恋人に何か贈物をするような、そんな気分になって――ジェリオはどこかくすぐったい思いでサリカの表情の変化を見守っていた。こんな顔をされると、思わず――。
「オルトルートの……ティルデの手だね」
 見慣れているであろうに、サリカは素直に喜んだ。
「でも、なぜ?」
 訊かれて、ジェリオは返答に窮した。どう答えれば良いのか。耳飾の礼だと、素直に言えない自分が情けない。しかも、これは無料でティルデから貰ったものである。胸を張って渡せたものではないのだ。
 サリカも、オルトルートの作品の価値は知っている。ジェリオのような、一介の刺客が、簡単に入手できるものではないということも。それでも、まるで訝る様子がないということは。長年の付き合いから、オルトルートの、ティルデの、性格を熟知しているからだろう。ティルデは自身の気の向くままに作品を作り、それを気に入った相手に無条件で差し出す。注文を受ける際には厳しく気難しいが、そうでない場合―― 一度心を開いた相手には、恐ろしく気前が良くなるのかもしれない。それは、ある意味サリカとも通じるところがあった。この若き神聖皇帝は、心を許した相手には、どこまでも無防備になる。
「――つけてやるよ」
 ジェリオは立ち上がり、サリカの傍らに寄り添った。その左の耳にだけ下がっている耳飾を外し、代わりに先程入手したものをつける。

 ――耳飾を贈るって、かーなーり、妖しいですよね。肉を貫くんですよ、肉を。

 エーディトの言葉が、脳裏に蘇る。
 もう一箇所、何もつけていない右耳に――彼女の耳朶に触れた指に、力が入った。遠慮がちにあけられた穴に、金属の芯をかませる。
「……痛つっ」
 どこかに引っ掛けたのか、サリカが顔を顰めた。
「悪りぃ」
 少し乱暴だったか、と、言いかけて。それが別の行為での会話を想像させ、ジェリオはらしくもなく戸惑う。
「大丈夫。最近、こっちには何もつけていなかったから」
 塞がりかけていたのだろう。言いかけて、サリカが不思議そうにジェリオを見た。古代紫の瞳が大きく見開かれ、そこにジェリオの姿がくっきりと映し出されている。
「なんだよ?」
「ジェリオ、酔ったのか? 顔が赤い」
 無邪気に問うサリカの神経を、これほど呪わしく思ったことはない。幾度も自分の命を狙った相手を前に、ここまで無防備に振舞えるものだろうか。それとも、これは、遠まわしの誘いなのか。
「おまえも、休んだほうがいい。――おまえも、あまり寝ていないんだろう?」
 司書から、書庫の前で剣を手にジェリオが佇んでいることを聞いている。サリカは、どこか申し訳なさそうに言った。
「あのジジイ」
 皇帝には言うな、と、かなり凄んで見せたのだが、どうも効果はなかったらしい。サリカの居室にひとり残っていても、暇を持て余すことには変わりはない。ならば、せめて護衛の真似でもしようと思っていたのだが。当のサリカに知られるのは、どことなく気恥ずかしいような、気まずいような、妙な気分であったのだ。だからこそ、司書に口止めをしておいた。まさか、あの頑固一徹を絵に描いたような老人が、簡単に口を割るとは思えなかったが。
「今夜は、書庫へは行かないから。ジェリオもここで休んで」
 言いかけて、サリカは、気づいたようだった。ジェリオも、まじまじと彼女を見つめつつ
「ここで? あの寝台で、二人で、か?」
 どこか呆気に取られた口調で尋ねる。
 そうなのだ。
 寝台は、ひとつ。二人で眠るにも充分な広さがあるとはいえ、一つしかない。
「――僕は、長椅子ソファで寝るから。ジェリオが寝台を使うといい」
 サリカは急にうろたえ始め、自ら進んで隣室に赴こうとしている。その肩を捉えたジェリオは、勢いのまま彼女を抱き寄せた。すっぽりと胸におさまる華奢な身体――それでも、歳相応の凹凸おうとつを具えた肢体に、自然気持ちが高揚する。サリカは驚いて逃げるかと思いきや。そのまま大人しくジェリオの腕の中にいた。
「皇女さん」
 呼びかけに、サリカの身体が震える。ジェリオは彼女を抱く手に力を込め、その黒絹の髪に唇を落とした。
「ちゃんと、段階は踏んでやるよ」
 一度に全てを奪うようなことはしない。ジェリオの囁きを、どう受け取ったのか。サリカは何も答えず。ただ、ちいさく身を震わせるだけだった。
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